ポムフィオーレ
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ポムフィオーレ寮の談話室には重厚な沈黙が流れていた。
豪奢なソファに深く腰掛けたヴィルは手元に置かれた数冊の資料に目を通しながら時折小さく息を吐き出す。その端正な横顔には一切の妥協を許さない厳格さが刻まれていた。
少し離れた位置で、言われた通りの作業を終えたななしはおそるおそる声をかけた。
「ヴィル先輩、頼まれていた書類の整理終わりました」
ヴィルは視線を書類からななしへと移した。その一瞬の視線の動きだけで周囲の空気が一段と引き締まるような錯覚を覚えさせる。
「そう。見せてちょうだい」
手渡された書類を、ヴィルは一枚一枚丁寧に確認していく。指先一つ、紙をめくる動作一つをとっても計算され尽くしたかのような洗練された美しさがあった。
「……ええ、完璧。アンタ本当に手際が良くなったわね。これなら次も安心して任せられるわ」
「本当ですか? よかったです。ヴィル先輩にそう言ってもらえると、すごく自信になります」
ホッとしたように笑うななしをヴィルは静かに見つめた。
「自信を持つのはいいことよ。でも満足して足を止めないこと」
「はい。これからも頑張ります。じゃあ、わたしはこれで失礼しますね」
荷物を肩にかけ帰ろうとするななしの足音が入り口の手前でピタリと止まった。背後から退路を断つような足音が近づいてきたからだ。
「待ちなさい。誰がもう帰っていいと言ったかしら?」
「え? でも今日の分のお手伝いは全部終わったはずじゃ……」
振り返ったななしの目の前には、すでにヴィルの姿があった。
距離が近い。相手の体温が微かに伝わってくるほどの距離感に、ななしは思わず身を固くした。ヴィルはななしの行く手を遮るように立ち塞がり見下ろしてくる。
「書類の手伝いは終わったわ。でもアタシの用事はまだ終わっていないのよ、ななし」
「用事……ですか?」
「そうよ。アンタ、最近ずいぶんと他の寮の生徒とも仲良くやっているみたいじゃない。この前も中庭で随分と楽しそうに話していたわね」
ヴィルの声は至って穏やかだった。怒っている風でもなく、いつも通りの凛とした響き。だからこそ奥に潜む底知れない圧迫感がななしの肌をチクチクと刺激する。
「あ、あれは、次の授業の課題について聞かれていただけで……」
「言い訳なんて聞いていないわ。アタシが不愉快だったと言っているの」
「ヴィル先輩……?」
思わず一歩後ろに下がろうとしたが、ヴィルはそれを先回りするかのようにさらに距離を詰めた。
逃げ場をなくすようにヴィルの長い指先がななしの顎をそっと掬い上げる。強制的に視線が交差した。
「アンタはいつもそう。誰に対しても同じように優しくて、同じように微笑む。アタシがどれだけアンタに特別な目を向けていても、アンタはアタシを面倒見の良い先輩としか見ていない。違う?」
「そんなこと、ないです。わたしにとってヴィル先輩は、その、すごく特別で……」
「何が特別なの? 言ってみなさいよ」
ヴィルの言葉がななしの唇を塞ぐ寸前のような距離で囁かれる。
ななしは心臓が早鐘を打つのを感じながら必死に言葉を探した。ヴィルは完璧だ。美しくて強くて誰もが憧れる存在。だからこそ自分のような普通の人間が、その特別に値するとは思えなかった。
「ヴィル先輩は、いつもわたしを助けてくれて、本当にいい人だから……だから、尊敬しています」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィルの端正な眉が悲痛とも怒りともつかない形に歪んだ。顎を掴んでいた指先に強い力がこもる。
「……いい人、ね」
ヴィルは自嘲気味に呟き、そのままななしをさらに深く追い詰めるように至近距離でその声を響かせた。
「お願いだから、アタシをただの『いい人』で終わらせないで」
「え……?」
「そんな退屈な言葉でアタシを納得させられると思っているの? アタシがアンタに費やしている時間も、この感情も、すべてそんな一言で片付けられてたまるもんですか」
ヴィルの瞳の奥にある剥き出しの執着がななしを射抜く。
いつも完璧な美しさを保つ彼が今、目の前でなりふり構わない泥臭い情熱を覗かせている。そのギャップにななしは息をすることさえ忘れてしまいそうだった。
「アタシはアンタにとっての特別になりたいの。綺麗で無害な思い出の1ページなんかじゃない。アンタの心をアタシの色だけで塗り潰してしまいたいほどにね」
