イグニハイド
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電子音が静かに響く空間でイデアはキーボードを叩く手を止めた。椅子の背もたれに深く体を預け、長い前髪の隙間から隣に座るななしの横顔をじっと見つめる。
ななしは手元の資料に視線を落としたまま熱心にノートにペンを走らせていた。
「……あ、あのさ、ななし氏」
ボソリと呟かれた声は室内の静寂に溶けてしまいそうなほど小さかった。しかしななしはすぐに顔を上げてイデアの方を向く。
「はい、イデア先輩。どうしました?」
「いやその……。退屈でしょ。こんな陰キャの引きこもり部屋にいてもさ。もっとこう、普通の女の子なら購買の新作スイーツを食べに行ったりとか日当たりのいい中庭でお喋りしたりとか、そういうキラキラした学園生活を送るべきなんじゃないの、って。ちょっと拙者の良心の呵責的な何かがですね……」
イデアは視線を泳がせながら自分の髪の毛先を指先でくるくると弄んだ。液晶の光を浴びて彼の青い髪が不規則に揺らめく。
ななしは小さく笑ってペンを机に置いた。
「全然退屈じゃないですよ。わたし、イデア先輩と一緒に過ごすこの時間が好きなんです」
「なっ……!?」
直球すぎる言葉にイデアの顔が一瞬で赤く染まる。彼は慌てて机の上に突っ伏し両腕で顔を隠してしまった。
「そういうセリフをサラッと言えちゃうあたり、やはりななし氏は恐ろしい。リア充の波動を感じる」
「本当のことですよ。先輩の研究のお手伝いをするのも、こうして静かに過ごすのも、わたしにとっては特別なんです」
突っ伏したままのイデアの肩がピクリと跳ねる。彼は腕の隙間から片方の目だけを覗かせてななしを見た。
「……特別とか、そういうのあんまり簡単に使わない方がいいと思う。拙者みたいなタイプは、すぐに勘違いして脳内で勝手にストーリーを構築しちゃうから」
「勘違いじゃないですよ」
ななしはイデアを見つめ返した。その瞳に迷いがないことを見て取ると、イデアは大きなため息をつきながらようやく上体を起こした。
「はぁ……。本当に君には敵わないというか。生身の人間、それもななし氏の行動パターンは予測不可能すぎる」
「わたしの行動そんなに変ですか?」
「変っていうか、規格外。だって普通は僕みたいな偏屈な人間に、わざわざ自分から近づいてこないでしょ。それなのに君はいつの間にか僕のパーソナルスペースにするりと入り込んでる。これバグ以外の何物でもないでしょ」
イデアは少し尖らせた唇で不満げに言ってみせるが、その表情には隠しきれない愛おしさが滲み出ていた。彼は長い指先で机の端をトントンと規則正しく叩く。
「バグだなんて酷いです。わたしはただ、イデア先輩ともっとお話ししたいなと思っただけですよ」
「それがもう僕からしたら未知のイベント発生なわけ……あー、もう。頭がうまく回らない。ちょっと休憩。糖分補給する」
イデアは立ち上がると部屋の隅にある冷蔵庫からエナジードリンクとスナック菓子を取り出してきた。それを机の上に無造作に置くと、自分の分だけでなくななしの前にもそっとお菓子を差し出す。
「はい、ななし氏の分。これ、今ネットで美味いって話題のやつだから。食べてみて」
「ありがとうございます。いただきますね」
お菓子を口に運ぶななしの姿をイデアはどこか嬉しそうに、けれど少し気恥ずかしそうに眺めている。
二人の間に穏やかな沈黙が流れる。いつもなら沈黙を嫌ってすぐにゲームを起動するかヘッドホンを耳に当てるイデアだったが、今の彼はただななしと同じ空気を吸っている時間を心地よく感じているようだった。
「……イデア先輩」
「ん? 何?」
エナジードリンクの缶を口に当てようとしていたイデアが動きを止める。
「先輩は、その……わたしのこと、どう思ってますか?」
不意に投げかけられた質問にイデアはあからさまに動揺した。持っていた缶が手元で大きく揺れ中身が少しこぼれそうになる。
「なっ、何をおっしゃるかと思えば……! な、何って、そりゃあ……」
