オクタビネル
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オンボロ寮の古い窓ガラスが、ガタガタと風に鳴る。
沈みかけた夕日が、埃の舞う部屋をオレンジ色から深い群青色へと塗り替えていく。部屋の中央にある古びたソファには、その長い肢体をくねらせて寛ぐフロイドがいた。
「ねえ、小エビちゃん。お腹空いた。なんか作って~」
「さっきお菓子食べたばかりじゃないですか。もうすぐ門限ですし、そろそろ帰らないと。ジェイド先輩も心配しますよ」
「えー、やだ。ジェイドがオレのこと心配するわけないじゃん。今は小エビちゃんと一緒にいたい気分なんだけど」
フロイドは欠伸をしながら、座面のクッションに頬を埋める。
その瞳が窓の外を眺めるななしの背中をじっと捉える。ななしは困ったように笑いながら、フロイドの方を振り返る。
今日はグリムが「ハーツラビュルのタルトが食べたいんだゾ!」と意気込んでエースとデュースのところへ遊びに行っており、夜通しカードゲーム大会に興じるという連絡が入っていた。
つまり、この広くて寒いオンボロ寮には今、二人きりしかいない。
「アザラシちゃんもいないし、今日は静かでいいよねぇ、小エビちゃん」
「静かすぎて、少し落ち着かないくらいです。ほらフロイド先輩、起きてください。ジェイド先輩が心配して探しに来ちゃいますよ」
「ジェイドなら、オレがここにいるの分かってるから大丈夫だって。オレ、今日は小エビちゃんとここで一緒に寝るー」
「はい?」
唐突な宣言に、ななしは持っていた掃除用具を危うく落としそうになった。冗談だろう。この人はいつも、海のように気まぐれで、空のように移ろいやすい。ななしは困ったように笑いながら、フロイドの方を振り返った。
「何言ってるんですか。フロイド先輩にはオクタヴィネルの、もっと綺麗でふかふかのベッドがあるでしょう。それに、外泊届けも出してないですよね?」
「いーじゃん、バレなきゃ。それにオレ、今小エビちゃんに絞められたい気分なんだよねぇ。……ねえ、ダメなの?」
フロイドがソファから這い出すようにして立ち上がる。
影が伸び、ななしを包み込むようにして巨大な影が部屋を支配した。一歩、また一歩と詰め寄るフロイドの歩調に合わせて、ななしは知らず知らずのうちに後退した。
「でも先輩、背高いから。ベッドはみ出ますよ」
「……はみ出る?」
「そうです。オンボロ寮のベッド、ロングサイズじゃないんです。この寮が建てられた時の規格のままだから、フロイド先輩の身長じゃ絶対足が出ちゃいますって。風邪引きますよ」
「あはは! 何それ、ウケる。はみ出たら小エビちゃんの脚の間に挟めばいーじゃん?」
「……っ、もう。そんなわけにはいきません」
冗談だ。そう自分に言い聞かせるが、顔が熱くなるのを止められない。
ななしの肩に、フロイドの大きな掌が置かれた。ずしりと重いその感触は、単なる肉体の重み以上に逃げ場を奪う威圧感を持っていた。
「ねえ、小エビちゃん。……心臓、すっごいうるさいよ?」
「……それは、フロイド先輩が急に近づくからです。びっくりしただけです」
「ふーん。びっくりしただけぇ? もっと別の理由なんじゃねえの?」
フロイドの声が、耳元で低く湿り気を帯びて響く。
その震えが、ななしの背筋をじりじりと這い上がる。
フロイドの大きな掌が肩から腕を下り、ななしの手首を優しく、けれど逃がさない強さで掴んだ。指先から伝わる体温は、この寒い部屋には不釣り合いなほどに高い。
「ねえ。小エビちゃんって、本当に逃げるの下手だよね。オレのこと、全然怖がってないし。……そういうとこ、すっごくギュッてしたくなる」
「……っ、いた、い……」
「あ、ごめん。痛かった?」
フロイドはすぐに力を抜くが、手は離さない。
代わりに親指の腹でななしの手首の内側をゆっくりとなぞった。血管の拍動を、まるで獲物の生命力を確認するように確かめる執拗な動き。ななしの呼吸が、知らず知らずのうちに浅くなっていく。
空気が重い。
酸素が足りないわけではないのに、胸が苦しい。
