サバナクロー
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「……ねぇ、ななしくん。本当に鉄仮面でも被ってるんじゃないッスか?」
鏡舎へと続く遊歩道。
木漏れ日が揺れる中、ラギー・ブッチは隣を歩く後輩の顔を覗き込んだ。
ななしと呼ばれているこの1年生は、学園中の問題事に首を突っ込んでいるお人好しだ。だが彼女には一つだけ決定的に欠けているものがある。
感情の起伏、特に「笑い」だ。
驚きもしないし、怒りもしない。ましてや年相応の無邪気な笑い声など、ラギーは一度も聞いたことがなかった。
「見てよこれ。購買の新作、ハニーベリードーナツ。限定10個の争奪戦に、オレがこの俊足で勝ち抜いてきた逸品ッスよ?」
ラギーは茶色の紙袋を開くと、甘い香りをななしの鼻先に押し付けた。ハイエナの嗅覚が捉えるのは、ななしのわずかな反応。喉が鳴る音か瞳の輝きか。
「ありがとうございます、ラギー先輩。おいしそうですね」
返ってきたのは、波一つ立たない平坦な声。
ななしは受け取ったドーナツを丁寧に一口かじると、小さく頷いた。
「おいしいです」
「……それだけ?笑っちゃうくらい幸せー、とかないわけ?」
「美味しいという事実に嘘はありません。でも、笑う理由は特にありません」
ラギーは耳をぺたんと伏せた。食い意地が張っている自分からすれば、極上の獲物を前にして無表情を貫くなど、意味不明でしかない。
◇
放課後の図書室。
静寂が支配する空間で、二人は課題のレポートを広げていた。
ななしのペン先が止まった瞬間をラギーは見逃さない。
「はい、お疲れさんッス!」
背後から忍び寄り、脇腹へ指先を突き立てる。
ラギーの指は獲物を仕留める時のように鋭く、それでいて正確に急所を突いた。並の生徒なら悶絶して椅子から転げ落ちるはずのテクニック。
「……? ラギー先輩、何をしてるんですか」
ななしは、まるで服に付いたゴミを払うような冷めた視線を肩越しに送った。ピクリとも動かない体。くすぐったがる気配すら皆無。
「えぇ……っ、人間って多少なりとも弱点があるもんじゃないの? ななしくん、実はアンデッドか何かなんじゃないッスかね」
「生きてますよ。ただ、昔から反応が薄いとは言われます」
「薄いどころじゃないッスよ! 幽霊だって、あいつらの方がよっぽど表情豊かっス」
ラギーはがっくりと肩を落とし、ななしの隣の椅子に深く沈み込んだ。この鉄壁の無表情を崩したい。それはもはや、空腹を満たすための執着というより、プライドに近いものになっていた。
◇
日は傾きマジフト場の観客席にはオレンジ色の影が長く伸びていた。練習終わりのラギーは、ユニフォーム姿のまま掃除当番で居合わせたななしを呼び止める。
「ねぇ、ななしくん。オレ決めたんスよ。今日こそ君を笑わせるって」
「まだ諦めてなかったんですか」
「当たり前でしょ。ハイエナはしつこいッスから」
ラギーはななしの正面に立ち両手で自分の頬を引っ張り上げた。
それからわざとらしく目を細め、鼻にシワを寄せる。
「いい? 注目。……しししっ! ほら、オレのこれ、結構移るって評判なんスよ? レオナさんにはうるさいって蹴られるけど」
それはラギー・ブッチという少年が持つ親しみやすい笑顔という武器。周囲を煙に巻き、いつの間にか懐に入り込む彼特有の笑い方。
「……」
「……あれ。無反応? オレ、結構プライド捨ててやってるんスけど」
ななしはじっとラギーを見つめていた。
その瞳に宿っているのは、嘲笑でも困惑でもなくただ純粋な観察。
「ラギー先輩」
「はい、何でしょう。降参の言葉ならいつでも受け付けるッス」
「なんでユニーク魔法使わないんですか?」
「え?」
ななしが一歩、歩み寄る。
西日に照らされたその表情は、相変わらず硬いままだったが、声の温度がわずかに上がった気がした。
「ラギー先輩のユニーク魔法なら、私のこと笑わせるのなんて簡単じゃないですか」
「うーん、魔法使った方が簡単なのはわかってるんスけど、それはなんか違うっていうか」
