ディアソムニア
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窓の外では深い夜が降りてきている。
ソファに深く腰掛けたマレウス・ドラコニアは、膝の上に広げた古い魔導書に視線を落としながら、ふと横に座る後輩に目を向けた。
「……ツノ太郎、さっきからページめくる音しかしてないよ。そんなに難しい本なの?」
「いや、内容はそれほどでもない。ただ、少し考え事をしていただけだ」
「ふーん。珍しいね、ツノ太郎が読書中に心ここにあらずなんて」
ななしは手元の課題を放り出し、面白そうにマレウスの顔を覗き込む。その屈託のない視線に、マレウスはわずかに目を細めた。
「ヒトの子よ。お前は以前、僕に『愛着』と『愛情』の違いを説いていただろう」
「あー、言ったかも。お気に入りのガーゴイルを愛でるのと、誰かを特別に思うのはちょっと違うよ、みたいな?」
「そうだ。だが、最近はどうもその境界が曖昧なのだ。……例えば、この胸の奥が微かに騒ぐ感覚を、お前ならどう定義する?」
「……え、それって、もしかして恋の話?」
ななしがからかうように笑う。マレウスはその言葉を咀嚼するように一度視線を逸らし、再び彼女を見た。
「恋、か。僕にはまだ、それがどのような現象なのか正確な理解が及んでいないようだ。だがお前が笑うたびに、この談話室の空気がわずかに密度を増すように感じる」
「何それ、魔法の影響? わたしのせいで酸素薄くなってるとか?」
「ふふ、お前らしい解釈だ。だが、物理的な現象ではない。もっと……内側から侵食されるような、不思議な感覚だ」
夜が深まるにつれ、二人の距離は自然と縮まっていく。
マレウスの手が、無意識にななしの指先に触れた。
冷たいはずの彼の肌が、今日はどこか熱を帯びているように感じられる。
「……ねえ、ツノ太郎。その侵食って、どんな感じがするの?」
「お前に触れたいと思う。それも、ただの接触ではない。お前の体温を、鼓動を、一滴も漏らさずに受け止めたいと願ってしまうのだ。……おかしな話だろう。この僕が、これほどまでに脆い肉体を持つ存在に、執着している」
マレウスの声が、少しずつ低く、甘く、重くなっていく。
彼の指先がななしの甲をなぞり、そのまま手首を優しく包み込んだ。
脈動が、指先を通じて彼に伝わる。
「心臓が、ひどく騒がしいな。……これはお前のものか? それとも、僕のものか?」
「……たぶん、両方だよ。ツノ太郎にそんな顔で言われたら、誰だってドキドキしちゃうって」
「お前は『誰だって』に含まれる存在なのか? 僕にとっては、代わりのきかない唯一なのだが」
じわじわと、空気が熱を帯びていく。
マレウスはゆっくりと身を乗り出し、ななしの耳元で小さく息を吐いた。その仕草は優雅でありながら、どこか逃げ場を奪うような重厚さを伴っている。
「……ななし。お前のその瞳に僕だけが映っている時、僕は言いようのない安堵を覚える。同時に、もっと奥深くまで、お前の全てを暴きたいという欲求に駆られるのだ。……これが、お前の言う『恋』というものなのか?」
「……どうかな。でも、その熱さは本物だと思うよ」
「熱い……。そうか、僕は熱いのか」
マレウスはななしの手に自分の頬を寄せた。
ひんやりとした皮膚と、内側に秘めた熱が混ざり合う。
それは身体的な接触を超えた、魂の混濁にも似た感覚だった。
「……ああ、心地よいな。お前に触れていると、時間の感覚すらも溶けていくようだ。人間よりも長い月日を過ごしてきた僕が、今この瞬間、お前のたった数十年の命の一部を、強欲にも欲している」
彼の瞳が、暗闇の中で緑色に鋭く光る。
しかし、その光は決して攻撃的なものではなく、深い慈愛と、自らも制御しきれない衝動が混ざり合った色をしていた。
「ななし。……僕を呼んでくれ。その声で、僕をこの現世に繋ぎ止めてくれ」
「……ツノ太郎。……マレウス」
「いいな。お前に名前を呼ばれるたびに、僕の輪郭がはっきりとしていく。それと同時に、お前という存在が僕の肺腑にまで深く染み渡っていくのがわかる」
マレウスは彼女の髪をひと房掬い上げ、愛おしそうに唇を寄せた。
内面で渦巻くのは、形にならない、しかし強烈な質量を持った思慕だ。それは彼が知るどの魔法よりも複雑で、どの古い伝承よりも鮮烈な感情だった。
「この胸を突き動かす衝動の正体が何であれ、僕はこれを受け入れよう。たとえそれが、いつかお前を失う恐怖の始まりだとしても。……今はただ、この甘い熱に浮かされていたい」
「……そんなにかっこいいこと言っても、課題、まだ半分も終わってないよ?」
「ふふ、無粋なことを。だが、そんなお前だからこそ、僕は僕でいられるのだろうな」
マレウスは優しくななしを抱き寄せ、その肩に顔を埋めた。