「フロイド、先輩……。本当に、近いです」
「近いの、嫌? オレはもっと近くがいいな。……ねえ、こっち向いてよ、小エビちゃん」
促されるまま、ななしが体を反転させる。
目の前には、薄暗がりの中で妖しく光る異色の瞳。その瞳がななしのすべてを見透かすように、あるいはすべてを呑み込むように細められた。
至近距離で見つめられると、まるで深い海の底、光の届かない深淵に引きずり込まれるような錯覚に陥る。
「……オレ、今日は帰りたくない」
「……フロイド先輩は、いつも我儘ですね。明日も授業があるんですよ」
「そんなのどーでもいーよ。オレ、今やりたいことしかしたくない。……今は、小エビちゃんをこうして捕まえてたい」
フロイドの指先がななしの頬を滑り、唇の端に触れる。
熱を持った指先が、柔らかな唇の輪郭を丁寧になぞっていく。
ななしの心臓は、もはや自分の意志とは無関係にフロイドが刻むリズムに支配されていた。
内側から込み上げる熱い何かが、喉の奥を焼く。
それは単なる恥じらいではなく、もっと根源的な捕食者に対する本能的な服従に近い感覚だった。
「ねえ、小エビちゃん。目、閉じて」
抗う言葉は、もう出てこない。
ななしがゆっくりと瞼を閉じると、視界が遮断された分、他の感覚が暴力的なまでの鮮明さで研ぎ澄まされる。
フロイドの重い呼吸音。
彼の服が擦れるわずかな音。
そして全身を包み込む、フロイドという存在そのものから放たれる圧倒的な熱量。彼は静かに、けれど確実にななしの意識を侵食していく。
思考が溶けていく。
明日も早いという現実的な思考も境界線も、フロイドの指先が触れるたびに形を失っていく。ななしの脳裏にあるのは、ただ目の前の男に身を委ねたいという甘美で残酷な欲求だけだった。
「小エビちゃん、いい子。……あったかいね」
フロイドの低い囁きが、意識の深淵にまで染み渡る。
抱きしめられる力が強まる。
骨が軋むほどの、けれど壊さないように繊細な力加減。
その重みが、むしろ心地よい。
自分が彼の一部になって、そのまま一つに混ざり合ってしまいたいという濃密な渇望が胸の奥で渦巻く。
ななしは、無意識のうちにフロイドの背中に手を回し、その大きな背中の温もりを確認するように縋った。
「あは。自分からくっついてきたぁ。……ねえ、ベッド、行こ?」
フロイドがななしを軽々と抱き上げる。
浮遊感に一瞬驚くが、すぐにその腕の中に収まる心地よさが勝った。
足音だけが、静まり返ったオンボロ寮に響く。
月明かりだけが差し込む簡素な寝室。確かにそのベッドは、フロイドが横たわるにはあまりに小さく、頼りなかった。けれどシーツの上に降ろされた瞬間、そんな物理的な制約はどうでもよくなった。
フロイドがななしを覆うように重なる。
狭いベッドは、二人分の体温を凝縮するための器として、むしろ完璧なサイズだった。
「ほら、やっぱりはみ出る」
「……あは、ホントだ。でも、小エビちゃんに抱きついてたら、オレ落ちないし」
フロイドはななしの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
ななしは、その大きな身体が自分にすべてを預けているという事実に、目眩を覚えるほどの充足感を感じていた。
長い脚がななしの足に絡みつき、逃げ場を完全に奪う。
熱い吐息が肌を打ち、感覚が白濁していく。
「……ねえ。今日はもう、何も考えなくていーから」
「……はい、フロイド先輩」
「あは、可愛い。……大好きだよ、小エビちゃん」
外はもう、完全な闇に包まれている。ハーツラビュルで大騒ぎしているであろうグリムの姿も、今はこの部屋の二人の世界には存在しない。
物理的な空間の狭さが、精神的な距離をゼロにする。
重なり合う体温と互いの拍動が混ざり合うこの空間で、ななしは初めて、自分の中にある女としての秘められた意識ではなく、一人の人間として、フロイドという強大な海に呑み込まれる悦びを知った。
ななしは、フロイドの腕の中で初めて知る密やかな熱に身を焦がしながら、深い深い眠りの淵へと沈んでいった。そこには絶え間なく響く潮騒の音と、愛おしいどこまでも甘い微笑みだけが待っていた。
