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薄暗い室内には重たく湿った空気が淀んでいた。
棚に並ぶ無数の標本瓶が鈍い光を返している。
「あの……ジェイド先輩?」
ななしの声は、まとわりつくような空気の中に弱々しく消えた。
差し出されたカップから立ち上る湯気は、どこか甘く、頭を痺れさせるような粘り気のある香りを帯びている。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」
ジェイドの唇が弧を描く。
その微笑みは、仮面のように微動だにしない。
「……ありがとうございます」
ななしはカップを受け取る手が小刻みに震えていることに気づき、慌てて両手で包み込んだ。
陶器の冷たさが、震える手にじわりと伝わっていく。
「ふふ、そんなに身体をこわばらせないでください。少しあなたを独占したくなっただけですから」
促されるまま口をつけた紅茶は、喉の奥を滑り落ちるなり、じんわりと内側から身体を重く麻痺させていくような錯覚を覚えた。
「先ほど、フロイドと楽しそうに話していましたね」
唐突に落ちてきた低い声。
取り立てて荒らげてはいないものの、声の輪郭には隠しきれない濁りが混じっている。
ジェイドは立ち上がりソファーの後ろへと回った。
影が頭上から覆いかぶさる。
「僕以外の誰かに向けるその柔らかい表情が、どれほど僕の腹を立てさせるか……あなたには想像もつかないでしょうね」
首筋に触れた指先が、なぞるようにゆっくりと下へ滑る。
冷たい体温が皮膚にへばりつき、ぞわりと肌が粟立った。
ななしは短く悲鳴を上げそうになり、必死に口を噤む。
「あの……、離してください」
「離す? なぜです? あなたが僕以外の男に愛想を振りまくから、こうして躾をしているのですよ」
肩を掴む手に力が籠もる。
骨が軋むような圧迫感に、呼吸が浅くなった。
逃げようと身を捩っても、上から押さえつけられた重圧に身動きすら取れない。
ななしの目には、既に涙が浮かんでいた。
「ジェイド先輩、痛いです……」
「そうですか」
「あの……離してください」
「僕の胸の痛みに比べれば、こんなものは擦り傷のようなものですよ」
◇
重苦しい沈黙だけが部屋を満たしていた。
「……もう、帰らせてください」
「帰る? あなたの時間は今日からすべて僕のものですよ」
「勝手なこと言わないでください」
思わず睨みつけると、ジェイドはうっとりと目を細め、指先でななしの下唇を強く押し潰した。
その力は、ななしが悲鳴を上げることさえ禁じているかのようだ。
「いい顔です。僕の身勝手に振り回され、怯え、歪んでいく顔……」
「……っ!」
「笑顔よりも、ずっと僕を痺れさせます」
「今日の先輩、おかしいです……」
ななしは必死に首を振ろうとするが、ジェイドの指がそれを許さない。
その瞳には、かつての優しい面影は微塵もなかった。
「おかしい? 僕が?」
顎を掴まれ、無理やり上を向かされる。
逃げ場のない至近距離で、ジェイドの重い吐息が皮膚に吹きかかった。
「おかしいのはあなたでしょう?」
「わたしは……」
「その無自覚さが、どれほど僕を苛立たせ狂わせているか」
「わたしは……ただ、普通に接しているだけで……」
「それが気に入らないと言っているのです」
指先が首筋の脈打つ場所へと移り、じわじわと力を込められていく。
圧迫感に息が詰まり、浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
ななしは喉を鳴らし、掠れた声を漏らす。
「僕だけを恐れ、僕だけの言葉に絶望し、僕の愛に押し潰されていればいい」
「ジェイド先輩……息が……っ」
「僕の差し出す空気だけを吸って生きればいいのです」
