ポムフィオーレ
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オンボロ寮の談話室に場違いなほど洗練された香水の残り香が漂う。ヴィルは窓際の古びたソファに腰を下ろし、手元にある台本に視線を落としていた。
しかし、その瞳は文字の羅列を追ってはいない。意識の先にあるのは、キッチンで鼻歌を交えながら紅茶の準備をするななしの背中。
「ヴィル先輩お待たせしました。今日はちょっと良い茶葉が手に入ったんです」
ななしが差し出したカップからは、湯気と共に柔らかな香りが立ち上る。ヴィルはそれを美しく受け取ると、一口だけ含んで小さく息を吐いた。
「……悪くないわね。アンタにしては上出来じゃない」
「よかった。ヴィル先輩に褒めてもらえると、なんだか自信がつきます」
屈託のない笑顔。その表情に嘘はない。ヴィルはその混じりけのない視線を受け止めるたびに、胸の奥を小さな棘で刺されるような感覚に陥る。
彼は美しさの体現者であり常に完璧であることを自らに課してきた。他人からどう見られるか、どう魅せるか。その答えを導き出すことに苦労したことなどない。だが、目の前で楽しそうに自分の分まで茶を注いでいるこの少女に対してだけは、正解が見つからなかった。
「ななし、アンタ、今日の肌のコンディションはどうなの。少し乾燥しているように見えるけれど」
「あ、バレました? 最近ちょっと夜更かししちゃってて」
「だらしないわね。ちょっと来なさい、少し直してあげるわ」
ヴィルは傍らに置いていた化粧ポーチから、厳選された保湿バームを取り出す。手招きをすると、ななしは素直に彼の膝元に近寄り、無防備に顔を上げた。
至近距離。
ヴィルの指先が、彼女の頬に触れる。
吸い付くような肌の感触が、指先から神経を伝って脳を焼く。ヴィルの呼吸が一瞬、わずかに乱れた。
(……これじゃ、いつもと同じじゃない)
彼は心の中で自嘲する。面倒見の良い先輩、美意識の高い指導者。彼女が自分に向ける眼差しは、尊敬と親愛に満ちている。そこには「男」として彼を意識する色は微塵も存在しない。
「……ヴィル先輩の手、気持ちいいですね」
ななしが目を細めて呟く。その言葉にヴィルの指が止まった。彼女にとって、この接触は単なるケアの一環に過ぎない。
もしこれが他の誰かであれば、彼はもっと冷徹に、あるいは妖艶に振る舞い、相手を翻弄することなど容易かっただろう。
しかし、この鈍感な少女を前にすると、彼の築き上げてきた完璧なペルソナは脆くも崩れ去る。嫌われたくないという臆病さと、独占したいという強欲さが、彼の内側で激しくせめぎ合っていた。
「アンタね……。少しは警戒心というものを持ちなさい」
ヴィルはわざと低めの声で突き放すように言った。
「えっ? ヴィル先輩相手に警戒なんて必要ないですよ。だって、一番信頼できる先輩ですから」
その言葉は、本来なら喜ばしいはずのものだった。だが今のヴィルには、それこそが自分を閉じ込める鎖のように感じられる。
「……信頼、ね。アタシがアンタに何をしても、アンタはそう笑っていられるかしら」
ヴィルの瞳が鋭さを増す。
彼はバームを塗る手を止め、彼女の顎をクイと持ち上げた。無理やり視線を合わせる。逃げ場を奪うような、激しい感情がその紫の瞳に宿る。
「……ヴィル、先輩?」
ななしの瞳に、初めて小さな戸惑いが浮かんだ。その揺らぎに、ヴィルの心臓が跳ねる。もっと追い詰めたい、この平穏を壊してやりたいという衝動が理性を浸食していく。
彼は彼女の唇を親指でなぞった。薄く、柔らかい感触。ここを奪ってしまえば、彼女の脳裏に自分の刻印を刻めるだろうか。高潔な女王ではなく、一人の男として、彼女の世界を塗り替えられるだろうか。
だが、ななしの瞳に宿ったのは恐怖ではなく、ただ純粋な「心配」だった。
「あの、ヴィル先輩……。どこか具合でも悪いんですか? 顔が、すごく怖いです」
ヴィルは脱力した。
指を離し、深いため息を吐き出す。
「……アンタって、本当に……救いようがないわね」
「ええっ、酷い! 何か変なこと言いましたっけ」
「いいえ。アタシが勝手に苛立っているだけよ。……お茶、もう一杯淹れなさい。今度はアタシが持ってきたドライフルーツも出しなさい」
ヴィルは背もたれに深く身を預け、台本で顔を半分隠した。赤く染まりかけた耳元を、彼女に見られないように。
想いを寄せる相手に対して、どう振る舞うのが正解か。その問いに対して、世界で最も美しいはずの男は、まだ答えを出せずにいる。
スクリーン上の自分なら、きっと優雅に微笑んで彼女を誘惑するだろう。だが現実のヴィルは、ただお茶のおかわりを要求することしかできなかった。
「はい! すぐ準備しますね」
パタパタとキッチンへ戻っていく足音を聞きながら、ヴィルは閉じた瞼の裏で彼女の体温を思い出していた。
「……美しくないわね、アタシも」
