ポムフィオーレ
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「おや、ななしくん。こんなところで奇遇だね。まさに運命が私に微笑んだかのようだ」
沈みゆく夕日が、廊下を毒々しいまでのオレンジ色に染め上げている。
放課後の静寂を破ったのは、聞き慣れた朗らかな声。ルーク・ハントは、まるで舞台に登場する役者のような優雅な所作で、窓辺に立つななしの隣に並んだ。
「あ、ルーク先輩! お疲れ様です」
ななしは屈託のない笑顔で応じる。
その表情に、ルークは瞳を細めて感嘆の息を漏らした。
「ああ……。素晴らしい。今日の君の瞳は、沈みゆく太陽の光を反射して、まるで磨き上げられたトパーズのように輝いている。ボーテ!」
「あはは、また大げさな。でも、そう言ってもらえると嬉しいです」
「大げさなものか。私は常に真実しか口にしないよ、愛しきトリックスター。……ところで、君はその手に持っているもの、少し私に見せてはくれないかい?」
ルークの視線が、ななしの指先に留まる。
そこには、学園内のショップで手に入れた小さな紙袋があった。
「これですか? 栄養価が高いって聞いた、高カカオのチョコとドライクランベリーです。……ルーク先輩も、一個いかがですか?」
「おや、いいのかい? カカオのポリフェノールとベリーのビタミン……ふふ、実に理に適った選択だ。獲物を分け与える慈悲深さ、それもまた君の魅力だね」
ルークは差し出されたチョコの欠片を、指先で器用に摘み上げる。
しかし、それをすぐに口に運ぶことはせず、鼻先でその苦い香りを深く吸い込んだ。
「……高潔な香りだ。だが甘さを削ぎ落とした分、素材の野性味が剥き出しになっている。まるで今の君のように、無防備でいて力強い」
「ただの健康志向なお菓子ですよ。ルーク先輩なら、もっとお高いものに慣れてると思ってました」
「ふふ、質よりも誰が持っているかが重要な時もあるのだよ。……ななしくん。君は、自分がどれほど周囲の五感を刺激しているか、自覚したことはあるかな?」
ルークの言葉が、少しだけ重みを増す。
ななしは首を傾げ、不思議そうに彼を見上げた。
「刺激? むしろ、私がみんなから刺激をもらってばかりですよ。ルーク先輩にも、いつも驚かされてますし」
「……その無垢な瞳が、時に恐ろしい誘惑となることを、君はまだ知らない。……おっと、これ以上は野暮だね。さあ、寮まで送らせておくれ。エスコートさせてもらいたい」
ルークは穏やかに微笑み、ななしの背を優しく促した。その手は、触れるか触れないかの距離を保ちながらも、確実に行き先を支配していた。
◇
誰もいない夜の廊下を、二人の足音だけが規則正しく刻む。窓の外には夜の帳が下り、冷ややかな空気が二人の間を通り抜けていく。
「夕暮れの学園って、昼間とは全然違う雰囲気ですね」
「そうだね。光が消え、影が支配する時間は、事物の本質を浮き彫りにする。……例えば、君のその少し冷えた頬と静かな吐息。それもまた、一つの完成された芸術だよ」
ルークは立ち止まり、ななしの顔をじっと見つめる。
その視線は、先ほどよりも密度を増していた。
「……ルーク先輩? なんだか、さっきから凄く見られてる気がします」
「おや、気づいたかい? 光栄だ。君という存在を、片時も逃さず瞳に焼き付けておきたいと、私の本能が叫んでいるのだよ」
ルークの手が、ななしの髪に触れる。
指先が耳の裏をなぞり、首筋へと滑り落ちる。
その体温は、冷えた空気の中では酷く熱く感じられた。
「ルーク先輩……?」
「ななしくん。私はね、美しいものを愛でるのが好きだ。それは君も知っての通りだね?」
「はい。いつも学園のみんなを褒めて回ってますもんね」
ルークは低く笑い、指先をななしの耳元へ移動させた。
かすかに指が耳たぶに触れ、ななしの肩が小さく跳ねる。
「そうだね。私は誰に対しても公平な審美眼を持っているつもりだ。……けれど、それはあくまで観賞用としての話だよ。理解できるかな?」
「観賞用……? つまり、見るだけってことですか?」
「そう。遠くから眺め、その輝きを祝福する。それが私のスタイルだ。……だが時に、天の配剤は私に試練を与える。あまりにも、手に収まりの良い輝きを、目の前にぶら下げるのだから。……今の私に、ヴィルのような自制心を期待してはいけないよ」
