ハーツラビュル
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放課後のハーツラビュル寮へ続く薔薇の回廊は、傾き始めた陽光に焼かれ、どこか幻想的な色彩を帯びている。その静寂を破るのは、軽やかな足音と、それとは対照的な規則正しい靴音。
「リドル先輩! 待ってくださいよ、置いていかないでください」
「……置いていくつもりなどない。キミの歩みが遅いだけだろう? 全く、君というやつは……」
リドル・ローズハートは、一度も振り返ることなく足を運ぶ。
その背中を追いかけ、監督生――ななしは隣に滑り込んだ。ななしの距離は、通常の先輩後輩のそれよりも明らかに拳ひとつ分ほど近い。
「だって、先輩の歩幅が今日はいつもより広い気がするんです。もしかして、わたしに会えて急いじゃいました?」
「ふうん、いい度胸がおありだね。そんなくだらない冗談を言っている暇があるのなら、少しは早歩きの練習でもしたらどうだい?」
「えー、冷たいなあ。わたしは先輩の顔が見たくて、魔法史の授業の片付けを光の速さで終わらせてきたっていうのに」
「光の速さ……? 誇張が過ぎるよ。そもそも、キミはもう少し真面目に授業に取り組むべきだ。トレイン先生が嘆いていたよ、キミの集中力はどこへ消えたのかとね。お分かりだね?」
「先輩への『好き』に変換されて消えちゃいました」
ななしが屈託のない笑顔を向ける。
リドルの歩みが一瞬だけ乱れる。彼は小さく鼻を鳴らし、真っ直ぐ前を見据えたまま、耳の先をわずかに赤く染めた。
「……ふん。そういう不敬な発言は、首をはねられたい時だけにするんだね」
「はいはい、わかってます。でも、先輩はわたしにだけは甘いって信じてますから」
「根拠のない妄想を口にするのはルール違反だ!」
リドルの声は厳格さを保とうとしていたが、その語尾はどこか落ち着きを欠いている。沈みゆく太陽が、二人の影を長く長く引き伸ばしていた。
・
ハーツラビュル寮内の談話室。
他の寮生たちが夕食の準備や課題のために席を外した、わずかな空白の時間。リドルは円卓に教科書を広げ、ななしはその向かい側に座っているはずだった。
「リドル先輩」
「……なんだい。ボクは今、この条文を読み終えなければならない。静かにするんだ」
「こっち見てください。このペン、インクが出なくなっちゃって」
「それはボクに言うことではないだろう? 予備のインクくらい用意して――」
不意に、リドルの視界が遮られる。
ななしがテーブルに身を乗り出し、彼の顔のすぐ近くまで顔を寄せていた。リドルの瞳に、ななしの瞳が大きく映り込む。夕闇の混じる室内で、彼女の体温が、まるで熱源のようにリドルの肌を焦がす。
「……っ、ななし! 近いと言っているだろう! ボクに従えないのなら、本当に首をはねるよ!」
「えー、先輩の目が綺麗すぎて、つい」
「な、何を……! キミは少し頭を冷やしたらどうだい!?」
リドルは椅子を引いて立ち上がろうとするが、ななしの手が、ふわりと彼の袖を掴む。薄い制服の布地越しに、指先の感触が伝わる。
その瞬間、リドルの心臓がドクリと大きく跳ねた。
まるで体内の血液がすべて、彼女に触れられた箇所から逆流していくような錯覚。指先から腕へ、そして心臓へ。熱がじわじわと物理的な重さを持って広がっていく。
「ななし、……ルール違反だと言っているだろう?」
「何のルールですか?」
「それは……と、とにかく!ボクを惑わせるのは重大なルール違反だ!」
「惑わされてるって、認めちゃうんですか?」
ななしがさらに一歩、距離を詰める。
彼女のまとう、どこか甘い香りがリドルの鼻腔をくすぐった。
リドルは呼吸の仕方を忘れたかのように、ただ立ち尽くす。
視線を逸らそうにも、彼女の熱心な眼差しに射すくめられ、体が石のように動かない。肌の表面がちりちりと痺れ、脳の奥が痺れるような、甘やかな麻痺が彼を支配し始めていた。
沈黙が支配する談話室。
窓の外は完全に夜の帳が下り、室内を照らすのは魔石の淡い灯火のみ。
リドルは結局、椅子に深く腰掛けたまま、動けずにいた。ななしの手はまだ、彼の腕に添えられている。いや、いつの間にかそれは、リドルの指先を絡め取るような形に変わっていた。
「……ボクは、どうすればいいか……わからないんだ」
