松野千冬
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「前に紅生姜キライって言ったじゃん」
レジ袋をカサカサと鳴らしながら階段をのぼる。
三段ほど下にいる千冬が、露骨に嫌そうな顔をして片眉を上げた。
「オマエが何でもいいって言ったんだろ」
「何でもいいとは言ったけど、キライなものくらい覚えておいてよ」
「知るかよ、そんなこと覚えてねえわ」
千冬はレジ袋をひょいと奪い取ると、階段の途中にドカッと座り込んで、勝手に袋を開け始めた。
「あ、ちょっと!」
「はいはい。紅生姜はオレが食ってやるから寄こせ」
隣に腰を下ろして、千冬の手からパンを奪い返す。
千冬はチッと小さく舌を鳴らすと、器用に紅生姜だけをつまみ取って口に放り込んだ。
「……なんか今日、イラついてね?」
「だって」
「なんだよ」
「覚えてないフリすんのやめてよ」
ポツリと溢すと、千冬は不思議そうにこちらを見た。
「は? なにがだよ」
「この前のお好み焼きの時もそうじゃん」
「あ?」
「わたしが紅生姜全部あげたの、絶対覚えてるでしょ」
「あー……あん時は腹減ってたし、よく覚えてねえわ」
「そういうことじゃなくて!」
「じゃあなんだよ」
「覚えてくれてないんだって思ったら寂しかったの!」
言ってしまってから、頬がかっと熱くなった。
心臓がうるさいくらい鳴っていて、次の言葉が出てこない。
千冬は目を丸くして、それから気まずそうに視線を横へ逸らした。
沈黙が、いつもより少しだけ長く感じられた。
「……別に、どうでもよくねえし」
「現に忘れてんじゃん」
「忘れてねえよ!」
「じゃあなんで焼きそばパンなわけ?」
「売り切れてたんだよ、他のパン!」
「え?」
「それしか残ってなかったんだよ」
「でも紅生姜入ってるじゃん」
「だからオレが食えばいいやと思って買ってきてやったんだろ!」
千冬はぶつぶつと言い訳しながら、後頭部をボリボリとかいた。
横顔を見ると、耳のフチがほんのり赤くなっている。
「……そういうことなら最初から言いなよ」
「オマエが勝手に怒ってただけだろ」
「……ごめん」
「いや、オレも悪かった」
顔を見合わせて、どっちからともなく小さく吹き出した。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「別に。千冬ってほんと不器用だなと思って」
「うるせえ」
千冬は吐き捨てるみたいに言って、残りの焼きそばパンを豪快に口に放り込んだ。
◇
パンを食べ終わっても、二人はそのまま立ち上がらなかった。
通り過ぎる車のライトが少しずつ目立ち始めて、足元に伸びる影が濃くなっていく。
「ねえ、そろそろ帰る?」
「んー」
千冬は膝を抱え込んだまま、動こうとしない。
「今日夕飯の買い出し手伝うって言ってたじゃん」
「あ、やべ。すっかり忘れてた」
千冬の腰は、いつまで経っても上がらない。
カバンを地面に放り投げた格好で、ぼんやりとガードレールを眺めている。
「ほら、立って」
「明日って部活何時に終わる?」
「明日は土曜日だし、お昼には終わるけど」
「じゃあ終わったらオレの家来いよ」
「えー、明日は家でドラマの録画見ようと思ってたのに」
「後で見ればいいだろ、そんなの。オレんち来いって」
強引な言い方に、わざと大きくため息をついて見せた。
「千冬ってほんと自分勝手」
「うっせ。来たいくせに」
「行くなんて一言も言ってないでしょ」
「顔に出てんだよ」
千冬はフンと鼻を鳴らすと、ようやく立ち上がって制服のズボンについたホコリを雑にはらった。
見下ろす顔が、どこか誇らしげでちょっとムカついた。
「じゃあ明日な」
「待って、行くなんて言ってない!」
「はい決定ー。遅刻したらパン奢りな」
「ちょっと!」
階段を下りていく千冬の背中に向かって叫ぶと、千冬は振り向きもせずに片手をひらひらと振った。
◇
翌日、約束の五分前に着くと、すでに千冬は壁に背中を預けて立っていた。
私服のTシャツにダボッとした上着を羽織って、つまらなさそうにスマホを眺めている。
「……千冬が先にいるなんて珍しいじゃん」
声をかけると、千冬はハッと顔を上げてスマホをポケットに押し込んだ。
「遅えよ」
「まだ約束の五分前なんだけど」
「オレが先に来てんだから、オマエが遅い」
「そんなの千冬の都合じゃん」
横に並んで歩き始めると、千冬はちらりとこちらを見てから、小さく咳払いをした。
「……その服、新しいやつ?」
「あ、分かる? 先週買ったんだよね」
「ふーん。まあ、変じゃないんじゃね」
「素直に可愛いって言いなよ」
「言うかよ。調子乗んな」
