灰谷蘭・竜胆
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カランというグラスの中の氷の音が、薄暗い店内に響いた。
グラスの結露を指先でなぞり、濡れた指先を手の甲で拭う。
隣の空いた席に誰かが腰掛ける気配がして顔を上げると、案の定、不機嫌そうな顔と目が合った。
「オマエ、男に酒たかるのやめろよ」
呆れたような声とともに、竜胆が眉間に深くシワを寄せてこちらを見ていた。
「たかってないから。奢るよって声かけられてるだけ」
「それみんなヤリモクだから」
「だろうね、すぐキスしてこようとするやつばっか」
「……は?」
竜胆の手がピタリと止まった。
グラスを置く硬い音が、耳に届く。
「ん? 何?」
「キス? 知らねえやつとしたの?」
「するわけないじゃん、されそうになるだけ」
「は? 最初から自衛しろよ」
低く濁った声が返ってくる。
いつもの軽やかで少し冷めた調子とは明らかに違う声音に、思わず背中を引いた。
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃねーだろ」
「大丈夫だから」
「されてからじゃ遅えって言ってんの」
竜胆は乱雑に髪をかき上げると、深くため息をついた。
ソファーの背もたれに、どっかりと体重をあずける。
隠す気もなさそうに、こちらを睨みつけてきた。
「ほんとオマエさ、分かってねえだろ」
「わかってるよ。ちゃんと考え――」
「わかってねぇから、オレはイライラしてんだよ」
言葉に詰まって、グラスの縁を指で撫でた。
炭酸の泡が小さな音を立てて弾けては消えていく。
「で、結局どこまで許してんの」
「許すも何も、お酒奢ってもらって終わりだよ」
「クラブで女に酒奢る男なんか、下心しかねぇだろ」
「分かってるって」
「分かってねぇからキスされそうになってんだろ」
「ちゃんとあしらってるってば」
語尾を言い切るか言い切らないかのタイミングで、手首を強く掴まれた。
視界がグラリと揺れて、次の瞬間には竜胆のすぐ隣まで寄せられていた。
「……こんな風にされたらどうすんの」
腕を掴む指の力は強くて、振り払えそうにない。
至近距離にある顔が、じっとこちらを見つめている。
呼吸の音さえ届きそうなほど近くにある唇が、わずかに動いた。
「……竜胆はしないでしょ」
「分かんねーだろ」
「……」
「何、オレのこと試してんの?」
煽るような口調なのに、その眼差しには冗談めかした雰囲気が一切なかった。
距離が近すぎて、胸の奥が落ち着かなくなる。
「そういう顔すんの、マジでやめろ」
ボソリと呟くと、腕の力がふっと抜けた。
竜胆はそのまま片手で自分の顔を覆い、天をあおぐ。
「オマエさ、本当になんも分かってねえな」
「なに……」
「オレがなんでこんなイラついてんのか」
指の隙間から覗く目が、いつもよりずっと暗く重い熱を帯びていた。
竜胆は顔から手を離すと、自分のグラスを一気に呷った。
氷だけが残ったそれを、カツンと音を立てて置く。
グラスを置いた音の余韻だけが、しばらく二人の間に漂っていた。
店内に流れる音楽だけが、途切れることなくその静けさを満たしていく。
竜胆はポケットからスマホを取り出し、画面を適当にいじっていたが、すぐに投げ出すようにテーブルへ置いた。
「次から来るとき連絡しろ」
「連絡しても、オープン中は竜胆忙しいじゃん」
「いいから連絡しろ」
「過保護すぎでしょ」
「過保護じゃねえだろ。オレんとこでオマエが知らねえ男に触られるのマジでムカつく」
さらりと言い放たれた言葉に、思考が一瞬フリーズする。
言葉の意味を考えようとしても、胸の奥が熱くなってうまく考えられない。
竜胆は照れる様子もなく、不機嫌そうな表情を崩さずにこちらを見ている。
「別に、大丈夫だもん……」
「オレが嫌だって言ってんの」
率直すぎる言葉に、今度こそ完全に言葉が詰まった。
竜胆は逃がさないとばかりに、顔をさらに寄せてくる。
「……どういう意味か、わかるか?」
耳元で囁かれた声が、低く響いて心地よく鼓膜を揺らす。
「……分かんない」
小さく呟くと、竜胆は今日一番大きなため息をついた。
「ほんと、そういうとこムカつく」
そう言いながら、竜胆の手が頬にそっと伸びてきて触れる。
親指の腹でやさしく撫でられ、そこから熱が広がっていく。
さっきまで冷たいグラスを触っていた指先のはずなのに、驚くほどあたたかい。
「オレ以外から酒奢られんな」
「奢られた方が売り上げになるじゃん」
「そう言う意味じゃねーよ」
「じゃあ竜胆が全部出してくれるの?」
「オマエがそうしたいなら、いくらでもツケにしといてやるよ」
竜胆の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
さっきまで馴れ馴れしい男たちの相手をしてきたばかりだというのに、身体はまったく動こうとしなかった。
「逃げねえの?」
「……竜胆なら、逃げる理由ないし」
「……言ったな?」
耳元で漏らされた低い呟きに背筋がゾクゾクと痺れた。
竜胆の唇が、触れるか触れないかの距離でピタリと止まる。
「後悔すんなよ」
試すようにこちらの様子を覗き込んでくるけれど、もう視線を逸らすことも、離れることもできなかった。
身じろぎひとつしないのを確認すると、満足したように目を細め、そのままゆっくりと唇が重ねられた。
「……ん」
息を吸う隙間すら与えてくれないくらい、深く角度を変えながら重なる。
あたたかい指先がうなじに回され、逃げ場を塞ぐように強く引き寄せられた。
グラスの氷が溶ける微かな音も、遠くで響く音楽も、もう耳に入らなかった。
身体の芯からじわじわと熱が広がっていって、胸の奥が締めつけられるように痛い。
竜胆の手が、背中をなぞるようにゆっくりと上がってくる。
離れそうになると、それを許さないみたいに一層強く抱きすくめられた。
ふっとわずかに唇が離れた瞬間、熱い吐息がそのまま唇をかすめる。
「……な? 大丈夫じゃないだろ」
掠れた低い声で囁かれ、またすぐに深い熱に飲み込まれていく。
伝わってくる熱と体温は、これまで飲んできたどんなお酒よりも深く、甘く——もう、後戻りできないくらいに酔わせていった。