絞り出すようなリドルの声が、夜の空気に溶ける。
その声には、いつもの威厳など微塵もなかった。
あるのは、ただ一人の少年としての、剥き出しの戸惑いだけ。
「何を、ですか?」
「キミの、その……。ボクは今まで、ボクが一番正しいと、ルールに則って物事を判断してきた。けれど、キミがボクに向けるそれは、どの法律にも当てはまらない。ボクを苛立たせ、焦らせ……そして、どうしようもなく、胸の奥を締め付ける。……ボクの負けだとでも言いたいのかい?」
リドルは自分の胸元に手を当て、ぎゅっと制服を掴む。
そこには、自分でも制御できないほどの激しい鼓動が刻まれている。ななしの好意は、彼が築き上げてきた鉄の城壁を、あまりにも容易く溶かしていく。
「キミは、どうしてそんなに笑っていられるの? ボクをこんなに乱しておきながら。……ボクは、キミが隣にいるだけで、教科書の文字が一つも頭に入らなくなるんだ。キミの声が、視線が、指先が、ボクの中の平穏をすべて奪っていく」
「それは、先輩がわたしのことを考えてくれてるからですよ。それって、素敵なことだと思いませんか?」
「素敵……? 冗談じゃない。キミは……ボクが築き上げてきた秩序を、キミがその指先一つで掻き乱しているんだ」
リドルは、自分を捉えて離さないななしの手を否定するように、けれど縋るように握り返す。
掌から伝わる彼女の鼓動。それが自分と同じ速さであることを知り、リドルの視界が、一瞬だけ白く染まる。
内面から溢れ出す感情は、もはや言葉という器には収まりきらない。
愛おしさ、恐怖、独占欲、そして名状しがたい幸福感。それらが濁流となって、リドルの理性を飲み込んでいく。
「ななし……ボクは、本当にキミに首をはねられた気分だよ。もう、キミなしでは、自分を保つことすらままならない。……いい度胸がおありだね。この責任、きっちりと取ってもらうよ?」
リドルが顔を上げる。
その瞳は、潤んでいるようにも、爛々と燃えているようにも見えた。厳格な寮長としての仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、恋という名の迷宮に迷い込んだ、一人の少年がいた。
彼の手の震えは、もはや隠しようもなかった。
ななしは何も答えず、ただ優しく、彼の震える指を包み込み、引き寄せた。
「リドル先輩! 待ってくださいよ、置いていかないでください」
「……置いていくつもりなどない。キミの歩みが遅いだけだろう? 全く、君というやつは……」
リドル・ローズハートは、一度も振り返ることなく足を運ぶ。
その背中を追いかけ、監督生――ななしは隣に滑り込んだ。ななしの距離は、通常の先輩後輩のそれよりも明らかに拳ひとつ分ほど近い。
「だって、先輩の歩幅が今日はいつもより広い気がするんです。もしかして、わたしに会えて急いじゃいました?」
「ふうん、いい度胸がおありだね。そんなくだらない冗談を言っている暇があるのなら、少しは早歩きの練習でもしたらどうだい?」
「えー、冷たいなあ。わたしは先輩の顔が見たくて、魔法史の授業の片付けを光の速さで終わらせてきたっていうのに」
「光の速さ……? 誇張が過ぎるよ。そもそも、キミはもう少し真面目に授業に取り組むべきだ。トレイン先生が嘆いていたよ、キミの集中力はどこへ消えたのかとね。お分かりだね?」
「先輩への『好き』に変換されて消えちゃいました」
ななしが屈託のない笑顔を向ける。
リドルの歩みが一瞬だけ乱れる。彼は小さく鼻を鳴らし、真っ直ぐ前を見据えたまま、耳の先をわずかに赤く染めた。
「……ふん。そういう不敬な発言は、首をはねられたい時だけにするんだね」
「はいはい、わかってます。でも、先輩はわたしにだけは甘いって信じてますから」
「根拠のない妄想を口にするのはルール違反だ!」
リドルの声は厳格さを保とうとしていたが、その語尾はどこか落ち着きを欠いている。沈みゆく太陽が、二人の影を長く長く引き伸ばしていた。
・
ハーツラビュル寮内の談話室。
他の寮生たちが夕食の準備や課題のために席を外した、わずかな空白の時間。リドルは円卓に教科書を広げ、ななしはその向かい側に座っているはずだった。
「リドル先輩」
「……なんだい。ボクは今、この条文を読み終えなければならない。静かにするんだ」
