短編
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六本木の喧騒を眼下に見下ろす、高層マンションの最上階に位置するその一室は、生活感という言葉を拒絶するように冷徹で、無機質な静寂に包まれている。
リビングのソファに深く腰掛けた灰谷竜胆は、手元のグラスを揺らし、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。彼の瞳には、常に苛立ちと倦怠が混ざり合っている。首に刻まれた刺青は、彼が「向こう側」の住人であることを示す消えない刻印であり、その背負った業の深さを物語っていた。
「……遅い」
低く呟かれた声が、広い室内に溶けて消える。彼が待っているのは、この殺伐とした世界に不釣り合いなほど眩しい、ななしという存在だった。
ななしがインターホンを鳴らしたのは、竜胆が三杯目のグラスを空けた時だった。扉を開けた瞬間飛び込んできたのは、いつもの明るい笑顔だ。
「竜胆、ごめんね! 仕事が少し長引いちゃって」
ななしは、この空間の冷気を打ち消すような温かな空気を纏って入ってくる。彼女は竜胆と同い年だが、その生き方は対極にある。地道に働き、平穏を愛し、真面目に日々を積み重ねる。竜胆にとっては、もっとも遠ざけなければならない、それでいてどうしても手放せない光だった。
「……。勝手に来んなって、いつも言ってんだろ」
竜胆は、ななしの顔を見ようともせずに冷たく言い放つ。ソファから立ち上がることすらしない。
「そんなこと言わないで。夕飯、まだでしょ? 竜胆が好きそうなもの買ってきたから」
「いらねぇよ。さっさと帰れ」
突き放すような言葉。だが、ななしはひるまない。彼女は竜胆の言葉が本心ではないことを、その奥に隠された拒絶による保護であることを直感的に理解していた。キッチンへ向かおうとするななしの腕を、竜胆が荒々しく掴む。
「……っ、竜胆?」
「しつこいんだよ。お前みたいなのがここに居ていい場所じゃねぇって、いつになったら理解するんだ」
掴まれた腕に強い力がこもる。
竜胆の指先は震えていた。
怒りではなく、恐れに近い感情。
彼の手はすでに、他人の血と暴力にまみれている。その「汚れ」が、この無垢な女性にまで伝染することを、彼は何よりも恐れていた。
「痛いよ、竜胆……。でも、わたしは竜胆と一緒にいたいから来てるんだよ」
「はっ、バカか? 俺がどういう人間か知ってて言ってんのかよ。俺が一声かければ、お前の人生なんて簡単に壊れるんだぞ」
竜胆はななしの体を乱暴に引き寄せ耳元で低く囁く。脅し、拒絶し、嫌われようとする。それが彼なりの、不器用で歪んだ愛情表現だった。
ななしは、近すぎる彼の瞳を見つめ返す。竜胆の瞳の奥には、出口のない孤独が揺れていた。彼女はその視線を逸らさず、自由な方の手で竜胆の頬にそっと触れる。
「壊れないよ。わたし、そんなに弱くないもん」
「……うるさい」
「竜胆がどんなに冷たい言葉を言っても、わたしを追い出そうとしても、わたしにはわかるよ。竜胆が、わたしのこと大切に思ってくれてるって」
その真っ直ぐな言葉が、竜胆の理性を削り取る。彼はななしを突き放そうとして、逆にその体を強く抱きしめてしまった。強引に、苦しいほどに。彼女の首筋に顔を埋めると、シャンプーの清潔な香りが鼻をくすぐる。それは、硝煙と鉄の匂いが染み付いた自分の日常とはあまりにかけ離れた、安らぎの匂いだった。
「……ムカつくんだよ、お前。なんでそうやって全部知ったような口を利くんだ」
「竜胆の考えてることくらい、少しはわかるよ」
「わかってねぇよ、何も……」
竜胆の独占欲が、黒い霧のように膨れ上がる。彼はななしを自分の腕の中に閉じ込め誰にも触れさせたくない、このまぶしさを誰の目にも触れさせたくないと切望する。しかし同時に思う。自分のような社会の裏側にいる人間が、彼女の隣に居ていいはずがないのだと。
「お前はさ、もっと普通の男と、普通の場所で笑ってりゃいいんだ」
竜胆の声は掠れていた。
「美味しいもの食べて、行きたいところに行って、……平和に暮らせ」
「竜胆のいない平和なんて、わたしには意味がないよ」