ルークの顔が、わずかに近づく。
彼の瞳の奥に、いつも漂わせている余裕とは異なる、昏い情熱が揺らめいていた。それは飢えた獣が獲物を前にして辛うじて理性を保っているような危うい均衡だった。
「……今日のルーク先輩の目、なんだか怖いです」
「怖い? それは困った。私はただ、君を慈しみたいだけなのに。……ねぇ、ななしくん。君は、私を優しい先輩だと思っているだろう?」
「ええ。とっても優しくて、頼りになる先輩です」
「ああ! 素晴らしい、君のその純真さはダイヤモンドよりも硬い。……だがね、ダイヤモンドを砕くには、別のダイヤモンドが必要なのだよ」
ルークは、ななしの手首をそっと掴んだ。
力は入っていない。しかし拒むことを許さない、絶対的な意志がそこには宿っていた。
「……ここなら、誰にも邪魔されない」
ルークはななしを壁との間に閉じ込めるようにして立ち、じっとその瞳を見つめていた。
「ルーク先輩、あの、さっきの話の続きなんですけど……」
「ななしくん。私はね、意外と欲深いな男なんだ」
その告白は、あまりにも静かだった。
ルークの声は低く、密やかにななしの鼓膜を震わせる。
「強欲……ですか? 先輩が?」
「ああ。私は美しいものを眺めているだけで満足できると思っていた。だが君という存在を知ってから、その均衡が崩れてしまったんだ。視覚だけでは足りない。聴覚も嗅覚も、君という生命の煌めきを、すべて私のものにしたいと……そう願ってしまう」
ルークの手が、ななしの頬を包み込む。
親指が唇の端をなぞり、ゆっくりと圧をかける。
「わたしの、すべて……?」
「そうさ。君の笑顔も、驚いた顔も、私を呼ぶその声も。あるいは、誰にも見せたことのない涙や、秘められた苦悩までも。私はそのすべてを蒐集し、私の檻の中に閉じ込めたい。……これは愛という名を借りた救いようのない独占欲だよ」
ルークの瞳が、至近距離でななしを射抜く。
そこにあるのは優雅さではなく、捕食者の冷徹な熱量だった。ななしの心臓が早鐘を打つ。今、目の前にいる人物が向けている感情が、決して友愛や師弟愛ではないことを悟らざるを得なかった。
「……すまない、驚かせてしまったね。だが、これが私の内側に潜む獣の正体だ。君を逃したくない。他の誰の視線にも触れさせたくない。君という存在を、私だけの秘密の庭に咲く一輪の花にしたいのだよ」
「ルーク先輩……わたし、そんな風に思われてるなんて、全然……」
「だろうね。君は光の中で自由に羽ばたくトリックスターだ。私の暗い欲望など、気づかなくていい。……けれど、気づいてしまったからには、もう逃げられないよ?」
ルークは、ななしの額に自分の額をそっと押し当てた。
混じり合う吐息。
ななしの内に、恐怖とは異なる熱い何かが広がっていく。
それは彼の情熱に侵食されるような心地よい痺れだった。
「ななしくん。君を、私の色で塗り潰してしまってもいいだろうか? 君の記憶のすべてに、私という刻印を刻み込んでも?」
ルークの言葉は問いかけでありながら、すでに決定事項のような響きを持っていた。彼はななしの答えを待たず、さらに距離を詰める。
「……君がどんなに明るい場所へ行こうとしても、私は影となって君の足元に纏わりつこう。君が誰かを想うなら、その心の隙間に滑り込んで、私の名前を叫ぼう。私は、君が思うほど高潔な人間ではないのだよ」
ルークの指先が、ななしの首筋を辿り、脈打つ箇所に止まる。
命の鼓動。それを支配しているという確信が、ルークの表情をいっそう艶やかに歪ませた。
「さあ、愛しきトリックスター。君の返事を聞かせておくれ。……といっても、拒絶の言葉は私の耳には届かないようになっているけれど」
ルークは悪戯っぽく、それでいてこの上なく真剣に微笑んだ。
その瞳の奥には、どこまでも深い愛着と決して満たされることのない渇望が渦巻いている。
ななしは、逃げることを忘れたかのように、ただ彼を見つめ返す。ルーク・ハントという底知れない沼に、ゆっくりと沈んでいく感覚。それは恐怖よりもずっと甘美な、堕落の予感だった。
「……ルーク先輩。先輩は、本当に……わがままですね」
ななしの口からこぼれた言葉に、ルークは満足げに目を細める。
「ああ、認めるよ。私は世界で一番の強欲者だ。……そしてその欲のすべては今、君という一点に集約されているんだ」
