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「……ななしさん」
「なんですか?」
「今、僕のことを避けましたか?」
「……避けてないです」
「ではどうして目が合った瞬間に進行方向を変えたんです?」
「偶然です」
「その偶然が今月だけで七回目です」
「数えてるんですか?」
「当然でしょう」
アズールは眼鏡の位置を整えながらため息をついた。
「僕をなんだと思っているんです」
「なんだって……アズール先輩ですけど」
「そういう話ではありません」
「じゃあどういう話ですか」
「…………」
アズールは答えず、しばらくこちらを見ていた。
「……僕に何か不満でも?」
「ないです」
「ではなぜ避けるんです?」
「……避けてないですってば」
「なるほど」
アズールは頷いた。
「つまり僕の勘違いだと」
「そうです」
「では今から五分ほど付き合ってください」
「えっ」
「避けていないなら問題ないでしょう?」
「それは……」
「問題ないでしょう?」
逃げ道を先回りして塞ぐような笑顔だった。
◇
「それで?」
「それで、とは」
「五分付き合えと言ったのはアズール先輩ですよ」
「そうでしたね」
そう言った本人は優雅に飲み物を口に運んでいる。
「……別に用事はありません」
「ないんですか?」
「ええ」
「じゃあなんで」
「確認です」
「確認?」
「僕が本当に避けられているのかどうか」
「まだ言ってる」
「重要な問題ですからね」
アズールは机に指先を置いた。
「僕は人との距離感を間違えるタイプではありません」
「自信ありますね」
「あります」
即答だった。
「だからこそ分からないんです」
「何がです?」
「あなたの行動が」
少しだけ言葉が途切れる。
「普通なら理由がある」
「……」
「嫌われているなら嫌われているなりに理由を推測できます」
「嫌ってないです」
「知っています」
「知ってるんですか」
「ええ」
「じゃあ何が問題なんです?」
アズールは小さく息を吐いた。
「嫌われていないのに距離を置かれる理由が分からないんですよ」
「……」
「僕は損得勘定で動く人間です」
「自分で言います?」
「事実ですから」
少しだけ笑う。
「ですが、あなたに関してだけ計算が成立しない」
「わたし?」
「困ったことに」
その言い方が妙に真面目で言葉に詰まった。
「……アズール先輩って意外と考え込みますよね」
「意外とは失礼ですね」
「もっとこう……全部思い通りにしてる人なのかと」
「まさか」
アズールは肩を竦めた。
「思い通りにならないことだらけですよ」
「例えば?」
「今です」
「今?」
「ええ」
視線が合う。
「あなたです」
「……意味が分かりません」
「でしょうね」
「説明してください」
「嫌です」
「なんでですか」
「僕にもまだ整理できていませんから」
アズールがそんな言い方をするのは珍しかった。
普段なら答えを用意している人だ。
交渉でも契約でも言葉を選び抜いて話す。
「……ななしさんは、僕が困っていると嬉しいですか?」
「全然」
「なら助けてください」
「どうやって」
「それを僕が知りたいんです」
本当に困った顔だった。
「あなたは時々、僕の予定を全部狂わせる」
「そんなことしてません」
「しています」
きっぱり言われる。
「今日は図書室に寄る予定だったんです」
「はい」
「ですが、あなたを見かけたのでこちらに来ました」
「……」
「昨日もそうです」
「昨日?」
「仕事を終わらせて帰るつもりでした」
「それが?」
「あなたがまだ残っていたので帰れなかった」
「なんでですか」
「分からないから困っているんでしょう」
頭を抱えるように額を押さえる。
「帰ればいいんじゃないですか?」
「理屈ではそうです」
「じゃあ帰ってください」
「嫌です」
「嫌なんですか?」
「ええ」
即答だった。
「……アズール先輩って案外わがままですよね」
「今さらですか?」
「自覚あったんですね」
「ありますよ」
少し笑う。
「欲しいものは欲しいですし、手に入るなら手に入れたい」
「らしいです」
「ですが今回は勝手が違う」
アズールは視線を落とした。
「契約も駆け引きも使えない」
「使わなくていいと思いますけど」
「僕にとっては死活問題です」
「大げさな」
「本気ですよ」
その声だけは冗談に聞こえなかった。
「僕は見返りのない行動をあまりしません」
「知ってます」
「ですが、あなた相手だと採算が合わないことばかりしている」