ラギーの尻尾が激しく左右に振れる。
動揺を隠すように顔を背けたラギーの視界に、ななしの手が伸びてきた。
「ありがとうございます。面白いかどうかは分かりませんが……その、少しだけ、元気が出ました」
ななしの手が、ラギーの頭に触れる。
不器用になでる感触。
その時だった。
「……ふふ」
空耳かと思うほど、微かな音。
ななしの口角が、一ミリにも満たない程度、ほんのわずかに、震えるように上がった。それは笑顔と呼ぶにはあまりに拙く、不完全なものだったが。
「あ!」
ラギーは目を見開いた。
今の。今のを見たか。自分以外に誰もいないこの場所で。
「……あーあ。今のは反則ッスよ」
ラギーは顔を覆った。
熱い。耳の先まで一気に熱が上がっていくのが分かる。
笑わせようと躍起になっていたはずなのに。
不意打ちで漏れたその小さな吐息のような笑い声に、心臓の鼓動を狂わされたのは自分の方だった。
「なんスかそれ。今の、笑ったってカウントしていいんスよね?」
「自分ではよく分かりませんが、ラギー先輩がそう言うなら」
「……ダメだ。全然足りない。今のじゃオレの勝ちは認められないッス」
ラギーはガシガシと頭を掻き、ななしの腕を強引に掴んだ。
「決めた。卒業するまで、オレが毎日君の隣で笑ってやるッス。君が、腹抱えて『もう勘弁してくださいラギー先輩!』って泣きながら笑うまで、絶対逃がさないからね」
「それは……だいぶ騒がしい学園生活になりそうですね」
「覚悟するっスよ、ななしくん。ハイエナの執念、甘く見ないでほしいっス」
引きずられるように歩き出すななしの横で、ラギーは心底楽しそうに笑う。
「さっきの『ふふ』ってやつ。もう一回やってみてもらっていいですか?」
「嫌です。というか、自分でもいまいちわからなくて」
「そっか〜、先はまだまだ長そうッスね」
夕暮れの学園に、二人の声が響く。
鉄仮面の裏側に潜む笑顔を見つけ出せるのは、世界で自分一人だけでいい。そんな独占欲にも似た情熱を燃やしながら、ラギー・ブッチは今日もまた、愛おしい獲物を追いかけ続けるのだった。
鏡舎へと続く遊歩道。
木漏れ日が揺れる中、ラギー・ブッチは隣を歩く後輩の顔を覗き込んだ。
ななしと呼ばれているこの1年生は、学園中の問題事に首を突っ込んでいるお人好しだ。だが彼女には一つだけ決定的に欠けているものがある。
感情の起伏、特に「笑い」だ。
驚きもしないし、怒りもしない。ましてや年相応の無邪気な笑い声など、ラギーは一度も聞いたことがなかった。
「見てよこれ。購買の新作、ハニーベリードーナツ。限定10個の争奪戦に、オレがこの俊足で勝ち抜いてきた逸品ッスよ?」
ラギーは茶色の紙袋を開くと、甘い香りをななしの鼻先に押し付けた。ハイエナの嗅覚が捉えるのは、ななしのわずかな反応。喉が鳴る音か瞳の輝きか。
「ありがとうございます、ラギー先輩。おいしそうですね」
返ってきたのは、波一つ立たない平坦な声。
ななしは受け取ったドーナツを丁寧に一口かじると、小さく頷いた。
「おいしいです」
「……それだけ?笑っちゃうくらい幸せー、とかないわけ?」
「美味しいという事実に嘘はありません。でも、笑う理由は特にありません」
ラギーは耳をぺたんと伏せた。食い意地が張っている自分からすれば、極上の獲物を前にして無表情を貫くなど、意味不明でしかない。
◇
放課後の図書室。
静寂が支配する空間で、二人は課題のレポートを広げていた。
ななしのペン先が止まった瞬間をラギーは見逃さない。
「はい、お疲れさんッス!」
背後から忍び寄り、脇腹へ指先を突き立てる。
ラギーの指は獲物を仕留める時のように鋭く、それでいて正確に急所を突いた。並の生徒なら悶絶して椅子から転げ落ちるはずのテクニック。
「……? ラギー先輩、何をしてるんですか」
ななしは、まるで服に付いたゴミを払うような冷めた視線を肩越しに送った。ピクリとも動かない体。くすぐったがる気配すら皆無。
