短編
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六本木の夜は喧騒すらも一つの生き物のように蠢いている。ネオンの光が雨上がりのアスファルトに反射し、毒々しい極彩色を描き出していた。そんな街の片隅、雑居ビルの間にある静かな非常階段に、二つの影が落ちている。
「ねえ、蘭。また怪我してる」
震える声が鉄製の階段に小さく反響した。声の主は、この場所に似つかわしくないほど真っ直ぐな瞳をした、ななし。彼女は手慣れた手つきで救急箱を取り出すと、目の前の男——灰谷蘭の隣に腰を下ろす。
「あー、これ? ちょっと派手に転んじゃってさ〜。ななしちゃん、相変わらず手際がいいねえ」
蘭はふにゃりと締まりのない笑みを浮かべる。長い足を投げ出し、気怠げに壁に背を預けるその姿は、一見すればただの整った容姿の青年だ。しかし、その指先には鉄の匂いが染み付き、薄笑いの奥には決して底の見えない暗闇が潜んでいる。
ななしは彼の嘘を追求することなく、消毒液を染み込ませたガーゼを差し出した。蘭の頬にある切り傷に触れる。
「転んでこんなに綺麗に切れるわけないでしょ。……痛い?」
「ななしちゃんが優しくしてくれるなら、痛いのなんて飛んでっちゃうかも」
蘭はふざけた調子でななしの顔を覗き込む。彼女は「もう、真面目に聞いてよ」と頬を膨らませた。その反応すらも、蘭にとっては眩しすぎるほどの光だった。
ななしは根っからの真面目人間だ。蘭のような、影に潜み、暴力を糧に生きる人間とは本来交わるはずのない、陽だまりのような存在。蘭はそんな彼女を、心の底から好いていると自覚している。だがその感情は彼にとって、どんな凶器よりも扱いにくいものだった。
ななしが真剣な表情でガーゼを貼る。その指先が震えていないことを、蘭はどこか不思議な気持ちで見つめていた。
「蘭はさ、いつもそうやって誤魔化すよね。わたし、蘭のことが心配なんだよ」
「嬉しいなあ。でも大丈夫、俺は強いから。心配なんてもっと他のことに使いなよ」
蘭はななしの頭を、大きな手でぽんぽんと叩いた。柔らかい髪の感触が手の平を通じて心臓を撫でる。その瞬間、蘭の胸の内にどろりとした嫌悪感が広がる。自分に向けられる信頼。向けられる愛情。そのすべてを、自分は裏切っているという確信。
蘭が生きているのは、明日には誰かの恨みを買い、明後日には道端で冷たくなっているかもしれない世界だ。ななしとは真逆の世界にいる。この境界線は、本来誰にも超えさせてはならない。
「……ねえ、ななしちゃん」
「なあに?」
「あんまり俺に関わらない方がいいよ。俺、君が思ってるよりずっと悪い奴だから」
唐突にトーンを落とした蘭の言葉に、ななしは手を止めて彼の目を見た。蘭の瞳は、今は笑っていない。深く澱んだ色をしている。
「知ってるよ。蘭が悪いことしてるのも、怖い人たちと一緒にいるのも」
「……知ってて、なんでここにいんの」
「蘭が、たまにすごく寂しそうな顔をするから」
ななしは静かに、だが確信を持って告げた。その言葉は、蘭の防壁を易々と突き破る。彼は一瞬、息を呑み、すぐにまた軽薄な笑みを貼り付けた。
「寂しい? 俺が? まさかあ。俺には弟もいるし、遊んでくれる女の子だって山ほどいるよ」
「わたしの前では、嘘つかなくていいのに」
ななしが蘭の手をそっと握る。その温もりは、蘭にとって耐えがたいほど甘美で、同時に恐ろしいものだった。彼女の温度を知れば知るほど、自分が立っている場所の冷たさが際立つ。彼女をこの場所に引き留めておきたいという独占欲と、一刻も早く遠くへ逃がさなければならないという義務感が、蘭の内で激しく衝突する。
もしも、このまま彼女を抱き寄せてしまえば。
泥濘に彼女の白い靴を汚させてしまえば。
蘭の脳裏に、凄惨な現場の景色が浮かぶ。飛び散る鮮血、怒号、壊れていく人間。ななしの笑顔が、それらの色に染まることだけは何としても避けなければならない。