外の世界がどれほど厳しく、また時間の流れがどれほど無情であっても、この小さな談話室の中だけは、二人の吐息だけが濃密に、そしてどこまでも甘く響き続けている。
ソファに深く腰掛けたマレウス・ドラコニアは、膝の上に広げた古い魔導書に視線を落としながら、ふと横に座る後輩に目を向けた。
「……ツノ太郎、さっきからページめくる音しかしてないよ。そんなに難しい本なの?」
「いや、内容はそれほどでもない。ただ、少し考え事をしていただけだ」
「ふーん。珍しいね、ツノ太郎が読書中に心ここにあらずなんて」
ななしは手元の課題を放り出し、面白そうにマレウスの顔を覗き込む。その屈託のない視線に、マレウスはわずかに目を細めた。
「ヒトの子よ。お前は以前、僕に『愛着』と『愛情』の違いを説いていただろう」
「あー、言ったかも。お気に入りのガーゴイルを愛でるのと、誰かを特別に思うのはちょっと違うよ、みたいな?」
「そうだ。だが、最近はどうもその境界が曖昧なのだ。……例えば、この胸の奥が微かに騒ぐ感覚を、お前ならどう定義する?」
「……え、それって、もしかして恋の話?」
ななしがからかうように笑う。マレウスはその言葉を咀嚼するように一度視線を逸らし、再び彼女を見た。
「恋、か。僕にはまだ、それがどのような現象なのか正確な理解が及んでいないようだ。だがお前が笑うたびに、この談話室の空気がわずかに密度を増すように感じる」
「何それ、魔法の影響? わたしのせいで酸素薄くなってるとか?」
「ふふ、お前らしい解釈だ。だが、物理的な現象ではない。もっと……内側から侵食されるような、不思議な感覚だ」
夜が深まるにつれ、二人の距離は自然と縮まっていく。
マレウスの手が、無意識にななしの指先に触れた。
冷たいはずの彼の肌が、今日はどこか熱を帯びているように感じられる。
「……ねえ、ツノ太郎。その侵食って、どんな感じがするの?」
「お前に触れたいと思う。それも、ただの接触ではない。お前の体温を、鼓動を、一滴も漏らさずに受け止めたいと願ってしまうのだ。……おかしな話だろう。この僕が、これほどまでに脆い肉体を持つ存在に、執着している」
マレウスの声が、少しずつ低く、甘く、重くなっていく。
彼の指先がななしの甲をなぞり、そのまま手首を優しく包み込んだ。
脈動が、指先を通じて彼に伝わる。
「心臓が、ひどく騒がしいな。……これはお前のものか? それとも、僕のものか?」
「……たぶん、両方だよ。ツノ太郎にそんな顔で言われたら、誰だってドキドキしちゃうって」
「お前は『誰だって』に含まれる存在なのか? 僕にとっては、代わりのきかない唯一なのだが」
じわじわと、空気が熱を帯びていく。
マレウスはゆっくりと身を乗り出し、ななしの耳元で小さく息を吐いた。その仕草は優雅でありながら、どこか逃げ場を奪うような重厚さを伴っている。
「……ななし。お前のその瞳に僕だけが映っている時、僕は言いようのない安堵を覚える。同時に、もっと奥深くまで、お前の全てを暴きたいという欲求に駆られるのだ。……これが、お前の言う『恋』というものなのか?」
「……どうかな。でも、その熱さは本物だと思うよ」
「熱い……。そうか、僕は熱いのか」
マレウスはななしの手に自分の頬を寄せた。
ひんやりとした皮膚と、内側に秘めた熱が混ざり合う。
それは身体的な接触を超えた、魂の混濁にも似た感覚だった。
「……ああ、心地よいな。お前に触れていると、時間の感覚すらも溶けていくようだ。人間よりも長い月日を過ごしてきた僕が、今この瞬間、お前のたった数十年の命の一部を、強欲にも欲している」
彼の瞳が、暗闇の中で緑色に鋭く光る。
しかし、その光は決して攻撃的なものではなく、深い慈愛と、自らも制御しきれない衝動が混ざり合った色をしていた。
「ななし。……僕を呼んでくれ。その声で、僕をこの現世に繋ぎ止めてくれ」
「……ツノ太郎。……マレウス」
「いいな。お前に名前を呼ばれるたびに、僕の輪郭がはっきりとしていく。それと同時に、お前という存在が僕の肺腑にまで深く染み渡っていくのがわかる」
マレウスは彼女の髪をひと房掬い上げ、愛おしそうに唇を寄せた。
内面で渦巻くのは、形にならない、しかし強烈な質量を持った思慕だ。それは彼が知るどの魔法よりも複雑で、どの古い伝承よりも鮮烈な感情だった。
「この胸を突き動かす衝動の正体が何であれ、僕はこれを受け入れよう。たとえそれが、いつかお前を失う恐怖の始まりだとしても。……今はただ、この甘い熱に浮かされていたい」
「……そんなにかっこいいこと言っても、課題、まだ半分も終わってないよ?」
「ふふ、無粋なことを。だが、そんなお前だからこそ、僕は僕でいられるのだろうな」
マレウスは優しくななしを抱き寄せ、その肩に顔を埋めた。
外の世界がどれほど厳しく、また時間の流れがどれほど無情であっても、この小さな談話室の中だけは、二人の吐息だけが濃密に、そしてどこまでも甘く響き続けている。
