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「おい、仔犬。その手元はどうした。刻み方が雑だぞ」
教鞭でピシャリと教卓を叩く音に、ななしの肩が跳ねる。
「……すみません、先生。ちょっと、ぼーっとしてました」
「ちょっと、だと? この俺の授業で、そんな初歩的なミスを繰り返すとは。居残りを命じられたいのか?」
「いえ、すぐ直します。大丈夫です」
ななしは無理に口角を上げて、手元のナイフを握り直す。その指先がわずかに震えているのを、クルーウェルの眼光は見逃さない。
「ふん。グリム、お前もだ。毛を逆立てて見ていないで、相棒のフォローをしろ」
「わかってるんだゾ! 動きがノロい子分に変わって、オレ様がやってやるから、そこをどくんだゾ!」
グリムが鼻を鳴らしながら、ななしの膝に飛び乗る。その重みが、今の彼女には酷く重く感じられた。視界の端が、ちりちりと焼けるように熱い。
「ありがとう、グリム。助かるよ」
「……。ななし、授業が終わったら準備室に来い。いいな」
クルーウェルは短くそう告げると、カツカツと靴底を鳴らして他の生徒の席へと向かった。背中に向けられたその視線が、いつもより鋭く刺さるような気がして、ななしは小さく息を吐き出した。
授業後の魔法薬学準備室。重厚な扉を開けると、独特の薬品の香りが鼻を突く。
「失礼します、クルーウェル先生」
「……。そこに座れ」
クルーウェルはデスクから顔を上げず、ペンを走らせたまま椅子を指差す。ななしは指示に従い、革張りの椅子に深く腰を下ろした。沈み込む感覚が、ひどく心地よい。
「あの、先生。今日の課題、そんなに酷かったでしょうか」
「酷かったな。お前らしくない……グリムはどうした」
「途中でエースたちに捕まって、食堂へ行きました」
「そうか。あの駄犬がいなくて正解だ。騒がしいのは、今のお前の毒になるからな」
クルーウェルがようやく顔を上げ、ななしを真っ向から見据える。その冷徹なまでの美貌が、熱を持った視界の中で揺れる。
「……顔が赤い。自覚はあるのか、仔犬」
「え? ああ、走ってきたからかもしれません」
「嘘をつけ。お前、体温を測ったのか」
「いえ。でも、我慢できないほどじゃありませんから」
ななしは笑って誤魔化そうとするが、言葉が上手く回らない。自分の声が、どこか遠い場所から響いているように感じる。
「我慢、か。お前のその悪い癖は、いつか命取りになるぞ」
椅子から立ち上がったクルーウェルが、こちらに近づいてくる。床を叩く靴の音が鼓動に同期して頭蓋に響く。彼はななしの目の前で立ち止まると、手袋を脱ぎ捨てた素手で彼女の額に触れた。
「――っ」
冷たい。いや、自分の体が熱すぎるのだ。
「ひどい熱だ。よくもまあ、この状態で平然と授業を受けていたものだ。感心するのを通り越して、呆れるな」
「すみ、ません。でも、監督生としての仕事が……」
「黙れ。今のお前は監督生でもなければ、生徒ですらない。ただの病人だ。俺の言うことに従え」
クルーウェルの腕が、ななしの背中と膝裏に滑り込む。抗う間もなく、身体が宙に浮いた。
「せ、先生!? 自分で歩けます、降ろしてください!」
「暴れるな。平衡感覚を失っている分際で、何を言う。大人しく俺に委ねていろ」
クルーウェルの胸元に顔が埋まる。そこから漂う冬の夜のような冷ややかな香りと、彼の体温。それらが、ななしの意識をじわじわと侵食していく。
奥にある仮眠用のベッドに、ゆっくりと横たえられる。シーツの冷たさが、熱を持った背中にじんわりと染み込んでいくのがわかる。
「ここで寝ていろ。学園長には俺から連絡しておく」
「そんな……。迷惑をかけます」
「今さらだ。お前が俺の教え子である以上、管理責任は俺にある。……少し待っていろ」
クルーウェルは手際よく棚からいくつかの小瓶を取り出し、調合を始める。カチャカチャというガラスの擦れ合う音が、やけに鮮明に聞こえる。
意識が朦朧とする中で、ななしは彼の背中を見つめていた。白と黒の毛皮を纏った、気高く厳格な教師。その彼が、自分のために薬を作っている。
「飲め。症状に合わせて特別に調合した。味は保証しないが、効き目は確かだ」
上半身を抱き起こされ、唇にガラスの縁が触れる。苦みと、わずかな甘みが喉を焼くように通り過ぎていく。
「苦い……です」