狭いベッドの中で絡み合う指先は決して離れることはなかった。
沈みかけた夕日が、埃の舞う部屋をオレンジ色から深い群青色へと塗り替えていく。部屋の中央にある古びたソファには、その長い肢体をくねらせて寛ぐフロイドがいた。
「ねえ、小エビちゃん。お腹空いた。なんか作って~」
「さっきお菓子食べたばかりじゃないですか。もうすぐ門限ですし、そろそろ帰らないと。ジェイド先輩も心配しますよ」
「えー、やだ。ジェイドがオレのこと心配するわけないじゃん。今は小エビちゃんと一緒にいたい気分なんだけど」
フロイドは欠伸をしながら、座面のクッションに頬を埋める。
その瞳が窓の外を眺めるななしの背中をじっと捉える。ななしは困ったように笑いながら、フロイドの方を振り返る。
今日はグリムが「ハーツラビュルのタルトが食べたいんだゾ!」と意気込んでエースとデュースのところへ遊びに行っており、夜通しカードゲーム大会に興じるという連絡が入っていた。
つまり、この広くて寒いオンボロ寮には今、二人きりしかいない。
「アザラシちゃんもいないし、今日は静かでいいよねぇ、小エビちゃん」
「静かすぎて、少し落ち着かないくらいです。ほらフロイド先輩、起きてください。ジェイド先輩が心配して探しに来ちゃいますよ」
「ジェイドなら、オレがここにいるの分かってるから大丈夫だって。オレ、今日は小エビちゃんとここで一緒に寝るー」
「はい?」
唐突な宣言に、ななしは持っていた掃除用具を危うく落としそうになった。冗談だろう。この人はいつも、海のように気まぐれで、空のように移ろいやすい。ななしは困ったように笑いながら、フロイドの方を振り返った。
「何言ってるんですか。フロイド先輩にはオクタヴィネルの、もっと綺麗でふかふかのベッドがあるでしょう。それに、外泊届けも出してないですよね?」
「いーじゃん、バレなきゃ。それにオレ、今小エビちゃんに絞められたい気分なんだよねぇ。……ねえ、ダメなの?」
フロイドがソファから這い出すようにして立ち上がる。
影が伸び、ななしを包み込むようにして巨大な影が部屋を支配した。一歩、また一歩と詰め寄るフロイドの歩調に合わせて、ななしは知らず知らずのうちに後退した。
「でも先輩、背高いから。ベッドはみ出ますよ」
「……はみ出る?」
「そうです。オンボロ寮のベッド、ロングサイズじゃないんです。この寮が建てられた時の規格のままだから、フロイド先輩の身長じゃ絶対足が出ちゃいますって。風邪引きますよ」
「あはは! 何それ、ウケる。はみ出たら小エビちゃんの脚の間に挟めばいーじゃん?」
「……っ、もう。そんなわけにはいきません」
冗談だ。そう自分に言い聞かせるが、顔が熱くなるのを止められない。
ななしの肩に、フロイドの大きな掌が置かれた。ずしりと重いその感触は、単なる肉体の重み以上に逃げ場を奪う威圧感を持っていた。
「ねえ、小エビちゃん。……心臓、すっごいうるさいよ?」
「……それは、フロイド先輩が急に近づくからです。びっくりしただけです」
「ふーん。びっくりしただけぇ? もっと別の理由なんじゃねえの?」
フロイドの声が、耳元で低く湿り気を帯びて響く。
その震えが、ななしの背筋をじりじりと這い上がる。
フロイドの大きな掌が肩から腕を下り、ななしの手首を優しく、けれど逃がさない強さで掴んだ。指先から伝わる体温は、この寒い部屋には不釣り合いなほどに高い。
「ねえ。小エビちゃんって、本当に逃げるの下手だよね。オレのこと、全然怖がってないし。……そういうとこ、すっごくギュッてしたくなる」
「……っ、いた、い……」
「あ、ごめん。痛かった?」
フロイドはすぐに力を抜くが、手は離さない。
代わりに親指の腹でななしの手首の内側をゆっくりとなぞった。血管の拍動を、まるで獲物の生命力を確認するように確かめる執拗な動き。ななしの呼吸が、知らず知らずのうちに浅くなっていく。
空気が重い。
酸素が足りないわけではないのに、胸が苦しい。
「フロイド、先輩……。本当に、近いです」
「近いの、嫌? オレはもっと近くがいいな。……ねえ、こっち向いてよ、小エビちゃん」