「例えば?」
「差し入れを買ったり」
「……ありましたね」
「資料をまとめて渡したり」
「ありましたね」
「困っていそうなら声をかけたり」
「ありましたね」
「覚えているなら話が早い」
アズールは少しだけ目を細めた。
「普通ならここまでしたら何かしら回収できるんです」
「回収って言い方」
「ですが何もない」
「何か欲しかったんですか?」
「欲しかったですよ」
「何を?」
「……それを僕が知りたいんです」
◇
「わたしも聞いていいですか」
「どうぞ」
「アズール先輩は、なんでそんなに気にするんですか?」
「……」
「避けられてるかもしれないって」
返事がない。
珍しくアズールの視線が泳ぐ。
「別に嫌われても平気な人だと思ってました」
「平気ですよ」
「じゃあ」
「他人なら」
言葉が止まる。
「……他人なら?」
「あなたが相手だからです」
空気が静かになる。
アズールは観念したように息を吐いた。
「僕は効率を重視します」
「はい」
「なので無駄な感情は切り捨ててきました」
「……」
「ですが、あなたに関しては無理だった」
「……」
「顔を見れば安心するし、話せなければ気になる」
「……」
「誰かと楽しそうにしていると少し面白くない」
「それって」
「言わないでください」
珍しく遮られた。
「僕も分かっていますから」
耳まで赤くなっている。
そう思うほど珍しい表情だった。
「……アズール先輩でもそういう顔するんですね」
「しますよ」
「初めて見ました」
「忘れてください」
「無理です」
「契約しませんか?」
「しません」
「ですよね」
がっくりと肩を落とす。
そんな姿まで珍しい。
「……わたしが避けてた理由、聞きます?」
「ぜひ」
「アズール先輩が悪いんです」
「なぜです?」
「優しいから」
「はい?」
「優しいし、気が利くし」
「……」
「期待しそうになるじゃないですか」
今度はアズールが黙る番だった。
「勘違いしたら嫌だなって」
「勘違い?」
「わたしだけ特別かもしれないって」
「……」
「でもアズール先輩って誰にでも上手に接するから」
「なるほど」
眼鏡を押し上げる。
「つまり両想いだと思い込んだ人間が傷つかないよう距離を取っていたと」
「そういうことです」
「馬鹿ですね」
「なんでですか!」
「僕が誰にでもこんな面倒な態度を取ると思いますか?」
「……思いません」
「でしょうね」
アズールは笑った。
「僕はもっと合理的ですよ」
「知ってます」
「あなた相手だけです」
「……」
「こんなに非効率なのは」
◇
「……腹が立つんですよ」
ぽつりと落ちる。
「僕がどれだけ計算を重ねても、あなたというイレギュラーには敵わない」
その声音は呆れと諦めが半分ずつだった。
「予定を狂わされて、感情まで乱されて」
「はい」
「それでも嫌じゃない」
「……」
「本当に腹立たしい人だ」
言葉とは裏腹に表情は穏やかだった。
「責任を取ってください」
「責任?」
「僕をこんなふうにした責任です」
「……重いですね」
「ええ」
アズールは迷いなく頷いた。
「かなり重いですよ」
「返品できますか?」
「できません」
「即答」
「契約成立です」
「してないです」
「では口約束で」
「それもしてないです」
「困りましたね」
そう言いながら少しも困っていない顔をする。
「……でも」
「?」
「逃げないならそれでいいです」
「……」
「僕も逃げませんから」
◇
「アズール先輩」
「なんですか」
「五分って言ってましたよね」
「言いましたね」
「もうとっくに過ぎてます」
「……そうですね」
「帰らなくていいんですか?」
「予定変更です」
「またですか?」
「ええ」
アズールは笑った。
「慣れてください」
「何にです?」
「あなたに振り回される僕に」
「それ、アズール先輩が勝手に……」
「そうとも言いますね」
アズールが立ち上がる。
「では行きましょうか」
「どこに?」
アズールは少しだけ楽しそうに目を細める。
「僕にも分かりません」
「珍しいですね」
「でしょう?」
アズールは肩を竦めた。
「ですが悪くない気分です」
計算通りではない未来。
予定表に書かれていない時間。
それでも隣を歩く相手だけは決まっている。
「……ななしさん」
「はい?」
「今度は避けないでくださいね」
「努力します」
「努力では困ります」
「じゃあ善処します」
「もっと困りました」
笑い声が重なる。
答えはまだ出ていない。
契約も約束もない。
けれど計算違いばかりのこの関係をアズールはきっと嫌いになれない。
