ポムフィオーレ
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オンボロ寮の窓を叩く雨音は、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
薄暗い部屋の中で、唯一鮮やかに発光しているかのような存在――ポムフィオーレ寮長ヴィル・シェーンハイト。
「……ヴィル先輩、もうこんな時間ですけれど」
「静かにしなさい、ななし。今、アタシはアンタの肌のコンディションを確認しているところよ」
彼は手にした小さなパレットから、一筆、また一筆と、ななしの唇に紅を乗せていく。
ななしは彼の強引な美の追求に逆らう術を持たない。ただ彼から漂う気高い香りに包まれながら、されるがままに座っていた。
「いい、ななし。美しさとは、何も飾らないことではないわ。自分という素材を、どれだけ自覚的に、完璧にプロデュースできるか。……アンタは、その自覚が絶望的に足りない」
ヴィルの指先がななしの顎を持ち上げた。
鏡などなくとも、彼の瞳そのものが鏡のようにななしの姿を映し出している。そこには緊張で強張った自分の顔と、冷徹なほどに美しい彼の貌があった。
「でも、その磨けば光る原石のような鈍さ……。嫌いじゃないわ。アタシの手で一から塗り潰してあげたくなるもの」
ヴィルはそう言うと満足げに筆を置いた。
「さあ、仕上げよ。……こちらへいらっしゃい」
抗いようのない響きを含んだ声に促され、ななしは一歩、彼の間近へと歩み寄った。ヴィルは立ち上がり、完璧な所作で見下ろす。その長身から放たれる威圧感は、決して暴力的なものではない。ただ圧倒的な「正しさ」を突きつけられているような、心地よい敗北感に似ていた。
ななしの腰に手を回すと、逃げ場を塞ぐように強く引き寄せた。密着した体温。寮服の豪華な刺繍が、ななしの制服越しに肌を刺す。
「アタシが選んだこの色には、特別な魔法がかかっているの。……味を確かめた者にしか解けない、独占の呪い」
ヴィルの顔が、ゆっくりと降りてくる。
長い睫毛が影を落とし、瞳がななしの視線を一本も逃さぬよう射抜いた。唇が触れる直前、彼は楽しげに目を細めた。
「瞬きもしないで。最高のアタシを、その目に焼き付けなさい」
重なった唇からは、彼が愛用している最高級のグロスの味がした。
冷たいプロフェッショナルな感触を予想していたのに、実際に触れたヴィルの唇は、驚くほど柔らかく、そして火傷しそうなほどに熱い。
鼻腔を抜ける芳醇な香りと、口腔内に広がる未知の味。
それは、彼が普段口にしている特別にブレンドされたハーブティーのようでもあり、あるいは禁断の果実をかじった時のような、甘美で危険な痺れを伴っていた。
一度目のキスは、確認するように。
二度目のキスは、反応を楽しむように。
そして三度目、彼はななしの唇を割るようにして、さらに深く、支配の印を刻み込んできた。
心臓の鼓動が、自分のものであるか、彼のものなのか――判別がつかなくなっていく。ただ彼の肩を掴み、溺れないようにしがみつくことしかできなかった。
「ふ……っ、ん……」
呼吸が苦しくなり、ななしの喉から小さく掠れた声が漏れる。
するとヴィルは、名残惜しそうに、けれど優雅な仕草で唇を離した。
銀の糸が微かに引かれ、ななしの赤く腫れた唇を、彼と同じ紅が縁取っている。
「……ねえ、ななし。アタシのキスのお味はいかが?」
彼は親指で自分の口角を拭いながら、艶然と微笑んだ。
その問いかけは、感想を求めているのではない。彼という絶対的な美の前に、完全に屈服したことを認めさせるための儀式だった。
「……甘くて、少し……苦いです」
「あら、正直ね。それは、アタシが甘やかしているせい? それとも、ななしの心がアタシに追いつけないことへの、焦燥の苦味かしら」
ヴィルはななしの頬に手を添え、愛おしむように親指で肌を撫でた。
「いいわ。その甘さと苦さを、一生忘れないように脳裏に刻み込みなさい。アタシという最高の美がアンタの内側にまで入り込んだという事実を」
雨音はいつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から差し込む月光が、部屋の中に座る二人を照らし出す。
ヴィルは鏡を取り出し、ななしの乱れた髪を丁寧に整え直した。
「明日、鏡を見たときに、今日のこの熱を思い出しなさい。アタシ以外の男に目を向けようとしたら、その唇の味を思い出して罪悪感に苛まれるがいいわ」
ヴィルはななしの耳元に唇を寄せ、毒を流し込むような甘い声で囁いた。
「ななしはアタシの最高傑作になるの。……心も、体も、その魂さえも、アタシの色に染め上げてあげる」
ヴィルが去った後の部屋には、ただ彼の残り香だけが濃密に漂っていた。鏡に映るななしの唇は、まだ熱を持ち、鮮やかな深紅のまま。彼が残した味は、単なる口づけ以上の重みを持って、ななしの全身を縛り付けていた。
それが救いなのか、あるいは永遠の呪縛なのか。
静かな部屋の中で、ななしは指先で自分の唇に触れ、もう一度だけ、彼が残した甘い毒を確かめるように舌先でなぞった。