促されるまま、ななしが体を反転させる。
目の前には、薄暗がりの中で妖しく光る異色の瞳。その瞳がななしのすべてを見透かすように、あるいはすべてを呑み込むように細められた。
至近距離で見つめられると、まるで深い海の底、光の届かない深淵に引きずり込まれるような錯覚に陥る。
「……オレ、今日は帰りたくない」
「……フロイド先輩は、いつも我儘ですね。明日も授業があるんですよ」
「そんなのどーでもいーよ。オレ、今やりたいことしかしたくない。……今は、小エビちゃんをこうして捕まえてたい」
フロイドの指先がななしの頬を滑り、唇の端に触れる。
熱を持った指先が、柔らかな唇の輪郭を丁寧になぞっていく。
ななしの心臓は、もはや自分の意志とは無関係にフロイドが刻むリズムに支配されていた。
内側から込み上げる熱い何かが、喉の奥を焼く。
それは単なる恥じらいではなく、もっと根源的な捕食者に対する本能的な服従に近い感覚だった。
「ねえ、小エビちゃん。目、閉じて」
抗う言葉は、もう出てこない。
ななしがゆっくりと瞼を閉じると、視界が遮断された分、他の感覚が暴力的なまでの鮮明さで研ぎ澄まされる。
フロイドの重い呼吸音。
彼の服が擦れるわずかな音。
そして全身を包み込む、フロイドという存在そのものから放たれる圧倒的な熱量。彼は静かに、けれど確実にななしの意識を侵食していく。
思考が溶けていく。
明日も早いという現実的な思考も境界線も、フロイドの指先が触れるたびに形を失っていく。ななしの脳裏にあるのは、ただ目の前の男に身を委ねたいという甘美で残酷な欲求だけだった。
「小エビちゃん、いい子。……あったかいね」
フロイドの低い囁きが、意識の深淵にまで染み渡る。
抱きしめられる力が強まる。
骨が軋むほどの、けれど壊さないように繊細な力加減。
その重みが、むしろ心地よい。
自分が彼の一部になって、そのまま一つに混ざり合ってしまいたいという濃密な渇望が胸の奥で渦巻く。
ななしは、無意識のうちにフロイドの背中に手を回し、その大きな背中の温もりを確認するように縋った。
「あは。自分からくっついてきたぁ。……ねえ、ベッド、行こ?」
フロイドがななしを軽々と抱き上げる。
浮遊感に一瞬驚くが、すぐにその腕の中に収まる心地よさが勝った。
足音だけが、静まり返ったオンボロ寮に響く。
月明かりだけが差し込む簡素な寝室。確かにそのベッドは、フロイドが横たわるにはあまりに小さく、頼りなかった。けれどシーツの上に降ろされた瞬間、そんな物理的な制約はどうでもよくなった。
フロイドがななしを覆うように重なる。
狭いベッドは、二人分の体温を凝縮するための器として、むしろ完璧なサイズだった。
「ほら、やっぱりはみ出る」
「……あは、ホントだ。でも、小エビちゃんに抱きついてたら、オレ落ちないし」
フロイドはななしの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
ななしは、その大きな身体が自分にすべてを預けているという事実に、目眩を覚えるほどの充足感を感じていた。
長い脚がななしの足に絡みつき、逃げ場を完全に奪う。
熱い吐息が肌を打ち、感覚が白濁していく。
「……ねえ。今日はもう、何も考えなくていーから」
「……はい、フロイド先輩」
「あは、可愛い。……大好きだよ、小エビちゃん」
外はもう、完全な闇に包まれている。ハーツラビュルで大騒ぎしているであろうグリムの姿も、今はこの部屋の二人の世界には存在しない。
物理的な空間の狭さが、精神的な距離をゼロにする。
重なり合う体温と互いの拍動が混ざり合うこの空間で、ななしは初めて、自分の中にある女としての秘められた意識ではなく、一人の人間として、フロイドという強大な海に呑み込まれる悦びを知った。
ななしは、フロイドの腕の中で初めて知る密やかな熱に身を焦がしながら、深い深い眠りの淵へと沈んでいった。そこには絶え間なく響く潮騒の音と、愛おしいどこまでも甘い微笑みだけが待っていた。
狭いベッドの中で絡み合う指先は決して離れることはなかった。
