その他
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ホテルのラウンジは静かだった。
柔らかな照明と控えめなピアノの旋律。
窓の向こうに広がる街の灯りを眺めながら、ななしは小さく息を吐いた。
約束の時間までは、あと数分。
それなのに落ち着かない。
社会人になって数年。
取引先との打ち合わせにも慣れた。
知らない相手との食事だって珍しくない。
それでも今日ばかりは別だった。
「……待たせたな。あまりに良い毛並みの女性が座っているから、人違いかと思ったぞ」
聞き慣れた声だに思わず顔を上げる。
「クルーウェル先生!」
「久しいな、ななし」
そこに立っていた姿は記憶の中とほとんど変わっていない。
白と黒を基調とした装い。
堂々とした立ち姿。
視線ひとつで周囲の空気を変えてしまう存在感。
けれど――
「……どうした」
「いえ、その……本当に変わらないなって」
「褒め言葉として受け取っておこう」
彼は向かいへ腰を下ろした。
「お前の方は変わったな」
「そうですか?」
「ああ。昔はもう少し危なっかしかった」
「それは否定できません」
「今も十分に危なっかしいがな」
「ひどい」
「事実だろう」
即答に思わず笑う。
その反応を見て、クルーウェルも口元を緩めた。
「コーヒーでいいか」
「はい」
注文を済ませると、彼は改めてななしを見た。
「仕事はどうだ」
「忙しいです」
「それだけか?」
「毎日追いかけられてます」
「誰に」
「締め切りと顧客応対にです」
「なるほど。実に現代的な敵だな」
「先生は?」
「俺か?」
クルーウェルは肩を竦める。
「出来の悪い仔犬どもの相手をしている」
「変わってないですね」
「お前たちの代より騒がしい連中だ」
「そんなにですか?」
「授業中に菓子を食う。居眠りをする。薬品棚を勝手に開ける」
「最後はだいぶ危険ですね」
「毎日が刺激的だ」
運ばれてきたコーヒーから湯気が立つ。
クルーウェルはカップを持ち上げた。
「だがな、卒業式の日から教室が少し広く感じるようになった」
ななしは瞬きをした。
「……それって」
「お前たちがいなくなったからだ」
視線が合う。
「特に、お前がな」
言葉に詰まる。
昔からクルーウェルは真っ直ぐだった。
生徒を褒める時も叱る時も。
だからこそ、その一言は思っていた以上に胸へ届く。
◇
「覚えていますか」
「何をだ」
「実験でビーカーを割った時のこと」
「ああ」
返事が早い。
「お前は真っ青な顔をしていたな」
「怒られると思ってました」
「怒っただろう」
「怒られました」
「当然だ」
クルーウェルは笑う。
「だが、怪我がなくて安心したのも事実だ」
「それ、初めて聞きました」
「言う必要がなかったからな」
「意外です」
「俺を何だと思っている」
「怖い先生」
「正解だ」
即答だった。
二人で笑う。
「先生って、案外優しかったですよね」
「案外とは何だ」
「厳しかったけど」
「教育には必要だ」
「でも、ちゃんと見てくれてました」
クルーウェルは何も言わなかった。
静かな時間が流れる。
やがて彼が口を開く。
「教師という仕事はな、生徒を送り出す仕事だ」
「……」
「巣立たせるために教える。だから別れは前提だ」
カップが静かに置かれる。
「理解していたつもりだった」
「先生」
「だが、お前を送り出した日は思った以上に堪えた」
ななしは目を見開いた。
「卒業式のあと、教室へ戻った」
「……」
「誰もいない教室を見るのは初めてではなかったがな」
彼は小さく笑う。
「妙に静かだった」
◇
「……あの時」
ななしが口を開く。
「卒業式の日、先生が言ったこと覚えてます」
「ほう」
「『卒業しても、お前たちは俺の仔犬だ』って」
「言ったな」
「正直、泣きそうでした」
「泣いていただろう」
「泣いてません」
「目が真っ赤だった」