「……ずるいです、ヴィル先輩」
独り言のように漏らした声さえも、彼が望んだ響きのまま夜の闇に溶けていった。
薄暗い部屋の中で、唯一鮮やかに発光しているかのような存在――ポムフィオーレ寮長ヴィル・シェーンハイト。
「……ヴィル先輩、もうこんな時間ですけれど」
「静かにしなさい、ななし。今、アタシはアンタの肌のコンディションを確認しているところよ」
彼は手にした小さなパレットから、一筆、また一筆と、ななしの唇に紅を乗せていく。
ななしは彼の強引な美の追求に逆らう術を持たない。ただ彼から漂う気高い香りに包まれながら、されるがままに座っていた。
「いい、ななし。美しさとは、何も飾らないことではないわ。自分という素材を、どれだけ自覚的に、完璧にプロデュースできるか。……アンタは、その自覚が絶望的に足りない」
ヴィルの指先がななしの顎を持ち上げた。
鏡などなくとも、彼の瞳そのものが鏡のようにななしの姿を映し出している。そこには緊張で強張った自分の顔と、冷徹なほどに美しい彼の貌があった。
「でも、その磨けば光る原石のような鈍さ……。嫌いじゃないわ。アタシの手で一から塗り潰してあげたくなるもの」
ヴィルはそう言うと満足げに筆を置いた。
「さあ、仕上げよ。……こちらへいらっしゃい」
抗いようのない響きを含んだ声に促され、ななしは一歩、彼の間近へと歩み寄った。ヴィルは立ち上がり、完璧な所作で見下ろす。その長身から放たれる威圧感は、決して暴力的なものではない。ただ圧倒的な「正しさ」を突きつけられているような、心地よい敗北感に似ていた。
ななしの腰に手を回すと、逃げ場を塞ぐように強く引き寄せた。密着した体温。寮服の豪華な刺繍が、ななしの制服越しに肌を刺す。
「アタシが選んだこの色には、特別な魔法がかかっているの。……味を確かめた者にしか解けない、独占の呪い」
ヴィルの顔が、ゆっくりと降りてくる。
長い睫毛が影を落とし、瞳がななしの視線を一本も逃さぬよう射抜いた。唇が触れる直前、彼は楽しげに目を細めた。
「瞬きもしないで。最高のアタシを、その目に焼き付けなさい」
重なった唇からは、彼が愛用している最高級のグロスの味がした。
冷たいプロフェッショナルな感触を予想していたのに、実際に触れたヴィルの唇は、驚くほど柔らかく、そして火傷しそうなほどに熱い。
鼻腔を抜ける芳醇な香りと、口腔内に広がる未知の味。
それは、彼が普段口にしている特別にブレンドされたハーブティーのようでもあり、あるいは禁断の果実をかじった時のような、甘美で危険な痺れを伴っていた。
一度目のキスは、確認するように。
二度目のキスは、反応を楽しむように。
そして三度目、彼はななしの唇を割るようにして、さらに深く、支配の印を刻み込んできた。
心臓の鼓動が、自分のものであるか、彼のものなのか――判別がつかなくなっていく。ただ彼の肩を掴み、溺れないようにしがみつくことしかできなかった。
「ふ……っ、ん……」
呼吸が苦しくなり、ななしの喉から小さく掠れた声が漏れる。
するとヴィルは、名残惜しそうに、けれど優雅な仕草で唇を離した。
銀の糸が微かに引かれ、ななしの赤く腫れた唇を、彼と同じ紅が縁取っている。
「……ねえ、ななし。アタシのキスのお味はいかが?」
彼は親指で自分の口角を拭いながら、艶然と微笑んだ。
その問いかけは、感想を求めているのではない。彼という絶対的な美の前に、完全に屈服したことを認めさせるための儀式だった。
「……甘くて、少し……苦いです」
「あら、正直ね。それは、アタシが甘やかしているせい? それとも、ななしの心がアタシに追いつけないことへの、焦燥の苦味かしら」
ヴィルはななしの頬に手を添え、愛おしむように親指で肌を撫でた。
「いいわ。その甘さと苦さを、一生忘れないように脳裏に刻み込みなさい。アタシという最高の美がアンタの内側にまで入り込んだという事実を」
雨音はいつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から差し込む月光が、部屋の中に座る二人を照らし出す。
ヴィルは鏡を取り出し、ななしの乱れた髪を丁寧に整え直した。
「明日、鏡を見たときに、今日のこの熱を思い出しなさい。アタシ以外の男に目を向けようとしたら、その唇の味を思い出して罪悪感に苛まれるがいいわ」
ヴィルはななしの耳元に唇を寄せ、毒を流し込むような甘い声で囁いた。
「ななしはアタシの最高傑作になるの。……心も、体も、その魂さえも、アタシの色に染め上げてあげる」
ヴィルが去った後の部屋には、ただ彼の残り香だけが濃密に漂っていた。鏡に映るななしの唇は、まだ熱を持ち、鮮やかな深紅のまま。彼が残した味は、単なる口づけ以上の重みを持って、ななしの全身を縛り付けていた。
それが救いなのか、あるいは永遠の呪縛なのか。
静かな部屋の中で、ななしは指先で自分の唇に触れ、もう一度だけ、彼が残した甘い毒を確かめるように舌先でなぞった。
「……ずるいです、ヴィル先輩」
独り言のように漏らした声さえも、彼が望んだ響きのまま夜の闇に溶けていった。
