イグニハイド
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昼下がりのやわらかな日差しが窓ガラスをくぐり抜けて、フローリングの上に小さな光の円をぽつんと落としていた。
窓の向こうでは風が木々を揺らしているらしく、光の縁がときおり水面のようにゆらゆらと震える。
その揺らぎをぼんやり目の端で追いながら、ソファに深く身を沈めて、栞代わりの指先でそっとページをめくった。
紙の擦れる乾いた音だけが、静かな部屋にひそやかに響いている。
ふいに、隣のクッションがふわりと沈んだ。
誰かが腰を下ろしたのだと気づいたときには、その存在がすぐそばまで滑り込んできていた。
「ねえ、何読んでいるの?」
ひょっこりと横から覗き込んできたのはオルトだった。
その顔が想像していたよりずっと近くにあって、視線がぶつかった拍子に、喉の奥で小さく息が止まる。
澄んだ瞳に、開いたままの本のページと、動揺を隠しきれていない表情が、そのまま映り込んでいた。
触れなくても、彼には分かるはずだった。
指先は最短距離を選ばず、首筋の上をゆっくりとなぞり脈のありかを探すふりをしてから、ようやくそこで止まった。
ひんやりとした感触の下で、鼓動が跳ねている。
確かめる必要などないものを、わざわざ確かめにきたのだと、その手つきだけが雄弁に語っていた。
「心拍数が上昇してるみたい」
「……オルトの顔が近くて驚いただけだよ」
「えー、誤魔化さなくてもいいのに」
オルトは、どこか満足そうに目を細めた。
「もしかして、僕に会えて嬉しい?」
まっすぐな問いだった。
策を弄する気配など少しもなくて、だからこそ取り繕う言葉が見つからない。
少しの沈黙のあと、観念して小さく頷く。
「……うん、嬉しい」
その答えを待っていたかのように、首筋にあった指がするりと離れた。
肩から腕へ、ゆっくりと輪郭をなぞるように滑り降りて、本の上に置かれていた手をそっと包み込む。
ひんやりとした手のひらが重なったかと思うと、指の間にオルトの指が一本ずつ入り込み、しっかりと絡め取られた。
体を寄せてきた拍子に、彼の青い髪がふわりと揺れて、頬の近くをかすめていく。
「■■■さんの手、すごく暖かいね」
「そうかな?」
「ずっと触っていたくなっちゃうな」
「気が済むまで握っててくれていいよ」
オルトは無邪気に笑いながら、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
痛みはない。
ただ、離すつもりはないのだと、その加減だけで伝わってくる。
彼の内側から届く小さな駆動音が、静まり返った部屋に規則正しく染み込んでいく。
その一定のリズムに耳を傾けているうちに、自分の鼓動まで、いつの間にかそれに合わせて刻まれていくようだった。
「■■■さん、喉渇いてない?」
「そういえば、何か飲みたいかも」
「じゃあ、僕が紅茶を入れてあげるね」
絡んでいた指がするりとほどけかけて、手のひらから冷たい感触が遠ざかっていく。
その離れていく感覚が妙に惜しくて、気づけば指先に力がこもっていた。
ほどけかけた指を、逃がさないように握り直す。
引き止められたオルトは、きょとんとした顔で振り返った。
青い髪がゆるりと揺れ、澄んだ瞳が不思議そうにこちらを見下ろしてくる。
「どうしたの? まだ離れたくない?」
図星を突かれたようで、すぐには頷けなかった。
けれど、正直に認めるのも少し気恥ずかしくて、繋いだままの手を軽く揺らしながら、当たり障りのない理由を口にする。
「キッチンまで一緒に行こうと思って」
「じゃあ、一緒に行こう。手は繋いだままでいいよね?」
任せてとでも言いたげに、オルトは繋いだ手を引きながら、どこか得意気に歩き出した。
その小さな背中がどこか誇らしげで、思わず口元がゆるむ。
転ばないように歩幅を合わせながら、半歩うしろをついていった。
キッチンに着くと、オルトは名残惜しそうに指をほどき、ケトルに水を注いだ。
並べられたカップは、一つだけだ。
茶葉を量る手に、迷いはない。
少し濃いめで、ミルクは多め。
以前ふとこぼしただけの好みまで、彼はきちんと覚えている。
やがて湯気の立つカップが、目の前にそっと差し出される。
ひと口飲むと、いつも通りの味に思わず肩の力が抜けた。
「熱すぎないようにしておいたよ。猫舌でしょ?」
「ありがとう。相変わらずオルトはすごいね」
「でしょ? 僕の計算に狂いはないからね」
得意気に微笑むオルトがあまりにも愛おしくて、気づけば空いた手が伸びていた。
青い髪にそっと触れ、指先で梳くようにゆっくりと撫でる。
「ちょっと、子供扱いしないでよ」
口では抗議しながら、オルトは手を払いのけようとしない。
それをいいことに、髪を梳く手を止めないまま返した。
「いつも甘やかしてもらってるから、そのお返し」
「■■■さんを甘やかすのは、僕の得意分野だから」
