オクタビネル
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窓の外はすでに藍色の帳が下りている。
オンボロ寮の使い古されたソファに腰を下ろし、ジェイドは手元のティーカップを揺らした。琥珀色の紅茶には、彼の怜悧な瞳が映り込んでいる。
「……ジェイド先輩、そろそろ門限じゃないですか?」
ななしが時計を指差しながら、おそるおそる切り出す。
今夜、グリムはエースとデュースに連れ出され、ハーツラビュル寮へ一晩泊まりに行ってしまっていた。
今は、この広い屋敷に二人きりだ。
「おや、もうそんな時間ですか。楽しい時間は、どうしてこうも早く過ぎるのでしょうね」
ジェイドは穏やかに微笑む。
だが、立ち上がる気配は一切ない。
「……ですがななしさん、実は困ったことがありまして。実は、自室の鍵をフロイドに預けたままにしてしまったようなのです」
「えっ、そうなんですか? 電話してみましょうか?」
「彼は今、気分が乗らないと電話に出ない時間帯でして。どうやら今夜、僕は帰る場所を失ってしまったようです」
ジェイドは困り果てたような顔をしてみせる。しかしその瞳の奥には、獲物を追い詰める捕食者のような静かな光が宿っていた。
「……ななしさん。ひとつ、わがままを言ってもいいでしょうか」
ジェイドが身を乗り出す。
わずかに香る、彼特有の清涼感のある匂いが鼻をくすぐる。
「……ここに、泊めていただけませんか?」
「ええっ!? でも、客間は片付いてないし……」
「構いません。あなたの隣にいられるのなら、床の上でも」
「そんなのダメですよ! 仕方ないなあ……。じゃあ、まずはお風呂入っちゃってください。あ、着替えはどうしましょう」
「お気になさらず。バスタオルをお借りしてもよろしいですか?」
古い浴室から、規則正しい水の音が響いてくる。
ななしが先にシャワーを浴び、次にジェイドが入った。オンボロ寮の安価なシトラスの石鹸の香りが、廊下にまで微かに漂っている。
しばらくして、脱衣所の扉が開いた。
「お待たせしました、ななしさん」
現れたジェイドは、いつもより少し着崩した格好をしていた。ワイシャツの第一ボタンが外され、濡れた髪が額に張り付いている。普段の完璧な身なりとのギャップに、ななしの視線が泳ぐ。
「……あ、はい。じゃあ、寝室へ行きましょうか。でも、わたしのベッド、ロングサイズじゃないから狭いですよ? ジェイド先輩、背が高いからはみ出ちゃうかも」
「構いませんよ。狭いというのは、それだけ密度が上がるということですから」
寝室に入り、二人は並んで横たわる。
シーツの擦れる音が、静まり返った夜の部屋に不自然なほど大きく響いた。同じ石鹸の香りが狭い空間の中で混ざり合う。
「……本当に狭いですね。すぐにあなたに触れられる」
ななしの隣に滑り込んだジェイドから、湯上がりの熱い体温が伝わってくる。
「ジェイド先輩、窮屈じゃないですか?」
「いいえ。むしろ、あなたの鼓動がここまで響いてきて、非常に興味深い」
「それは、緊張してるからですよ。先輩が隣にいるんですから」
ななしの屈託のない言葉が、ジェイドの理性をわずかに削る。
暗闇の中、ジェイドの手がななしの指先に触れた。湯上がりでしっとりとした指先が、這うように手の甲をなぞる。
「ななしさん。あなたは自分がどれほど無防備か、自覚したほうがいい」
「え? 無防備って……あ、寝相のことですか? 気をつけます!」
「……そういう意味ではありません」
ジェイドの低い声が耳元で震える。
彼の長い指がななしの髪を掬い上げ、首筋を軽く撫でた。その瞬間、ななしの背中に奇妙な寒気が走る。それは恐怖ではなく、もっと根源的な、本能が警鐘を鳴らすような甘い痺れだ。
「ジェイド、先輩……?」
「おや、少し震えていますね。寒いのですか? それとも……」