「良薬は口に苦いと言うだろう。……ななし、こちらを見ろ」
名前を呼ばれ、重い瞼を上げる。至近距離に、クルーウェルの灰色の瞳があった。そこにはいつもの厳しさではなく、もっと濃密で捉えどころのない感情が揺らめいている。
「お前は、どうしてそうまでして強がる」
彼の長い指がななしの頬をなぞる。熱のせいか、それとも彼の指のせいか、触れられた場所から火がつくように熱くなる。
「……みんな、頑張ってるから。私だけ、休むわけにはいかなくて」
「馬鹿者が。お前が倒れれば、悲しむ者がいるとは考えないのか? ……俺のように」
その言葉の意味を考える余裕は、今の彼女にはなかった。ただ、彼の指先の感触が、耳元で囁かれる低く落ち着いた声が、心地よくてたまらない。
ななしは無意識に、彼の手に自分の頬を寄せた。
「先生の手……気持ちいいです」
「……。まったく、無自覚な仔犬だ」
クルーウェルが吐息をもらす。それは呆れというよりも、もっと深い、諦念に近い響きを含んでいた。
彼はそのままななしの隣に腰掛け、彼女の髪を優しく梳き始める。指先が地肌に触れるたび、神経が震えるような感覚が走る。
「眠れ、ななし。目が覚めるまで、俺がここにいてやる」
「……先生。明日には、治りますか」
「俺が処置したんだ。治らないはずがない。……だが治った後も、今日のような無理をすれば、次はもっと手厳しい躾が必要になるぞ」
「それは、怖いですね……」
ななしは小さく笑い瞳を閉じた。暗闇の中で、彼の存在感だけが巨大に膨れ上がっていく。
彼がまとう香りが肺の奥まで満たしていく。自分の鼓動が、彼の手のひらを通じて伝わっているような錯覚。熱に浮かされた内面では、彼に対する尊敬や親しみといった感情が、もっとドロドロとした名付けようのない熱情へと溶け出していく。
「……おやすみなさい、クルーウェル先生」
「ああ、おやすみ。いい夢を見ろ、ななし」
薄れゆく意識の淵で、額に柔らかな何かが触れた気がした。それは薬のせいかもしれないし、あるいは、この熱が見せた幻影かもしれない。
だがななしは確信していた。この熱が引いた後、自分はもう以前と同じような顔で彼の授業を受けることはできないだろうと。
準備室の静寂の中に、二人の重なる吐息だけが、いつまでも密やかに溶け合っていた。
教鞭でピシャリと教卓を叩く音に、ななしの肩が跳ねる。
「……すみません、先生。ちょっと、ぼーっとしてました」
「ちょっと、だと? この俺の授業で、そんな初歩的なミスを繰り返すとは。居残りを命じられたいのか?」
「いえ、すぐ直します。大丈夫です」
ななしは無理に口角を上げて、手元のナイフを握り直す。その指先がわずかに震えているのを、クルーウェルの眼光は見逃さない。
「ふん。グリム、お前もだ。毛を逆立てて見ていないで、相棒のフォローをしろ」
「わかってるんだゾ! 動きがノロい子分に変わって、オレ様がやってやるから、そこをどくんだゾ!」
グリムが鼻を鳴らしながら、ななしの膝に飛び乗る。その重みが、今の彼女には酷く重く感じられた。視界の端が、ちりちりと焼けるように熱い。
「ありがとう、グリム。助かるよ」
「……。ななし、授業が終わったら準備室に来い。いいな」
クルーウェルは短くそう告げると、カツカツと靴底を鳴らして他の生徒の席へと向かった。背中に向けられたその視線が、いつもより鋭く刺さるような気がして、ななしは小さく息を吐き出した。
授業後の魔法薬学準備室。重厚な扉を開けると、独特の薬品の香りが鼻を突く。
「失礼します、クルーウェル先生」
「……。そこに座れ」
クルーウェルはデスクから顔を上げず、ペンを走らせたまま椅子を指差す。ななしは指示に従い、革張りの椅子に深く腰を下ろした。沈み込む感覚が、ひどく心地よい。
「あの、先生。今日の課題、そんなに酷かったでしょうか」
「酷かったな。お前らしくない……グリムはどうした」
「途中でエースたちに捕まって、食堂へ行きました」
「そうか。あの駄犬がいなくて正解だ。騒がしいのは、今のお前の毒になるからな」
クルーウェルがようやく顔を上げ、ななしを真っ向から見据える。その冷徹なまでの美貌が、熱を持った視界の中で揺れる。
「……顔が赤い。自覚はあるのか、仔犬」
「え? ああ、走ってきたからかもしれません」
「嘘をつけ。お前、体温を測ったのか」
「いえ。でも、我慢できないほどじゃありませんから」