ルークは慈しむようにななしの髪を撫でた。
それは決して終わることのない、執着という名の物語の始まりだった。
沈みゆく夕日が、廊下を毒々しいまでのオレンジ色に染め上げている。
放課後の静寂を破ったのは、聞き慣れた朗らかな声。ルーク・ハントは、まるで舞台に登場する役者のような優雅な所作で、窓辺に立つななしの隣に並んだ。
「あ、ルーク先輩! お疲れ様です」
ななしは屈託のない笑顔で応じる。
その表情に、ルークは瞳を細めて感嘆の息を漏らした。
「ああ……。素晴らしい。今日の君の瞳は、沈みゆく太陽の光を反射して、まるで磨き上げられたトパーズのように輝いている。ボーテ!」
「あはは、また大げさな。でも、そう言ってもらえると嬉しいです」
「大げさなものか。私は常に真実しか口にしないよ、愛しきトリックスター。……ところで、君はその手に持っているもの、少し私に見せてはくれないかい?」
ルークの視線が、ななしの指先に留まる。
そこには、学園内のショップで手に入れた小さな紙袋があった。
「これですか? 栄養価が高いって聞いた、高カカオのチョコとドライクランベリーです。……ルーク先輩も、一個いかがですか?」
「おや、いいのかい? カカオのポリフェノールとベリーのビタミン……ふふ、実に理に適った選択だ。獲物を分け与える慈悲深さ、それもまた君の魅力だね」
ルークは差し出されたチョコの欠片を、指先で器用に摘み上げる。
しかし、それをすぐに口に運ぶことはせず、鼻先でその苦い香りを深く吸い込んだ。
「……高潔な香りだ。だが甘さを削ぎ落とした分、素材の野性味が剥き出しになっている。まるで今の君のように、無防備でいて力強い」
「ただの健康志向なお菓子ですよ。ルーク先輩なら、もっとお高いものに慣れてると思ってました」
「ふふ、質よりも誰が持っているかが重要な時もあるのだよ。……ななしくん。君は、自分がどれほど周囲の五感を刺激しているか、自覚したことはあるかな?」
ルークの言葉が、少しだけ重みを増す。
ななしは首を傾げ、不思議そうに彼を見上げた。
「刺激? むしろ、私がみんなから刺激をもらってばかりですよ。ルーク先輩にも、いつも驚かされてますし」
「……その無垢な瞳が、時に恐ろしい誘惑となることを、君はまだ知らない。……おっと、これ以上は野暮だね。さあ、寮まで送らせておくれ。エスコートさせてもらいたい」
ルークは穏やかに微笑み、ななしの背を優しく促した。その手は、触れるか触れないかの距離を保ちながらも、確実に行き先を支配していた。
◇
誰もいない夜の廊下を、二人の足音だけが規則正しく刻む。窓の外には夜の帳が下り、冷ややかな空気が二人の間を通り抜けていく。
「夕暮れの学園って、昼間とは全然違う雰囲気ですね」
「そうだね。光が消え、影が支配する時間は、事物の本質を浮き彫りにする。……例えば、君のその少し冷えた頬と静かな吐息。それもまた、一つの完成された芸術だよ」
ルークは立ち止まり、ななしの顔をじっと見つめる。
その視線は、先ほどよりも密度を増していた。
「……ルーク先輩? なんだか、さっきから凄く見られてる気がします」
「おや、気づいたかい? 光栄だ。君という存在を、片時も逃さず瞳に焼き付けておきたいと、私の本能が叫んでいるのだよ」
ルークの手が、ななしの髪に触れる。
指先が耳の裏をなぞり、首筋へと滑り落ちる。
その体温は、冷えた空気の中では酷く熱く感じられた。
「ルーク先輩……?」
「ななしくん。私はね、美しいものを愛でるのが好きだ。それは君も知っての通りだね?」
「はい。いつも学園のみんなを褒めて回ってますもんね」
ルークは低く笑い、指先をななしの耳元へ移動させた。
かすかに指が耳たぶに触れ、ななしの肩が小さく跳ねる。
「そうだね。私は誰に対しても公平な審美眼を持っているつもりだ。……けれど、それはあくまで観賞用としての話だよ。理解できるかな?」
「観賞用……? つまり、見るだけってことですか?」
「そう。遠くから眺め、その輝きを祝福する。それが私のスタイルだ。……だが時に、天の配剤は私に試練を与える。あまりにも、手に収まりの良い輝きを、目の前にぶら下げるのだから。……今の私に、ヴィルのような自制心を期待してはいけないよ」
ルークの顔が、わずかに近づく。
