イグニハイド
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「イデア先輩、聞いてくださいよ」
「……なに」
端末から視線を外さず、あからさまに億劫そうな返事が返ってくる。
めげずに彼が座る椅子の脚を少しだけ引き寄せて、距離を詰めた。
「先輩にならこの気持ちわかってもらえるかなって」
「だから何!」
キーボードを叩く手がピタリと止まり、イデアが心底嫌そうな顔をしながら、肩をすくめて振り返る。
フードの陰から覗く髪の毛が、わずかに揺れていた。
「拙者、大事なイベントの周回中なんですけど」
「お願いします、わたしの知り合いの中じゃイデア先輩くらいしか共感してくれそうにないんです!」
「陽キャの無駄話につき合ってる暇はないといいますか」
「無駄話じゃないです! 切実なオタクの叫びです!」
「オタク……?」
語彙に引っかかったのか、イデアの眉がひそめられた。
よし、と心の中で小さくガッツポーズをつくる。
「わたしも、元の世界に推しがいたんですよ」
「……それで?」
「初のアリーナ公演初日のチケット、取ってたんです」
「……は?」
「その公演の新グッズも、山ほど注文してました」
イデアの口元が、わずかに引きつった。
キーボードの上に置かれた指先が、微かにピクリと跳ねる。
「それなのに急にこの世界に飛ばされて……。アリーナ公演、きっともう終わってますよね」
「君の世界とこっちの世界の時間の流れが同じとは限らないけど、まあ可能性としては……ね」
「山ほど買ったグッズも、多分家族が受け取ってそのまま放置してますよ」
「……心中お察ししますぞ」
両手を合わせて拝むような仕草を見せるイデアの顔には、同情が浮かんでいる。
「FC先行全敗して、一般先着で奇跡的に勝ち取ったんですよ!?」
「それはもはや神の嫌がらせレベルの悲劇では?」
「……ヘアメも予約して準備万端だったのに」
「ていうか■■■氏、元の世界で相当なガチ勢だった系……?」
「バイト代のほとんどを注ぎ込んでたくらいには」
「それはなかなか」
「なのに届いたグッズは開封されることもなく段ボールの中で眠っていると思うと……」
「開封の儀すら執り行われないグッズたちの無念たるや、想像を絶する悲しみ……」
イデアはガタッと椅子を鳴らし、勢いよくこちらに向き直った。
先ほどまでの不機嫌なオーラは消え去り、猫背を丸めて身を乗り出してくる。
「ちなみに推しはどんなジャンルだったワケ?」
「三次元の男性アイドルグループです」
「リアルアイドルっすか〜」
「元の世界のスマホもないので、もう画像すら拝めないんです」
「それにしても……」
イデアが腕を組み、真剣な顔で唸る。
「その場でしか味わえないリアルの空気感を奪われた絶望」
「そうなんですよ、円盤は円盤で買いますけどね? それとはまた別問題」
「限定ガチャ爆死とは違うベクトルでキツいですな」
「初日のあの独特の空気は二度と味わえないじゃないですか……」
「同意しかない」
間髪入れずに頷きが返ってくる。
「初日特有のネタバレなしで食らう衝撃は何物にも代えがたい……」
「ですよね」
「それを異世界召喚のドタバタでロストとか、拙者なら闇落ち案件なんですけど」
頭を抱えて身悶えするイデアは、きっと自分に置き換えて想像しているのだろう。
それを見ていると、胸のつかえが少しだけ軽くなる気がした。
「思い出さないようにしてるですけど、やっぱり無理というか」
「いや本当、生きててえらいレベルの精神的ダメージでしょそれ」
「でも、ここで泣いててもどうにもならないし……」
「■■■氏が健気すぎて泣けてきたっすわ……」
イデアはブツブツと呟きながら、デスクの脇に積んであったお菓子の山から袋をひとつ手に取った。
そのままこちらへぽんと放り投げてくる。
「はい、これ」
「……え? これ、先輩のお菓子じゃ……」
「哀れなオタクの血肉になった方がお菓子も本望だから」
早口で捲し立てながら、イデアは顔をそむけた。
ボサボサの髪の隙間から見える耳の後ろが、心なしか少し赤くなっている気がする。
「……ありがとうございます、イデア先輩」
「べ、別に……ただの同族への施しだから」
お菓子の袋を開けると、甘い香りがふわりと漂った。
一口食べると、見た目の色味とは反して、やさしい甘さが口いっぱいに広がる。
「美味しいです」
「それはよかった」
イデアは少し誇らしげに鼻を鳴らすと、再びモニターに向き直った。
カチカチとマウスをクリックする音が、静かな部屋に心地よく響く。
「……あの、先輩」
「なに? まだ何かエピソードでもあるわけ?」
「ううん。話聞いてくれてありがとうございます」
袋を小さく折りたたみながら呟く。
モニターの光を見つめるイデアの背中が、わずかに揺れた。
「……まあ、オタクの気持ちはオタクにしかわからないですし」
「ふふ、ですね」
「この際、こっちの世界で推し探したら?」
キーボードを叩く手が、少しだけ雑になっている。
照れ隠しなのか、どこかぶっきらぼうな声だった。
「拙者の推しのCDなら、いつでも貸しますが」
「え、イデア先輩の推しですか?」
「そうですとも!」
怒涛の早口で語り倒すイデアを見て、思わずくすっと笑ってしまう。
熱弁を振るう彼の青い髪が、興奮で揺れていた。
「でも、こっちの世界の推しは、もう決まってるので」
「……は?」
「あ、CDは貸してください。普通に興味あります」
呆れたように振り向いたイデアと、視線が合った。
驚いたように目を見開く姿が、おかしくてたまらない。
「こっちの世界の推しって誰」
「まだ内緒です」
「いや、気になりすぎるんだが!?」
イデアから逃げるように、椅子から立ち上がった。
扉に向かって歩き出しながら、振り返って手を振る。
「イデア先輩! お菓子ごちそうさまでした!」
「ちょっ、■■■氏! 言い逃げ禁止ですが!?」
背後から聞こえる慌ただしい声と椅子の軋む音を背に受けながら、ドアに手をかけた。
胸の奥に残っていた寂しさは、いつの間にかすっかり消え去っていた。