ななしは笑って誤魔化そうとするが、言葉が上手く回らない。自分の声が、どこか遠い場所から響いているように感じる。
「我慢、か。お前のその悪い癖は、いつか命取りになるぞ」
椅子から立ち上がったクルーウェルが、こちらに近づいてくる。床を叩く靴の音が鼓動に同期して頭蓋に響く。彼はななしの目の前で立ち止まると、手袋を脱ぎ捨てた素手で彼女の額に触れた。
「――っ」
冷たい。いや、自分の体が熱すぎるのだ。
「ひどい熱だ。よくもまあ、この状態で平然と授業を受けていたものだ。感心するのを通り越して、呆れるな」
「すみ、ません。でも、監督生としての仕事が……」
「黙れ。今のお前は監督生でもなければ、生徒ですらない。ただの病人だ。俺の言うことに従え」
クルーウェルの腕が、ななしの背中と膝裏に滑り込む。抗う間もなく、身体が宙に浮いた。
「せ、先生!? 自分で歩けます、降ろしてください!」
「暴れるな。平衡感覚を失っている分際で、何を言う。大人しく俺に委ねていろ」
クルーウェルの胸元に顔が埋まる。そこから漂う冬の夜のような冷ややかな香りと、彼の体温。それらが、ななしの意識をじわじわと侵食していく。
奥にある仮眠用のベッドに、ゆっくりと横たえられる。シーツの冷たさが、熱を持った背中にじんわりと染み込んでいくのがわかる。
「ここで寝ていろ。学園長には俺から連絡しておく」
「そんな……。迷惑をかけます」
「今さらだ。お前が俺の教え子である以上、管理責任は俺にある。……少し待っていろ」
クルーウェルは手際よく棚からいくつかの小瓶を取り出し、調合を始める。カチャカチャというガラスの擦れ合う音が、やけに鮮明に聞こえる。
意識が朦朧とする中で、ななしは彼の背中を見つめていた。白と黒の毛皮を纏った、気高く厳格な教師。その彼が、自分のために薬を作っている。
「飲め。症状に合わせて特別に調合した。味は保証しないが、効き目は確かだ」
上半身を抱き起こされ、唇にガラスの縁が触れる。苦みと、わずかな甘みが喉を焼くように通り過ぎていく。
「苦い……です」
「良薬は口に苦いと言うだろう。……ななし、こちらを見ろ」
名前を呼ばれ、重い瞼を上げる。至近距離に、クルーウェルの灰色の瞳があった。そこにはいつもの厳しさではなく、もっと濃密で捉えどころのない感情が揺らめいている。
「お前は、どうしてそうまでして強がる」
彼の長い指がななしの頬をなぞる。熱のせいか、それとも彼の指のせいか、触れられた場所から火がつくように熱くなる。
「……みんな、頑張ってるから。私だけ、休むわけにはいかなくて」
「馬鹿者が。お前が倒れれば、悲しむ者がいるとは考えないのか? ……俺のように」
その言葉の意味を考える余裕は、今の彼女にはなかった。ただ、彼の指先の感触が、耳元で囁かれる低く落ち着いた声が、心地よくてたまらない。
ななしは無意識に、彼の手に自分の頬を寄せた。
「先生の手……気持ちいいです」
「……。まったく、無自覚な仔犬だ」
クルーウェルが吐息をもらす。それは呆れというよりも、もっと深い、諦念に近い響きを含んでいた。
彼はそのままななしの隣に腰掛け、彼女の髪を優しく梳き始める。指先が地肌に触れるたび、神経が震えるような感覚が走る。
「眠れ、ななし。目が覚めるまで、俺がここにいてやる」
「……先生。明日には、治りますか」
「俺が処置したんだ。治らないはずがない。……だが治った後も、今日のような無理をすれば、次はもっと手厳しい躾が必要になるぞ」
「それは、怖いですね……」
ななしは小さく笑い瞳を閉じた。暗闇の中で、彼の存在感だけが巨大に膨れ上がっていく。
彼がまとう香りが肺の奥まで満たしていく。自分の鼓動が、彼の手のひらを通じて伝わっているような錯覚。熱に浮かされた内面では、彼に対する尊敬や親しみといった感情が、もっとドロドロとした名付けようのない熱情へと溶け出していく。
「……おやすみなさい、クルーウェル先生」
「ああ、おやすみ。いい夢を見ろ、ななし」
薄れゆく意識の淵で、額に柔らかな何かが触れた気がした。それは薬のせいかもしれないし、あるいは、この熱が見せた幻影かもしれない。
だがななしは確信していた。この熱が引いた後、自分はもう以前と同じような顔で彼の授業を受けることはできないだろうと。
準備室の静寂の中に、二人の重なる吐息だけが、いつまでも密やかに溶け合っていた。