「それは……」
言葉に詰まる。
「……泣いてました」
「素直でよろしい」
クルーウェルが笑う。
その顔を見て、ななしも笑った。
「先生は泣かなかったんですか」
「教師が卒業式で泣くものか」
「本当に?」
「……」
「先生?」
「仔犬」
「はい」
「あまり追及するな」
「やっぱり泣いたんですね」
「さあな」
珍しく視線を逸らす。
その姿がおかしくて、ななしは肩を震わせた。
◇
ラウンジを出る頃には夜が深くなっていた。
「送る」
「えっ」
「断る理由があるか?」
「ありません」
「なら決まりだ」
並んで歩く。
昔は見上げていた背中。
今は隣に並んでいる。
それなのに距離はまだ遠い気がした。
「先生」
「何だ」
「今日はどうして誘ってくれたんですか」
クルーウェルは少し黙った。
「確認だ」
「確認?」
「ああ」
歩みが止まる。
「お前が元気にやっているか」
「はい」
「無理をしていないか」
「多分」
「曖昧だな」
「少しだけ無理してます」
「だろうな」
呆れたような声。
けれど優しい。
「それから、もうひとつ確認したかった」
「何をですか?」
「俺がお前を見てどう思うのか」
ななしは息を止めた。
「教師として会いたかったのか」
「……」
「昔の生徒として気に掛けていたのか」
静かな声だった。
「それとも、別の理由なのか」
心臓が大きく鳴る。
「答えは出たんですか」
「出た」
即答だった。
「困ったことにな」
「困った?」
「ああ」
クルーウェルは小さく笑う。
「俺は教師として優秀だと思っていたんだが」
「はい」
「案外そうでもなかったらしい」
「どうしてですか?」
「教え子をひとりの女性として見ている」
夜風が頬を撫でる。
「卒業して何年も経つ」
「……はい」
「立場の問題もない」
「はい」
「だが、それでも簡単には割り切れなかった」
彼は少しだけ視線を落とした。
「教師でいた時間は思っていたより長かったようだ」
◇
「先生」
「何だ」
「わたしも、ひとつ言っていいですか」
「ああ」
「卒業してからも、時々思い出してました」
「……」
「仕事で失敗した時とか」
「ほう」
「絶対怒られるって」
「間違ってはいないな」
「でも、最後にはちゃんと助けてくれるって思ってました」
クルーウェルは黙っていた。
「先生ってそういう人だったから」
「……買い被りすぎだ」
「違います」
足を止める。
「ずっと、会いたかったです」
クルーウェルが目を見開く。
「先生に会って、ちゃんと大人になれたって言いたかった」
「ななし」
「でも多分、まだ全然ですね」
「何故そう思う」
「だって今すごく緊張してるので」
「……全くだ」
クルーウェルが笑った。
「お前という仔犬は」
「仔犬は卒業したはずです」
「残念だが無理だな」
「どうしてですか」
「俺が決めた」
横暴だった。
昔と変わらない。
「卒業しても変わらん」
「先生」
「俺にとってお前は特別な仔犬だ」
言葉が止まる。
「だが、」
クルーウェルは静かに続けた。
「もし許されるなら」
教師の顔ではない。
ひとりの男の顔だった。
「これからは違う呼び方を考えてもいいかもしれんな」
「……例えば?」
「それは今後の課題だ」
「宿題ですか」
「ああ」
彼は口元を緩める。
「次に会うまでに考えておこう」
「次?」
「嫌か?」
「いいえ」
即答だった。
「また会いたいです」
「なら決まりだ」
クルーウェルが手を差し出す。
「エスコートさせろ」
ななしはその手を見る。
昔なら、教師と生徒だった頃なら。
きっと触れられなかった距離。
けれど今は違う。
そっと手を重ねる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそだ」
クルーウェルが目を細める。
「かつての教師としてではなく」
「……はい」
「ひとりの男として、改めてよろしく頼む」