重苦しい沈黙が部屋を支配し、ななしは喉を鳴らして必死に空気を求めようとした。
しかし、視界を塞ぐジェイドの存在感がそれを許さない。
涙が頬を伝い、ジェイドの手を濡らした。
「そんなの、嫌です………」
「嫌だと言って、誰かが助けに来てくれますか? フロイドですか? アズールですか?」
耳元で落とされた声は恐ろしいほど冷たかった。
「どうせ誰も来ませんよ」
「……」
ななしは絶望に打ちひしがれ、全身の力が抜けていく。
逃げようとする意志さえ、ジェイドの圧倒的な威圧感の前に霧散していった。
「可哀想に、身体が震えていますね。ですが、その恐怖も絶望もすべて僕が与えたものです」
握りしめられた手首に、逃げられないようにとギリギリと指が食い込む。
痛みと恐怖で頭の中が白く染まっていった。
「他人に期待するから裏切られ、裏切られるから悲しむのです」
耳元に滑り込んできた声はゾッとするほど穏やかで、そしてどこまでも重い。
「最初から僕という絶望だけに浸かっていれば、何も考えずに済むでしょう?」
「そんなの……絶対に間違ってる」
首を振ろうとしても、顎を固定されたままでは微かな拒絶を示すのが限界だった。
震える声で絞り出す反論を、ジェイドはくすりと笑って受け流す。
「間違っていようと関係ありません。海の底では、捕まえた獲物を骨の髄まで溶かして飲み込むのが道理ですから」
ジェイドの唇が震える耳たぶを掠める。
粘ついた執着と嫉妬が、まるで泥のように身体の芯まで染み込んでくるようだった。
「さあ、諦めて僕にすべてを委ねてください。あなたの自由も心も、僕が残さず喰らい尽くして差し上げましょう」
ななしはもう、抵抗する言葉も力も持っていなかった。
ただ震えることしかできなかった。
「逃がしませんよ、ななしさん」
囁かれた呪縛のような言葉に、ななしは深い暗闇へと引きずり込まれていく感覚に囚われていた。
ジェイドの微笑みが、最後の視界に焼き付いている。
棚に並ぶ無数の標本瓶が鈍い光を返している。
「あの……ジェイド先輩?」
ななしの声は、まとわりつくような空気の中に弱々しく消えた。
差し出されたカップから立ち上る湯気は、どこか甘く、頭を痺れさせるような粘り気のある香りを帯びている。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がってください」
ジェイドの唇が弧を描く。
その微笑みは、仮面のように微動だにしない。
「……ありがとうございます」
ななしはカップを受け取る手が小刻みに震えていることに気づき、慌てて両手で包み込んだ。
陶器の冷たさが、震える手にじわりと伝わっていく。
「ふふ、そんなに身体をこわばらせないでください。少しあなたを独占したくなっただけですから」
促されるまま口をつけた紅茶は、喉の奥を滑り落ちるなり、じんわりと内側から身体を重く麻痺させていくような錯覚を覚えた。
「先ほど、フロイドと楽しそうに話していましたね」
唐突に落ちてきた低い声。
取り立てて荒らげてはいないものの、声の輪郭には隠しきれない濁りが混じっている。
ジェイドは立ち上がりソファーの後ろへと回った。
影が頭上から覆いかぶさる。
「僕以外の誰かに向けるその柔らかい表情が、どれほど僕の腹を立てさせるか……あなたには想像もつかないでしょうね」
首筋に触れた指先が、なぞるようにゆっくりと下へ滑る。
冷たい体温が皮膚にへばりつき、ぞわりと肌が粟立った。
ななしは短く悲鳴を上げそうになり、必死に口を噤む。
「あの……、離してください」
「離す? なぜです? あなたが僕以外の男に愛想を振りまくから、こうして躾をしているのですよ」
肩を掴む手に力が籠もる。
骨が軋むような圧迫感に、呼吸が浅くなった。
