ポムフィオーレ
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薄暗いオンボロ寮の談話室。
使い古されたソファに深く腰掛け、ヴィルは脚を組み鏡のように磨き上げられた靴の先を小さく揺らしている。
その向かい側でななしは膝の上に置いた拳を強く握りしめ、視線を泳がせていた。
二人の間に流れるのは、重苦しく、それでいて刺すような冷気だった。
「……何か言ったら?ななし」
ヴィルの声は氷細工のように冷徹に響く。
彼は視線を落としたままのななしを射抜く。
「ごめんなさい……。でも、あれは……」
「言い訳なんて聞きたくないわ。アタシの指示を無視して勝手な行動を取った挙句、怪我までして。その言い訳が『でも』なの?」
「違うんです! ヴィル先輩に迷惑をかけたくなくて……っ」
「それが一番の迷惑だって、まだ理解できないのかしら」
ヴィルは溜息をつき、首筋に流れる髪を乱暴にかき上げる。
「アタシがアンタを呼んだのは、基礎を叩き込むためよ。それを独断で魔法薬学の居残り実験に付き合うなんて、優先順位がなっていないわ」
「でも、エースたちが困ってたから」
「お人好しも、ここまで来ればただの愚策よ。自分を安売りするのもいい加減にして」
ななしは顔を上げ、ヴィルの瞳を真正面から見据える。その瞳には、彼への畏怖よりも、拭いきれない寂しさが滲んでいた。
「安売りなんてしてません! わたし、ただ……」
「ただ、何?」
「ヴィル先輩のスケジュールに、わたしが入っているのが申し訳なかったんです! 先輩はいつも忙しくて時間を削ってまで指導してくれてる。だから、せめて自分のことは自分で解決しようと思って……!」
ヴィルの動きが止まる。
組んでいた脚を解き、彼はゆっくりと身を乗り出した。
「……申し訳ない? アタシが貴方に時間を割くのを、貴方が謝る必要があるとでも思っているの?」
「だって、先輩は世界で活躍するモデルで、寮長で……わたしなんかとは住む世界が……」
「黙りなさい!」
鋭い叱咤。
ななしは肩を震わせ、言葉を飲み込む。
「アンタ、自分の価値を何だと思っているの。アタシが価値のないものに、一秒でも時間を割くと思う? アタシが選んで、アタシの手で磨こうと決めた原石を、勝手に泥だと決めつけるのは許さないわ」
「ヴィル、先輩……」
「ななし。アンタのその卑屈な考え方が、一番アタシの美意識に反するのよ」
ヴィルは立ち上がり、一歩、また一歩とななしに歩み寄る。
ななしは逃げることもできず、その場に立ち尽くす。
目の前で止まったヴィルからは、高貴な香水の香りと、それとは相反する熱い体温が伝わってくる。
「……手を出しなさい」
拒絶を許さないトーン。
ななしが恐る恐る右手を差し出すと、ヴィルはその手首を強く、それでいて壊れ物を扱うように繊細に掴み上げた。
指先にある、実験中に作った小さな火傷の跡。
「痛む?」
「……いえ、大したことはないです」
「嘘ね。赤くなっているじゃない。アタシがどれだけアンタのその指先まで気を使っているか、まだ分かっていないみたいね」
ヴィルはポケットから小さな薬瓶を取り出すと、丁寧にクリームを塗り込み始めた。ひんやりとした感覚が、熱を持った傷口に広がる。ななしは、その慈しむような手つきに、こらえていた感情が溢れそうになる。
「ヴィル先輩……嫌いになったから、怒ってるんじゃないんですか?」
「馬鹿なことを言わないで。嫌いな相手なら、最初から視界にも入れないわ」
クリームを塗り終えたヴィルは、ななしの手首を離さないまま、ぐいと自分の方へ引き寄せた。二人の距離が、睫毛が触れ合うほどに縮まる。
「……アタシは、アンタが自分を雑に扱うのが、何よりも許せないの」
「ごめんなさい、ヴィル先輩。わたし、先輩にふさわしい人間になりたくて、焦ってたのかもしれません」
「ふさわしくなるかどうかは、アタシが決めることよ。アンタはただ、アタシの隣で、アタシが見せる光を信じてみなさい。……分かった?」
ななしは、滲んだ視界の中で、必死に頷く。
その素直な反応に、ヴィルの表情がようやく和らぐ。
彼はふっと、いつもの傲慢で、けれどたまらなく美しい笑みを浮かべた。
「聞き分けがいいわね。ななし」
ヴィルの長い指が、ななしの頬を滑り、顎を上向かせる。月明かりが差し込むオンボロ寮の静寂の中で、ヴィルの顔が近づいてくる。
「喧嘩の罰よ。……受け入れなさい」
重なる唇は、塗り込まれたクリームよりもずっと熱い。驚きに目を見開いたななしだったが、すぐに力を抜き、ヴィルの背中に手を回した。
数秒の後、名残惜しそうに唇を離したヴィルは、ななしの額に自分の額を預ける。
「……これでもまだ、世界が違うなんて言うのかしら?」
「……言いません。もう、絶対に」
「わかったならいいのよ」
ヴィルは勝ち誇ったように微笑み、ななしの髪を優しく整える。
すれ違っていた心が、確かな熱を持って重なり合った瞬間。