そう言ってそっぽを向いた千冬の耳のフチだけが、昨日と同じように赤い。
「今日、カレーあるから」
「ほんと? 千冬のお母さんのカレー大好き」
「オレが頼んでおいてやったんだから感謝しろよ」
「はいはい、ありがとうございます」
「感情こもってねえ」
住宅街の角を曲がると、風に乗ってどこかの家からカレーの匂いが漂ってくる。
日差しがやわらかくて、少し眠くなるような午後だった。
「なあ」
「なに?」
「来週のテスト、勉強教えてくれよ」
「え、千冬また赤点やばいの?」
「ちげーし、ちょっと不安なだけだし!」
「はいはい。考えておいてあげる」
千冬はブツブツと不満を口にしながらも、嬉しそうに口元を緩めている。
「ねえ、千冬」
「なんだよ」
「手、繋ぎたいんだけど」
立ち止まってそう言うと、千冬は周りをキョロキョロと見回した。
「は!? オマエ、外だぞ!」
「なんで? ダメなの?」
「誰かに見られたらどうすんだよ」
「みられたらダメなの?」
「ダメに決まってんだろ!」
千冬は早足で先に行こうとするけれど、その場から動かないでいると、十歩ほど進んだところでピタッと足を止めた。
深いため息が聞こえてくる。
振り返った千冬は、参ったような顔をして頭をガリガリとかいた。
「……一回だけだからな」
戻ってきた千冬が、乱暴にわたしの手を握りしめる。
手のひらが少し熱くて、骨ばった感触がはっきりと伝わってきた。
「つか、オマエから言ってきたくせに照れてんじゃねえよ」
「照れてないし」
「嘘つけ、顔真っ赤だぞ」
「千冬の耳のが赤いよ!」
「うるせえ!」
握られた手に少しだけ力がこもる。
繋いだ手は、千冬の家の玄関につくまで、一度も離れることはなかった。
◇
部屋に入ると、ペケJが玄関まで出迎えてくれた。
足をすり寄せてくるペケJを屈んで撫で回すと、喉を鳴らして甘えてくる。
「ペケJただいまー。千冬が意地悪するんだよ」
「おい、変なこと吹き込むな」
千冬はカバンを床に放り投げると、キッチンに向かって冷蔵庫を開けた。
「麦茶でいいか?」
「うん、ありがと」
コップを二つ持って戻ってきた千冬は、ローテーブルを挟んで向かい側に座ると思いきや、迷わず隣に腰を下ろした。
「狭いんだけど」
「いいだろ、オレの部屋なんだから」
そう言いながら、千冬はテーブルの上に教科書とノートをドサッと置いた。
「オマエが教えてくれるって言ったんだからな」
「え、部屋ついて早々やるの?」
「オレだって赤点回避してーんだよ。早く始めんぞ」
「はいはい」
千冬の隣に座り直して、開かれたノートを覗き込む。
シャーペンを握った千冬の手が、途中でぴたっと止まっていた。
ノートの余白に解説を書き込んでいると、千冬が横から顔を覗き込んできた。
「なに?」
「なんでもねえよ。早く教えろよ」
「千冬が見てたら集中できないんだけど」
「見てねえし! ノート見てるだけだろ!」
「嘘。絶対こっち見てた」
「自意識過剰!」
千冬はふいっと顔を背けて、慌てて教科書のページをパラパラとめくり始めた。
指の動きが雑すぎて、絶対に頭に入っていないのが丸わかりだ。
静かな部屋に、シャーペンの芯が紙を滑る音とペケJが毛づくろいする音だけが響く。
「……ねえ、千冬」
「なんだよ」
「ちょっと肩借りていい?」
「は? なんでだよ」
「勉強教えて疲れた」
「まだ十分しか経ってねえだろ……」
文句を言いながらも、千冬は肩の位置を少し下げて寄りかかりやすいように体勢を調整してくれた。
頭を千冬の肩に乗せると、硬い骨の感触が伝わってくる。
「……重い」
「デリカシーどこに置いてきたの」
「物理的な重さじゃなくて気分の話」
「もっとひどい」
千冬は小さく笑うと、握っていたシャーペンを置いて、そっと自分の頭をわたしの頭の上に重ねてきた。
「なあ」
「なに?」
「テスト終わったら、空けとけよ」
「え? なんで?」
「遊び行こうぜ」
「行きたい!」
嬉しくなって顔を上げようとしたら、千冬の手が頭を押さえて阻止してきた。
「……テスト頑張ろうね」
「頑張るからちゃんと教えろよ」
「頑張れ千冬くん」
「棒読みすぎんだろ」
「ふふ、応援してるよ」
肩に伝わる千冬の体温が心地よくて、まぶたがだんだん重くなってくる。
「寝るなよ、勉強終わってねえぞ」
「寝ない……」
「絶対寝る顔だろそれ」
「寝てないってば……」
千冬は何も言わずに、もう一度シャーペンを握り直した。
ノートに視線を落としたその横顔が、ほんの少しだけ赤い。
このままもう少しだけ、寝たフリをしていようと思った。
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