イデアの喉仏が緊張で小さく上下した。彼はドリンクの缶を机に置くと、長い髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
「……そういう質問、ずるいよ。今ここで僕の口から出る言葉が、どれだけ重いか分かってて言ってる?」
「重くても軽くてもいいです。先輩の気持ちが知りたいんです」
ななしの真剣な眼差しに射抜かれイデアは逃げ道を失ったように視線を彷徨わせた。部屋のモニターが放つ青白い光が彼の横顔を輪郭づくっている。
イデアはしばらく黙り込んでいたが、やがて諦めたように小さく笑った。いつもの自嘲気味なものではなく、どこか切なさを孕んだひどく優しいものだった。
「……君って本当に容赦ないね」
イデアは少しだけ椅子をななしの方へと引き寄せた。彼との距離がぐっと縮まりななしの鼓動がわずかに跳ねる。
「非科学的な言葉で物事を片付けるのはスマートじゃないし、基本的には緻密なプログラムと確率論で動いているべきなんだよ……」
イデアの声はいつになく低く落ち着いていた。いつもの早口は身を潜め、一文字ずつを確かめるように丁寧に紡がれていく。
「でもさ……」
イデアは手を伸ばし机の上に置かれていたななしの手のひらに、自分の細い指先をそっと重ねた。ほんの少し震えている彼の指先から確かな体温が伝わってくる。
「……運命なんて言葉で片付けたくないけど、君と出会ったことだけは例外って思わざるを得ないんだよね」
「……例外、ですか?」
ななしが声を震わせながら問い返すと、イデアは重ねた指先にほんの少しだけ力を込めた。彼にしては珍しく真っ直ぐにななしの目を見つめている。
「そう、例外。僕の人生のプログラムには、こんなイベント絶対に組み込まれていなかったはずなんだ。だってそうでしょ? 暗い部屋で画面だけを見ていれば満足だった人間に、特定の個人の一挙一動で一喜一憂するようなバグが発生するなんて確率論的にもあり得ない」
イデアは一度言葉を区切り、照れ隠しのように視線を少しだけ斜め下に落とした。彼の特徴的な青い髪の毛先が微かに揺れている。
「……ななし氏が隣にいると、処理能力が著しく低下する。頭のなかが100%君のことで占有されちゃう感じ。理屈じゃないんだよ、もう」
「イデア先輩……」
「あー、もう! 自分で言ってて恥ずかしすぎて爆発しそう! 今のセリフは記憶から削除して!」
急に我に返ったイデアは重ねていた手をバッと離すと、再び両手で顔を覆って椅子ごと後ろへガタガタと下がった。椅子のキャスターが床を転がる音が静かな部屋に派手に響く。
ななしは離れてしまった自分の手のひらを見つめ、それからすぐに小さく笑った。
「わたしはずっと覚えてますよ」
「ちょ、やめて! 記憶のメモリから消去して、お願いだから!」
「嫌です。絶対に消しません」
ななしが椅子を少し進めて距離を詰めると、イデアは覆った手の隙間から困ったように、けれどどこか嬉しそうにななしを見た。
「本当に君には勝てない。僕の防御壁を平気で踏み越えてくるんだから。……でも、不思議と嫌じゃないんだよね」
イデアはゆっくりと顔から手を退け今度は少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべた。
「僕、ななし氏が隣にいるこの空間は、なんだかすごく居心地がいいというか。落ち着くんだ」
「わたしも同じです。イデア先輩の隣、すごく落ち着きます」
「……またそうやって拙者のライフを削るようなことを言う」
イデアは小さく息を吐き出すと、今度は自分から椅子を元の位置へと戻した。二人の距離が再びすぐ近くにまで戻る。
「あのさ、ななし氏。これからも僕の隣の特等席、空けておくから」
イデアの言葉は少しだけぶっきらぼうだったけれど、そこには確かな熱がこもっていた。
「嬉しいです」
ななしが満面の笑みで答えるとイデアの顔にふわりと優しい灯りがともる。
「じゃ、じゃあ……契約成立、ってことで。あー、なんだか急に口寂しくなってきた。ちょっとそのお菓子、僕にも一個ちょうだい」
「はい、どうぞ」
差し出されたスナックを口に放り込みながら、イデアは再びキーボードに手を伸ばした。モニターの青い光に照らされた彼の横顔は先ほどよりもずっと穏やかで少しだけ誇らしげに見えた。