少し首をかしげて笑うその声には、どこか誇らしげな響きが混ざっていた。
紅茶の入ったカップを手に、二人で窓辺のテーブルへと移る。
並んで椅子に腰を下ろすと、窓の外にはやわらかな午後の光が広がっていて、遠くの木々が風に揺れているのが見えた。
何を話すでもなく、ただその景色をぼんやり眺めていると、肩にふっと重みが寄りかかってくる。
視線を向けると、青い髪が頬のすぐそばで揺れている。
「ねえ、■■■さん」
「ん?」
「こうして過ごす時間って、不思議だね」
寄り添ってきたオルトの体は、ひんやりと静かだった。
けれど、触れた肩越しに伝わるかすかな駆動の震えが、そこにいることを確かに教えてくれる。
「ただ隣にいるだけで、意味がある気がする」
「退屈じゃない?」
「■■■さんと一緒なのに、退屈なことってあるの?」
オルトは膝の上の手にそっと自分の手を重ねると、指を一本ずつ解いては、また組み直した。
まるで、その形を確かめて覚え込もうとするような手つきだった。
あまりにも丁寧で、あまりにも慎重なその仕草に、胸がきゅっと締めつけられる。
「■■■さんと出会って、新しい感情が生まれた気がする」
「どんな感情?」
「胸の奥が、いっぱいになるんだ」
自信満々に語るいつもの雰囲気とは違い、少しだけ確かめるような声色だった。
言葉を選ぶように少しだけ揺れていて、視線もどこか落ち着かない。
確かめるように、こちらの指先をもう一度きゅっと握った。
「これが愛おしいってことだよね?」
答えを待つ横顔は、驚くほど真剣だった。
それがたまらなく嬉しくて、重ねられた手を強く握り返す。
「きっとそうだよ。私も一緒」
「よかった。回路の不具合じゃなくて」
安堵まじりに、いたずらっぽく笑う。
その冗談めかした声の奥に、本当の不安が少しだけ滲んでいた気がして、繋いだ手をもう一度、そっと握り直した。
◇
気がつけば、窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。
オレンジ色の光が床を長く這い、家具の影がゆっくりと部屋の隅へ伸びていく。
明かりをつけなければと腰を浮かせかけたところで、服の裾がきゅっと引かれた。
「■■■さん、待って」
「もうすぐ暗くなっちゃうよ」
振り返ると、オルトがこちらをじっと見上げていた。
裾を掴む指先には、離すまいと力がこもっている。
「もう少しだけ、こうさせて」
「……じゃあ、あと少しだけね」
そう答えると、オルトの表情がぱっとほどける。
促されるまま腰を下ろすと、待ちかねたように、彼は私の膝の上に頭を預けてきた。
見下ろせば、すぐそこに澄んだ瞳があった。
視線がぶつかり、息をするのもためらってしまう。
彼の内側から届く小さな駆動音だけが、暮れかけた部屋の静けさに、ひそやかに溶けていった。
「■■■さんって、僕に甘いよね」
「そうだね」
青い髪をゆっくり撫でながら頷くと、オルトは膝の上で、ほんの少し目を細めた。
「僕、つけこんじゃうよ?」
「いいよ。いくらでもつけこんで」
「後で後悔しても知らないからね」
言い終えるが早いか、オルトはむくりと身を起こして、こちらへ体を預けてきた。
そのまま、首元へ顔を埋めるように寄せてくる。
くすぐったさに思わず身を縮めると、耳元で弾むような笑い声がこぼれる。
「大好きだよ、■■■さん」
不意打ちのように告げられた一言に、顔が熱を帯びていく。
それを自覚した途端、耐えきれずに視線を逸らしてしまった。
その反応を、オルトが見逃すはずもなかった。
嬉しそうに目を輝かせて、弾んだ声で言う。
「あ、また心拍数が上がった」
「もう、オルトの意地悪」
「■■■さんも、僕のこと好き?」
得意気に笑うその顔は、答えを分かっていながら、それでも聞きたがっているように見えた。
言葉にするのは照れくさくて、代わりに彼の背中へ腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返す。
返事は、それで十分に伝わったらしい。
密着した胸元から、彼の駆動音が規則正しく響いてくる。
その一定のリズムに、自分の鼓動が少しずつ重なっていくのが分かった。
窓の外では夕暮れの色が薄れ、景色がゆっくりと夜の暗がりに沈んでいく。
オルトの瞳が暗がりの中でも変わらず澄んだ光をたたえて、こちらを見上げている。
口元は覆われていて、その奥の表情までは見えない。
それでも、届かない場所をそっと確かめたくなった。
顔を寄せて、静かに唇を落とす。
ほんの短い口付けだった。
それなのに触れた瞬間、規則正しかった駆動音が一拍だけ乱れた。
「……今の、記録に残しておくね」
小さくこぼれた声は弾んでいた。
腕の中で、オルトが嬉しそうに身を寄せてくる。
暗がりの中、二人の輪郭は静かに重なっていた。
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