「……。そういう綺麗事が、一番反吐が出る」
言いながらも、竜胆は彼女を離さない。むしろ、その細い体をさらに強く、自分の影に塗りつぶすように抱きしめ直す。
「ななし、こっち向け」
低い命令に従い、ななしが顔を上げると、そこには射抜くような鋭い視線があった。竜胆の指が、彼女の唇を乱暴に、だがどこか名残惜しそうになぞる。
「…その言葉、後悔しても遅いからな」
「後悔なんて、絶対しないよ」
「……明日、目が覚めて絶望しても知らねぇぞ」
竜胆はななしの返事を待たずに、その唇を塞いだ。強引で痛いほどのキス。それは慈しみというよりは、自分の所有物であることを刻印するような激しい行為だった。
梵天の幹部として、冷酷に、機械的に他者の命を刈り取ってきた竜胆。そんな彼の唯一の欠落が、目の前のこの女だった。彼女を守るために突き放したい。けれど彼女がいなければ、自分は自分を保つことすらできない。
唇が離れた後、竜胆はななしの額に自分の額を預け、短く息を吐いた。
「……飯、買ってあんだろ。食ってやるから、出せ」
「ふふ、うん! ちゃんと脂質少なめのもの買ってきたよ」
「……お前、ほんと真面目だな」
呆れたように笑う竜胆の顔から、わずかに険が取れる。
「竜胆がちゃんと食べないと、心配なんだもん」
「……チッ。勝手にしろ」
竜胆は再びソファに深く身を沈めた。窓の外の街は欲望と暴力が渦巻く闇の底。そこに戻らなければならない時間は、すぐそこまで迫っている。
だが、今この瞬間だけは。
彼女がキッチンで忙しなく動く音を聞きながら、竜胆は汚れた自らの手をじっと見つめた。落ちることのない泥にまみれたこの手で、彼女の未来を掴んでいいのか。答えは出ない。ただ、彼女の温もりを知ってしまった以上、もう二度と彼女を自分以外の誰かに渡すつもりはなかった。
「ななし、言っとくけどな。次また遅れたら、マジで帰さねぇからな」
投げかけられた乱暴な言葉。しかしその声には、彼女を何よりも愛おしむ響きが、隠しきれずに混ざっていた。
ななしは笑いながら返事をする。その明るい声が、竜胆の心の闇をほんのわずかだけ照らし出していた。竜胆はそれを心地よく感じながら、自分が決して手放さない光を、その冷たい瞳に焼き付けた。
リビングのソファに深く腰掛けた灰谷竜胆は、手元のグラスを揺らし、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。彼の瞳には、常に苛立ちと倦怠が混ざり合っている。首に刻まれた刺青は、彼が「向こう側」の住人であることを示す消えない刻印であり、その背負った業の深さを物語っていた。
「……遅い」
低く呟かれた声が、広い室内に溶けて消える。彼が待っているのは、この殺伐とした世界に不釣り合いなほど眩しい、ななしという存在だった。
ななしがインターホンを鳴らしたのは、竜胆が三杯目のグラスを空けた時だった。扉を開けた瞬間飛び込んできたのは、いつもの明るい笑顔だ。
「竜胆、ごめんね! 仕事が少し長引いちゃって」
ななしは、この空間の冷気を打ち消すような温かな空気を纏って入ってくる。彼女は竜胆と同い年だが、その生き方は対極にある。地道に働き、平穏を愛し、真面目に日々を積み重ねる。竜胆にとっては、もっとも遠ざけなければならない、それでいてどうしても手放せない光だった。
「……。勝手に来んなって、いつも言ってんだろ」
竜胆は、ななしの顔を見ようともせずに冷たく言い放つ。ソファから立ち上がることすらしない。
「そんなこと言わないで。夕飯、まだでしょ? 竜胆が好きそうなもの買ってきたから」
「いらねぇよ。さっさと帰れ」
突き放すような言葉。だが、ななしはひるまない。彼女は竜胆の言葉が本心ではないことを、その奥に隠された拒絶による保護であることを直感的に理解していた。キッチンへ向かおうとするななしの腕を、竜胆が荒々しく掴む。
「……っ、竜胆?」
「しつこいんだよ。お前みたいなのがここに居ていい場所じゃねぇって、いつになったら理解するんだ」
掴まれた腕に強い力がこもる。
竜胆の指先は震えていた。
怒りではなく、恐れに近い感情。
