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「ほんま、■■■ちゃんは相変わらずやなぁ」
前髪に隠れた目元は見えないが、口元はニヤリと歪んでいる。
「……別に、辰臣の前で気にする必要ないでしょ」
机の端に置かれたグラスを指先で弄りながら、淡々と答えた。
辰臣はくすっと笑い、ソファーの背もたれに体を預ける。
「男の部屋に一人で上がり込んでおいて、それかいな」
「……」
「僕かて一応、健全な男なんやけど?」
「他の女の子にするみたいなおふざけ、わたしにはしないくせに」
自嘲気味な言葉が、ぽろりと口からこぼれ落ちた。
「なんや、扱いに不満でもあるん?」
「不満っていうか……」
誰彼構わず口説く男が、自分にだけは指一本触れてこないどころか、優しい言葉すらかけてこない。
それが大事にされている証だとは、どうしても思えなかった。
女として魅力がないのだと、そう思うほうが自然だった。
「……別に。ただの独り言」
グラスの結露を撫でながら視線を落とす。
込み上げる痛みを誤魔化すように、息を吐き出した。
「へえ。僕が手ぇ出さへんから、不服なんや」
「からかわないでよ」
「からかってへんよ。ほんまに、そう思っとるんかなと思って」
辰臣はソファーから立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
長身の影にすっぽりと覆われる。
「僕、綺麗な女性は大好きやし」
「知ってる。だからわたしには興味がないんでしょ」
「……手厳しいなぁ」
辰臣は隣に腰を下ろした。
距離が縮まり、彼の体温が伝わってくる。
けれど、決してそれ以上の接触はない。
決まって一定の線を引いて、彼は涼しい顔で笑っている。
「■■■ちゃんは、僕にとって特別な存在やで?」
「そういう適当なこと言うの、やめてよ」
「ほんまのこと言ってるのに、信用ないなぁ」
辰臣は膝の上に肘をつき、前髪の奥からじっと見つめてくる。
その視線の重さに耐えかねて、そっぽを向いた。
◇
数日後、事務所の近くで辰臣と鉢合わせた。
相変わらずヘラヘラとした笑いを浮かべ、買い出し袋を下げている。
「奇遇やね」
「こんにちは」
「買い物帰り? 荷物、持ったろか」
辰臣はそう言うなり、紙袋をひょいと持ち替えた。
断る隙すら与えない手慣れた仕草に、胸の奥がまた少し痛む。
「……こういうのも他の子にやってるんでしょ」
「女の子には親切にせえって教わって育ったから」
「……ほんと、誰にでも優しいよね」
歩幅を合わせて歩きながらポツリと呟いた。
横顔を見上げても、前髪に遮られてその表情の真意は読めない。
「誰にでも、ちゃうよ」
「え? 何か言った?」
「なにも? 今日は晩ごはんなんやろなぁと思って」
「……普通のお惣菜だよ」
いつも通りの軽い調子に戻った辰臣を見て深く追及するのをやめた。
期待するだけ無駄だと言い聞かせる。
彼にとって自分は、都合のいい害のないお友達でしかないのだから。
「ここまででいいよ。ありがとう」
「うん。気をつけて帰りや」
辰臣はひらひらと手を振り、背中を向けた。
その背中を引き留める権利も理由も、自分にはない。
ぎゅっと唇を噛み締めながら、小さくなっていく背中を見送ることしかできなかった。
◇
夜、降り出した雨は勢いを増し、雷鳴が街を揺らしていた。
薄暗い部屋で一人たたずんでいると、突然のノック音が響く。
扉を開けると、そこには濡れた上着を羽織った辰臣が立っていた。
「……こんな時間にどうしたの」
「いやぁ、近くにおったから、雨宿りさせてもらおうと思って」
辰臣は前髪から雫を滴らせながら、申し訳なさそうに眉を下げた。
どこか様子がおかしい。
いつもの余裕ぶった雰囲気が薄れ、どこか焦燥感が滲み出ているように見えた。
「入って。タオル持ってくる」
奥から乾いたタオルを持ち出し、辰臣に差し出した。
辰臣はそれを受け取り、頭をガシガシと拭く。
「風邪ひくよ。温かいお茶でも淹れるね」
「……いらんよ。すぐ止むやろ、たぶん」
辰臣はソファーに深く腰掛け、天井を見上げた。
雨音が部屋の中に重く響き渡る。
沈黙が二人を包み込み、いつもならすぐに飛び出すはずの軽口が聞こえてこない。
「……なにかあったの? いつもと違う」
「……別に。何もあらへんよ」
「嘘。顔、見せてよ」
前髪をかき分けようと手を伸ばした瞬間、腕を掴まれた。
「……触らんほうがええよ」
辰臣の声が、低く掠れていた。
いつもの軽妙に流す声とは明らかに違う、生々しいトーン。
「なんで……? わたしじゃ、ダメ?」
ずっと胸の奥に溜め込んでいた疑問が、溢れ出していた。
「他の人みたいに口説いてよ。どうしてわたしにだけ、そんなに冷たいの……」
「冷たい……? 僕が?」
「他に誰がいるの……」
「はあ……、勘違いも甚だしいわ……」
掴まれた腕が引っ張られ、視界がグラリと揺れた。
気がつくとソファーの上に押し倒されていた。
上から覆いかぶさる辰臣の体温と圧迫感に、息が止まる。
「辰臣……?」
「僕がどんだけ我慢してるか知らんとそんなこと言ってんの?」
辰臣の顔が、目と鼻の先の距離にあった。
いつもヘラヘラと浮かべていた笑みは跡形もなく消え去り、そこには飢えた男の顔があった。
「女として魅力がないとか、本気で思っとったん?」
「っ、だって……いつも笑って誤魔化すから」
「誤魔化すしかあらへんやろ」
辰臣が小さく吠えた。
その声には、怒りと、それ以上の葛藤が混ざり合っていた。
「他の女なんか、どうでもええから手ぇ出せるんや」
辰臣の指先が頬をなぞる。
その手は微かに震えている。
「でも、あんたは違うやろ」
「辰臣……?」
「本気になったら、全部欲しなるやろ。手に入れてしもたら、今度は失うんが怖うなる」
吐き出された言葉は不器用で、それでも冗談だと笑って流せるようなものではなかった。
「一度でも抱いたら、二度と離せなくなる。壊してしまうのが怖くて……手ぇ出せるわけないやろ、アホ」
前髪の奥から向けられた視線が、熱を帯びて突き刺さる。
怯えていたのは、自分だけじゃなかった。
「……壊れたりしないよ」
掴まれていた手を解き、自ら辰臣の背中に回した。
「わたし、辰臣がいい。離れないよ」
「……後悔しても、知らんで」
辰臣の低い囁きが耳元に届いた瞬間、唇が降ってきた。
これまでの焦れったい距離感をすべて拭い去るような、激しい口づけ。
窓を打ち付ける荒々しい雨音さえも、熱の中に溶けて消えていくようだった。
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