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「……で、結局今日は何の用だ」
向かい側に座る男は呆れたように眉を上げた。
「何の用って言われると困るんですけど」
「呼び出されて来てみれば黙って紅茶を見つめているだけとは」
「呼び出したのは先生じゃないですか」
「訂正しよう。誘いに乗った俺が悪かった」
「それも違います」
「なら何だ」
「先生が『近くまで来ているなら顔くらい見せろ』って言ったんです」
「覚えているなら話は早い」
「だから来ました」
「それで無言か」
「先生が先に黙ったんでしょう」
「お前が緊張している顔をしていたからだ」
「してません」
「している」
即答だった。
卒業して二年経つが、いまだにこの人を前にすると調子が狂う。
教師と生徒だった頃と何も変わらない。
変わったのは卒業式の日に言われた言葉くらいだ。
『卒業後も困ったことがあれば連絡しろ』
教師として当然の言葉だったのだろう。
けれど、その一言を何度も思い返したのは事実だった。
「社会人生活はどうだ、ななし」
「普通です」
「曖昧な返答だな」
「先生こそ」
「俺か?」
「相変わらずですか」
「相変わらずだな」
「それならよかったです」
「何がだ」
「変わってたら嫌だったので」
口にしたあとで、しまったと思った。
視線を逸らすが逃がしてくれない。
「……ほう」
「今のなしで」
「残念だが聞こえた」
「忘れてください」
「無理だな」
クルーウェルは小さく笑った。
「お前は昔から時々そういうことを言う」
「言ってません」
「自覚がないだけだ」
「例えば?」
「先生がいる授業の日は朝早く起きられます」
「忘れてください」
「怒られると悔しいのに褒められるともっと困ります」
「それも忘れてください」
「卒業したら会えなくなるの寂しいですね」
「先生!」
「全部覚えている」
「なんで覚えてるんですか……」
「教師を舐めるな」
そう言いながら、どこか楽しそうだった。
◇
「恋人はできたか」
危うく咳き込むところだった。
「な、なんで急に」
「年頃だろう?」
「先生に言われたくないです」
「俺は教師だ」
「卒業しましたけど」
「元教師だな」
「それで恋人の話になるんですか」
「答えろ」
「いません」
「そうか」
短い返事だった。
妙に安心したようにも聞こえた。
「先生は?」
「いない」
「早いですね」
「聞かれると思ったからな」
「……そうですか」
「何だその顔は」
「別に」
「納得していない顔だ」
「先生ってモテそうなので」
「そういう面倒事は仕事だけで十分だ」
「へえ」
「何だ」
「先生にも面倒って感覚あるんだなって」
「失礼な仔犬だ」
懐かしい呼び方だった。
卒業してからは名前で呼ばれることが増えた。
それでも時々出てくるその呼び名に胸が少しだけ忙しくなる。
「仔犬って呼ぶんですね、まだ」
「不満か?」
「いえ」
「ならいい」
「でも、卒業したのにまだ仔犬なんだなって」
クルーウェルは少しだけ目を細めた。
「卒業したからといって、俺の中の印象まで急に変わるわけじゃない」
「……ずるい言い方しますね」
「教師というのはそういうものだ」
「元教師なのに」
「細かいな」
◇
「送る」
「大丈夫です」
「却下だ」
「昔から強引ですよね」
「知っているなら従え」
並んで歩く。
会話は途切れたり戻ったりを繰り返した。
仕事の話。
共通の知人の話。
卒業生たちの話。
けれど本当に聞きたいことだけは口にできない。
先生はどうして今でも連絡をくれるんですか。
先生はどうして会いに来るんですか。
先生はどうして――
「ななし」
「はい」
「お前、最近無理をしているな」
足が止まった。
「してません」
「嘘が下手だ」
「……なんで分かるんですか」
「教師だからな」
「それ便利ですね」
「便利だぞ」
少し沈黙が落ちる。
「仕事で失敗したか」
「……少しだけ」
「怒られたか」
「かなり」
「泣いたのか」
「それなりに」
「そうか」
責める言葉はなかった。
慰める言葉もない。
ただ隣を歩いている。
それだけだった。
「先生」