「……ななしちゃん、手、離して」
蘭の声は低く、冷たかった。ななしは驚いたように目を見開くが、蘭はその手を無理やり振り払う。
「俺は君のヒーローでもなければ、寂しい迷子でもない。ただの人殺しの道具だよ。君が今やってることは、ただの『おままごと』」
蘭は立ち上がり、見下ろすように彼女を睨む。わざと冷酷な、獲物を見るような視線を作る。ななしの肩が微かに震える。
「蘭……?」
「もうここに来んな。君みたいな真面目な子がウロウロしていい場所じゃねえんだ。次に見かけたら、……容赦しない?」
突き放す言葉。それは、蘭が精一杯に絞り出した、彼女への唯一の愛の形だった。自分が悪党に徹することで、彼女を守る。それが最も確実で、最も残酷な方法。
ななしは唇を噛み締め、蘭の目を見つめ返した。その瞳には、恐怖ではなく、深い悲しみが宿っている。それがまた蘭の心を切り刻む。
「……わかった。今日は帰るね」
ななしはゆっくりと立ち上がり、救急箱を鞄にしまった。そして去り際に一言だけ、背を向けた蘭に語りかける。
「でも、蘭。わたしは、蘭がどんなに自分を嫌ってても、蘭に助けられた日のことは忘れないから。……おやすみなさい」
遠ざかっていく足音。やがて、夜の喧騒が再び非常階段を支配する。
蘭は、ななしが座っていた場所に手を伸ばした。そこにはまだ、彼女の体温が微かに残っている。彼はその場所を握りしめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……おやすみ。バカなななしちゃん」
彼はポケットからスマートフォンを取り出し、冷徹な「灰谷蘭」へと戻る。画面には、次の抗争の指示が映し出されていた。
蘭は夜の街へと飛び降りる。暗闇に溶け込み、血生臭い世界へ。
背中の境界線は、冷たく、高く、二人を分断したまま。
それでも、彼の頬に貼られたガーゼだけが、歪な優しさの証として白く浮き上がっていた。
彼は、決して振り返らない。
彼女が二度と、こちら側の闇を覗き込まなくて済むように。
「ねえ、蘭。また怪我してる」
震える声が鉄製の階段に小さく反響した。声の主は、この場所に似つかわしくないほど真っ直ぐな瞳をした、ななし。彼女は手慣れた手つきで救急箱を取り出すと、目の前の男——灰谷蘭の隣に腰を下ろす。
「あー、これ? ちょっと派手に転んじゃってさ〜。ななしちゃん、相変わらず手際がいいねえ」
蘭はふにゃりと締まりのない笑みを浮かべる。長い足を投げ出し、気怠げに壁に背を預けるその姿は、一見すればただの整った容姿の青年だ。しかし、その指先には鉄の匂いが染み付き、薄笑いの奥には決して底の見えない暗闇が潜んでいる。
ななしは彼の嘘を追求することなく、消毒液を染み込ませたガーゼを差し出した。蘭の頬にある切り傷に触れる。
「転んでこんなに綺麗に切れるわけないでしょ。……痛い?」
「ななしちゃんが優しくしてくれるなら、痛いのなんて飛んでっちゃうかも」
蘭はふざけた調子でななしの顔を覗き込む。彼女は「もう、真面目に聞いてよ」と頬を膨らませた。その反応すらも、蘭にとっては眩しすぎるほどの光だった。
ななしは根っからの真面目人間だ。蘭のような、影に潜み、暴力を糧に生きる人間とは本来交わるはずのない、陽だまりのような存在。蘭はそんな彼女を、心の底から好いていると自覚している。だがその感情は彼にとって、どんな凶器よりも扱いにくいものだった。
ななしが真剣な表情でガーゼを貼る。その指先が震えていないことを、蘭はどこか不思議な気持ちで見つめていた。
「蘭はさ、いつもそうやって誤魔化すよね。わたし、蘭のことが心配なんだよ」
「嬉しいなあ。でも大丈夫、俺は強いから。心配なんてもっと他のことに使いなよ」
