灰谷蘭・竜胆
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薄暗いリビングのソファで、蘭はあからさまに不機嫌な顔をして腕を組んでいた。
テーブルの上に投げ出された画面には、お昼前に送ったメッセージのやり取りが表示されている。
「オマエ、竜胆と映画行ったの?」
開口一番、低い声が降ってきた。
部屋に満ちる刺々しい空気に身を縮めることもなく、買い物袋を置きながら息をつく。
「だって、何回起こしても起きないんだもん」
「いや、知らねーし」
「知らねーしじゃないよ。ちゃんと昨日から言ってたでしょ」
自分の上着をハンガーに掛け、不機嫌そうな顔の前まで歩み寄る。
蘭はソファの背もたれに深く体重を預けたまま、不満そうに眉間へシワを寄せた。
「だからって、竜胆と行くとか聞いてないんだけど」
「チケット二人分予約したからね、って言ったじゃん」
「……聞いてない」
足を組み直し、蘭はこちらを睨みつけるように見上げてくる。
その言い分があまりにも勝手で、思わず言葉が強くなった。
「言ったから! 返事したの覚えてないの?」
「覚えてねぇから言ってんだろ」
「約束の日も迎えに行く時間も何回も送ったよね」
画面を指差し、証拠を突きつける。
「分かったって返信きてるけど?」
「覚えてねぇもんはしょうがねぇだろ」
あっけらかんと言い放つ姿に、頭の中でプツンと何かが切れる音がした。
「言っとくけど、竜胆は悪くないからね」
「なにそれ、竜胆と浮気?」
「チケット勿体無いから、代わりに付き合ってもらったの!」
「オレの女と二人で出かけてんじゃねぇよ」
「じゃあちゃんと起きてよ!」
言い返した声が部屋に大きく響き、一瞬だけ静寂が訪れた。
蘭は鼻を鳴らしてそっぽを向き、テーブルの上の飲み物に手を伸ばす。
「……もっとしつこく起こせよ」
「何回も起こしたって言ったじゃん」
「起こし方が甘い」
「部屋まで行って肩叩いて起こしたでしょ」
「キスして起こせば起きたわ」
「そんなんで起きるわけないでしょ、いっつも二度寝するくせに」
お互いに一歩も引かない押し問答が続く。
蘭の理不尽な言い分には慣れているつもりだった。
それでも、せっかく楽しみにしていた休日を台無しにされた挙げ句、どうしてこちらが責められなければならないのか。
納得できるはずがない。
「竜胆だって親切で付き添ってくれたんだからね」
「アイツ、余計な気回してんじゃねぇよ」
「悪いのは全部蘭だからね」
「オマエがオレ以外の男と出かけたのが一番悪い」
「男って……蘭の弟でしょ」
「弟だろうが男は男だろ」
あまりにも子供っぽい理由に、呆れて言葉が出てこなかった。
ソファの端に腰を下ろし、深くため息をつく。
「……せっかく楽しみにしてたのに」
「あ?」
「蘭に見てもらいたくて、新しい服も買ったのに」
膝の上で自分の手をぎゅっと握りしめる。
怒りよりも、悲しさが少しずつ膨らんでいく。
部屋の中を沈黙が支配する。
遠くを走る車の音だけが聞こえていた。
先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか、胸の奥が締め付けられるような痛みに変わっていく。
視線を床に落としたまま動かずにいると、隣でソファがわずかに沈んだ。
「……なあ」
低い声がすぐ近くから聞こえる。
返事をしないでいると、長い指先が顎に触れ、強引に顔を上げさせられた。
蘭の顔が目の前にある。
ばつが悪そうに、視線がわずかに泳いだ。
「……悪かった」
「……別に」
「泣きそうな顔してんじゃん」
親指の腹が、頬をそっと撫でる。
その優しさが余計に悔しくて、顔を背けようとした。
けれど、後頭部へ回された手に阻まれる。
「……せっかくの休みだったのに」
「分かったから。オレが悪かったって」
言いながら、蘭は引き寄せるように抱きしめてきた。
固い胸板に顔が埋まり、蘭の体温が全身を包み込む。
すぐには何も言えなかった。
悲しかったのか悔しかったのか、自分でもよく分からない感情がまだ胸の奥でくすぶっている。
「■■■」
「……」
「……ごめんな」
「……分かればいいよ」
ようやく絞り出した声は、思ったより小さくなってしまった。
その答えに、背中を撫でる手がゆっくりと動く。
「でも、オレ以外の奴と楽しそうにしてんのは面白くねぇんだよ」
低く掠れた声が耳を打つ。
抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。
「竜胆と行って、楽しかった?」
「そりゃ、まあ……」
「それはそれで、なんかムカつく」
ぼやくように言いながら、蘭が少し身体を離し、こちらの顔を覗き込んでくる。
そのまま、まっすぐに視線が重なった。
「次は絶対、一緒に行こうね」
「当たり前だろ」
「蘭のことだから、また忘れて寝過ごしそう」
「だから、キスして起こせって」
「なにそれ、蘭ってお姫様かなにか?」
「そうかもな」
冗談めかした口調なのに、笑っていない目がやけに印象に残った。
「一緒に出かけるときは、ちゃんと起きてね」
「……オレに命令してんの?」
「お願いしてるの」
「さっき言った通りにしてくれたら、考えてやるよ」
言葉と同時に身体がひっくり返され、ソファの上で押し倒される形になる。
見上げた先で、蘭と視線がぶつかった。
「今日の埋め合わせしよ」
「埋め合わせ?」
意地悪な笑みのまま、蘭の指先が首筋を滑り落ちる。
なぞられた場所だけが、じんと熱を持って疼いた。
言葉を継ぐ間もなく、唇が塞がれる。
角度を変えては何度も食まれ、次第に息継ぎの間隔さえ見失っていく。
ようやく唇が離れたとき、荒い息だけが顔にかかった。
「……ほんと、調子いいんだから」
「こういうのは得意分野」
その顔を見ていると、さっきまでの怒りも悔しさも、少しずつどうでもよくなってくる。
「……約束したからね」
「分かってるって」
そう言ったくせに、蘭の目はどこか楽しそうだった。
もう一度重なってきた唇の熱に、今度こそ何も言えなくなる。
せっかく楽しみにしていた一日は台無しになったけれど、こうして蘭に抱きしめられていると、結局この人には敵わないと思ってしまう。
そんなことを思ってしまう自分が、少しだけ悔しかった。
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