スカラビア
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高い天井に反響する喧騒から少し離れたテラスの隅が、いつの間にか私たちの定位置になっていた。
「……おい、手が止まっているぞ。考え込むのはいいが、筆が動かなければ課題は終わらない」
隣から低く落ち着いた声が降ってくる。
私の目の前に座る彼は、流れるような手つきでペンを走らせていた。彼の字はその性格を表すように整然としていて迷いがない。
「わかってるんですけど……この魔法史の記述どうしても覚えられなくて」
「お前の苦手な分野だな。いいか、ここは歴史の因果関係を紐解けばいい。この人物がなぜこの決断をしたのか……」
彼は嫌な顔ひとつせず、私のノートを引き寄せた。
教え方は的確でずっと分かりやすい。
けれど彼の指先が私のノートに触れるたび、あるいは説明のために彼が少しだけ身を乗り出すたび、私の集中力は別の方向へと霧散していく。
ふわりと漂う彼特有の香り。
洗いたての清潔なリネンのような匂いと、調理場で日常的に扱うスパイスの微かな残香。それが混じり合った香りは私にとってどんな魔法薬よりも心をかき乱すものだった。
「……聞いているのか?」
「あ、はい。ええと、」
「……ふん、半分は上の空だったようだが。まあいい」
ジャミルはふっと口角を上げ、わずかに目を細めた。どこか呆れたようなそれでいて親密さを孕んだ微笑み。それを見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられる。
私たちは友人であり先輩と後輩の間柄だ。オンボロ寮の監督生という、学園内でも特殊な立場にいる私にとって、有能で苦労人の彼は頼りになる相談相手の一人だった。けれど最近の私は彼を単なる友人として見ることに限界を感じ始めていた。
「ジャミル先輩は、自分のために何かしたいって思うことはあるんですか?」
ふと口をついて出た言葉だった。
ジャミルは一瞬ペンを止めた。
その瞳に一瞬だけ鋭い光が宿り、すぐにいつもの冷静な輝きに戻る。
「……唐突だな。俺は常にカリムのサポートを優先している。それが俺の役割だ。自分の望みなど二の次でいい」
「でも、今は仕事中じゃないですよね」
私は少しだけ身を乗り出した。
「私はジャミル先輩が本当に笑ってるところが見たいです。誰かのためじゃなく、自分のために」
沈黙が流れる。
テラスを吹き抜ける熱を帯びた風が彼の髪を揺らした。
ジャミルは視線をノートに戻したが、その耳たぶがほんの少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。
「お前は……時々、無自覚に踏み込みすぎる」
「迷惑、ですか?」
「……いや。嫌いじゃない。お前のそういう、お人好しなところはな」
そう言って傍らに置いてあった水差しから、手際よく二人分のミントティーを淹れた。ガラスのカップに注がれた透明な琥珀色。ミントの爽やかな香りが鼻をくすぐる。
「ほら、休憩だ。これを飲んで頭を冷やせ」
「ありがとうございます、ジャミル先輩」
カップを受け取ろうとした瞬間、指先が触れ合った。驚いて手を引こうとした私を制するように手が重なった。
「っ……」
「……お前、手が冷えているな。ちゃんと食べているのか? 栄養バランスが偏っているんじゃないか」
ぶっきらぼうな口調。けれど、その指先は驚くほど優しく私の手の甲をなぞった。指の腹が私の肌の上を滑る。ただの体温確認にしては、その時間はあまりにも長くあまりにも甘美だった。
見つめ合う視線。
瞳の中に当惑したような、けれど熱を帯びた何かが揺れている。それはきっと、彼が普段幾重もの城壁の奥に隠している本当の欠片だ。
彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
あと数センチ。鼻先が触れそうな距離。
彼の吐息を感じるたびに、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
「お前といると、調子が狂う。……俺の計画も、自制心も、すべて」
彼の低い声が直接脳を揺さぶる。
彼の手が私の頬に伸び親指でそっと唇の端を拭った。
「お前は俺をどうしたいんだ? 友人として側にいたいのか。それとも……」
答えを求めるような、あるいは縋るような問い。けれど、彼はそれ以上踏み込んでこようとはしなかった。彼にとって誰かを特別に想うことは、彼が守り続けてきた平穏を壊す毒になりかねないことを私は知っている。
「私は……ジャミル先輩の隣にいたい。それがどんな形でも。でも、今のこの時間がすごく幸せだってことは本当です」
私の答えにジャミルは少しだけ拍子抜けしたように瞬きをした。
そして深く重い溜息をつく。
「……本当にお前は、食えない奴だ」
彼は離れた。
けれど、その手は最後まで名残惜しそうに私の髪を一房掬い、さらりと指の間から零れ落とした。
「課題が終わったら厨房へ来い。お前の好きな菓子を作ってやる。……特別にスパイスを控えめにしてな」
「本当ですか!? やった!」
「……現金な奴め。ほら、続きをやるぞ。そこを間違えたら、菓子抜きだ」
いつもの口の悪い、けれど世話焼きなジャミルに戻る。
机の下で私の脚が彼の脚にほんの少しだけ触れている。
彼はそれを避けようとはしなかった。
友だち以上恋人未満とでもいうのだろうか。この曖昧で甘酸っぱくて、どこか危うい境界線の上に私たちは立っている。
まだ「好き」という言葉には届かないけれど、この熱砂の風が止む頃には、二人の距離はまた少し縮まっているのかもしれない。
「ジャミル先輩、ここの魔法式……」