「何だ」
「学生の頃、わたし先生に怒られるの嫌だったんです」
「知っている」
「でも、今思うと嫌じゃなかったです」
「矛盾しているな」
「先生がちゃんと見てくれてるって分かってたので」
クルーウェルは少し黙った。
「……困った仔犬だな」
「なんでですか」
「教師冥利に尽きる台詞だからだ」
「本音です」
「知っている」
◇
次に会ったのはそれから三か月後だった。
「珍しいな、お前から連絡とは」
「だめでした?」
「そんなことは言っていない」
「相談があって」
「聞こう」
「転職を考えてます」
クルーウェルは驚かなかった。
ただ静かに続きを待った。
「今の仕事が嫌ってわけじゃないんです。でも、このままでいいのかなって」
「お前はどうしたい」
「分からないんです」
「なら急ぐな」
「でも」
「焦って決めるな。周囲が走っているように見えても、自分まで走る必要はない」
「……はい」
「お前は昔から答えを急ぐ癖がある」
「そうでしたっけ」
「テストでも課題でもな」
「覚えてるんですね」
「当然だ」
少し笑う。
それだけで気持ちが軽くなる。
「先生に相談すると安心します」
「それは光栄だな」
「どうしてなんでしょう」
「信頼されているからだろう」
「先生は?」
「何だ」
「先生はわたしを信頼してますか」
珍しく返事が遅れた。
「……している」
「即答じゃない」
「考えていた」
「何をですか」
「信頼以上の言葉が適切かを」
心臓が跳ねた。
「それって」
「言わせる気か、仔犬」
「だって分からないです」
「分からなくていい」
「先生」
「なんだ」
「わたし、もう生徒じゃないです」
「そうだな」
「……」
「教師は生徒をよく知っている」
「元教師です」
「面倒なところばかり覚えたな」
「先生のせいです」
「否定できない」
◇
その日から少しだけ距離が変わった。
連絡が増えた。
食事に行く回数も増えた。
けれど名前はつかない。
友人ではない。
教師と生徒でもない。
だから余計に苦しかった。
「先生」
「何だ」
「わたし達って何なんでしょう」
「難しい質問だな」
「逃げないでください」
「逃げているつもりはない」
「じゃあ答えてください」
クルーウェルは深く息を吐いた。
「俺はお前の教師だった」
「はい」
「お前は俺の生徒だった」
「はい」
「その線引きを消すのに時間がかかった」
「……」
「俺はお前が卒業した日から今日まで、ずっとそれを言い訳にしていた」
初めて見る顔だった。
迷っている顔。
躊躇っている顔。
「先生でも、そんな顔するんですね」
「するさ」
「意外です」
「俺を何だと思っている」
「完璧な人」
「買い被りだな」
「本気です」
「残念だが違う」
クルーウェルは視線を向けた。
「俺は臆病だ」
「え?」
「嫌われるのも失うのも好かん」
「……」
「だから教師という立場に甘えた」
言葉が続かない。
胸の奥が熱い。
「ななし」
「はい」
「俺はお前を特別に思っている」
静かな声だった。
「卒業してからも会いたかった」
「……」
「連絡が来れば嬉しかった」
「……はい」
「仔犬と呼ぶのをやめられなかった」
思わず笑ってしまう。
「そこなんですね」
「重要だ」
「分かりました」
「それで……お前はどうだ」
返事は決まっていた。
ずっと前から。
「わたしも同じです」
「……」
「卒業しても先生のことばかり考えてました」
「そうか」
「会える日は嬉しかったです」
「そうか」
「だから……」
少しだけ笑う。
「先生ばっかり臆病なのずるいです」
クルーウェルは目を見開き、それから肩を揺らした。
「手厳しいな」
「先生相手なので」
「なら仕方ない」
「はい」
「ひとつ確認だ」
「何ですか」
「今後も俺を先生と呼ぶつもりか」
「嫌ですか?」
「いや」
少し間を置いて、クルーウェルは笑った。
「悪くない」
「じゃあこのままで」
「好きにしろ」
「クルーウェル先生」
「何だ、ななし」
「これからもよろしくお願いします」
「ああ」
短い返事だった。
けれどそれだけで十分だった。
教師と生徒だった時間は消えない。
きっとこれからも。
それでも、その続きを選ぶことはできる。
