ディアソムニア
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夜のオンボロ寮。
雲に隠れた月が古びた窓硝子越しに微かな銀色の影をラウンジに落としていた。歩くたびにギィと床が鳴る。背後に立つ気配に、わたしは心臓が跳ねるのを感じた。
「……こんな時間に一人で何を考えている、ななし」
低く、チェロの弦を震わせるような声。振り返らなくてもわかる。ツノ太郎だ。
「あ、ツノ太郎。……ただ、少し夜風に当たりたくて」
彼は音もなく歩み寄り、わたしのすぐ後ろで立ち止まった。彼がまとう冷たい夜の空気と、沈香のような微かな香りが、わたしの意識を強く惹きつける。
「嘘だな。お前の瞳は何かに怯えている。……僕か? それとも……」
彼の手が迷いなくわたしの肩に置かれた。手袋越しのはずなのに、そこから伝わる確かな質量に、逃げ場を塞がれたような錯覚を覚える。いつもよりずっと暗い。優しく触れられているのに、まるで見えない鎖で繋がれているみたいだった。
彼はわたしの肩を抱き寄せソファへと促した。抗う間もなく、わたしは彼の隣に膝が触れ合うほどの至近距離に座らされる。
「ツノ太郎、あの……ちょっと近い、です」
「近い、か。僕はまだ遠いと感じているが。お前の心臓の音まで手に取るように聞こえる距離でなければ安心できない」
彼はわたしの手を取り、その細い指先を自らの唇に寄せた。吐息が指の付け根に当たり、熱い痺れが全身を駆け抜ける。
「……学友たちと笑い合っている時のお前は、僕のことなど忘れているのだろう? 僕がどれほど、その時間を不快に思っているかも知らずに」
「そんなことないです。ただの、普通のお喋りで……っ」
「その普通が、僕には許しがたい。お前の笑顔も、困ったような顔も、僕だけが知っていればいい。お前の時間は、僕のためにだけ流れるべきだと思わないか?」
声が甘く響くたびに、思考がとろけていく。冷たい指がわたしの頬をなぞる感触に、もっと触れてほしいと思ってしまう自分がいる。指がわたしの顎をくいと持ち上げた。拒絶を許さない瞳が至近距離でわたしの視線を縫い止める。
「……ななし。呼んでくれ、僕の名を。お前だけの、その呼び方で」
「……ツノ、太郎……っ」
その名を呼んだ瞬間、彼の理性の糸が切れる音がした。
荒々しく、けれどどこか縋るような切実さを孕んだ唇が、わたしの言葉を飲み込んでいく。
「ん……っ、んむ……ふあ……」
深く深く舌が絡み合い、わたしの口内が彼の熱で塗り潰されていく。酸素を奪われ、視界がちかちかと明滅する中で、彼の手がわたしの腰を強く引き寄せた。
「……あ、は……っ、ツノ太郎、苦しい……」
「苦しめばいい。そのまま、僕の腕の中で壊れてしまえば、どこへも行けなくなるだろう? お前を僕の魔力で隠してしまいたい。誰の目にも触れぬよう、永遠に僕だけのものとして」
銀の糸を引いて離れた彼の唇が、次はわたしの耳元に這う。濡れた声で囁かれる愛の言葉は、猛毒のようにわたしの胸に回り、甘い陶酔を運んできた。
怖い。しかし抱きしめられていると、世界で二人きりになったみたいで……もう、どうにでもなれとも思ってしまう。
「……いい子だ。その瞳。僕だけを見て、僕だけに溺れていろ。一生、逃がしてなどやらないからな」
暗いラウンジに重なり合う吐息だけが溶けていく。
それは幸福な破滅の始まりだった。
絡み合う指先から伝わる体温はひんやりとしているのに、触れられている場所からじわじわと心の奥まで焦がしていく。
彼はわたしのシャツのボタンを一つ、また一つと、あどけない遊びでもするかのようにゆっくりと外していった。
「……ツノ太郎、待って。……これ以上は、本当に……グリムも起きちゃう」
「待てないと言ったら? お前が僕にその名を与え、僕の孤独に踏み込んできたあの日から、僕はこうなる日をずっと待っていたのだ」