そしてそれは、たぶんななし自身も同じだった。
「なんですか?」
「今、僕のことを避けましたか?」
「……避けてないです」
「ではどうして目が合った瞬間に進行方向を変えたんです?」
「偶然です」
「その偶然が今月だけで七回目です」
「数えてるんですか?」
「当然でしょう」
アズールは眼鏡の位置を整えながらため息をついた。
「僕をなんだと思っているんです」
「なんだって……アズール先輩ですけど」
「そういう話ではありません」
「じゃあどういう話ですか」
「…………」
アズールは答えず、しばらくこちらを見ていた。
「……僕に何か不満でも?」
「ないです」
「ではなぜ避けるんです?」
「……避けてないですってば」
「なるほど」
アズールは頷いた。
「つまり僕の勘違いだと」
「そうです」
「では今から五分ほど付き合ってください」
「えっ」
「避けていないなら問題ないでしょう?」
「それは……」
「問題ないでしょう?」
逃げ道を先回りして塞ぐような笑顔だった。
◇
「それで?」
「それで、とは」
「五分付き合えと言ったのはアズール先輩ですよ」
「そうでしたね」
そう言った本人は優雅に飲み物を口に運んでいる。
「……別に用事はありません」
「ないんですか?」
「ええ」
「じゃあなんで」
「確認です」
「確認?」
「僕が本当に避けられているのかどうか」
「まだ言ってる」
「重要な問題ですからね」
アズールは机に指先を置いた。
「僕は人との距離感を間違えるタイプではありません」
「自信ありますね」
「あります」
即答だった。
「だからこそ分からないんです」
「何がです?」
「あなたの行動が」
少しだけ言葉が途切れる。
「普通なら理由がある」
「……」
「嫌われているなら嫌われているなりに理由を推測できます」
「嫌ってないです」
「知っています」
「知ってるんですか」
「ええ」
「じゃあ何が問題なんです?」
アズールは小さく息を吐いた。
「嫌われていないのに距離を置かれる理由が分からないんですよ」
「……」
「僕は損得勘定で動く人間です」
「自分で言います?」
「事実ですから」
少しだけ笑う。
「ですが、あなたに関してだけ計算が成立しない」
「わたし?」
「困ったことに」
その言い方が妙に真面目で言葉に詰まった。
「……アズール先輩って意外と考え込みますよね」
「意外とは失礼ですね」
「もっとこう……全部思い通りにしてる人なのかと」
「まさか」
アズールは肩を竦めた。
「思い通りにならないことだらけですよ」
「例えば?」
「今です」
「今?」
「ええ」
視線が合う。
「あなたです」
「……意味が分かりません」
「でしょうね」
「説明してください」
「嫌です」
「なんでですか」
「僕にもまだ整理できていませんから」
アズールがそんな言い方をするのは珍しかった。
普段なら答えを用意している人だ。
交渉でも契約でも言葉を選び抜いて話す。
「……ななしさんは、僕が困っていると嬉しいですか?」
「全然」
「なら助けてください」
「どうやって」
「それを僕が知りたいんです」
本当に困った顔だった。
「あなたは時々、僕の予定を全部狂わせる」
「そんなことしてません」
「しています」
きっぱり言われる。
「今日は図書室に寄る予定だったんです」
「はい」
「ですが、あなたを見かけたのでこちらに来ました」
「……」
「昨日もそうです」
「昨日?」
「仕事を終わらせて帰るつもりでした」
「それが?」
「あなたがまだ残っていたので帰れなかった」
「なんでですか」
「分からないから困っているんでしょう」
頭を抱えるように額を押さえる。
「帰ればいいんじゃないですか?」
「理屈ではそうです」
「じゃあ帰ってください」
「嫌です」
「嫌なんですか?」
「ええ」
即答だった。
「……アズール先輩って案外わがままですよね」
「今さらですか?」
「自覚あったんですね」
「ありますよ」
少し笑う。
「欲しいものは欲しいですし、手に入るなら手に入れたい」
「らしいです」
「ですが今回は勝手が違う」
アズールは視線を落とした。
「契約も駆け引きも使えない」
「使わなくていいと思いますけど」
「僕にとっては死活問題です」
「大げさな」
「本気ですよ」
その声だけは冗談に聞こえなかった。
「僕は見返りのない行動をあまりしません」
「知ってます」
「ですが、あなた相手だと採算が合わないことばかりしている」
「例えば?」
「差し入れを買ったり」
「……ありましたね」