ジェイドが体を横向きにし、ななしを覗き込むように距離を詰める。逃げ場のない狭いベッドの上で、二人の吐息が混じり合う。彼の瞳は、闇の中でも異様なまでに鮮やかに発光しているように見えた。
「あなたの体温、先ほどよりも上がっているようです。頬も赤らんで……」
「……だって、近いです。先輩の熱が、うつったみたいで」
ななしの言葉を遮るように、ジェイドの大きな手が彼女の腰を引き寄せた。密着した体から、逃げ場のない熱が押し寄せる。
ジェイドの思考は深海のように静まり返りながらも、その深層では激しく渦巻いていた。すぐ隣で同じ匂いを纏い、呼吸を乱す少女の存在。彼の沈着冷静な仮面を内側から食い破ろうとしている。
ジェイドは、ななしのうなじに鼻先を寄せた。
湯上がりの清潔な肌の匂い。それが脳の奥を直接刺激し、痺れるような愉悦を運んでくる。彼にとって、この狭さは苦痛どころか至高の檻だ。
「……ジェイド先輩、苦しい、です」
ななしの掠れた声が、ジェイドの鼓膜を震わせる。その不自由そうな喘ぎすら、彼にとっては甘美な音楽に他ならない。ジェイドは彼女の手首を掴み、シーツに縫い止めるように固定した。
「逃がしませんよ。あなたがこの場所を選び、僕を受け入れたのですから」
ジェイドの内面にある独占欲が、真っ黒な墨のように広がり、視界を塗り潰していく。彼は、彼女の心の奥底に自分という毒を流し込み、一生消えない痕跡を残したいという欲求に突き動かされていた。
「ななしさん。僕の愛は、あなたが思うほど清らかなものではないのですよ」
ジェイドの唇がななしの耳たぶを優しく、しかし執拗に食む。ななしの身体が大きく跳ね、視線が宙を彷徨う。彼女の瞳には、もはや戸惑いだけではなく、彼という存在に飲み込まれていくことへの悦楽が混じり始めていた。
「いいですよ、その顔。もっと僕を見て。もっと僕を感じて。……この狭いベッドの上で、僕以外の思考をすべて捨て去ってください」
深海へ引きずり込むような抱擁。ジェイドは満足げに目を細め、獲物の温もりをさらに深く、その身に刻み込んだ。
オンボロ寮の使い古されたソファに腰を下ろし、ジェイドは手元のティーカップを揺らした。琥珀色の紅茶には、彼の怜悧な瞳が映り込んでいる。
「……ジェイド先輩、そろそろ門限じゃないですか?」
ななしが時計を指差しながら、おそるおそる切り出す。
今夜、グリムはエースとデュースに連れ出され、ハーツラビュル寮へ一晩泊まりに行ってしまっていた。
今は、この広い屋敷に二人きりだ。
「おや、もうそんな時間ですか。楽しい時間は、どうしてこうも早く過ぎるのでしょうね」
ジェイドは穏やかに微笑む。
だが、立ち上がる気配は一切ない。
「……ですがななしさん、実は困ったことがありまして。実は、自室の鍵をフロイドに預けたままにしてしまったようなのです」
「えっ、そうなんですか? 電話してみましょうか?」
「彼は今、気分が乗らないと電話に出ない時間帯でして。どうやら今夜、僕は帰る場所を失ってしまったようです」
ジェイドは困り果てたような顔をしてみせる。しかしその瞳の奥には、獲物を追い詰める捕食者のような静かな光が宿っていた。
「……ななしさん。ひとつ、わがままを言ってもいいでしょうか」
ジェイドが身を乗り出す。
わずかに香る、彼特有の清涼感のある匂いが鼻をくすぐる。
「……ここに、泊めていただけませんか?」
「ええっ!? でも、客間は片付いてないし……」
「構いません。あなたの隣にいられるのなら、床の上でも」
「そんなのダメですよ! 仕方ないなあ……。じゃあ、まずはお風呂入っちゃってください。あ、着替えはどうしましょう」
「お気になさらず。バスタオルをお借りしてもよろしいですか?」
古い浴室から、規則正しい水の音が響いてくる。
ななしが先にシャワーを浴び、次にジェイドが入った。オンボロ寮の安価なシトラスの石鹸の香りが、廊下にまで微かに漂っている。