彼の手はすでに、他人の血と暴力にまみれている。その「汚れ」が、この無垢な女性にまで伝染することを、彼は何よりも恐れていた。
「痛いよ、竜胆……。でも、わたしは竜胆と一緒にいたいから来てるんだよ」
「はっ、バカか? 俺がどういう人間か知ってて言ってんのかよ。俺が一声かければ、お前の人生なんて簡単に壊れるんだぞ」
竜胆はななしの体を乱暴に引き寄せ耳元で低く囁く。脅し、拒絶し、嫌われようとする。それが彼なりの、不器用で歪んだ愛情表現だった。
ななしは、近すぎる彼の瞳を見つめ返す。竜胆の瞳の奥には、出口のない孤独が揺れていた。彼女はその視線を逸らさず、自由な方の手で竜胆の頬にそっと触れる。
「壊れないよ。わたし、そんなに弱くないもん」
「……うるさい」
「竜胆がどんなに冷たい言葉を言っても、わたしを追い出そうとしても、わたしにはわかるよ。竜胆が、わたしのこと大切に思ってくれてるって」
その真っ直ぐな言葉が、竜胆の理性を削り取る。彼はななしを突き放そうとして、逆にその体を強く抱きしめてしまった。強引に、苦しいほどに。彼女の首筋に顔を埋めると、シャンプーの清潔な香りが鼻をくすぐる。それは、硝煙と鉄の匂いが染み付いた自分の日常とはあまりにかけ離れた、安らぎの匂いだった。
「……ムカつくんだよ、お前。なんでそうやって全部知ったような口を利くんだ」
「竜胆の考えてることくらい、少しはわかるよ」
「わかってねぇよ、何も……」
竜胆の独占欲が、黒い霧のように膨れ上がる。彼はななしを自分の腕の中に閉じ込め誰にも触れさせたくない、このまぶしさを誰の目にも触れさせたくないと切望する。しかし同時に思う。自分のような社会の裏側にいる人間が、彼女の隣に居ていいはずがないのだと。
「お前はさ、もっと普通の男と、普通の場所で笑ってりゃいいんだ」
竜胆の声は掠れていた。
「美味しいもの食べて、行きたいところに行って、……平和に暮らせ」
「竜胆のいない平和なんて、わたしには意味がないよ」
「……。そういう綺麗事が、一番反吐が出る」
言いながらも、竜胆は彼女を離さない。むしろ、その細い体をさらに強く、自分の影に塗りつぶすように抱きしめ直す。
「ななし、こっち向け」
低い命令に従い、ななしが顔を上げると、そこには射抜くような鋭い視線があった。竜胆の指が、彼女の唇を乱暴に、だがどこか名残惜しそうになぞる。
「…その言葉、後悔しても遅いからな」
「後悔なんて、絶対しないよ」
「……明日、目が覚めて絶望しても知らねぇぞ」
竜胆はななしの返事を待たずに、その唇を塞いだ。強引で痛いほどのキス。それは慈しみというよりは、自分の所有物であることを刻印するような激しい行為だった。
梵天の幹部として、冷酷に、機械的に他者の命を刈り取ってきた竜胆。そんな彼の唯一の欠落が、目の前のこの女だった。彼女を守るために突き放したい。けれど彼女がいなければ、自分は自分を保つことすらできない。
唇が離れた後、竜胆はななしの額に自分の額を預け、短く息を吐いた。
「……飯、買ってあんだろ。食ってやるから、出せ」
「ふふ、うん! ちゃんと脂質少なめのもの買ってきたよ」
「……お前、ほんと真面目だな」
呆れたように笑う竜胆の顔から、わずかに険が取れる。
「竜胆がちゃんと食べないと、心配なんだもん」
「……チッ。勝手にしろ」
竜胆は再びソファに深く身を沈めた。窓の外の街は欲望と暴力が渦巻く闇の底。そこに戻らなければならない時間は、すぐそこまで迫っている。
だが、今この瞬間だけは。
彼女がキッチンで忙しなく動く音を聞きながら、竜胆は汚れた自らの手をじっと見つめた。落ちることのない泥にまみれたこの手で、彼女の未来を掴んでいいのか。答えは出ない。ただ、彼女の温もりを知ってしまった以上、もう二度と彼女を自分以外の誰かに渡すつもりはなかった。
「ななし、言っとくけどな。次また遅れたら、マジで帰さねぇからな」
投げかけられた乱暴な言葉。しかしその声には、彼女を何よりも愛おしむ響きが、隠しきれずに混ざっていた。
ななしは笑いながら返事をする。その明るい声が、竜胆の心の闇をほんのわずかだけ照らし出していた。竜胆はそれを心地よく感じながら、自分が決して手放さない光を、その冷たい瞳に焼き付けた。
