ポムフィオーレ
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「ああ、麗しきトリックスター! 今日も君は、露を浴びた百合のように輝いているね!」
購買部へ向かう廊下で突然背後から弾むような声が掛かった。振り返るまでもない。この独特な言い回しをする人物は学園内にただ一人しかいない。
「ルーク先輩……おはようございます」
私が深々と一礼すると、先輩はそのトレードマークである帽子を軽く上げ笑みを浮かべた。ポムフィオーレ副寮長。そして学園随一の美の探求者。
「ノン、お辞儀は必要ないよ。私はただ、君という美しい存在を讃えたいだけなのだからね」
彼は流れるような動作で私の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
この挨拶も入学当初は心臓が口から飛び出すかと思ったけれど、今ではなんとか顔を赤くするだけで耐えられるようになっている。
先輩は私を見かけるたびにこうして声を掛けてくる。
最初は彼の言動や行動に驚かされるばかりだったが、彼にとっては呼吸をするのと同じくらい自然な美への敬意なのだと、最近になってようやく理解し始めていた。
「今日も、ヴィル先輩のお話は厳しかったんですか?」
「ははは! ヴィルの美意識は日々研ぎ澄まされている。今朝も私の朝食の栄養バランスについて愛のある叱責を受けたばかりさ」
彼は愉快そうに笑いながら私と並んで歩き始めた。
先輩と並ぶと不思議と落ち着く香りに包まれる。
こうして気さくに話しかけてくれるからだろうか。
先輩からは他の先輩に対するような、緊張感や気負いは感じない。彼はいつだって対等に、あるいは守るべき可憐な存在として扱ってくれる。その扱いが私の心に少しずつ、甘酸っぱい毒を流し込んでいることにも気づかずに。
「おや、君の靴紐が解けているよ」
中庭を通りかかった時、先輩が足を止めた。
私が気づくより早く、彼は迷いなく片膝を地面につき私の足元に跪いた。
「あ、先輩、自分でやりますから……!」
「動いてはいけないよ。狩人たるもの、獲物の足元の不備を見過ごすわけにはいかないからね」
彼は私の焦りを意に介さず、慣れた手つきで靴紐を結び直した。ただでさえ目立つ彼が私のために跪いている。周囲の生徒たちの視線が刺さるようで私は顔から火が出そうだった。
「……できたよ。よし、完璧な結び目だ」
彼が顔を上げた瞬間、視線が至近距離でぶつかった。
帽子から覗く鋭くも優しい瞳。その瞳に真っ赤になって動揺している私が映っている。
「……ルーク先輩」
「なんだい?」
彼は跪いた姿勢のまま私の顔をじっと見つめた。その表情はいつもの芝居がかったものではなく、何かを深く見定めようとする狩人のものに似ていた。
「君は……本当に、守ってあげたくなる脆さを持っている。けれど、その奥に秘めた芯の強さは、まるで雪の下で春を待つスノードロップのようだ」
彼の手が私の頬に伸びる。冷たい風に晒されていた私の頬に彼の温かい指先が触れた。その感触に心臓が跳ね上がる。
「先輩……?」
「……ああ、すまない。あまりに愛らしくて、つい触れたくなってしまったよ!」
彼は我に返ったように微笑むと、軽やかに立ち上がった。そして何事もなかったかのように私の髪を一房掬い愛おしそうに眺めた。
「君のこの光を吸い込むような髪の色も、私は大好きだよ」
その言葉がただの美の観察記録なのか、それとも私自身への好意なのか。先輩の言動はいつだってその境界線が曖昧だ。友だちでも恋人でもない。単なる興味の対象という枠組みのなかで、私はお気に入り認定されているにすぎない。
◇
夕暮れの温室。
私は薬草学の課題のために一人で植物の観察をしていた。
「やはり、ここは君の香りで満ちているね」
不意に背後から抱きしめられた。
驚いて振り返ると、いつもの笑顔を浮かべたルーク先輩がいた。しかしその瞳には少しだけ疲労の色が滲んでいる。
「ルーク先輩……? どうしたんですか、そんなに急に」
「……少し、補給が必要でね。何も聞かずにこうさせてくれないだろうか」
彼は私の肩に顎を乗せ深く息を吐いた。
彼の体温と森の香りが私を包み込む。その甘く、けれどどこか寂しげな体温に私は彼を突き放すことができなかった。
「先輩……大丈夫ですか?」
「はは、私もまだまだということかな」
彼は少しだけ身体を離し私の顔を覗き込んだ。
「君のその可憐な声で、私の名前を呼んでくれないかい」
その願いはいつもの彼らしくない、酷く人間じみたものだった。
私は躊躇いながらも、彼の瞳に見つめられてゆっくりと口を開いた。
「……ルーク、さん」
その瞬間、ルーク先輩の瞳が驚いたように見開かれた。
そして次の瞬間には今までに見たこともないほど柔らかくて温かい、本当の笑顔が浮かんだ。
「……ああ、素晴らしい。君の声で呼ばれると、まるで魔法にかかったような気分だ」
彼は私の手を両手で包み込み愛おしそうに頬を寄せた。
「君は私が生涯をかけて追う、最も美しく最も愛おしい獲物なのかもしれないね」
その言葉は恋人への愛の言葉にも執着の言葉にも聞こえた。
この甘酸っぱくて、いつ彼に射抜かれるかわからない危うい距離感。
「……ルークさん」
「なんだい?」
(……私、ルークさんのことが好きです)
心の中で、そっと呟いた。
「ううん、ごめんなさい、なんでもないです」
今はまだ、この境界線の上にいたい。
「さあ、課題が終わったら一緒に夕食へ行こう。君のために最高の料理を用意させるよ」