今度は同じ場所に立って、同じ目線で。
ゆっくりと。
向かい側に座る男は呆れたように眉を上げた。
「何の用って言われると困るんですけど」
「呼び出されて来てみれば黙って紅茶を見つめているだけとは」
「呼び出したのは先生じゃないですか」
「訂正しよう。誘いに乗った俺が悪かった」
「それも違います」
「なら何だ」
「先生が『近くまで来ているなら顔くらい見せろ』って言ったんです」
「覚えているなら話は早い」
「だから来ました」
「それで無言か」
「先生が先に黙ったんでしょう」
「お前が緊張している顔をしていたからだ」
「してません」
「している」
即答だった。
卒業して二年経つが、いまだにこの人を前にすると調子が狂う。
教師と生徒だった頃と何も変わらない。
変わったのは卒業式の日に言われた言葉くらいだ。
『卒業後も困ったことがあれば連絡しろ』
教師として当然の言葉だったのだろう。
けれど、その一言を何度も思い返したのは事実だった。
「社会人生活はどうだ、ななし」
「普通です」
「曖昧な返答だな」
「先生こそ」
「俺か?」
「相変わらずですか」
「相変わらずだな」
「それならよかったです」
「何がだ」
「変わってたら嫌だったので」
口にしたあとで、しまったと思った。
視線を逸らすが逃がしてくれない。
「……ほう」
「今のなしで」
「残念だが聞こえた」
「忘れてください」
「無理だな」
クルーウェルは小さく笑った。
「お前は昔から時々そういうことを言う」
「言ってません」
「自覚がないだけだ」
「例えば?」
「先生がいる授業の日は朝早く起きられます」
「忘れてください」
「怒られると悔しいのに褒められるともっと困ります」
「それも忘れてください」
「卒業したら会えなくなるの寂しいですね」
「先生!」
「全部覚えている」
「なんで覚えてるんですか……」
「教師を舐めるな」
そう言いながら、どこか楽しそうだった。
◇
「恋人はできたか」
危うく咳き込むところだった。
「な、なんで急に」
「年頃だろう?」
「先生に言われたくないです」
「俺は教師だ」
「卒業しましたけど」
「元教師だな」
「それで恋人の話になるんですか」
「答えろ」
「いません」
「そうか」
短い返事だった。
妙に安心したようにも聞こえた。
「先生は?」
「いない」
「早いですね」
「聞かれると思ったからな」
「……そうですか」
「何だその顔は」
「別に」
「納得していない顔だ」
「先生ってモテそうなので」
「そういう面倒事は仕事だけで十分だ」
「へえ」
「何だ」
「先生にも面倒って感覚あるんだなって」
「失礼な仔犬だ」
懐かしい呼び方だった。
卒業してからは名前で呼ばれることが増えた。
それでも時々出てくるその呼び名に胸が少しだけ忙しくなる。
「仔犬って呼ぶんですね、まだ」
「不満か?」
「いえ」
「ならいい」
「でも、卒業したのにまだ仔犬なんだなって」
クルーウェルは少しだけ目を細めた。
「卒業したからといって、俺の中の印象まで急に変わるわけじゃない」
「……ずるい言い方しますね」
「教師というのはそういうものだ」
「元教師なのに」
「細かいな」
◇
「送る」
「大丈夫です」
「却下だ」
「昔から強引ですよね」
「知っているなら従え」
並んで歩く。
会話は途切れたり戻ったりを繰り返した。
仕事の話。
共通の知人の話。
卒業生たちの話。
けれど本当に聞きたいことだけは口にできない。
先生はどうして今でも連絡をくれるんですか。
先生はどうして会いに来るんですか。
先生はどうして――
「ななし」
「はい」
「お前、最近無理をしているな」
足が止まった。
「してません」
「嘘が下手だ」
「……なんで分かるんですか」
「教師だからな」
「それ便利ですね」
「便利だぞ」
少し沈黙が落ちる。
「仕事で失敗したか」
「……少しだけ」
「怒られたか」
「かなり」
「泣いたのか」
「それなりに」
「そうか」
責める言葉はなかった。
慰める言葉もない。
ただ隣を歩いている。
それだけだった。
「先生」
「何だ」
「学生の頃、わたし先生に怒られるの嫌だったんです」