逃げようと身を捩っても、上から押さえつけられた重圧に身動きすら取れない。
ななしの目には、既に涙が浮かんでいた。
「ジェイド先輩、痛いです……」
「そうですか」
「あの……離してください」
「僕の胸の痛みに比べれば、こんなものは擦り傷のようなものですよ」
◇
重苦しい沈黙だけが部屋を満たしていた。
「……もう、帰らせてください」
「帰る? あなたの時間は今日からすべて僕のものですよ」
「勝手なこと言わないでください」
思わず睨みつけると、ジェイドはうっとりと目を細め、指先でななしの下唇を強く押し潰した。
その力は、ななしが悲鳴を上げることさえ禁じているかのようだ。
「いい顔です。僕の身勝手に振り回され、怯え、歪んでいく顔……」
「……っ!」
「笑顔よりも、ずっと僕を痺れさせます」
「今日の先輩、おかしいです……」
ななしは必死に首を振ろうとするが、ジェイドの指がそれを許さない。
その瞳には、かつての優しい面影は微塵もなかった。
「おかしい? 僕が?」
顎を掴まれ、無理やり上を向かされる。
逃げ場のない至近距離で、ジェイドの重い吐息が皮膚に吹きかかった。
「おかしいのはあなたでしょう?」
「わたしは……」
「その無自覚さが、どれほど僕を苛立たせ狂わせているか」
「わたしは……ただ、普通に接しているだけで……」
「それが気に入らないと言っているのです」
指先が首筋の脈打つ場所へと移り、じわじわと力を込められていく。
圧迫感に息が詰まり、浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
ななしは喉を鳴らし、掠れた声を漏らす。
「僕だけを恐れ、僕だけの言葉に絶望し、僕の愛に押し潰されていればいい」
「ジェイド先輩……息が……っ」
「僕の差し出す空気だけを吸って生きればいいのです」
重苦しい沈黙が部屋を支配し、ななしは喉を鳴らして必死に空気を求めようとした。
しかし、視界を塞ぐジェイドの存在感がそれを許さない。
涙が頬を伝い、ジェイドの手を濡らした。
「そんなの、嫌です………」
「嫌だと言って、誰かが助けに来てくれますか? フロイドですか? アズールですか?」
耳元で落とされた声は恐ろしいほど冷たかった。
「どうせ誰も来ませんよ」
「……」
ななしは絶望に打ちひしがれ、全身の力が抜けていく。
逃げようとする意志さえ、ジェイドの圧倒的な威圧感の前に霧散していった。
「可哀想に、身体が震えていますね。ですが、その恐怖も絶望もすべて僕が与えたものです」
握りしめられた手首に、逃げられないようにとギリギリと指が食い込む。
痛みと恐怖で頭の中が白く染まっていった。
「他人に期待するから裏切られ、裏切られるから悲しむのです」
耳元に滑り込んできた声はゾッとするほど穏やかで、そしてどこまでも重い。
「最初から僕という絶望だけに浸かっていれば、何も考えずに済むでしょう?」
「そんなの……絶対に間違ってる」
首を振ろうとしても、顎を固定されたままでは微かな拒絶を示すのが限界だった。
震える声で絞り出す反論を、ジェイドはくすりと笑って受け流す。
「間違っていようと関係ありません。海の底では、捕まえた獲物を骨の髄まで溶かして飲み込むのが道理ですから」
ジェイドの唇が震える耳たぶを掠める。
粘ついた執着と嫉妬が、まるで泥のように身体の芯まで染み込んでくるようだった。
「さあ、諦めて僕にすべてを委ねてください。あなたの自由も心も、僕が残さず喰らい尽くして差し上げましょう」
ななしはもう、抵抗する言葉も力も持っていなかった。
ただ震えることしかできなかった。
「逃がしませんよ、ななしさん」
囁かれた呪縛のような言葉に、ななしは深い暗闇へと引きずり込まれていく感覚に囚われていた。
ジェイドの微笑みが、最後の視界に焼き付いている。
