場地圭介
名前変換
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湿気を含んだぬるい風が窓枠を揺らす。
静けさの残る部屋に、遠くを走る車の排気音がかすかに聞こえた。
すぐ隣では、畳に転がったままマンガをめくる音。
長い黒髪が肩で揺れ、指先の動きはどこか退屈そうに見える。
「ねえねえ」
「んだよ、今いいとこなんだよ」
ページをめくる指を止めることもなく、生返事が返ってくる。
「場地って、エッチしたことある?」
「……は?」
投げかけた言葉は、思いのほか部屋の空気を張り詰めさせた。
マンガのページをめくる手がピタリと止まると、低く掠れた声が頭上から落ちてくる。
ゆっくりとこちらへ向けられた気配が、肌に刺さるようだ。
「いきなり何言ってんだオマエ」
「いや、不良ってそういう経験早いのかなって思って」
「はあ? 偏見持ちすぎだろ」
「で、実際のところどうなの?」
肘をついて身を乗り出す。
場地は八重歯を覗かせて、眉間にしわを寄せた。
「オマエはオレをどんな目で見てんだよ」
「どんな目って、ガラの悪い不良?」
「ってかなに、オマエ興味あんの?」
ニヤッとした意地の悪い笑みが、唇に浮かんでいる。
距離が少しだけ近い。
喉の奥が乾くのを感じて、小さく唾を飲み込む。
「興味はまあ、そういう年頃だし」
「へえ」
場地は手にして読んでいたマンガ本をパタンと閉じ、畳の上に放り投げる。
ガサツな音が散らかった部屋に落ち、そのまま体を寄せて顔を覗き込んでくる。
「じゃあ、オレが経験あるって言ったらどうすんの?」
試すような言い方だった。
ニヤけた顔の奥にある目が、じっとこちらの反応を探っている。
「感想とか色々聞くかも」
「オマエ、それ聞いてどうすんの?」
「……そこまで深くは考えてなかった」
大きな手が伸びてきて、頬をつつかれる。
指先の少し固い感触が皮膚に残る。
とっさに体を引こうとしても、背中はすでに壁に当たっていて逃げ場がない。
「で、実際どっちなの?」
「教えねぇ」
「ケチ」
「教える義理がねぇだろ」
場地は鼻を鳴らして、つついてきた手を引き戻す。
だけど離れた距離はほんの数センチで、吐息がかかるほど近いままだ。
「オマエこそどうなんだよ」
「……なにが?」
「そういう経験あんのかって聞いてんの」
「あるわけないじゃん」
即答すると、場地は一瞬だけ目を見開いた後、満足そうに口元を緩める。
「まあ、あるわけねぇか」
「なに? 文句ある?」
「別に。安心した」
「安心ってどういう意味」
「そのままの意味だよ」
深く追及しようとした言葉は、近づいてきた唇に奪われる。
黒い髪の毛先が頬をかすめ、柔らかい熱が触れる。
部屋の中に落ちる影が、だんだんと長く伸び、オレンジ色の夕日がかろうじて壁の一部を照らしている。
「……そろそろ帰らないと」
「まだ大丈夫だろ」
声は先ほどよりも低く落ち着いている。
強引に引き留めるわけでもなく、ただ当然のようにそこに留まらせようとする言葉のように聞こえた。
「でも、暗くなっちゃうし」
「送っていく」
「そういう問題じゃなくて」
言いながら立ち上がろうとした膝を、大きな手で上から押さえつけられる。
強く押さえられているわけでもないのに、その体温だけで動けなくなる。
「なに……」
「オマエが変なこと言い出すからだろ」
「私のせいってこと?」
「オレをそういう気にさせた」
その言葉に頭の中が真っ白になる。
いつもの調子はどこにもなく、その真剣な目つきから視線を逸らせない。
「そういう気って、どういう……」
「都合よく頭悪いフリすんな」
押さえつけられた膝から、体温がじわじわと伝わってくる。
ジリジリと詰まる距離に、胸の奥が締め付けられるように苦しい。
「場地……」
名前を呼んだ瞬間、視界がぐらりと揺れる。
倒れ込むような勢いで肩を押され、気がついた時には畳の上に背中がついている。
見下ろしてくる長い黒髪がさらりと落ちて視界を塞ぐ。
覆いかぶさる身体の重みと熱に、息が詰まる。
「……こんなの、聞いてない」
「話を持ち出してきたのはオマエだろ」
耳元で掠れた声が落ちる。
首筋に温かい息が当たり、背筋がゾクゾクと震える。
場地の手が、おそるおそるシャツの裾に滑り込んでくる。
少しカサついた大きな掌が肌に直接触れた瞬間、体が小さく跳ねる。
「嫌なら今すぐやめる」
「……嫌じゃ……ない」
震える声でそう答えると、場地は耐えかねたように深く息を吐き出す。
「後悔すんなよ、■■■」
名前を口にするのと同時に、再び唇が重ねられる。
さっきの触れるだけのものとは違う、熱く湿った感触。
重なり合う体温の中で、互いの不器用な手が服を押し上げていく。
指先が触れ合うたびに心臓が跳ね、互いに初めてであることの戸惑いが、部屋の空気をいっそう熱くしていく。
◇
部屋を染めていた夕暮れの色はとっくに消え去り、静かな夜の闇が二人を覆う。
乱れた息を整えながら、横に並んで畳の上に転がる。
肌と肌が触れ合う部分から伝わる温度が、信じられないほど愛おしい。
「……大丈夫か」
「うん、大丈夫」
小さく頷くと、大きな腕に体を引き寄せられる。
包み込まれながら、胸元にそっと額を寄せる。
「オレも……初めてだったし」
「知ってる。多分ヘタクソだった」
「あ? 言ってくれるじゃねぇか」
「……でも、すごく優しかった」
悔しそうに唸った場地の手が、髪の毛をくしゃくしゃと撫で回す。
だけどその力加減は、やっぱりすごく優しかった。
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