二人の静かな笑い声がいつまでも心地よく響いていた。
ななしは手元の資料に視線を落としたまま熱心にノートにペンを走らせていた。
「……あ、あのさ、ななし氏」
ボソリと呟かれた声は室内の静寂に溶けてしまいそうなほど小さかった。しかしななしはすぐに顔を上げてイデアの方を向く。
「はい、イデア先輩。どうしました?」
「いやその……。退屈でしょ。こんな陰キャの引きこもり部屋にいてもさ。もっとこう、普通の女の子なら購買の新作スイーツを食べに行ったりとか日当たりのいい中庭でお喋りしたりとか、そういうキラキラした学園生活を送るべきなんじゃないの、って。ちょっと拙者の良心の呵責的な何かがですね……」
イデアは視線を泳がせながら自分の髪の毛先を指先でくるくると弄んだ。液晶の光を浴びて彼の青い髪が不規則に揺らめく。
ななしは小さく笑ってペンを机に置いた。
「全然退屈じゃないですよ。わたし、イデア先輩と一緒に過ごすこの時間が好きなんです」
「なっ……!?」
直球すぎる言葉にイデアの顔が一瞬で赤く染まる。彼は慌てて机の上に突っ伏し両腕で顔を隠してしまった。
「そういうセリフをサラッと言えちゃうあたり、やはりななし氏は恐ろしい。リア充の波動を感じる」
「本当のことですよ。先輩の研究のお手伝いをするのも、こうして静かに過ごすのも、わたしにとっては特別なんです」
突っ伏したままのイデアの肩がピクリと跳ねる。彼は腕の隙間から片方の目だけを覗かせてななしを見た。
「……特別とか、そういうのあんまり簡単に使わない方がいいと思う。拙者みたいなタイプは、すぐに勘違いして脳内で勝手にストーリーを構築しちゃうから」
「勘違いじゃないですよ」
ななしはイデアを見つめ返した。その瞳に迷いがないことを見て取ると、イデアは大きなため息をつきながらようやく上体を起こした。
「はぁ……。本当に君には敵わないというか。生身の人間、それもななし氏の行動パターンは予測不可能すぎる」
「わたしの行動そんなに変ですか?」
「変っていうか、規格外。だって普通は僕みたいな偏屈な人間に、わざわざ自分から近づいてこないでしょ。それなのに君はいつの間にか僕のパーソナルスペースにするりと入り込んでる。これバグ以外の何物でもないでしょ」
イデアは少し尖らせた唇で不満げに言ってみせるが、その表情には隠しきれない愛おしさが滲み出ていた。彼は長い指先で机の端をトントンと規則正しく叩く。
「バグだなんて酷いです。わたしはただ、イデア先輩ともっとお話ししたいなと思っただけですよ」
「それがもう僕からしたら未知のイベント発生なわけ……あー、もう。頭がうまく回らない。ちょっと休憩。糖分補給する」
イデアは立ち上がると部屋の隅にある冷蔵庫からエナジードリンクとスナック菓子を取り出してきた。それを机の上に無造作に置くと、自分の分だけでなくななしの前にもそっとお菓子を差し出す。
「はい、ななし氏の分。これ、今ネットで美味いって話題のやつだから。食べてみて」
「ありがとうございます。いただきますね」
お菓子を口に運ぶななしの姿をイデアはどこか嬉しそうに、けれど少し気恥ずかしそうに眺めている。
二人の間に穏やかな沈黙が流れる。いつもなら沈黙を嫌ってすぐにゲームを起動するかヘッドホンを耳に当てるイデアだったが、今の彼はただななしと同じ空気を吸っている時間を心地よく感じているようだった。
「……イデア先輩」
「ん? 何?」
エナジードリンクの缶を口に当てようとしていたイデアが動きを止める。
「先輩は、その……わたしのこと、どう思ってますか?」
不意に投げかけられた質問にイデアはあからさまに動揺した。持っていた缶が手元で大きく揺れ中身が少しこぼれそうになる。
「なっ、何をおっしゃるかと思えば……! な、何って、そりゃあ……」
イデアの喉仏が緊張で小さく上下した。彼はドリンクの缶を机に置くと、長い髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
