短編
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放課後の教室には西日が長く伸びていた。
窓際で掃除用具を片付けていたななしは、隣でだらしなく机に座り込んでいる松野千冬を一瞥し、深いため息をつく。
「千冬、そこ。まだ掃き終わってないんだけど」
ぶっきらぼうな声に千冬は手元の漫画雑誌から顔を上げた。端正な顔立ちに似合わない、頬に残る小さな絆創膏。昨日、どこかの喧嘩で負ってきた傷だ。
「あ? 見りゃ分かんだろ。今いいとこなんだよ」
「掃除当番でしょ。あんたがサボるせいで、わたしの仕事が増えるの」
「……チッ。分かったよ、動けばいいんだろ、動けば」
千冬は乱暴に立ち上がると椅子を引きずる大きな音を立てた。 ななし は思わず肩を跳ねさせる。
二人は入学以来、周囲も認める犬猿の仲だった。顔を合わせれば皮肉が飛び出し、些細なことで言い争いが始まる。だがその実、お互いに一歩も引かないのは、相手の言葉が自分の中に深く突き刺さることを自覚しているからに他ならない。
ななしは千冬が好きだった。
仲間を思い曲がったことが嫌いで、捨てられた子猫を見れば放っておけない。そんな彼の不器用な優しさを知っている。
対する千冬もまたななしに特別な感情を抱いていた。
誰に対しても真面目で学級委員の仕事を一人で背負い込む危うさ。そのくせ自分にだけは容赦なく感情を剥き出しにする彼女の強さに、どうしようもなく惹かれていた。
けれど素直になる術を二人はまだ持っていない。
「ねえ、その傷。また喧嘩したの?」
「……関係ねぇだろ。まあ、ちょっとな」
「怪我ばっかりして。千冬が強いのは分かってるけど、見てる方はヒヤヒヤするの」
「うっせぇな。おまえに関係ねぇだろ、そんなこと」
千冬は顔を背けた。照れ隠しの拒絶。それがななしの胸にチクリと刺さる。関係ない。その言葉が二人の間にある見えない壁を高くした。
「そう。そうだよね。……もういい、先帰るね」
ななしは逃げるように鞄を掴むと、教室を飛び出した。
後ろで千冬が何かを言いかけた気配がしたが、振り返る勇気はなかった。
校門を出てしばらく歩くと、予報にはなかった雨が降り始めた。
「嘘、傘持ってない……」
街路樹の軒下で雨宿りをするが、雨足は強まる一方だ。薄暗くなった空の下、ななしは独り冷えていく指先を握りしめた。
言い過ぎたかもしれない。千冬だって、好きで怪我をしているわけではないのに。自分の好きという気持ちが、いつも小言として出てしまう。その不甲斐なさに、涙が滲みそうになった。
その時、雨音を切り裂いて鋭い足音が近づいてきた。
「……おい」
聞き慣れた、少し低い声。
顔を上げると、そこには自分の制服を頭から被り、びしょ濡れになった千冬が立っていた。手には、ななしが教室に忘れていった折り畳み傘が握られている。
「千冬……? なんで」
「なんで、じゃねぇよ。……これ、おまえのだろ」
突き出された傘。
ななしは呆然とそれを受け取る。
「走って追いかけてきたの?」
「……別に。ちょうど帰る方向が同じだっただけだ」
「嘘。千冬の家、反対方向じゃん」
千冬の指摘に、耳が赤く染まった。雨に濡れた金髪が額に張り付いている。彼は気まずそうに視線を泳がせ、最後に絞り出すように言った。
「あー、もう! ったく、おまえは……! なんであんな風にすぐどっか行っちまうんだよ。言い返してこいよ、いつもみたいに!」
「だって、千冬が関係ないって言うから……」
「それは、おまえに心配かけたくなくて……格好悪いとこ、見せたくなかっただけだっつーの!わかれよ!」
雨の中で千冬の叫びが響く。
ななしは目を見開いた。
いつも喧嘩腰の彼の言葉に、初めて明確な本音が混じっていた。
「……格好悪くないよ。わたしは、千冬ならどんな姿でも格好いいと思ってる」
ポツリと漏らした言葉。雨音がそれをかき消してくれればいいと思ったが、千冬の耳にははっきりと届いていた。
