サバナクロー
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夕闇が校舎の影を長く引き延ばし、ナイトレイブンカレッジに排他的な静寂が訪れる。サバナクロー寮へ続く道すがら、ラギー・ブッチは自身の影を踏みながら歩みを進めていた。
背後から聞こえる少しばかり騒がしい足音。それが誰のものであるか、ラギーが聞き間違えるはずもない。
「ラギー先輩! 待ってくださいってば!」
呼び止める声に応じラギーは足を止める。
振り返った先にいたのは、オンボロ寮のななしだった。
ななしの足取りは、お世辞にも優雅とは言えない。石畳を無造作に蹴り、制服の裾を翻して走ってくる。しかし、その動作の端々には自分とは違う質が宿っていることをラギーは見逃さない。
「……なんスか、ななしくん。そんなに慌てて。オレ、今日はもうバイトの時間なんスけど」
ラギーはいつものように、食えない笑みを浮かべて見せる。だが、その胸の内では泥濘のような重苦しい感情が渦巻いている。
「これ、購買のパン。先輩、さっき落としたでしょ」
差し出されたのはビニール袋に入った安価なパンだ。ななしの手は、少しだけ土で汚れている。おそらく転びそうになったのか、あるいは何かを拾う際に地面についたのだろう。
「あー……。助かったッス」
受け取ろうとして指先が触れる。
その瞬間ラギーは言いようのない焦燥感に駆られた。
このななしという人間は自分がどれほど「まともな世界」の住人であるかを自覚していない。多少言葉遣いが悪く行動が雑であっても、その根底にあるのは、多くの愛情と余裕に裏打ちされた無垢な精神だ。
それはスラムのゴミ捨て場で這いつくばって生きてきたラギーが、どれほど手を伸ばしても届かない聖域だった。
「……君、その手の汚れ、放っておくと傷口からバイキン入るっスよ。少しは気にしたらどうなんスか」
「え? ああ、これくらい平気ですよ。あとで洗えばいいし」
ななしは無造作に自分のズボンで手を拭う。その動作は確かに粗野だ。だがその育ちの良さは、そういう表面的なマナーの欠如では隠しきれない。他人の悪意を疑わず汚れることを恐れないその潔さは、持たざる者には許されない贅沢だ。
ラギーはななしの瞳を直視できず、視線をパンの袋へと落とす。
「ななしくんさぁ。そんなんだと、悪い奴に騙されて全部毟り取られるっスよ。……例えば、オレみたいなやつに」
「ラギー先輩がわたしを騙す? ……ふふっ、無理ですよ。先輩、なんだかんだ言ってわたしには甘いじゃないですか」
屈託のない笑顔。それがラギーの心の奥深くに鋭い楔を打ち込む。
ラギーはななしが好きだった。
しかしその好意は彼を蝕んでいる。
自分は今日の食い扶持のために知恵を絞り、時には他人の足を引っ張って生き抜いてきたハイエナだ。一方ななしは、たとえ異世界に放り出されても、その魂の気品を失わない存在。二人の間には、魔法でも埋められない、深く暗い溝がある。
「……甘い、か。そう見えてるなら、オレの演技もまだまだっスね」
「演技じゃないでしょう。さっきのパンだって、本当はわたしにお裾分けしようと思って、わざと落としたんじゃないですか?」
ななしの指摘は鋭く、そして残酷だった。ラギーは否定せず、ただ喉の奥で乾いた笑い声を漏らす。
そう。自分は、この幸福な人物に少しでも関わりたくて、小賢しい真似を繰り返している。だが近づけば近づくほど、自分の惨めさが浮き彫りになる。
ラギーの頭の中に暗い想像が広がる。
もし、このななしを自分と同じ泥沼に引きずり込めたら。その綺麗な羽を毟り、自分の住む汚れたスラムに閉じ込めてしまえたら。そうすれば、この差に怯える必要もなくなるのではないか。
(……なんてね。そんなこと、できるわけないッスよ)
ラギーは内心で自嘲する。自分にそんな度胸はないし、何より泥にまみれたななしを見たくないと思っている自分自身が一番の障害だった。
「ななしくん、日も落ちてきたしもう戻った方がいいッスよ」
ラギーの声は意識せずとも低く、湿り気を帯びたものになる。
「先輩? なんだか今日の雰囲気、ちょっと怖いです」
ななしが少しだけ身を引き、不思議そうにラギーの顔を覗き込む。その表情に怯えはなく、ただ純粋な懸念だけがあった。
「怖がらせるつもりはないッスよ。ただの忠告。……君は、もっと自分を大事にした方がいい。オレみたいな奴に、無防備に近づいちゃダメッス」
