ハーツラビュル
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ハーツラビュル寮の薔薇は今日も規則正しく、完璧な赤に染まっている。
少しの狂いも、手落ちもない。
ボクがすべてを厳格に管理しているのだから当然だ。
庭園を渡る風が微かに甘い香りを運んでくる。
どこにでもある、手入れの行き届いた薔薇の匂い。
それなのに鼻腔をくすぐる風のなかに、ほんのわずかな違和感を探している自分に気づく。
もう、ここにはないはずの気配だ。
「リドル先輩、ハーツラビュルの薔薇って、本当に綺麗ですね」
いつだったか、生真面目な顔をして庭園を見上げていた声が耳の奥で蘇る。
魔法も使えないくせに、いつも誰かのために奔走していた。
異世界から迷い込んだという、ひどく危うい存在。
■■■。
その名前を頭のなかで呟くだけで、胸の奥が小さく波立つ。
彼女はもう自分のいたべき場所へ帰ってしまった。
それは仕方のないことであり、あるべき正しい結末だ。
ボクもそれを望んでいたし、彼女の帰還を見送ったときは、ある種の達成感すらあったはずだった。
しかし日常が戻るにつれて、何かが奇妙に狂い始めている。
机に向かい、ペンを走らせる。
寮生たちから提出された報告書に目を通す作業は、いつも通り完璧にこなせているはずだった。
だが、ふとした瞬間に指先が止まる。
静まり返った寮長室に響くのは、時計の規則正しい秒針の音だけだ。
かつて、この部屋の扉を遠慮がちに叩く音が日常の一部になっていた。
「リドル先輩、お茶会の件で少しご相談が……」
そう言って入ってくる姿は、いつもどこか一生懸命で、見ているこちらが調子を狂わされるほどだった。
ボクは溜息をつき、ペンを置く。
時間の感覚が、彼女の不在によって奇妙に引き伸ばされているように感じられる。
立ち上がり、窓の外を見つめる。
夕暮れ時の空が、燃えるような茜色に染まっていった。
あの風変わりな監督生がいたオンボロ寮の方向を、無意識に目で追っている自分に気づき、ボクは自嘲気味に唇を噛む。
胸の奥が、じわじわと熱を帯びていくのを感じる。
それは怒りでも焦燥でもない。
もっと泥臭くて説明のつかない、身体の芯から湧き上がるような熱だ。
■■■の名前を呼ぶとき、ボクの喉の奥はいつも、言葉にできない熱量で満たされていた。
彼女がボクを呼ぶ響き。特別に甘いわけでも、へつらうわけでもない、ただ真っ直ぐにボクを見つめる声。
思い出すだけで、心臓の鼓動が不自然に跳ね上がる。
耳の裏や、首筋のあたりが熱い。
まるで法律を破った寮生を叱責するときのような激しい感情が、まったく別のベクトルを向いてボクの身体を支配しようとしている。
「■■■……」
誰もいない部屋で、その名前を小さく零してみる。
言葉が空気に触れた瞬間、胸の奥の熱が一気に身体の末端へと広がっていくような錯覚に陥った。
指先が微かに震える。
およそボクらしくもない、傲慢で非論理的な思考が頭をもたげる。
あのとき、もっと強く握り返していれば。
あるいは、その手を引き留めていれば。
一度火がついた感情は容易には消えてくれない。
夜が訪れ部屋の明かりを落としても、ボクの意識は冴え渡ったままだ。
ベッドに横たわり天井を見つめる。
目を閉じれば、すぐに彼女の姿が浮かんでくる。
彼女が見つめてくれるだけで、ボクはハーツラビュルの厳格な寮長ではなく、ただの一人の人間に戻れたような気がしていた。
それなのに、彼女はもういない。
夜が明けても、胸の奥に居座り続ける熱は一向に引く気配を見せない。
身支度を整えながらも、思考は別の場所を彷徨っている。
ボクの引き出しの奥には、小さな包みが眠っている。
君が以前、ずっと欲しがっていた指輪だ。
町のはずれ。存在は知っていたけれど、一度も行ったことのなかった、あの薄暗くて古い店で見つけたもの。
ボクにはまるで見当違いな場所に思えたけれど、君の言葉を頼りに足を運んだ。
確か、君の指のサイズは9号で良かったはずだ。
ねえ、そうだろう。
店主から手渡されたその包み紙は、ボクの基準からすれば少しばかり安っぽいものだった。
けれど当時のボクにとってはそんなことどうでもよかったのだ。君の喜ぶ顔が見られるなら、それで。
だが、それを手渡す機会は永遠に失われた。
朝食の席につき、トレイから体調を心配されても、まともな返事すら返せない。
喉の奥が砂漠のように乾いている。
◇
午後、中庭の薔薇の剪定に立ち会う。
まだ赤く染められていない、白いままの蕾が一輪だけ残っていた。
その純粋で何色にも染まらない頑なな白に、元の世界へと帰っていった彼女の姿が重なる。
手を伸ばし、その蕾に触れようとして指先が鋭い棘に触れた。
ちくりとした痛みが走り、一滴の赤い血が皮膚に滲む。
その瞬間、身体の奥深くで何かが弾けた。
痛みが熱に変わり、腕を駆け上がり、心臓へと直撃する。
ボクは己の手のひらを見つめる。
あのとき元の世界へと繋がる扉が開いた瞬間。
ボクは確かに彼女の小さな手を握りしめていた。
皮膚を通じて伝わってきた圧倒的な温もりを、ボクの右の手のひらは今でも鮮烈に覚えている。
その温もりが今、猛烈な疼きとなって暴れている。
握りしめれば握りしめるほど、そこにあるはずの彼女の体温が幻肢痛のようにボクを苛む。
引き出しの奥の、あの安っぽい包みを思い出す。
ここに君がいなきゃ、あんなもの、なんの意味もない。
沈む夕日にゆれる星空を見上げても、ボクの心は動かない。
まるでガラクタだね。
君がくれた日々も。
今も胸を焦がす甘い記憶も、耳の奥に残る君の言葉も、君がいないこの世界では、すべてが等しく価値を失ったガラクタだ。
「■■■……」
また、名前を呼んでしまう。
呼ぶたびに、喉の粘膜が焼けつくような感覚に襲われる。
ただ一つ確かなのは、ボクの肉体そのものが彼女を求めて悲鳴を上げているということだ。
日が沈み、夜の冷気が身体を包み込む。
だが、ボクの内側の熱はますます勢いを増して燃え上がっていた。
熱い。
胸が、喉が、手のひらが、すべてが彼女を求めて、じりじりと焦げ付くような熱を帯びていく。
冷たい夜気が肺を満たすはずなのに、吐き出す息はどこまでも熱く、苦しい。
元の世界に帰った■■■を想うたび、ボクの皮膚の下で蠢くこの熱は確実に、そして残酷にボクという存在の深部へと溶け込んでいくのだった。