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夕方の本丸には、昼間とは違う静かな空気が流れていた。
抱えていた書類の束を見下ろして小さく息を吐く。
「……あと少しだけだから」
自分に言い聞かせるようにつぶやいたところで、後ろから声が飛んできた。
「大将」
振り返ると、薬研藤四郎が立っていた。
「薬研。どうしたの?」
「どうしたの、じゃねえよ。まだ仕事してたのか」
「うん。でも、もう終わるから」
「その台詞、さっきから何回聞いたと思ってる」
薬研は呆れたように笑いながら、手元をのぞき込んだ。
「これ、今日中じゃなくても問題ないやつだろ」
「でも、気になっちゃって」
「気になるからって無理するのは感心しねえな」
「薬研までそんなこと言うの?」
「言うさ。大将の面倒を見るのも俺たちの役目だからな」
さらりと言われた言葉に少しだけ目を丸くした。
薬研はいつも、必要以上に騒いだり心配を押しつけたりはしなかった。
気づけば隣にいて、当たり前のように手を貸してくれる。
「でも、薬研だって忙しいでしょ」
「俺か? 俺はもう片付いた」
「本当に?」
「疑うのか?」
「だって薬研、頼まれたら断らないじゃない」
「大将も人のこと言えねえと思うがな」
返す言葉がなくて黙ってしまった。
薬研はそんな様子を見て少し笑う。
「ほら、今日はここまで」
「え?」
「続きは明日」
「でも……」
「大将」
「……薬研って、ずるいよね」
「何がだ?」
「そうやって言われると、聞かなきゃいけない気になる」
「それなら作戦成功だな」
「作戦だったの?」
「半分くらいはな」
薬研は書類をまとめると、手元から引き取った。
「自分で持てるよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「持たせてくれ」
短いやり取りだった。
それでも薬研が当たり前みたいに気遣ってくれることが嬉しかった。
◇
部屋に戻ると薬研は温かい飲み物を用意していた。
「いつの間に?」
「大将が仕事してる間」
「準備いいね」
「このくらいはな」
「薬研は刀なのに」
「刀だからって何でも放っておけるわけじゃないだろ」
湯気の立つ器を受け取る。
指先に伝わる温かさに、張っていた力が少し抜けていく。
「……疲れてたかも」
「自覚なかったか?」
「少しだけ」
「少しだけ、って言う奴ほど危ないんだよ」
「薬研はいつもわたしのこと見てるね」
「見てるさ」
迷いなく返されて顔を上げた。
薬研はいつもの落ち着いた表情をしている。
「大将が頑張りすぎるところも、休むのが下手なところもな」
「そんなに分かりやすい?」
「俺から見ればな」
「恥ずかしいな」
「別に恥ずかしがることじゃねえよ」
薬研は椅子に座りこちらの様子を確認する。
「今日は何食べた?」
「えっと……」
「今の間は何だ」
「お昼はちゃんと食べたよ」
「何を?」
「……」
「大将」
「お菓子なら」
「飯じゃねえな」
思わず笑ってしまう。
薬研も小さく笑った。
「笑ってる場合じゃないぞ」
「だって薬研が先生みたいなんだもん」
「先生でもいいけどな」
「じゃあ診察?」
「そうだな。大将の疲れ具合を確認する診察だ」
「結果は?」
薬研は少し考えるふりをした。
「休養不足」
「やっぱり?」
「あと、甘やかされ不足」
「……それは診察結果なの?」
「ああ」
「初めて聞いた」
「俺が決めたからな」
薬研らしい言い方に、また笑ってしまう。
「じゃあ、どうしたら治るの?」
「簡単だ」
薬研は少し身を寄せる。
「俺の言うことを聞いて、今日はゆっくりする」
「それだけ?」
「それだけだ」
「薬研、甘やかす気満々じゃない?」
「今さら気づいたのか?」
◇
夜が深くなり、本丸の中も静かになっていく。
布団に入ったものの、なかなか眠れずにいた。
「薬研」
「ん?」
隣で座っていた薬研が振り向く。
「眠れない」
「珍しいな」
「明日のこと考えちゃって」
「明日のことは明日考えればいい」
「でも」
「大将、今考えても仕方ないことまで抱え込むな」
「……」
「大将が頑張ってるのは知ってる」
その言葉が胸に落ちてくる。
褒められたかったわけではない。
それでも、張りつめていたものが少しほどけるような気がした。
「薬研は、いつもそうやって安心させてくれるね」
「そうか?」
「そうだよ」
「なら、これからもそうするさ」
「ずっと?」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
即答すると、薬研は少しだけ目を細めた。
「なら決まりだな」
「何が?」
「大将が無理しそうになったら、俺が止める」
「薬研が?」
「俺が」
「わたし、ちゃんと聞くかな」
「聞かせる」
「強引だなあ」
「大将相手なら、このくらい必要だろ」
「そんなにわたしって頑固?」
「頑固だな」
「即答するんだ」
「でも、そこが悪いとは思ってねえよ」
薬研はそう言って、少し間を置いた。
「真面目にやろうとしてるからだろ」
「……」
「だからこそ、休む時くらい誰かに任せろ」
優しい言葉だった。
目を閉じると、さっきまで頭の中に残っていた明日の予定や、やりかけの仕事が少しずつ遠くなる。
「薬研」
「どうした?」
「ありがとう」
「礼を言われることじゃねえよ」
「でも言いたかった」
「なら受け取っとく」
薬研の返事に、自然と笑みがこぼれる。
「薬研」
「今度は何だ?」
「もう少しだけそばにいて」
「分かった」
迷いのない返事だった。
「大将が眠るまでな」
「薬研も疲れてるのにごめんね」
「俺は平気だ」
「無理してない?」
「それを俺が言ったら怒るか?」
「……少し」
「なら大将も同じだ」
「そういうところ、本当に似た者同士かもね」
「そうかもしれねえな」
薬研の声を聞きながら、ゆっくり眠りへ落ちていく。
次の日の予定も、片付いていない仕事も、なくなったわけではない。
それでも今だけは、肩の力を抜いていていいと思えた。
◇
目を覚ましたとき最初に見たのは、机の上に置かれた簡単な書き置きだった。
『朝飯は抜くな。薬研』
ぶっきらぼうな一文なのに、不思議と薬研の声が聞こえる気がした。
部屋を出ると、廊下の先に薬研がいた。
「大将、ちゃんと寝られたか?」
「うん」
「顔色も悪くないな」
「薬研のおかげ」
「それならよかった」
「昨日、いっぱい甘やかされた気がする」
「気のせいじゃねえよ」
「認めるんだ」
「当たり前だろ」
薬研は少し笑う。
「大将には、たまにはそういう日も必要だ」
「じゃあ、またお願いしてもいい?」
「もちろんだ」
「毎日?」
「毎日は困るな」
「えっ」
「大将が毎日頑張りすぎることになるからな」
その言葉に笑ってしまった。
「じゃあ、ほどほどに甘やかして」
「任せろ」
薬研はいつものように自然に隣を歩く。
特別なことをしたわけではない。
けれど昨日の夜にかけてもらった言葉や、机の上に残された書き置きが、今日も頑張ろうと思わせてくれた。
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