灰谷蘭・竜胆
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「……遅かったじゃん」
「連絡したでしょ」
「見た」
「じゃあいいじゃん」
「よくねぇよ」
返事は早いくせに、それ以上は続かない。
買ってきた袋を机へ置くと、竜胆は中身を覗き込み小さく笑った。
「また甘いの買ってきたのかよ」
「竜胆と一緒に食べたかった」
「……そういう言い方すんな」
「え?」
「いや」
短く切って、それ以上は何も言わない。
缶を一本放り投げられ、危なげなく受け止めた。
「ありがと」
「それオレの」
「え、じゃあ返す」
「冗談だよ」
そんな他愛ないやり取りだけで、部屋の空気は少し緩む。
昔からそうだった。
気まずくなっても、くだらない話を二つ三つ重ねれば元へ戻る。
少なくともそう思っていた。
けれど最近、竜胆の表情だけがどこか晴れない。
◇
「ねぇ」
「んー」
「最近あんまり寝てない?」
「なんで?」
「顔やばいよ」
「失礼だろ」
「疲れてるように見える」
「……仕事」
「そっか」
それだけで納得する。
問い詰めもしないし、踏み込んでもこない。
その横顔を見ていると、何か言いたそうなのに、あえて口を閉じているようにも見えた。
「オマエさ」
「うん?」
「オレが何してても気になんねぇの」
「危ないこと?」
「……」
「心配するよ」
「……それだけか」
「それ以上って?」
竜胆が何を考えているのかなんて、わからない。
ただ、さっきより少しだけ不機嫌そうに見えた。
「ねぇ何、今日なんか変」
「いや、オマエらしいなって」
「変なの」
菓子を一つ開けて半分に割って手渡す。
「はい」
「いらねーよ」
「なんで」
「甘すぎ」
「前は食べてたのに」
「好み変わった」
「へぇ」
昔と同じように分け合っているはずなのに、今日は妙に落ち着かない。
何が違うのかは、自分でもよくわからなかった。
◇
「そういえば、この前ね」
最近あった出来事を話し始めた。
街で見つけた店のこと。
欲しかったものをやっと買えたこと。
少し失敗した料理のこと。
竜胆は相槌を打ちながら聞いている。
ちゃんと聞いてくれているようにも見えるけれど、ふとした瞬間に視線がどこか遠くへ逸れている。
「……でね」
「うん」
「笑っちゃうでしょ?」
「笑わねぇ」
「絶対笑うと思った」
「笑ってほしかった?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ笑っとく」
「適当だなあ」
声を上げて笑う姿を見て、こちらまでつられて笑ってしまう。
こんな時間が続けばいいと何度願ったかわからない。
とっくに諦めたはずなのに、こうして隣にいると、またそんなことを思ってしまう。
◇
帰ろうとして立ち上がったところを、竜胆に呼び止められた。
「なぁ」
「どうかした?」
「もう少しだけ……」
「ん?」
「もう少しだけ、いて」
「……もう遅いよ?」
「五分」
「五分だけ?」
「約束する」
「……じゃあ五分ね」
静かな時間が流れる。
どちらも何を話すでもない。
「竜胆」
「ん」
「五分、ずっと黙ってるの?」
「……そうだな、オマエなんか話して」
「難しいこと言う」
「いつもみたいなのでいいよ」
"いつもみたい"
その言葉が胸に刺さる。
いつものままでいたから、ここまで来てしまった。
「オマエさ」
「うん」
「誰か好きなやつとかいんの」
「急にどうしたの」
「いいから答えろよ」
「……いないよ」
「ほんとか?」
「ほんとだよ」
「付き合う予定とか」
「ないない」
「ふーん」
竜胆は目を伏せた。
その表情が少しだけ緩んだように見えたのは、気のせいだろうか。
今はいないだけだ。
いずれ誰かが現れる。
その隣で笑う姿を想像して、胸の奥が鈍く痛んだ。
◇
「ねぇ、竜胆は?」
「何が」
「好きな人」
「いる」
あまりにもあっさり返ってきた言葉に、思わず目を丸くする。
「ほんと?」
「ああ」
「そっか」
「それだけ?」
「応援するね」
「……ああ」
「どんな人なの?」
「普通」
「優しい?」
「知らね」
「知らないの?」
「オレにだけ優しいわけじゃねぇし」
「そっか」
「鈍いし」
「うん」
「人との距離近いし」
「そういう人いるよね」
「……いるな」
一瞬、竜胆の視線がこちらに向く。
けれど、すぐに逸らされた。
「叶うといいね」
その言葉を聞いた竜胆は、少しだけ笑う。
「叶わなくてもいい」
「え?」
「そいつが笑ってんなら」
「珍しいこと言うね?」
「そうか?」
「竜胆って、奪いにいくタイプだと思ってた」
「昔ならな」
「今は違うの?」
「……今は」
言葉を探すように間が空く。
「嫌われるくらいなら、このままでいい」
「嫌うわけないじゃん」
「そういう意味じゃねぇよ」
「?」
「いや、忘れろ」
◇
五分はとうに過ぎていた。
「そろそろ帰るね」
「送る」
「大丈夫だよ」
「送らせろ」
「本当に大丈夫だよ」
玄関まで並んで歩く。
靴を履いて振り返る。
「また来るね」
「いつ?」
「近いうち」
「曖昧」
「じゃあ連絡するね」
「忘れんなよ」
「忘れないって」
扉へ手をかけた瞬間だった。
「■■■」
「ん?」
振り向いた途端、腕を引かれ、体勢が崩れる。
ほんの一瞬だけ唇が重ねられた。
何が起きたのかわからないまま、離れていく顔を見つめる。
竜胆は目を逸らし、自嘲するように笑っていた。
「ごめん」
竜胆の謝罪は思っていたよりずっと弱かった。
「なんで?」
いつもの調子とは少し違う。
聞いたことがないくらい弱い声だった。
「竜胆」
「忘れろ」
「無理だよ」
「……だろうな」
「ちゃんと説明して」
「したくねぇ」
「なんで」
「オマエが困る」
「そんなの理由聞かないとわかんない」
「オマエが好きなんだよ!」
「……」
「言いたくなかった」
「……」
「ずっと隠してた」
◇
「……好きだ、ずっと」
逃げ道も飾りもない、ただひたすらに真っ直ぐな言葉だった。
「でも、返事はいらねぇ」
「え」
「今のオマエは違うだろ」
竜胆は笑った。
けれど、その笑顔はいつものものとは違っていた。
「わかってた」
「竜胆……?」
「オマエが誰か好きになって、その相手がオレじゃなくても、オマエが不幸になるより、そっちのほうがずっといい」
何も返せない。
希望を持たせる言葉は残酷だ。
沈黙だけが二人の間に残る。
◇
「帰る」
小さな声だった。
「……ああ」
「……またね」
「悪かった」
「ううん」
扉を開ける。
背後で見送っているはずの竜胆の姿を、振り返って見ることはできなかった。
引き止める言葉を待っているわけじゃない。
ただ、何を言えばいいのかわからなかった。
「竜胆」
「ん」
「……少し時間ちょうだい」
その言葉だけが残される。
返事をする前に扉は閉まった。
静まり返った部屋に、言葉だけが取り残されたようだった。
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