「はい!」
私たちは夕暮れの温室を手をつないで歩き出した。
それは二人だけの名前のない特別な時間だった。
購買部へ向かう廊下で突然背後から弾むような声が掛かった。振り返るまでもない。この独特な言い回しをする人物は学園内にただ一人しかいない。
「ルーク先輩……おはようございます」
私が深々と一礼すると、先輩はそのトレードマークである帽子を軽く上げ笑みを浮かべた。ポムフィオーレ副寮長。そして学園随一の美の探求者。
「ノン、お辞儀は必要ないよ。私はただ、君という美しい存在を讃えたいだけなのだからね」
彼は流れるような動作で私の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
この挨拶も入学当初は心臓が口から飛び出すかと思ったけれど、今ではなんとか顔を赤くするだけで耐えられるようになっている。
先輩は私を見かけるたびにこうして声を掛けてくる。
最初は彼の言動や行動に驚かされるばかりだったが、彼にとっては呼吸をするのと同じくらい自然な美への敬意なのだと、最近になってようやく理解し始めていた。
「今日も、ヴィル先輩のお話は厳しかったんですか?」
「ははは! ヴィルの美意識は日々研ぎ澄まされている。今朝も私の朝食の栄養バランスについて愛のある叱責を受けたばかりさ」
彼は愉快そうに笑いながら私と並んで歩き始めた。
先輩と並ぶと不思議と落ち着く香りに包まれる。
こうして気さくに話しかけてくれるからだろうか。
先輩からは他の先輩に対するような、緊張感や気負いは感じない。彼はいつだって対等に、あるいは守るべき可憐な存在として扱ってくれる。その扱いが私の心に少しずつ、甘酸っぱい毒を流し込んでいることにも気づかずに。
「おや、君の靴紐が解けているよ」
中庭を通りかかった時、先輩が足を止めた。
私が気づくより早く、彼は迷いなく片膝を地面につき私の足元に跪いた。
「あ、先輩、自分でやりますから……!」
「動いてはいけないよ。狩人たるもの、獲物の足元の不備を見過ごすわけにはいかないからね」
彼は私の焦りを意に介さず、慣れた手つきで靴紐を結び直した。ただでさえ目立つ彼が私のために跪いている。周囲の生徒たちの視線が刺さるようで私は顔から火が出そうだった。
「……できたよ。よし、完璧な結び目だ」
彼が顔を上げた瞬間、視線が至近距離でぶつかった。
帽子から覗く鋭くも優しい瞳。その瞳に真っ赤になって動揺している私が映っている。
「……ルーク先輩」
「なんだい?」
彼は跪いた姿勢のまま私の顔をじっと見つめた。その表情はいつもの芝居がかったものではなく、何かを深く見定めようとする狩人のものに似ていた。
「君は……本当に、守ってあげたくなる脆さを持っている。けれど、その奥に秘めた芯の強さは、まるで雪の下で春を待つスノードロップのようだ」
彼の手が私の頬に伸びる。冷たい風に晒されていた私の頬に彼の温かい指先が触れた。その感触に心臓が跳ね上がる。
「先輩……?」
「……ああ、すまない。あまりに愛らしくて、つい触れたくなってしまったよ!」
彼は我に返ったように微笑むと、軽やかに立ち上がった。そして何事もなかったかのように私の髪を一房掬い愛おしそうに眺めた。
「君のこの光を吸い込むような髪の色も、私は大好きだよ」
その言葉がただの美の観察記録なのか、それとも私自身への好意なのか。先輩の言動はいつだってその境界線が曖昧だ。友だちでも恋人でもない。単なる興味の対象という枠組みのなかで、私はお気に入り認定されているにすぎない。
◇
夕暮れの温室。
私は薬草学の課題のために一人で植物の観察をしていた。
「やはり、ここは君の香りで満ちているね」
不意に背後から抱きしめられた。
驚いて振り返ると、いつもの笑顔を浮かべたルーク先輩がいた。しかしその瞳には少しだけ疲労の色が滲んでいる。
「ルーク先輩……? どうしたんですか、そんなに急に」
「……少し、補給が必要でね。何も聞かずにこうさせてくれないだろうか」
彼は私の肩に顎を乗せ深く息を吐いた。
彼の体温と森の香りが私を包み込む。その甘く、けれどどこか寂しげな体温に私は彼を突き放すことができなかった。
「先輩……大丈夫ですか?」
「はは、私もまだまだということかな」
彼は少しだけ身体を離し私の顔を覗き込んだ。
「君のその可憐な声で、私の名前を呼んでくれないかい」
その願いはいつもの彼らしくない、酷く人間じみたものだった。
私は躊躇いながらも、彼の瞳に見つめられてゆっくりと口を開いた。
「……ルーク、さん」
その瞬間、ルーク先輩の瞳が驚いたように見開かれた。
そして次の瞬間には今までに見たこともないほど柔らかくて温かい、本当の笑顔が浮かんだ。
「……ああ、素晴らしい。君の声で呼ばれると、まるで魔法にかかったような気分だ」
彼は私の手を両手で包み込み愛おしそうに頬を寄せた。
「君は私が生涯をかけて追う、最も美しく最も愛おしい獲物なのかもしれないね」
その言葉は恋人への愛の言葉にも執着の言葉にも聞こえた。
この甘酸っぱくて、いつ彼に射抜かれるかわからない危うい距離感。
「……ルークさん」
「なんだい?」
(……私、ルークさんのことが好きです)
心の中で、そっと呟いた。
「ううん、ごめんなさい、なんでもないです」
今はまだ、この境界線の上にいたい。
「さあ、課題が終わったら一緒に夕食へ行こう。君のために最高の料理を用意させるよ」
「はい!」
私たちは夕暮れの温室を手をつないで歩き出した。
それは二人だけの名前のない特別な時間だった。