彼の瞳の奥に、いつも漂わせている余裕とは異なる、昏い情熱が揺らめいていた。それは飢えた獣が獲物を前にして辛うじて理性を保っているような危うい均衡だった。
「……今日のルーク先輩の目、なんだか怖いです」
「怖い? それは困った。私はただ、君を慈しみたいだけなのに。……ねぇ、ななしくん。君は、私を優しい先輩だと思っているだろう?」
「ええ。とっても優しくて、頼りになる先輩です」
「ああ! 素晴らしい、君のその純真さはダイヤモンドよりも硬い。……だがね、ダイヤモンドを砕くには、別のダイヤモンドが必要なのだよ」
ルークは、ななしの手首をそっと掴んだ。
力は入っていない。しかし拒むことを許さない、絶対的な意志がそこには宿っていた。
「……ここなら、誰にも邪魔されない」
ルークはななしを壁との間に閉じ込めるようにして立ち、じっとその瞳を見つめていた。
「ルーク先輩、あの、さっきの話の続きなんですけど……」
「ななしくん。私はね、意外と欲深いな男なんだ」
その告白は、あまりにも静かだった。
ルークの声は低く、密やかにななしの鼓膜を震わせる。
「強欲……ですか? 先輩が?」
「ああ。私は美しいものを眺めているだけで満足できると思っていた。だが君という存在を知ってから、その均衡が崩れてしまったんだ。視覚だけでは足りない。聴覚も嗅覚も、君という生命の煌めきを、すべて私のものにしたいと……そう願ってしまう」
ルークの手が、ななしの頬を包み込む。
親指が唇の端をなぞり、ゆっくりと圧をかける。
「わたしの、すべて……?」
「そうさ。君の笑顔も、驚いた顔も、私を呼ぶその声も。あるいは、誰にも見せたことのない涙や、秘められた苦悩までも。私はそのすべてを蒐集し、私の檻の中に閉じ込めたい。……これは愛という名を借りた救いようのない独占欲だよ」
ルークの瞳が、至近距離でななしを射抜く。
そこにあるのは優雅さではなく、捕食者の冷徹な熱量だった。ななしの心臓が早鐘を打つ。今、目の前にいる人物が向けている感情が、決して友愛や師弟愛ではないことを悟らざるを得なかった。
「……すまない、驚かせてしまったね。だが、これが私の内側に潜む獣の正体だ。君を逃したくない。他の誰の視線にも触れさせたくない。君という存在を、私だけの秘密の庭に咲く一輪の花にしたいのだよ」
「ルーク先輩……わたし、そんな風に思われてるなんて、全然……」
「だろうね。君は光の中で自由に羽ばたくトリックスターだ。私の暗い欲望など、気づかなくていい。……けれど、気づいてしまったからには、もう逃げられないよ?」
ルークは、ななしの額に自分の額をそっと押し当てた。
混じり合う吐息。
ななしの内に、恐怖とは異なる熱い何かが広がっていく。
それは彼の情熱に侵食されるような心地よい痺れだった。
「ななしくん。君を、私の色で塗り潰してしまってもいいだろうか? 君の記憶のすべてに、私という刻印を刻み込んでも?」
ルークの言葉は問いかけでありながら、すでに決定事項のような響きを持っていた。彼はななしの答えを待たず、さらに距離を詰める。
「……君がどんなに明るい場所へ行こうとしても、私は影となって君の足元に纏わりつこう。君が誰かを想うなら、その心の隙間に滑り込んで、私の名前を叫ぼう。私は、君が思うほど高潔な人間ではないのだよ」
ルークの指先が、ななしの首筋を辿り、脈打つ箇所に止まる。
命の鼓動。それを支配しているという確信が、ルークの表情をいっそう艶やかに歪ませた。
「さあ、愛しきトリックスター。君の返事を聞かせておくれ。……といっても、拒絶の言葉は私の耳には届かないようになっているけれど」
ルークは悪戯っぽく、それでいてこの上なく真剣に微笑んだ。
その瞳の奥には、どこまでも深い愛着と決して満たされることのない渇望が渦巻いている。
ななしは、逃げることを忘れたかのように、ただ彼を見つめ返す。ルーク・ハントという底知れない沼に、ゆっくりと沈んでいく感覚。それは恐怖よりもずっと甘美な、堕落の予感だった。
「……ルーク先輩。先輩は、本当に……わがままですね」
ななしの口からこぼれた言葉に、ルークは満足げに目を細める。
「ああ、認めるよ。私は世界で一番の強欲者だ。……そしてその欲のすべては今、君という一点に集約されているんだ」
ルークは慈しむようにななしの髪を撫でた。
それは決して終わることのない、執着という名の物語の始まりだった。