「……あぁ、見せてみろ。全く、お前は俺がいないとダメだな」
呆れ顔で笑う彼の横顔に、私は心の中でそっと呟いた。
「……おい、手が止まっているぞ。考え込むのはいいが、筆が動かなければ課題は終わらない」
隣から低く落ち着いた声が降ってくる。
私の目の前に座る彼は、流れるような手つきでペンを走らせていた。彼の字はその性格を表すように整然としていて迷いがない。
「わかってるんですけど……この魔法史の記述どうしても覚えられなくて」
「お前の苦手な分野だな。いいか、ここは歴史の因果関係を紐解けばいい。この人物がなぜこの決断をしたのか……」
彼は嫌な顔ひとつせず、私のノートを引き寄せた。
教え方は的確でずっと分かりやすい。
けれど彼の指先が私のノートに触れるたび、あるいは説明のために彼が少しだけ身を乗り出すたび、私の集中力は別の方向へと霧散していく。
ふわりと漂う彼特有の香り。
洗いたての清潔なリネンのような匂いと、調理場で日常的に扱うスパイスの微かな残香。それが混じり合った香りは私にとってどんな魔法薬よりも心をかき乱すものだった。
「……聞いているのか?」
「あ、はい。ええと、」
「……ふん、半分は上の空だったようだが。まあいい」
ジャミルはふっと口角を上げ、わずかに目を細めた。どこか呆れたようなそれでいて親密さを孕んだ微笑み。それを見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられる。
私たちは友人であり先輩と後輩の間柄だ。オンボロ寮の監督生という、学園内でも特殊な立場にいる私にとって、有能で苦労人の彼は頼りになる相談相手の一人だった。けれど最近の私は彼を単なる友人として見ることに限界を感じ始めていた。
「ジャミル先輩は、自分のために何かしたいって思うことはあるんですか?」
ふと口をついて出た言葉だった。
ジャミルは一瞬ペンを止めた。
その瞳に一瞬だけ鋭い光が宿り、すぐにいつもの冷静な輝きに戻る。
「……唐突だな。俺は常にカリムのサポートを優先している。それが俺の役割だ。自分の望みなど二の次でいい」
「でも、今は仕事中じゃないですよね」
私は少しだけ身を乗り出した。
「私はジャミル先輩が本当に笑ってるところが見たいです。誰かのためじゃなく、自分のために」
沈黙が流れる。
テラスを吹き抜ける熱を帯びた風が彼の髪を揺らした。
ジャミルは視線をノートに戻したが、その耳たぶがほんの少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。
「お前は……時々、無自覚に踏み込みすぎる」
「迷惑、ですか?」
「……いや。嫌いじゃない。お前のそういう、お人好しなところはな」
そう言って傍らに置いてあった水差しから、手際よく二人分のミントティーを淹れた。ガラスのカップに注がれた透明な琥珀色。ミントの爽やかな香りが鼻をくすぐる。
「ほら、休憩だ。これを飲んで頭を冷やせ」
「ありがとうございます、ジャミル先輩」
カップを受け取ろうとした瞬間、指先が触れ合った。驚いて手を引こうとした私を制するように手が重なった。
「っ……」
「……お前、手が冷えているな。ちゃんと食べているのか? 栄養バランスが偏っているんじゃないか」
ぶっきらぼうな口調。けれど、その指先は驚くほど優しく私の手の甲をなぞった。指の腹が私の肌の上を滑る。ただの体温確認にしては、その時間はあまりにも長くあまりにも甘美だった。
見つめ合う視線。
瞳の中に当惑したような、けれど熱を帯びた何かが揺れている。それはきっと、彼が普段幾重もの城壁の奥に隠している本当の欠片だ。
彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
あと数センチ。鼻先が触れそうな距離。
彼の吐息を感じるたびに、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
「お前といると、調子が狂う。……俺の計画も、自制心も、すべて」
彼の低い声が直接脳を揺さぶる。
彼の手が私の頬に伸び親指でそっと唇の端を拭った。
「お前は俺をどうしたいんだ? 友人として側にいたいのか。それとも……」
答えを求めるような、あるいは縋るような問い。けれど、彼はそれ以上踏み込んでこようとはしなかった。彼にとって誰かを特別に想うことは、彼が守り続けてきた平穏を壊す毒になりかねないことを私は知っている。
「私は……ジャミル先輩の隣にいたい。それがどんな形でも。でも、今のこの時間がすごく幸せだってことは本当です」
私の答えにジャミルは少しだけ拍子抜けしたように瞬きをした。
そして深く重い溜息をつく。
「……本当にお前は、食えない奴だ」
彼は離れた。
けれど、その手は最後まで名残惜しそうに私の髪を一房掬い、さらりと指の間から零れ落とした。
「課題が終わったら厨房へ来い。お前の好きな菓子を作ってやる。……特別にスパイスを控えめにしてな」
「本当ですか!? やった!」
「……現金な奴め。ほら、続きをやるぞ。そこを間違えたら、菓子抜きだ」
いつもの口の悪い、けれど世話焼きなジャミルに戻る。
机の下で私の脚が彼の脚にほんの少しだけ触れている。
彼はそれを避けようとはしなかった。
友だち以上恋人未満とでもいうのだろうか。この曖昧で甘酸っぱくて、どこか危うい境界線の上に私たちは立っている。
まだ「好き」という言葉には届かないけれど、この熱砂の風が止む頃には、二人の距離はまた少し縮まっているのかもしれない。
「ジャミル先輩、ここの魔法式……」
「……あぁ、見せてみろ。全く、お前は俺がいないとダメだな」
呆れ顔で笑う彼の横顔に、私は心の中でそっと呟いた。