彼は一瞬、硬直した。そして、頭を乱暴に掻きむしる。
「……そういうこと、平気な顔して言うなよ。調子狂うだろ」
「平気じゃないよ。……心臓、止まりそう」
ななしの声は震えていた。
千冬はため息をつき、一歩、彼女との距離を詰めた。
雨に濡れた冷たい空気が、二人の体温でわずかに温まる。
「ななし」
名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
千冬の瞳には、いつもの鋭さはなく、ただ真っ直ぐな熱量だけが宿っていた。
「俺、おまえと喧嘩したいわけじゃねぇんだ。……ホントは、もっと普通に……いや、普通じゃなくていい。とにかく、泣かせるようなことは言いたくねぇ」
「わたしも。千冬のこと、困らせたくないのに。いつも口が勝手に動いちゃうの」
「……お互い様だな」
千冬がふっと笑った。
その笑顔に、ななしの胸のつかえがスッと消えていく。
「なぁ。この雨、止むまで一緒にいねぇか。傘、一本しかないし」
「……いいよ。濡れちゃうから、もっとこっち来て」
ななしが傘を広げると、千冬がその柄をそっと握り直した。
狭い傘の下。肩と肩が触れ合う距離。
どちらからともなく、空いた方の手が触れ合い指が絡まる。
「千冬、手、冷たい」
「おまえこそ。……風邪引いたら、今度は俺が小言言ってやるからな」
「あ、またそうやって……」
言いかけて、ななしは笑った。
千冬も、つられるようにして白い歯を見せる。まだ「好きだ」という言葉を明確に口にしたわけではない。けれど繋いだ手の温かさが、どんな台詞よりも雄弁に二人の気持ちを語っていた。
「……帰ったら、その絆創膏貼り替えさせてね」
「分かったよ。おまえの言うことなら、聞いてやる」
夕暮れの街、雨音だけが優しく二人を包み込む。
次に顔を合わせる時も、きっとまた小さなことで言い合いをしてしまうのだろう。けれど、その喧嘩の果てには、必ずこの温もりが待っている。
雨が上がる頃には、世界が少しだけ違って見えるはずだと二人は確信していた。
窓際で掃除用具を片付けていたななしは、隣でだらしなく机に座り込んでいる松野千冬を一瞥し、深いため息をつく。
「千冬、そこ。まだ掃き終わってないんだけど」
ぶっきらぼうな声に千冬は手元の漫画雑誌から顔を上げた。端正な顔立ちに似合わない、頬に残る小さな絆創膏。昨日、どこかの喧嘩で負ってきた傷だ。
「あ? 見りゃ分かんだろ。今いいとこなんだよ」
「掃除当番でしょ。あんたがサボるせいで、わたしの仕事が増えるの」
「……チッ。分かったよ、動けばいいんだろ、動けば」
千冬は乱暴に立ち上がると椅子を引きずる大きな音を立てた。 ななし は思わず肩を跳ねさせる。
二人は入学以来、周囲も認める犬猿の仲だった。顔を合わせれば皮肉が飛び出し、些細なことで言い争いが始まる。だがその実、お互いに一歩も引かないのは、相手の言葉が自分の中に深く突き刺さることを自覚しているからに他ならない。
ななしは千冬が好きだった。
仲間を思い曲がったことが嫌いで、捨てられた子猫を見れば放っておけない。そんな彼の不器用な優しさを知っている。
対する千冬もまたななしに特別な感情を抱いていた。
誰に対しても真面目で学級委員の仕事を一人で背負い込む危うさ。そのくせ自分にだけは容赦なく感情を剥き出しにする彼女の強さに、どうしようもなく惹かれていた。
けれど素直になる術を二人はまだ持っていない。
「ねえ、その傷。また喧嘩したの?」
「……関係ねぇだろ。まあ、ちょっとな」
「怪我ばっかりして。千冬が強いのは分かってるけど、見てる方はヒヤヒヤするの」
「うっせぇな。おまえに関係ねぇだろ、そんなこと」
千冬は顔を背けた。照れ隠しの拒絶。それがななしの胸にチクリと刺さる。関係ない。その言葉が二人の間にある見えない壁を高くした。
「そう。そうだよね。……もういい、先帰るね」