街の灯りが揺れていた。
並んだ足取りは、ゆっくりと夜の街へ溶けていった。
柔らかな照明と控えめなピアノの旋律。
窓の向こうに広がる街の灯りを眺めながら、ななしは小さく息を吐いた。
約束の時間までは、あと数分。
それなのに落ち着かない。
社会人になって数年。
取引先との打ち合わせにも慣れた。
知らない相手との食事だって珍しくない。
それでも今日ばかりは別だった。
「……待たせたな。あまりに良い毛並みの女性が座っているから、人違いかと思ったぞ」
聞き慣れた声だに思わず顔を上げる。
「クルーウェル先生!」
「久しいな、ななし」
そこに立っていた姿は記憶の中とほとんど変わっていない。
白と黒を基調とした装い。
堂々とした立ち姿。
視線ひとつで周囲の空気を変えてしまう存在感。
けれど――
「……どうした」
「いえ、その……本当に変わらないなって」
「褒め言葉として受け取っておこう」
彼は向かいへ腰を下ろした。
「お前の方は変わったな」
「そうですか?」
「ああ。昔はもう少し危なっかしかった」
「それは否定できません」
「今も十分に危なっかしいがな」
「ひどい」
「事実だろう」
即答に思わず笑う。
その反応を見て、クルーウェルも口元を緩めた。
「コーヒーでいいか」
「はい」
注文を済ませると、彼は改めてななしを見た。
「仕事はどうだ」
「忙しいです」
「それだけか?」
「毎日追いかけられてます」
「誰に」
「締め切りと顧客応対にです」
「なるほど。実に現代的な敵だな」
「先生は?」
「俺か?」
クルーウェルは肩を竦める。
「出来の悪い仔犬どもの相手をしている」
「変わってないですね」
「お前たちの代より騒がしい連中だ」
「そんなにですか?」
「授業中に菓子を食う。居眠りをする。薬品棚を勝手に開ける」
「最後はだいぶ危険ですね」
「毎日が刺激的だ」
運ばれてきたコーヒーから湯気が立つ。
クルーウェルはカップを持ち上げた。
「だがな、卒業式の日から教室が少し広く感じるようになった」
ななしは瞬きをした。
「……それって」
「お前たちがいなくなったからだ」
視線が合う。
「特に、お前がな」
言葉に詰まる。
昔からクルーウェルは真っ直ぐだった。
生徒を褒める時も叱る時も。
だからこそ、その一言は思っていた以上に胸へ届く。
◇
「覚えていますか」
「何をだ」
「実験でビーカーを割った時のこと」
「ああ」
返事が早い。
「お前は真っ青な顔をしていたな」
「怒られると思ってました」
「怒っただろう」
「怒られました」
「当然だ」
クルーウェルは笑う。
「だが、怪我がなくて安心したのも事実だ」
「それ、初めて聞きました」
「言う必要がなかったからな」
「意外です」
「俺を何だと思っている」
「怖い先生」
「正解だ」
即答だった。
二人で笑う。
「先生って、案外優しかったですよね」
「案外とは何だ」
「厳しかったけど」
「教育には必要だ」
「でも、ちゃんと見てくれてました」
クルーウェルは何も言わなかった。
静かな時間が流れる。
やがて彼が口を開く。
「教師という仕事はな、生徒を送り出す仕事だ」
「……」
「巣立たせるために教える。だから別れは前提だ」
カップが静かに置かれる。
「理解していたつもりだった」
「先生」
「だが、お前を送り出した日は思った以上に堪えた」
ななしは目を見開いた。
「卒業式のあと、教室へ戻った」
「……」
「誰もいない教室を見るのは初めてではなかったがな」
彼は小さく笑う。
「妙に静かだった」
◇
「……あの時」
ななしが口を開く。
「卒業式の日、先生が言ったこと覚えてます」
「ほう」
「『卒業しても、お前たちは俺の仔犬だ』って」
「言ったな」
「正直、泣きそうでした」
「泣いていただろう」
「泣いてません」
「目が真っ赤だった」
「それは……」
言葉に詰まる。
「……泣いてました」
「素直でよろしい」