「資料をまとめて渡したり」
「ありましたね」
「困っていそうなら声をかけたり」
「ありましたね」
「覚えているなら話が早い」
アズールは少しだけ目を細めた。
「普通ならここまでしたら何かしら回収できるんです」
「回収って言い方」
「ですが何もない」
「何か欲しかったんですか?」
「欲しかったですよ」
「何を?」
「……それを僕が知りたいんです」
◇
「わたしも聞いていいですか」
「どうぞ」
「アズール先輩は、なんでそんなに気にするんですか?」
「……」
「避けられてるかもしれないって」
返事がない。
珍しくアズールの視線が泳ぐ。
「別に嫌われても平気な人だと思ってました」
「平気ですよ」
「じゃあ」
「他人なら」
言葉が止まる。
「……他人なら?」
「あなたが相手だからです」
空気が静かになる。
アズールは観念したように息を吐いた。
「僕は効率を重視します」
「はい」
「なので無駄な感情は切り捨ててきました」
「……」
「ですが、あなたに関しては無理だった」
「……」
「顔を見れば安心するし、話せなければ気になる」
「……」
「誰かと楽しそうにしていると少し面白くない」
「それって」
「言わないでください」
珍しく遮られた。
「僕も分かっていますから」
耳まで赤くなっている。
そう思うほど珍しい表情だった。
「……アズール先輩でもそういう顔するんですね」
「しますよ」
「初めて見ました」
「忘れてください」
「無理です」
「契約しませんか?」
「しません」
「ですよね」
がっくりと肩を落とす。
そんな姿まで珍しい。
「……わたしが避けてた理由、聞きます?」
「ぜひ」
「アズール先輩が悪いんです」
「なぜです?」
「優しいから」
「はい?」
「優しいし、気が利くし」
「……」
「期待しそうになるじゃないですか」
今度はアズールが黙る番だった。
「勘違いしたら嫌だなって」
「勘違い?」
「わたしだけ特別かもしれないって」
「……」
「でもアズール先輩って誰にでも上手に接するから」
「なるほど」
眼鏡を押し上げる。
「つまり両想いだと思い込んだ人間が傷つかないよう距離を取っていたと」
「そういうことです」
「馬鹿ですね」
「なんでですか!」
「僕が誰にでもこんな面倒な態度を取ると思いますか?」
「……思いません」
「でしょうね」
アズールは笑った。
「僕はもっと合理的ですよ」
「知ってます」
「あなた相手だけです」
「……」
「こんなに非効率なのは」
◇
「……腹が立つんですよ」
ぽつりと落ちる。
「僕がどれだけ計算を重ねても、あなたというイレギュラーには敵わない」
その声音は呆れと諦めが半分ずつだった。
「予定を狂わされて、感情まで乱されて」
「はい」
「それでも嫌じゃない」
「……」
「本当に腹立たしい人だ」
言葉とは裏腹に表情は穏やかだった。
「責任を取ってください」
「責任?」
「僕をこんなふうにした責任です」
「……重いですね」
「ええ」
アズールは迷いなく頷いた。
「かなり重いですよ」
「返品できますか?」
「できません」
「即答」
「契約成立です」
「してないです」
「では口約束で」
「それもしてないです」
「困りましたね」
そう言いながら少しも困っていない顔をする。
「……でも」
「?」
「逃げないならそれでいいです」
「……」
「僕も逃げませんから」
◇
「アズール先輩」
「なんですか」
「五分って言ってましたよね」
「言いましたね」
「もうとっくに過ぎてます」
「……そうですね」
「帰らなくていいんですか?」
「予定変更です」
「またですか?」
「ええ」
アズールは笑った。
「慣れてください」
「何にです?」
「あなたに振り回される僕に」
「それ、アズール先輩が勝手に……」
「そうとも言いますね」
アズールが立ち上がる。
「では行きましょうか」
「どこに?」
アズールは少しだけ楽しそうに目を細める。
「僕にも分かりません」
「珍しいですね」
「でしょう?」
アズールは肩を竦めた。
「ですが悪くない気分です」
計算通りではない未来。
予定表に書かれていない時間。
それでも隣を歩く相手だけは決まっている。
「……ななしさん」
「はい?」
「今度は避けないでくださいね」
「努力します」
「努力では困ります」
「じゃあ善処します」
「もっと困りました」
笑い声が重なる。
答えはまだ出ていない。
契約も約束もない。
けれど計算違いばかりのこの関係をアズールはきっと嫌いになれない。
そしてそれは、たぶんななし自身も同じだった。