「先輩のことは信じてますから」
さらりと言ってのけるななし。その言葉は、救いであると同時に、最悪の断絶だった。信じられているからこそ、裏切れない。信じられているからこそ、自分のどろどろとした欲望を隠し通さなければならない。
ラギーはポケットの中で拳を固く握りしめる。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
「……信じる、ね。安っぽい言葉ッス。でもまあ君らしいか」
ラギーは歩き出す。これ以上ななしの側にいては、抑え込んでいる何かが決壊してしまいそうだった。
「あ、ラギー先輩! 明日また購買で会いましょうね。次はわたしが奢りますから!」
背後から届く明るい声。ラギーは振り返らずに、ひらひらと手を振った。
(奢る、か。……君に奢られるほど、オレも落ちぶれてないッスよ、ななしくん)
落ちる影が明かりに共され、さらに濃くなる。
ラギーは手にした安物のパンを見つめた。ななしが触れた場所が、そこだけ熱を持っているような錯覚に陥る。
彼は決して手に入らないものを望んでいる。
光り輝く宝石を泥だらけの巣穴に持ち帰ることはできない。もし持ち帰ったとしても、それは巣穴の汚さを強調するだけで自分を豊かにはしてくれない。
「……柄にもないこと考えてるッスね、オレ」
独りごちる声は夜の風に溶けて消えた。
ラギーの瞳には冷徹な理性が宿っている。自分たちの間にある境界線を、彼は誰よりも理解していた。
だからこそ彼は今日も「頼れる先輩」の仮面を被り続ける。内側に潜む飢えた獣のような独占欲を誰にも気づかれないように。
ななしが自分を救ってくれると信じている限り、ラギーは彼を裏切ることはできない。それはラギーが自分自身に課した、呪いにも似た誓いだった。
(いつか、君がオレの本当の汚さを知った時……。その時、どんな顔をするのかだけは、ちょっと気になるッスけどね)
叶わない恋だと、結ばれるはずがないと諦めている。
それでもこの胸を締め付ける痛みだけは、彼が持っている唯一の純粋な真実だった。
校舎の窓から漏れる明かりがラギーの背中を冷たく照らし出している。彼は一度も足を止めることなく自分の居場所であるサバナクロー寮へと、闇に紛れるように消えていった。
そこに残ったのは、ただの静寂と夜の冷気だけだった。
背後から聞こえる少しばかり騒がしい足音。それが誰のものであるか、ラギーが聞き間違えるはずもない。
「ラギー先輩! 待ってくださいってば!」
呼び止める声に応じラギーは足を止める。
振り返った先にいたのは、オンボロ寮のななしだった。
ななしの足取りは、お世辞にも優雅とは言えない。石畳を無造作に蹴り、制服の裾を翻して走ってくる。しかし、その動作の端々には自分とは違う質が宿っていることをラギーは見逃さない。
「……なんスか、ななしくん。そんなに慌てて。オレ、今日はもうバイトの時間なんスけど」
ラギーはいつものように、食えない笑みを浮かべて見せる。だが、その胸の内では泥濘のような重苦しい感情が渦巻いている。
「これ、購買のパン。先輩、さっき落としたでしょ」
差し出されたのはビニール袋に入った安価なパンだ。ななしの手は、少しだけ土で汚れている。おそらく転びそうになったのか、あるいは何かを拾う際に地面についたのだろう。
「あー……。助かったッス」
受け取ろうとして指先が触れる。
その瞬間ラギーは言いようのない焦燥感に駆られた。
このななしという人間は自分がどれほど「まともな世界」の住人であるかを自覚していない。多少言葉遣いが悪く行動が雑であっても、その根底にあるのは、多くの愛情と余裕に裏打ちされた無垢な精神だ。
それはスラムのゴミ捨て場で這いつくばって生きてきたラギーが、どれほど手を伸ばしても届かない聖域だった。
「……君、その手の汚れ、放っておくと傷口からバイキン入るっスよ。少しは気にしたらどうなんスか」
「え? ああ、これくらい平気ですよ。あとで洗えばいいし」
ななしは無造作に自分のズボンで手を拭う。その動作は確かに粗野だ。だがその育ちの良さは、そういう表面的なマナーの欠如では隠しきれない。他人の悪意を疑わず汚れることを恐れないその潔さは、持たざる者には許されない贅沢だ。
ラギーはななしの瞳を直視できず、視線をパンの袋へと落とす。