「ヴィル、先輩……あ、あの……」
「アンタを誰にも渡したくない。他の誰かに向ける笑顔もその声も、全部アタシだけのものにしたい……これでもまだ、アタシが『いい人』に見えるかしら?」
耳元で囁かれる掠れた声は欲に満ちていた。
ななしの背中は完全に壁へと押し付けられている。ヴィルは突いていた手を離すと、今度は逃げ場をなくした小さな肩をきつく包み込んだ。
「どうして黙るの? いつもみたいにアタシを立てるような都合の良い言葉でも言ってみなさいよ」
「……っ」
「言えないわよね。アンタ今、初めてアタシを『一人の男』として見ているもの」
ヴィルは勝ち誇ったように唇の端を上げたが、その瞳は全く笑っていなかった。むしろ完璧にコントロールされていたはずの彼が、今にも限界を迎えるかのような危うい光が揺らめいている。
「わたし、は……ヴィル先輩のことが、その、綺麗すぎて……」
「綺麗? ええそうよ。アタシはいつだって完璧で美しくあるために血の滲むような努力をしているわ。それはアタシ自身のため。アタシのプライドが1ミリの妥協も許さないからよ」
ヴィルの顔がさらに近づく。その整った顔立ちが至近距離で迫る迫力にななしは息を呑んだ。
「アタシの世界はアタシの努力で統制されているはずだった……それなのにアンタは一体何なの?」
「え……?」
「アタシがどれだけ自分を磨き上げても、アンタは他の誰にでもあげるような『いい人』なんていう安い言葉でアタシを枠に嵌めようとする」
ヴィルの言葉が重く逃れられない呪いのようにななしの心に突き刺さる。普段の毅然とした姿はどこへ行ったのか、自分一人のせいで完璧な寮長がここまで激しく感情を乱している。
「アンタがアタシを『いい人』の枠に閉じ込めておくなら、アタシはその枠ごとアンタを壊してあげる……ねえ、ななし」
ヴィルの指先がななしの頬をなぞり、そのままそっと唇へと触れた。
その指先は微かに震えていて、完璧な彼の世界にななしという唯一の例外が生まれてしまったことを物語っていた。
「……ヴィル、先輩」
「なぁに。アタシの名前を呼ぶその声も、アタシだけのものよ」
夕闇が完全に談話室を包み込む中、ヴィルは満足そうに微笑み、ななしの唇を塞いだ。それは優しさなど微塵もない、引き返すことを許さない独占の証明だった。
豪奢なソファに深く腰掛けたヴィルは手元に置かれた数冊の資料に目を通しながら時折小さく息を吐き出す。その端正な横顔には一切の妥協を許さない厳格さが刻まれていた。
少し離れた位置で、言われた通りの作業を終えたななしはおそるおそる声をかけた。
「ヴィル先輩、頼まれていた書類の整理終わりました」
ヴィルは視線を書類からななしへと移した。その一瞬の視線の動きだけで周囲の空気が一段と引き締まるような錯覚を覚えさせる。
「そう。見せてちょうだい」
手渡された書類を、ヴィルは一枚一枚丁寧に確認していく。指先一つ、紙をめくる動作一つをとっても計算され尽くしたかのような洗練された美しさがあった。
「……ええ、完璧。アンタ本当に手際が良くなったわね。これなら次も安心して任せられるわ」
「本当ですか? よかったです。ヴィル先輩にそう言ってもらえると、すごく自信になります」
ホッとしたように笑うななしをヴィルは静かに見つめた。
「自信を持つのはいいことよ。でも満足して足を止めないこと」
「はい。これからも頑張ります。じゃあ、わたしはこれで失礼しますね」
荷物を肩にかけ帰ろうとするななしの足音が入り口の手前でピタリと止まった。背後から退路を断つような足音が近づいてきたからだ。
「待ちなさい。誰がもう帰っていいと言ったかしら?」
「え? でも今日の分のお手伝いは全部終わったはずじゃ……」
振り返ったななしの目の前には、すでにヴィルの姿があった。
距離が近い。相手の体温が微かに伝わってくるほどの距離感に、ななしは思わず身を固くした。ヴィルはななしの行く手を遮るように立ち塞がり見下ろしてくる。
「書類の手伝いは終わったわ。でもアタシの用事はまだ終わっていないのよ、ななし」
「用事……ですか?」
「そうよ。アンタ、最近ずいぶんと他の寮の生徒とも仲良くやっているみたいじゃない。この前も中庭で随分と楽しそうに話していたわね」
ヴィルの声は至って穏やかだった。怒っている風でもなく、いつも通りの凛とした響き。だからこそ奥に潜む底知れない圧迫感がななしの肌をチクチクと刺激する。