「こっち見てください。このペン、インクが出なくなっちゃって」
「それはボクに言うことではないだろう? 予備のインクくらい用意して――」
不意に、リドルの視界が遮られる。
ななしがテーブルに身を乗り出し、彼の顔のすぐ近くまで顔を寄せていた。リドルの瞳に、ななしの瞳が大きく映り込む。夕闇の混じる室内で、彼女の体温が、まるで熱源のようにリドルの肌を焦がす。
「……っ、ななし! 近いと言っているだろう! ボクに従えないのなら、本当に首をはねるよ!」
「えー、先輩の目が綺麗すぎて、つい」
「な、何を……! キミは少し頭を冷やしたらどうだい!?」
リドルは椅子を引いて立ち上がろうとするが、ななしの手が、ふわりと彼の袖を掴む。薄い制服の布地越しに、指先の感触が伝わる。
その瞬間、リドルの心臓がドクリと大きく跳ねた。
まるで体内の血液がすべて、彼女に触れられた箇所から逆流していくような錯覚。指先から腕へ、そして心臓へ。熱がじわじわと物理的な重さを持って広がっていく。
「ななし、……ルール違反だと言っているだろう?」
「何のルールですか?」
「それは……と、とにかく!ボクを惑わせるのは重大なルール違反だ!」
「惑わされてるって、認めちゃうんですか?」
ななしがさらに一歩、距離を詰める。
彼女のまとう、どこか甘い香りがリドルの鼻腔をくすぐった。
リドルは呼吸の仕方を忘れたかのように、ただ立ち尽くす。
視線を逸らそうにも、彼女の熱心な眼差しに射すくめられ、体が石のように動かない。肌の表面がちりちりと痺れ、脳の奥が痺れるような、甘やかな麻痺が彼を支配し始めていた。
沈黙が支配する談話室。
窓の外は完全に夜の帳が下り、室内を照らすのは魔石の淡い灯火のみ。
リドルは結局、椅子に深く腰掛けたまま、動けずにいた。ななしの手はまだ、彼の腕に添えられている。いや、いつの間にかそれは、リドルの指先を絡め取るような形に変わっていた。
「……ボクは、どうすればいいか……わからないんだ」
絞り出すようなリドルの声が、夜の空気に溶ける。
その声には、いつもの威厳など微塵もなかった。
あるのは、ただ一人の少年としての、剥き出しの戸惑いだけ。
「何を、ですか?」
「キミの、その……。ボクは今まで、ボクが一番正しいと、ルールに則って物事を判断してきた。けれど、キミがボクに向けるそれは、どの法律にも当てはまらない。ボクを苛立たせ、焦らせ……そして、どうしようもなく、胸の奥を締め付ける。……ボクの負けだとでも言いたいのかい?」
リドルは自分の胸元に手を当て、ぎゅっと制服を掴む。
そこには、自分でも制御できないほどの激しい鼓動が刻まれている。ななしの好意は、彼が築き上げてきた鉄の城壁を、あまりにも容易く溶かしていく。
「キミは、どうしてそんなに笑っていられるの? ボクをこんなに乱しておきながら。……ボクは、キミが隣にいるだけで、教科書の文字が一つも頭に入らなくなるんだ。キミの声が、視線が、指先が、ボクの中の平穏をすべて奪っていく」
「それは、先輩がわたしのことを考えてくれてるからですよ。それって、素敵なことだと思いませんか?」
「素敵……? 冗談じゃない。キミは……ボクが築き上げてきた秩序を、キミがその指先一つで掻き乱しているんだ」
リドルは、自分を捉えて離さないななしの手を否定するように、けれど縋るように握り返す。
掌から伝わる彼女の鼓動。それが自分と同じ速さであることを知り、リドルの視界が、一瞬だけ白く染まる。
内面から溢れ出す感情は、もはや言葉という器には収まりきらない。
愛おしさ、恐怖、独占欲、そして名状しがたい幸福感。それらが濁流となって、リドルの理性を飲み込んでいく。
「ななし……ボクは、本当にキミに首をはねられた気分だよ。もう、キミなしでは、自分を保つことすらままならない。……いい度胸がおありだね。この責任、きっちりと取ってもらうよ?」
リドルが顔を上げる。
その瞳は、潤んでいるようにも、爛々と燃えているようにも見えた。厳格な寮長としての仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、恋という名の迷宮に迷い込んだ、一人の少年がいた。
彼の手の震えは、もはや隠しようもなかった。
ななしは何も答えず、ただ優しく、彼の震える指を包み込み、引き寄せた。