蘭はななしの頭を、大きな手でぽんぽんと叩いた。柔らかい髪の感触が手の平を通じて心臓を撫でる。その瞬間、蘭の胸の内にどろりとした嫌悪感が広がる。自分に向けられる信頼。向けられる愛情。そのすべてを、自分は裏切っているという確信。
蘭が生きているのは、明日には誰かの恨みを買い、明後日には道端で冷たくなっているかもしれない世界だ。ななしとは真逆の世界にいる。この境界線は、本来誰にも超えさせてはならない。
「……ねえ、ななしちゃん」
「なあに?」
「あんまり俺に関わらない方がいいよ。俺、君が思ってるよりずっと悪い奴だから」
唐突にトーンを落とした蘭の言葉に、ななしは手を止めて彼の目を見た。蘭の瞳は、今は笑っていない。深く澱んだ色をしている。
「知ってるよ。蘭が悪いことしてるのも、怖い人たちと一緒にいるのも」
「……知ってて、なんでここにいんの」
「蘭が、たまにすごく寂しそうな顔をするから」
ななしは静かに、だが確信を持って告げた。その言葉は、蘭の防壁を易々と突き破る。彼は一瞬、息を呑み、すぐにまた軽薄な笑みを貼り付けた。
「寂しい? 俺が? まさかあ。俺には弟もいるし、遊んでくれる女の子だって山ほどいるよ」
「わたしの前では、嘘つかなくていいのに」
ななしが蘭の手をそっと握る。その温もりは、蘭にとって耐えがたいほど甘美で、同時に恐ろしいものだった。彼女の温度を知れば知るほど、自分が立っている場所の冷たさが際立つ。彼女をこの場所に引き留めておきたいという独占欲と、一刻も早く遠くへ逃がさなければならないという義務感が、蘭の内で激しく衝突する。
もしも、このまま彼女を抱き寄せてしまえば。
泥濘に彼女の白い靴を汚させてしまえば。
蘭の脳裏に、凄惨な現場の景色が浮かぶ。飛び散る鮮血、怒号、壊れていく人間。ななしの笑顔が、それらの色に染まることだけは何としても避けなければならない。
「……ななしちゃん、手、離して」
蘭の声は低く、冷たかった。ななしは驚いたように目を見開くが、蘭はその手を無理やり振り払う。
「俺は君のヒーローでもなければ、寂しい迷子でもない。ただの人殺しの道具だよ。君が今やってることは、ただの『おままごと』」
蘭は立ち上がり、見下ろすように彼女を睨む。わざと冷酷な、獲物を見るような視線を作る。ななしの肩が微かに震える。
「蘭……?」
「もうここに来んな。君みたいな真面目な子がウロウロしていい場所じゃねえんだ。次に見かけたら、……容赦しない?」
突き放す言葉。それは、蘭が精一杯に絞り出した、彼女への唯一の愛の形だった。自分が悪党に徹することで、彼女を守る。それが最も確実で、最も残酷な方法。
ななしは唇を噛み締め、蘭の目を見つめ返した。その瞳には、恐怖ではなく、深い悲しみが宿っている。それがまた蘭の心を切り刻む。
「……わかった。今日は帰るね」
ななしはゆっくりと立ち上がり、救急箱を鞄にしまった。そして去り際に一言だけ、背を向けた蘭に語りかける。
「でも、蘭。わたしは、蘭がどんなに自分を嫌ってても、蘭に助けられた日のことは忘れないから。……おやすみなさい」
遠ざかっていく足音。やがて、夜の喧騒が再び非常階段を支配する。
蘭は、ななしが座っていた場所に手を伸ばした。そこにはまだ、彼女の体温が微かに残っている。彼はその場所を握りしめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……おやすみ。バカなななしちゃん」
彼はポケットからスマートフォンを取り出し、冷徹な「灰谷蘭」へと戻る。画面には、次の抗争の指示が映し出されていた。
蘭は夜の街へと飛び降りる。暗闇に溶け込み、血生臭い世界へ。
背中の境界線は、冷たく、高く、二人を分断したまま。
それでも、彼の頬に貼られたガーゼだけが、歪な優しさの証として白く浮き上がっていた。
彼は、決して振り返らない。
彼女が二度と、こちら側の闇を覗き込まなくて済むように。