「……っ。でも、わたし……」
「怖いのか? 無理もない。人ならざる者に組み伏せられ、自由を奪われるのは。だが、ななし。お前の体は、こんなにも熱く僕を招いているではないか」
彼の手が、露わになった鎖骨のラインをなぞり、そのまま胸元へと滑り込む。心臓の音が、彼の掌を通じて彼自身にまで響いているのがわかって、わたしは顔が火が出るほど熱くなるのを感じた。
わたしの首筋に顔を寄せると、甘く、けれど逃がさないという意思を込めて、柔らかな肌に深く歯を立てた。
「ん……っ! あ……ツノ太郎、痛い……っ」
「……消えない跡をつけてあげよう。明日、鏡を見るたびに僕を思い出し、他の男がお前の肌に触れようとするたび、僕の存在に怯えるように」
「……っ、そんな……意地悪、です……」
「僕はお前を、僕だけの箱庭に閉じ込めておきたいのだ。……ななし、お前も分かっているだろう? 僕はもう、お前を誰にも渡すつもりはないということを」
彼は顔を上げると、わたしの瞳を覗き込み満足げに目を細めた。その瞳には、わたしへの愛執と決して拭い去れない狂気が混ざり合っている。
寮の古い窓を叩く風の音が遠く遠く別世界の出来事のように聞こえる。わたしの唇を指先でなぞると、今度は吸い付くような深く濃密な口づけを落とした。
「ん……む、んん……ふあ……」
舌が絡まるたび、鼻腔を抜ける彼の香りと吐息。
脳の裏側が痺れるような感覚に、わたしは思わず彼の首に腕を回し、自ら身体を密着させていた。
「……あ、は……っ、ツノ太郎………」
「……ああ、一生僕だけに囁き続けるがいい。……お前を、この腕の中から一歩も外へは出さない。たとえ夜が明けても、お前を迎えに来る光など、僕がすべて遮ってあげよう」
彼の重みがわたしをソファに押し沈め、世界は二人だけの暗闇に溶けていく。
「ななし。……さあ、僕にすべてを委ねろ。お前の夜は、今、始まったばかりなのだから」
雷鳴に紛れるようにして、わたしたちの甘い吐息だけが閉ざされた部屋の中に響き渡っていた。
雲に隠れた月が古びた窓硝子越しに微かな銀色の影をラウンジに落としていた。歩くたびにギィと床が鳴る。背後に立つ気配に、わたしは心臓が跳ねるのを感じた。
「……こんな時間に一人で何を考えている、ななし」
低く、チェロの弦を震わせるような声。振り返らなくてもわかる。ツノ太郎だ。
「あ、ツノ太郎。……ただ、少し夜風に当たりたくて」
彼は音もなく歩み寄り、わたしのすぐ後ろで立ち止まった。彼がまとう冷たい夜の空気と、沈香のような微かな香りが、わたしの意識を強く惹きつける。
「嘘だな。お前の瞳は何かに怯えている。……僕か? それとも……」
彼の手が迷いなくわたしの肩に置かれた。手袋越しのはずなのに、そこから伝わる確かな質量に、逃げ場を塞がれたような錯覚を覚える。いつもよりずっと暗い。優しく触れられているのに、まるで見えない鎖で繋がれているみたいだった。
彼はわたしの肩を抱き寄せソファへと促した。抗う間もなく、わたしは彼の隣に膝が触れ合うほどの至近距離に座らされる。
「ツノ太郎、あの……ちょっと近い、です」
「近い、か。僕はまだ遠いと感じているが。お前の心臓の音まで手に取るように聞こえる距離でなければ安心できない」
彼はわたしの手を取り、その細い指先を自らの唇に寄せた。吐息が指の付け根に当たり、熱い痺れが全身を駆け抜ける。
「……学友たちと笑い合っている時のお前は、僕のことなど忘れているのだろう? 僕がどれほど、その時間を不快に思っているかも知らずに」
「そんなことないです。ただの、普通のお喋りで……っ」
「その普通が、僕には許しがたい。お前の笑顔も、困ったような顔も、僕だけが知っていればいい。お前の時間は、僕のためにだけ流れるべきだと思わないか?」