「あ、あれは、次の授業の課題について聞かれていただけで……」
「言い訳なんて聞いていないわ。アタシが不愉快だったと言っているの」
「ヴィル先輩……?」
思わず一歩後ろに下がろうとしたが、ヴィルはそれを先回りするかのようにさらに距離を詰めた。
逃げ場をなくすようにヴィルの長い指先がななしの顎をそっと掬い上げる。強制的に視線が交差した。
「アンタはいつもそう。誰に対しても同じように優しくて、同じように微笑む。アタシがどれだけアンタに特別な目を向けていても、アンタはアタシを面倒見の良い先輩としか見ていない。違う?」
「そんなこと、ないです。わたしにとってヴィル先輩は、その、すごく特別で……」
「何が特別なの? 言ってみなさいよ」
ヴィルの言葉がななしの唇を塞ぐ寸前のような距離で囁かれる。
ななしは心臓が早鐘を打つのを感じながら必死に言葉を探した。ヴィルは完璧だ。美しくて強くて誰もが憧れる存在。だからこそ自分のような普通の人間が、その特別に値するとは思えなかった。
「ヴィル先輩は、いつもわたしを助けてくれて、本当にいい人だから……だから、尊敬しています」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィルの端正な眉が悲痛とも怒りともつかない形に歪んだ。顎を掴んでいた指先に強い力がこもる。
「……いい人、ね」
ヴィルは自嘲気味に呟き、そのままななしをさらに深く追い詰めるように至近距離でその声を響かせた。
「お願いだから、アタシをただの『いい人』で終わらせないで」
「え……?」
「そんな退屈な言葉でアタシを納得させられると思っているの? アタシがアンタに費やしている時間も、この感情も、すべてそんな一言で片付けられてたまるもんですか」
ヴィルの瞳の奥にある剥き出しの執着がななしを射抜く。
いつも完璧な美しさを保つ彼が今、目の前でなりふり構わない泥臭い情熱を覗かせている。そのギャップにななしは息をすることさえ忘れてしまいそうだった。
「アタシはアンタにとっての特別になりたいの。綺麗で無害な思い出の1ページなんかじゃない。アンタの心をアタシの色だけで塗り潰してしまいたいほどにね」
「ヴィル、先輩……あ、あの……」
「アンタを誰にも渡したくない。他の誰かに向ける笑顔もその声も、全部アタシだけのものにしたい……これでもまだ、アタシが『いい人』に見えるかしら?」
耳元で囁かれる掠れた声は欲に満ちていた。
ななしの背中は完全に壁へと押し付けられている。ヴィルは突いていた手を離すと、今度は逃げ場をなくした小さな肩をきつく包み込んだ。
「どうして黙るの? いつもみたいにアタシを立てるような都合の良い言葉でも言ってみなさいよ」
「……っ」
「言えないわよね。アンタ今、初めてアタシを『一人の男』として見ているもの」
ヴィルは勝ち誇ったように唇の端を上げたが、その瞳は全く笑っていなかった。むしろ完璧にコントロールされていたはずの彼が、今にも限界を迎えるかのような危うい光が揺らめいている。
「わたし、は……ヴィル先輩のことが、その、綺麗すぎて……」
「綺麗? ええそうよ。アタシはいつだって完璧で美しくあるために血の滲むような努力をしているわ。それはアタシ自身のため。アタシのプライドが1ミリの妥協も許さないからよ」
ヴィルの顔がさらに近づく。その整った顔立ちが至近距離で迫る迫力にななしは息を呑んだ。
「アタシの世界はアタシの努力で統制されているはずだった……それなのにアンタは一体何なの?」
「え……?」
「アタシがどれだけ自分を磨き上げても、アンタは他の誰にでもあげるような『いい人』なんていう安い言葉でアタシを枠に嵌めようとする」
ヴィルの言葉が重く逃れられない呪いのようにななしの心に突き刺さる。普段の毅然とした姿はどこへ行ったのか、自分一人のせいで完璧な寮長がここまで激しく感情を乱している。
「アンタがアタシを『いい人』の枠に閉じ込めておくなら、アタシはその枠ごとアンタを壊してあげる……ねえ、ななし」
ヴィルの指先がななしの頬をなぞり、そのままそっと唇へと触れた。
その指先は微かに震えていて、完璧な彼の世界にななしという唯一の例外が生まれてしまったことを物語っていた。
「……ヴィル、先輩」
「なぁに。アタシの名前を呼ぶその声も、アタシだけのものよ」
夕闇が完全に談話室を包み込む中、ヴィルは満足そうに微笑み、ななしの唇を塞いだ。それは優しさなど微塵もない、引き返すことを許さない独占の証明だった。