「ななしくんさぁ。そんなんだと、悪い奴に騙されて全部毟り取られるっスよ。……例えば、オレみたいなやつに」
「ラギー先輩がわたしを騙す? ……ふふっ、無理ですよ。先輩、なんだかんだ言ってわたしには甘いじゃないですか」
屈託のない笑顔。それがラギーの心の奥深くに鋭い楔を打ち込む。
ラギーはななしが好きだった。
しかしその好意は彼を蝕んでいる。
自分は今日の食い扶持のために知恵を絞り、時には他人の足を引っ張って生き抜いてきたハイエナだ。一方ななしは、たとえ異世界に放り出されても、その魂の気品を失わない存在。二人の間には、魔法でも埋められない、深く暗い溝がある。
「……甘い、か。そう見えてるなら、オレの演技もまだまだっスね」
「演技じゃないでしょう。さっきのパンだって、本当はわたしにお裾分けしようと思って、わざと落としたんじゃないですか?」
ななしの指摘は鋭く、そして残酷だった。ラギーは否定せず、ただ喉の奥で乾いた笑い声を漏らす。
そう。自分は、この幸福な人物に少しでも関わりたくて、小賢しい真似を繰り返している。だが近づけば近づくほど、自分の惨めさが浮き彫りになる。
ラギーの頭の中に暗い想像が広がる。
もし、このななしを自分と同じ泥沼に引きずり込めたら。その綺麗な羽を毟り、自分の住む汚れたスラムに閉じ込めてしまえたら。そうすれば、この差に怯える必要もなくなるのではないか。
(……なんてね。そんなこと、できるわけないッスよ)
ラギーは内心で自嘲する。自分にそんな度胸はないし、何より泥にまみれたななしを見たくないと思っている自分自身が一番の障害だった。
「ななしくん、日も落ちてきたしもう戻った方がいいッスよ」
ラギーの声は意識せずとも低く、湿り気を帯びたものになる。
「先輩? なんだか今日の雰囲気、ちょっと怖いです」
ななしが少しだけ身を引き、不思議そうにラギーの顔を覗き込む。その表情に怯えはなく、ただ純粋な懸念だけがあった。
「怖がらせるつもりはないッスよ。ただの忠告。……君は、もっと自分を大事にした方がいい。オレみたいな奴に、無防備に近づいちゃダメッス」
「先輩のことは信じてますから」
さらりと言ってのけるななし。その言葉は、救いであると同時に、最悪の断絶だった。信じられているからこそ、裏切れない。信じられているからこそ、自分のどろどろとした欲望を隠し通さなければならない。
ラギーはポケットの中で拳を固く握りしめる。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
「……信じる、ね。安っぽい言葉ッス。でもまあ君らしいか」
ラギーは歩き出す。これ以上ななしの側にいては、抑え込んでいる何かが決壊してしまいそうだった。
「あ、ラギー先輩! 明日また購買で会いましょうね。次はわたしが奢りますから!」
背後から届く明るい声。ラギーは振り返らずに、ひらひらと手を振った。
(奢る、か。……君に奢られるほど、オレも落ちぶれてないッスよ、ななしくん)
落ちる影が明かりに共され、さらに濃くなる。
ラギーは手にした安物のパンを見つめた。ななしが触れた場所が、そこだけ熱を持っているような錯覚に陥る。
彼は決して手に入らないものを望んでいる。
光り輝く宝石を泥だらけの巣穴に持ち帰ることはできない。もし持ち帰ったとしても、それは巣穴の汚さを強調するだけで自分を豊かにはしてくれない。
「……柄にもないこと考えてるッスね、オレ」
独りごちる声は夜の風に溶けて消えた。
ラギーの瞳には冷徹な理性が宿っている。自分たちの間にある境界線を、彼は誰よりも理解していた。
だからこそ彼は今日も「頼れる先輩」の仮面を被り続ける。内側に潜む飢えた獣のような独占欲を誰にも気づかれないように。
ななしが自分を救ってくれると信じている限り、ラギーは彼を裏切ることはできない。それはラギーが自分自身に課した、呪いにも似た誓いだった。
(いつか、君がオレの本当の汚さを知った時……。その時、どんな顔をするのかだけは、ちょっと気になるッスけどね)
叶わない恋だと、結ばれるはずがないと諦めている。
それでもこの胸を締め付ける痛みだけは、彼が持っている唯一の純粋な真実だった。
校舎の窓から漏れる明かりがラギーの背中を冷たく照らし出している。彼は一度も足を止めることなく自分の居場所であるサバナクロー寮へと、闇に紛れるように消えていった。
そこに残ったのは、ただの静寂と夜の冷気だけだった。