窓の外では夜の静寂だけが二人を包み込んでいた。
使い古されたソファに深く腰掛け、ヴィルは脚を組み鏡のように磨き上げられた靴の先を小さく揺らしている。
その向かい側でななしは膝の上に置いた拳を強く握りしめ、視線を泳がせていた。
二人の間に流れるのは、重苦しく、それでいて刺すような冷気だった。
「……何か言ったら?ななし」
ヴィルの声は氷細工のように冷徹に響く。
彼は視線を落としたままのななしを射抜く。
「ごめんなさい……。でも、あれは……」
「言い訳なんて聞きたくないわ。アタシの指示を無視して勝手な行動を取った挙句、怪我までして。その言い訳が『でも』なの?」
「違うんです! ヴィル先輩に迷惑をかけたくなくて……っ」
「それが一番の迷惑だって、まだ理解できないのかしら」
ヴィルは溜息をつき、首筋に流れる髪を乱暴にかき上げる。
「アタシがアンタを呼んだのは、基礎を叩き込むためよ。それを独断で魔法薬学の居残り実験に付き合うなんて、優先順位がなっていないわ」
「でも、エースたちが困ってたから」
「お人好しも、ここまで来ればただの愚策よ。自分を安売りするのもいい加減にして」
ななしは顔を上げ、ヴィルの瞳を真正面から見据える。その瞳には、彼への畏怖よりも、拭いきれない寂しさが滲んでいた。
「安売りなんてしてません! わたし、ただ……」
「ただ、何?」
「ヴィル先輩のスケジュールに、わたしが入っているのが申し訳なかったんです! 先輩はいつも忙しくて時間を削ってまで指導してくれてる。だから、せめて自分のことは自分で解決しようと思って……!」
ヴィルの動きが止まる。
組んでいた脚を解き、彼はゆっくりと身を乗り出した。
「……申し訳ない? アタシが貴方に時間を割くのを、貴方が謝る必要があるとでも思っているの?」
「だって、先輩は世界で活躍するモデルで、寮長で……わたしなんかとは住む世界が……」
「黙りなさい!」
鋭い叱咤。
ななしは肩を震わせ、言葉を飲み込む。
「アンタ、自分の価値を何だと思っているの。アタシが価値のないものに、一秒でも時間を割くと思う? アタシが選んで、アタシの手で磨こうと決めた原石を、勝手に泥だと決めつけるのは許さないわ」
「ヴィル、先輩……」
「ななし。アンタのその卑屈な考え方が、一番アタシの美意識に反するのよ」
ヴィルは立ち上がり、一歩、また一歩とななしに歩み寄る。
ななしは逃げることもできず、その場に立ち尽くす。
目の前で止まったヴィルからは、高貴な香水の香りと、それとは相反する熱い体温が伝わってくる。
「……手を出しなさい」
拒絶を許さないトーン。
ななしが恐る恐る右手を差し出すと、ヴィルはその手首を強く、それでいて壊れ物を扱うように繊細に掴み上げた。
指先にある、実験中に作った小さな火傷の跡。
「痛む?」
「……いえ、大したことはないです」
「嘘ね。赤くなっているじゃない。アタシがどれだけアンタのその指先まで気を使っているか、まだ分かっていないみたいね」
ヴィルはポケットから小さな薬瓶を取り出すと、丁寧にクリームを塗り込み始めた。ひんやりとした感覚が、熱を持った傷口に広がる。ななしは、その慈しむような手つきに、こらえていた感情が溢れそうになる。
「ヴィル先輩……嫌いになったから、怒ってるんじゃないんですか?」
「馬鹿なことを言わないで。嫌いな相手なら、最初から視界にも入れないわ」
クリームを塗り終えたヴィルは、ななしの手首を離さないまま、ぐいと自分の方へ引き寄せた。二人の距離が、睫毛が触れ合うほどに縮まる。
「……アタシは、アンタが自分を雑に扱うのが、何よりも許せないの」
「ごめんなさい、ヴィル先輩。わたし、先輩にふさわしい人間になりたくて、焦ってたのかもしれません」
「ふさわしくなるかどうかは、アタシが決めることよ。アンタはただ、アタシの隣で、アタシが見せる光を信じてみなさい。……分かった?」
ななしは、滲んだ視界の中で、必死に頷く。
その素直な反応に、ヴィルの表情がようやく和らぐ。
彼はふっと、いつもの傲慢で、けれどたまらなく美しい笑みを浮かべた。
「聞き分けがいいわね。ななし」
ヴィルの長い指が、ななしの頬を滑り、顎を上向かせる。月明かりが差し込むオンボロ寮の静寂の中で、ヴィルの顔が近づいてくる。
「喧嘩の罰よ。……受け入れなさい」
重なる唇は、塗り込まれたクリームよりもずっと熱い。驚きに目を見開いたななしだったが、すぐに力を抜き、ヴィルの背中に手を回した。
数秒の後、名残惜しそうに唇を離したヴィルは、ななしの額に自分の額を預ける。
「……これでもまだ、世界が違うなんて言うのかしら?」
「……言いません。もう、絶対に」
「わかったならいいのよ」
ヴィルは勝ち誇ったように微笑み、ななしの髪を優しく整える。
すれ違っていた心が、確かな熱を持って重なり合った瞬間。
窓の外では夜の静寂だけが二人を包み込んでいた。