声が甘く響くたびに、思考がとろけていく。冷たい指がわたしの頬をなぞる感触に、もっと触れてほしいと思ってしまう自分がいる。指がわたしの顎をくいと持ち上げた。拒絶を許さない瞳が至近距離でわたしの視線を縫い止める。
「……ななし。呼んでくれ、僕の名を。お前だけの、その呼び方で」
「……ツノ、太郎……っ」
その名を呼んだ瞬間、彼の理性の糸が切れる音がした。
荒々しく、けれどどこか縋るような切実さを孕んだ唇が、わたしの言葉を飲み込んでいく。
「ん……っ、んむ……ふあ……」
深く深く舌が絡み合い、わたしの口内が彼の熱で塗り潰されていく。酸素を奪われ、視界がちかちかと明滅する中で、彼の手がわたしの腰を強く引き寄せた。
「……あ、は……っ、ツノ太郎、苦しい……」
「苦しめばいい。そのまま、僕の腕の中で壊れてしまえば、どこへも行けなくなるだろう? お前を僕の魔力で隠してしまいたい。誰の目にも触れぬよう、永遠に僕だけのものとして」
銀の糸を引いて離れた彼の唇が、次はわたしの耳元に這う。濡れた声で囁かれる愛の言葉は、猛毒のようにわたしの胸に回り、甘い陶酔を運んできた。
怖い。しかし抱きしめられていると、世界で二人きりになったみたいで……もう、どうにでもなれとも思ってしまう。
「……いい子だ。その瞳。僕だけを見て、僕だけに溺れていろ。一生、逃がしてなどやらないからな」
暗いラウンジに重なり合う吐息だけが溶けていく。
それは幸福な破滅の始まりだった。
絡み合う指先から伝わる体温はひんやりとしているのに、触れられている場所からじわじわと心の奥まで焦がしていく。
彼はわたしのシャツのボタンを一つ、また一つと、あどけない遊びでもするかのようにゆっくりと外していった。
「……ツノ太郎、待って。……これ以上は、本当に……グリムも起きちゃう」
「待てないと言ったら? お前が僕にその名を与え、僕の孤独に踏み込んできたあの日から、僕はこうなる日をずっと待っていたのだ」
「……っ。でも、わたし……」
「怖いのか? 無理もない。人ならざる者に組み伏せられ、自由を奪われるのは。だが、ななし。お前の体は、こんなにも熱く僕を招いているではないか」
彼の手が、露わになった鎖骨のラインをなぞり、そのまま胸元へと滑り込む。心臓の音が、彼の掌を通じて彼自身にまで響いているのがわかって、わたしは顔が火が出るほど熱くなるのを感じた。
わたしの首筋に顔を寄せると、甘く、けれど逃がさないという意思を込めて、柔らかな肌に深く歯を立てた。
「ん……っ! あ……ツノ太郎、痛い……っ」
「……消えない跡をつけてあげよう。明日、鏡を見るたびに僕を思い出し、他の男がお前の肌に触れようとするたび、僕の存在に怯えるように」
「……っ、そんな……意地悪、です……」
「僕はお前を、僕だけの箱庭に閉じ込めておきたいのだ。……ななし、お前も分かっているだろう? 僕はもう、お前を誰にも渡すつもりはないということを」
彼は顔を上げると、わたしの瞳を覗き込み満足げに目を細めた。その瞳には、わたしへの愛執と決して拭い去れない狂気が混ざり合っている。
寮の古い窓を叩く風の音が遠く遠く別世界の出来事のように聞こえる。わたしの唇を指先でなぞると、今度は吸い付くような深く濃密な口づけを落とした。
「ん……む、んん……ふあ……」
舌が絡まるたび、鼻腔を抜ける彼の香りと吐息。
脳の裏側が痺れるような感覚に、わたしは思わず彼の首に腕を回し、自ら身体を密着させていた。
「……あ、は……っ、ツノ太郎………」
「……ああ、一生僕だけに囁き続けるがいい。……お前を、この腕の中から一歩も外へは出さない。たとえ夜が明けても、お前を迎えに来る光など、僕がすべて遮ってあげよう」
彼の重みがわたしをソファに押し沈め、世界は二人だけの暗闇に溶けていく。
「ななし。……さあ、僕にすべてを委ねろ。お前の夜は、今、始まったばかりなのだから」
雷鳴に紛れるようにして、わたしたちの甘い吐息だけが閉ざされた部屋の中に響き渡っていた。