しばらくして、脱衣所の扉が開いた。
「お待たせしました、ななしさん」
現れたジェイドは、いつもより少し着崩した格好をしていた。ワイシャツの第一ボタンが外され、濡れた髪が額に張り付いている。普段の完璧な身なりとのギャップに、ななしの視線が泳ぐ。
「……あ、はい。じゃあ、寝室へ行きましょうか。でも、わたしのベッド、ロングサイズじゃないから狭いですよ? ジェイド先輩、背が高いからはみ出ちゃうかも」
「構いませんよ。狭いというのは、それだけ密度が上がるということですから」
寝室に入り、二人は並んで横たわる。
シーツの擦れる音が、静まり返った夜の部屋に不自然なほど大きく響いた。同じ石鹸の香りが狭い空間の中で混ざり合う。
「……本当に狭いですね。すぐにあなたに触れられる」
ななしの隣に滑り込んだジェイドから、湯上がりの熱い体温が伝わってくる。
「ジェイド先輩、窮屈じゃないですか?」
「いいえ。むしろ、あなたの鼓動がここまで響いてきて、非常に興味深い」
「それは、緊張してるからですよ。先輩が隣にいるんですから」
ななしの屈託のない言葉が、ジェイドの理性をわずかに削る。
暗闇の中、ジェイドの手がななしの指先に触れた。湯上がりでしっとりとした指先が、這うように手の甲をなぞる。
「ななしさん。あなたは自分がどれほど無防備か、自覚したほうがいい」
「え? 無防備って……あ、寝相のことですか? 気をつけます!」
「……そういう意味ではありません」
ジェイドの低い声が耳元で震える。
彼の長い指がななしの髪を掬い上げ、首筋を軽く撫でた。その瞬間、ななしの背中に奇妙な寒気が走る。それは恐怖ではなく、もっと根源的な、本能が警鐘を鳴らすような甘い痺れだ。
「ジェイド、先輩……?」
「おや、少し震えていますね。寒いのですか? それとも……」
ジェイドが体を横向きにし、ななしを覗き込むように距離を詰める。逃げ場のない狭いベッドの上で、二人の吐息が混じり合う。彼の瞳は、闇の中でも異様なまでに鮮やかに発光しているように見えた。
「あなたの体温、先ほどよりも上がっているようです。頬も赤らんで……」
「……だって、近いです。先輩の熱が、うつったみたいで」
ななしの言葉を遮るように、ジェイドの大きな手が彼女の腰を引き寄せた。密着した体から、逃げ場のない熱が押し寄せる。
ジェイドの思考は深海のように静まり返りながらも、その深層では激しく渦巻いていた。すぐ隣で同じ匂いを纏い、呼吸を乱す少女の存在。彼の沈着冷静な仮面を内側から食い破ろうとしている。
ジェイドは、ななしのうなじに鼻先を寄せた。
湯上がりの清潔な肌の匂い。それが脳の奥を直接刺激し、痺れるような愉悦を運んでくる。彼にとって、この狭さは苦痛どころか至高の檻だ。
「……ジェイド先輩、苦しい、です」
ななしの掠れた声が、ジェイドの鼓膜を震わせる。その不自由そうな喘ぎすら、彼にとっては甘美な音楽に他ならない。ジェイドは彼女の手首を掴み、シーツに縫い止めるように固定した。
「逃がしませんよ。あなたがこの場所を選び、僕を受け入れたのですから」
ジェイドの内面にある独占欲が、真っ黒な墨のように広がり、視界を塗り潰していく。彼は、彼女の心の奥底に自分という毒を流し込み、一生消えない痕跡を残したいという欲求に突き動かされていた。
「ななしさん。僕の愛は、あなたが思うほど清らかなものではないのですよ」
ジェイドの唇がななしの耳たぶを優しく、しかし執拗に食む。ななしの身体が大きく跳ね、視線が宙を彷徨う。彼女の瞳には、もはや戸惑いだけではなく、彼という存在に飲み込まれていくことへの悦楽が混じり始めていた。
「いいですよ、その顔。もっと僕を見て。もっと僕を感じて。……この狭いベッドの上で、僕以外の思考をすべて捨て去ってください」
深海へ引きずり込むような抱擁。ジェイドは満足げに目を細め、獲物の温もりをさらに深く、その身に刻み込んだ。