「知っている」
「でも、今思うと嫌じゃなかったです」
「矛盾しているな」
「先生がちゃんと見てくれてるって分かってたので」
クルーウェルは少し黙った。
「……困った仔犬だな」
「なんでですか」
「教師冥利に尽きる台詞だからだ」
「本音です」
「知っている」
◇
次に会ったのはそれから三か月後だった。
「珍しいな、お前から連絡とは」
「だめでした?」
「そんなことは言っていない」
「相談があって」
「聞こう」
「転職を考えてます」
クルーウェルは驚かなかった。
ただ静かに続きを待った。
「今の仕事が嫌ってわけじゃないんです。でも、このままでいいのかなって」
「お前はどうしたい」
「分からないんです」
「なら急ぐな」
「でも」
「焦って決めるな。周囲が走っているように見えても、自分まで走る必要はない」
「……はい」
「お前は昔から答えを急ぐ癖がある」
「そうでしたっけ」
「テストでも課題でもな」
「覚えてるんですね」
「当然だ」
少し笑う。
それだけで気持ちが軽くなる。
「先生に相談すると安心します」
「それは光栄だな」
「どうしてなんでしょう」
「信頼されているからだろう」
「先生は?」
「何だ」
「先生はわたしを信頼してますか」
珍しく返事が遅れた。
「……している」
「即答じゃない」
「考えていた」
「何をですか」
「信頼以上の言葉が適切かを」
心臓が跳ねた。
「それって」
「言わせる気か、仔犬」
「だって分からないです」
「分からなくていい」
「先生」
「なんだ」
「わたし、もう生徒じゃないです」
「そうだな」
「……」
「教師は生徒をよく知っている」
「元教師です」
「面倒なところばかり覚えたな」
「先生のせいです」
「否定できない」
◇
その日から少しだけ距離が変わった。
連絡が増えた。
食事に行く回数も増えた。
けれど名前はつかない。
友人ではない。
教師と生徒でもない。
だから余計に苦しかった。
「先生」
「何だ」
「わたし達って何なんでしょう」
「難しい質問だな」
「逃げないでください」
「逃げているつもりはない」
「じゃあ答えてください」
クルーウェルは深く息を吐いた。
「俺はお前の教師だった」
「はい」
「お前は俺の生徒だった」
「はい」
「その線引きを消すのに時間がかかった」
「……」
「俺はお前が卒業した日から今日まで、ずっとそれを言い訳にしていた」
初めて見る顔だった。
迷っている顔。
躊躇っている顔。
「先生でも、そんな顔するんですね」
「するさ」
「意外です」
「俺を何だと思っている」
「完璧な人」
「買い被りだな」
「本気です」
「残念だが違う」
クルーウェルは視線を向けた。
「俺は臆病だ」
「え?」
「嫌われるのも失うのも好かん」
「……」
「だから教師という立場に甘えた」
言葉が続かない。
胸の奥が熱い。
「ななし」
「はい」
「俺はお前を特別に思っている」
静かな声だった。
「卒業してからも会いたかった」
「……」
「連絡が来れば嬉しかった」
「……はい」
「仔犬と呼ぶのをやめられなかった」
思わず笑ってしまう。
「そこなんですね」
「重要だ」
「分かりました」
「それで……お前はどうだ」
返事は決まっていた。
ずっと前から。
「わたしも同じです」
「……」
「卒業しても先生のことばかり考えてました」
「そうか」
「会える日は嬉しかったです」
「そうか」
「だから……」
少しだけ笑う。
「先生ばっかり臆病なのずるいです」
クルーウェルは目を見開き、それから肩を揺らした。
「手厳しいな」
「先生相手なので」
「なら仕方ない」
「はい」
「ひとつ確認だ」
「何ですか」
「今後も俺を先生と呼ぶつもりか」
「嫌ですか?」
「いや」
少し間を置いて、クルーウェルは笑った。
「悪くない」
「じゃあこのままで」
「好きにしろ」
「クルーウェル先生」
「何だ、ななし」
「これからもよろしくお願いします」
「ああ」
短い返事だった。
けれどそれだけで十分だった。
教師と生徒だった時間は消えない。
きっとこれからも。
それでも、その続きを選ぶことはできる。
今度は同じ場所に立って、同じ目線で。
ゆっくりと。