独り言は古びた寮の静寂の中に溶けて消えた。彼が本当の意味で彼女に「男」として認識される日は、まだ少し先のことになりそうだった。
しかし、その瞳は文字の羅列を追ってはいない。意識の先にあるのは、キッチンで鼻歌を交えながら紅茶の準備をするななしの背中。
「ヴィル先輩お待たせしました。今日はちょっと良い茶葉が手に入ったんです」
ななしが差し出したカップからは、湯気と共に柔らかな香りが立ち上る。ヴィルはそれを美しく受け取ると、一口だけ含んで小さく息を吐いた。
「……悪くないわね。アンタにしては上出来じゃない」
「よかった。ヴィル先輩に褒めてもらえると、なんだか自信がつきます」
屈託のない笑顔。その表情に嘘はない。ヴィルはその混じりけのない視線を受け止めるたびに、胸の奥を小さな棘で刺されるような感覚に陥る。
彼は美しさの体現者であり常に完璧であることを自らに課してきた。他人からどう見られるか、どう魅せるか。その答えを導き出すことに苦労したことなどない。だが、目の前で楽しそうに自分の分まで茶を注いでいるこの少女に対してだけは、正解が見つからなかった。
「ななし、アンタ、今日の肌のコンディションはどうなの。少し乾燥しているように見えるけれど」
「あ、バレました? 最近ちょっと夜更かししちゃってて」
「だらしないわね。ちょっと来なさい、少し直してあげるわ」
ヴィルは傍らに置いていた化粧ポーチから、厳選された保湿バームを取り出す。手招きをすると、ななしは素直に彼の膝元に近寄り、無防備に顔を上げた。
至近距離。
ヴィルの指先が、彼女の頬に触れる。
吸い付くような肌の感触が、指先から神経を伝って脳を焼く。ヴィルの呼吸が一瞬、わずかに乱れた。
(……これじゃ、いつもと同じじゃない)
彼は心の中で自嘲する。面倒見の良い先輩、美意識の高い指導者。彼女が自分に向ける眼差しは、尊敬と親愛に満ちている。そこには「男」として彼を意識する色は微塵も存在しない。
「……ヴィル先輩の手、気持ちいいですね」
ななしが目を細めて呟く。その言葉にヴィルの指が止まった。彼女にとって、この接触は単なるケアの一環に過ぎない。
もしこれが他の誰かであれば、彼はもっと冷徹に、あるいは妖艶に振る舞い、相手を翻弄することなど容易かっただろう。
しかし、この鈍感な少女を前にすると、彼の築き上げてきた完璧なペルソナは脆くも崩れ去る。嫌われたくないという臆病さと、独占したいという強欲さが、彼の内側で激しくせめぎ合っていた。
「アンタね……。少しは警戒心というものを持ちなさい」
ヴィルはわざと低めの声で突き放すように言った。
「えっ? ヴィル先輩相手に警戒なんて必要ないですよ。だって、一番信頼できる先輩ですから」
その言葉は、本来なら喜ばしいはずのものだった。だが今のヴィルには、それこそが自分を閉じ込める鎖のように感じられる。
「……信頼、ね。アタシがアンタに何をしても、アンタはそう笑っていられるかしら」
ヴィルの瞳が鋭さを増す。
彼はバームを塗る手を止め、彼女の顎をクイと持ち上げた。無理やり視線を合わせる。逃げ場を奪うような、激しい感情がその紫の瞳に宿る。
「……ヴィル、先輩?」
ななしの瞳に、初めて小さな戸惑いが浮かんだ。その揺らぎに、ヴィルの心臓が跳ねる。もっと追い詰めたい、この平穏を壊してやりたいという衝動が理性を浸食していく。
彼は彼女の唇を親指でなぞった。薄く、柔らかい感触。ここを奪ってしまえば、彼女の脳裏に自分の刻印を刻めるだろうか。高潔な女王ではなく、一人の男として、彼女の世界を塗り替えられるだろうか。
だが、ななしの瞳に宿ったのは恐怖ではなく、ただ純粋な「心配」だった。
「あの、ヴィル先輩……。どこか具合でも悪いんですか? 顔が、すごく怖いです」
ヴィルは脱力した。
指を離し、深いため息を吐き出す。
「……アンタって、本当に……救いようがないわね」
「ええっ、酷い! 何か変なこと言いましたっけ」
「いいえ。アタシが勝手に苛立っているだけよ。……お茶、もう一杯淹れなさい。今度はアタシが持ってきたドライフルーツも出しなさい」
ヴィルは背もたれに深く身を預け、台本で顔を半分隠した。赤く染まりかけた耳元を、彼女に見られないように。
想いを寄せる相手に対して、どう振る舞うのが正解か。その問いに対して、世界で最も美しいはずの男は、まだ答えを出せずにいる。
スクリーン上の自分なら、きっと優雅に微笑んで彼女を誘惑するだろう。だが現実のヴィルは、ただお茶のおかわりを要求することしかできなかった。
「はい! すぐ準備しますね」
パタパタとキッチンへ戻っていく足音を聞きながら、ヴィルは閉じた瞼の裏で彼女の体温を思い出していた。
「……美しくないわね、アタシも」
独り言は古びた寮の静寂の中に溶けて消えた。彼が本当の意味で彼女に「男」として認識される日は、まだ少し先のことになりそうだった。