ななしは逃げるように鞄を掴むと、教室を飛び出した。
後ろで千冬が何かを言いかけた気配がしたが、振り返る勇気はなかった。
校門を出てしばらく歩くと、予報にはなかった雨が降り始めた。
「嘘、傘持ってない……」
街路樹の軒下で雨宿りをするが、雨足は強まる一方だ。薄暗くなった空の下、ななしは独り冷えていく指先を握りしめた。
言い過ぎたかもしれない。千冬だって、好きで怪我をしているわけではないのに。自分の好きという気持ちが、いつも小言として出てしまう。その不甲斐なさに、涙が滲みそうになった。
その時、雨音を切り裂いて鋭い足音が近づいてきた。
「……おい」
聞き慣れた、少し低い声。
顔を上げると、そこには自分の制服を頭から被り、びしょ濡れになった千冬が立っていた。手には、ななしが教室に忘れていった折り畳み傘が握られている。
「千冬……? なんで」
「なんで、じゃねぇよ。……これ、おまえのだろ」
突き出された傘。
ななしは呆然とそれを受け取る。
「走って追いかけてきたの?」
「……別に。ちょうど帰る方向が同じだっただけだ」
「嘘。千冬の家、反対方向じゃん」
千冬の指摘に、耳が赤く染まった。雨に濡れた金髪が額に張り付いている。彼は気まずそうに視線を泳がせ、最後に絞り出すように言った。
「あー、もう! ったく、おまえは……! なんであんな風にすぐどっか行っちまうんだよ。言い返してこいよ、いつもみたいに!」
「だって、千冬が関係ないって言うから……」
「それは、おまえに心配かけたくなくて……格好悪いとこ、見せたくなかっただけだっつーの!わかれよ!」
雨の中で千冬の叫びが響く。
ななしは目を見開いた。
いつも喧嘩腰の彼の言葉に、初めて明確な本音が混じっていた。
「……格好悪くないよ。わたしは、千冬ならどんな姿でも格好いいと思ってる」
ポツリと漏らした言葉。雨音がそれをかき消してくれればいいと思ったが、千冬の耳にははっきりと届いていた。
彼は一瞬、硬直した。そして、頭を乱暴に掻きむしる。
「……そういうこと、平気な顔して言うなよ。調子狂うだろ」
「平気じゃないよ。……心臓、止まりそう」
ななしの声は震えていた。
千冬はため息をつき、一歩、彼女との距離を詰めた。
雨に濡れた冷たい空気が、二人の体温でわずかに温まる。
「ななし」
名前を呼ばれ、彼女は顔を上げた。
千冬の瞳には、いつもの鋭さはなく、ただ真っ直ぐな熱量だけが宿っていた。
「俺、おまえと喧嘩したいわけじゃねぇんだ。……ホントは、もっと普通に……いや、普通じゃなくていい。とにかく、泣かせるようなことは言いたくねぇ」
「わたしも。千冬のこと、困らせたくないのに。いつも口が勝手に動いちゃうの」
「……お互い様だな」
千冬がふっと笑った。
その笑顔に、ななしの胸のつかえがスッと消えていく。
「なぁ。この雨、止むまで一緒にいねぇか。傘、一本しかないし」
「……いいよ。濡れちゃうから、もっとこっち来て」
ななしが傘を広げると、千冬がその柄をそっと握り直した。
狭い傘の下。肩と肩が触れ合う距離。
どちらからともなく、空いた方の手が触れ合い指が絡まる。
「千冬、手、冷たい」
「おまえこそ。……風邪引いたら、今度は俺が小言言ってやるからな」
「あ、またそうやって……」
言いかけて、ななしは笑った。
千冬も、つられるようにして白い歯を見せる。まだ「好きだ」という言葉を明確に口にしたわけではない。けれど繋いだ手の温かさが、どんな台詞よりも雄弁に二人の気持ちを語っていた。
「……帰ったら、その絆創膏貼り替えさせてね」
「分かったよ。おまえの言うことなら、聞いてやる」
夕暮れの街、雨音だけが優しく二人を包み込む。
次に顔を合わせる時も、きっとまた小さなことで言い合いをしてしまうのだろう。けれど、その喧嘩の果てには、必ずこの温もりが待っている。
雨が上がる頃には、世界が少しだけ違って見えるはずだと二人は確信していた。