「えぇ……っ、人間って多少なりとも弱点があるもんじゃないの? ななしくん、実はアンデッドか何かなんじゃないッスかね」
「生きてますよ。ただ、昔から反応が薄いとは言われます」
「薄いどころじゃないッスよ! 幽霊だって、あいつらの方がよっぽど表情豊かっス」
ラギーはがっくりと肩を落とし、ななしの隣の椅子に深く沈み込んだ。この鉄壁の無表情を崩したい。それはもはや、空腹を満たすための執着というより、プライドに近いものになっていた。
◇
日は傾きマジフト場の観客席にはオレンジ色の影が長く伸びていた。練習終わりのラギーは、ユニフォーム姿のまま掃除当番で居合わせたななしを呼び止める。
「ねぇ、ななしくん。オレ決めたんスよ。今日こそ君を笑わせるって」
「まだ諦めてなかったんですか」
「当たり前でしょ。ハイエナはしつこいッスから」
ラギーはななしの正面に立ち両手で自分の頬を引っ張り上げた。
それからわざとらしく目を細め、鼻にシワを寄せる。
「いい? 注目。……しししっ! ほら、オレのこれ、結構移るって評判なんスよ? レオナさんにはうるさいって蹴られるけど」
それはラギー・ブッチという少年が持つ親しみやすい笑顔という武器。周囲を煙に巻き、いつの間にか懐に入り込む彼特有の笑い方。
「……」
「……あれ。無反応? オレ、結構プライド捨ててやってるんスけど」
ななしはじっとラギーを見つめていた。
その瞳に宿っているのは、嘲笑でも困惑でもなくただ純粋な観察。
「ラギー先輩」
「はい、何でしょう。降参の言葉ならいつでも受け付けるッス」
「なんでユニーク魔法使わないんですか?」
「え?」
ななしが一歩、歩み寄る。
西日に照らされたその表情は、相変わらず硬いままだったが、声の温度がわずかに上がった気がした。
「ラギー先輩のユニーク魔法なら、私のこと笑わせるのなんて簡単じゃないですか」
「うーん、魔法使った方が簡単なのはわかってるんスけど、それはなんか違うっていうか」
ラギーの尻尾が激しく左右に振れる。
動揺を隠すように顔を背けたラギーの視界に、ななしの手が伸びてきた。
「ありがとうございます。面白いかどうかは分かりませんが……その、少しだけ、元気が出ました」
ななしの手が、ラギーの頭に触れる。
不器用になでる感触。
その時だった。
「……ふふ」
空耳かと思うほど、微かな音。
ななしの口角が、一ミリにも満たない程度、ほんのわずかに、震えるように上がった。それは笑顔と呼ぶにはあまりに拙く、不完全なものだったが。
「あ!」
ラギーは目を見開いた。
今の。今のを見たか。自分以外に誰もいないこの場所で。
「……あーあ。今のは反則ッスよ」
ラギーは顔を覆った。
熱い。耳の先まで一気に熱が上がっていくのが分かる。
笑わせようと躍起になっていたはずなのに。
不意打ちで漏れたその小さな吐息のような笑い声に、心臓の鼓動を狂わされたのは自分の方だった。
「なんスかそれ。今の、笑ったってカウントしていいんスよね?」
「自分ではよく分かりませんが、ラギー先輩がそう言うなら」
「……ダメだ。全然足りない。今のじゃオレの勝ちは認められないッス」
ラギーはガシガシと頭を掻き、ななしの腕を強引に掴んだ。
「決めた。卒業するまで、オレが毎日君の隣で笑ってやるッス。君が、腹抱えて『もう勘弁してくださいラギー先輩!』って泣きながら笑うまで、絶対逃がさないからね」
「それは……だいぶ騒がしい学園生活になりそうですね」
「覚悟するっスよ、ななしくん。ハイエナの執念、甘く見ないでほしいっス」
引きずられるように歩き出すななしの横で、ラギーは心底楽しそうに笑う。
「さっきの『ふふ』ってやつ。もう一回やってみてもらっていいですか?」
「嫌です。というか、自分でもいまいちわからなくて」
「そっか〜、先はまだまだ長そうッスね」
夕暮れの学園に、二人の声が響く。
鉄仮面の裏側に潜む笑顔を見つけ出せるのは、世界で自分一人だけでいい。そんな独占欲にも似た情熱を燃やしながら、ラギー・ブッチは今日もまた、愛おしい獲物を追いかけ続けるのだった。