「……そういう質問、ずるいよ。今ここで僕の口から出る言葉が、どれだけ重いか分かってて言ってる?」
「重くても軽くてもいいです。先輩の気持ちが知りたいんです」
ななしの真剣な眼差しに射抜かれイデアは逃げ道を失ったように視線を彷徨わせた。部屋のモニターが放つ青白い光が彼の横顔を輪郭づくっている。
イデアはしばらく黙り込んでいたが、やがて諦めたように小さく笑った。いつもの自嘲気味なものではなく、どこか切なさを孕んだひどく優しいものだった。
「……君って本当に容赦ないね」
イデアは少しだけ椅子をななしの方へと引き寄せた。彼との距離がぐっと縮まりななしの鼓動がわずかに跳ねる。
「非科学的な言葉で物事を片付けるのはスマートじゃないし、基本的には緻密なプログラムと確率論で動いているべきなんだよ……」
イデアの声はいつになく低く落ち着いていた。いつもの早口は身を潜め、一文字ずつを確かめるように丁寧に紡がれていく。
「でもさ……」
イデアは手を伸ばし机の上に置かれていたななしの手のひらに、自分の細い指先をそっと重ねた。ほんの少し震えている彼の指先から確かな体温が伝わってくる。
「……運命なんて言葉で片付けたくないけど、君と出会ったことだけは例外って思わざるを得ないんだよね」
「……例外、ですか?」
ななしが声を震わせながら問い返すと、イデアは重ねた指先にほんの少しだけ力を込めた。彼にしては珍しく真っ直ぐにななしの目を見つめている。
「そう、例外。僕の人生のプログラムには、こんなイベント絶対に組み込まれていなかったはずなんだ。だってそうでしょ? 暗い部屋で画面だけを見ていれば満足だった人間に、特定の個人の一挙一動で一喜一憂するようなバグが発生するなんて確率論的にもあり得ない」
イデアは一度言葉を区切り、照れ隠しのように視線を少しだけ斜め下に落とした。彼の特徴的な青い髪の毛先が微かに揺れている。
「……ななし氏が隣にいると、処理能力が著しく低下する。頭のなかが100%君のことで占有されちゃう感じ。理屈じゃないんだよ、もう」
「イデア先輩……」
「あー、もう! 自分で言ってて恥ずかしすぎて爆発しそう! 今のセリフは記憶から削除して!」
急に我に返ったイデアは重ねていた手をバッと離すと、再び両手で顔を覆って椅子ごと後ろへガタガタと下がった。椅子のキャスターが床を転がる音が静かな部屋に派手に響く。
ななしは離れてしまった自分の手のひらを見つめ、それからすぐに小さく笑った。
「わたしはずっと覚えてますよ」
「ちょ、やめて! 記憶のメモリから消去して、お願いだから!」
「嫌です。絶対に消しません」
ななしが椅子を少し進めて距離を詰めると、イデアは覆った手の隙間から困ったように、けれどどこか嬉しそうにななしを見た。
「本当に君には勝てない。僕の防御壁を平気で踏み越えてくるんだから。……でも、不思議と嫌じゃないんだよね」
イデアはゆっくりと顔から手を退け今度は少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべた。
「僕、ななし氏が隣にいるこの空間は、なんだかすごく居心地がいいというか。落ち着くんだ」
「わたしも同じです。イデア先輩の隣、すごく落ち着きます」
「……またそうやって拙者のライフを削るようなことを言う」
イデアは小さく息を吐き出すと、今度は自分から椅子を元の位置へと戻した。二人の距離が再びすぐ近くにまで戻る。
「あのさ、ななし氏。これからも僕の隣の特等席、空けておくから」
イデアの言葉は少しだけぶっきらぼうだったけれど、そこには確かな熱がこもっていた。
「嬉しいです」
ななしが満面の笑みで答えるとイデアの顔にふわりと優しい灯りがともる。
「じゃ、じゃあ……契約成立、ってことで。あー、なんだか急に口寂しくなってきた。ちょっとそのお菓子、僕にも一個ちょうだい」
「はい、どうぞ」
差し出されたスナックを口に放り込みながら、イデアは再びキーボードに手を伸ばした。モニターの青い光に照らされた彼の横顔は先ほどよりもずっと穏やかで少しだけ誇らしげに見えた。
二人の静かな笑い声がいつまでも心地よく響いていた。