クルーウェルが笑う。
その顔を見て、ななしも笑った。
「先生は泣かなかったんですか」
「教師が卒業式で泣くものか」
「本当に?」
「……」
「先生?」
「仔犬」
「はい」
「あまり追及するな」
「やっぱり泣いたんですね」
「さあな」
珍しく視線を逸らす。
その姿がおかしくて、ななしは肩を震わせた。
◇
ラウンジを出る頃には夜が深くなっていた。
「送る」
「えっ」
「断る理由があるか?」
「ありません」
「なら決まりだ」
並んで歩く。
昔は見上げていた背中。
今は隣に並んでいる。
それなのに距離はまだ遠い気がした。
「先生」
「何だ」
「今日はどうして誘ってくれたんですか」
クルーウェルは少し黙った。
「確認だ」
「確認?」
「ああ」
歩みが止まる。
「お前が元気にやっているか」
「はい」
「無理をしていないか」
「多分」
「曖昧だな」
「少しだけ無理してます」
「だろうな」
呆れたような声。
けれど優しい。
「それから、もうひとつ確認したかった」
「何をですか?」
「俺がお前を見てどう思うのか」
ななしは息を止めた。
「教師として会いたかったのか」
「……」
「昔の生徒として気に掛けていたのか」
静かな声だった。
「それとも、別の理由なのか」
心臓が大きく鳴る。
「答えは出たんですか」
「出た」
即答だった。
「困ったことにな」
「困った?」
「ああ」
クルーウェルは小さく笑う。
「俺は教師として優秀だと思っていたんだが」
「はい」
「案外そうでもなかったらしい」
「どうしてですか?」
「教え子をひとりの女性として見ている」
夜風が頬を撫でる。
「卒業して何年も経つ」
「……はい」
「立場の問題もない」
「はい」
「だが、それでも簡単には割り切れなかった」
彼は少しだけ視線を落とした。
「教師でいた時間は思っていたより長かったようだ」
◇
「先生」
「何だ」
「わたしも、ひとつ言っていいですか」
「ああ」
「卒業してからも、時々思い出してました」
「……」
「仕事で失敗した時とか」
「ほう」
「絶対怒られるって」
「間違ってはいないな」
「でも、最後にはちゃんと助けてくれるって思ってました」
クルーウェルは黙っていた。
「先生ってそういう人だったから」
「……買い被りすぎだ」
「違います」
足を止める。
「ずっと、会いたかったです」
クルーウェルが目を見開く。
「先生に会って、ちゃんと大人になれたって言いたかった」
「ななし」
「でも多分、まだ全然ですね」
「何故そう思う」
「だって今すごく緊張してるので」
「……全くだ」
クルーウェルが笑った。
「お前という仔犬は」
「仔犬は卒業したはずです」
「残念だが無理だな」
「どうしてですか」
「俺が決めた」
横暴だった。
昔と変わらない。
「卒業しても変わらん」
「先生」
「俺にとってお前は特別な仔犬だ」
言葉が止まる。
「だが、」
クルーウェルは静かに続けた。
「もし許されるなら」
教師の顔ではない。
ひとりの男の顔だった。
「これからは違う呼び方を考えてもいいかもしれんな」
「……例えば?」
「それは今後の課題だ」
「宿題ですか」
「ああ」
彼は口元を緩める。
「次に会うまでに考えておこう」
「次?」
「嫌か?」
「いいえ」
即答だった。
「また会いたいです」
「なら決まりだ」
クルーウェルが手を差し出す。
「エスコートさせろ」
ななしはその手を見る。
昔なら、教師と生徒だった頃なら。
きっと触れられなかった距離。
けれど今は違う。
そっと手を重ねる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそだ」
クルーウェルが目を細める。
「かつての教師としてではなく」
「……はい」
「ひとりの男として、改めてよろしく頼む」
街の灯りが揺れていた。
並んだ足取りは、ゆっくりと夜の街へ溶けていった。
