ハーツラビュル
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放課後のオンボロ寮は夕暮れ時の赤い光に染まっていた。窓の外に見える荒れた庭の木々も、いまは濃い影を落としている。
エースは色褪せたソファの背もたれに深く身体を預け、手元のマジカルペンを無意識に指先で弄んでいた。その視線の先にはガタつく机に向かって熱心にペンを動かしているななしの姿がある。
「ねえ、エース。ここの数式の意味、ちょっと教えてくれない?」
ななしがノートを向けながら困ったように笑う。その表情には、この世界にやってきた当初の怯えや戸惑いはもうひとかけらも残っていない。すっかりこの場所での生活に馴染んでいる。
エースは小さく息を吐き、ソファから腰を浮かせてななしの隣へと移動した。
「どれどれ? あー、これね。魔法の軌道を安定させるための基礎式だからさ。ここをこうして、こう繋ぐわけ」
「あ、なるほど。だからさっきから数字が合わなかったんだ。ありがとう、助かった」
「つーか、ななしってば本当に真面目だよね。座学だけはオレより成績いいんじゃないの?」
「そんなことないよ。覚えることが多すぎて毎日頭がパンクしそうだもん」
軽い口調で返しながら、エースの胸の奥にはいつも同じ澱んだような感情が湧き上がってくる。
ななしがどれだけ努力して、どれだけこの世界の知識を吸収しようとも彼女には本来帰るべき世界が存在する。学園長があてにならないとはいえ、いつかその方法が見つかるかもしれないという可能性は常に二人の間に横たわっていた。
「……ねえ、ななし」
「ん? なに?」
ななしがペンを止め、まっすぐな視線をエースに向ける。その曇りのない瞳に見つめられると胸の奥がちりりと焼けるように痛む。
「もしさ、本当に元の世界に帰れる方法が見つかったら、やっぱりすぐに帰っちゃうわけ?」
冗談めかしたトーンを維持するのに思いのほか骨が折れた。
ななしは少し驚いたように瞬きをして、それから視線を落とした。
「……そうだね。やっぱり家族もいるし、帰れるなら帰りたいって思ってるよ」
「そりゃ、そうだよな」
エースはあえて大袈裟に肩をすくめてみせた。
「あっちに帰ったら、オレたちのことなんて全部忘れちゃうんじゃない? ただの悪い夢だったなー、とか言ってさ」
「そんなわけないよ。エースたちのこと忘れるわけない。ここで過ごした時間は私にとってすごく大切なものだから」
慌てて否定するななしの声は真剣そのもので、その純粋さが余計にエースの心を締め付ける。
本音を言えば方法なんて一生見つからなければいいとさえ思っている。このままこのオンボロ寮で自分の目の届く場所にずっといてほしい。そんな身勝手な欲望が喉奥まで出かかっては飲み込む日々だった。
「ま、そう簡単に帰れる方法なんて見つかんないだろうけどね。学園長があれだしさ」
「あはは、確かに。あの学園長だもんね」
ななしの笑顔に張り詰めていた空気が一瞬で緩む。
その笑顔を見ているだけでエースの心はひどく満たされると同時に、ひどく飢えていくのが分かった。自分のものにしたい。けれど彼女の未来を奪う権利は誰にもない。
「あ、もうこんな時間。そろそろグリムが戻ってくる頃かな。夕食の準備もしなきゃ」
時計を見たななしが慌てて教科書やノートを片付け始める。
「じゃあ、オレはそろそろハーツラビュルに戻るわ」
「うん、今日も付き合ってくれてありがとう。気をつけてね」
「おう」
エースは立ち上がり談話室の扉へと向かったが、ノブに手をかけたところで、どうしても足が止まってしまった。まだ夜になりきらない薄暗い空間の中でななしの姿が妙に鮮明に見える。
扉の前に佇んだままエースは振り返らずに呟いた。
「……あのさ」
「どうかした?」
「いや、もしさ。もしもの話ね」
エースはゆっくりと振り返りななしをまっすぐに見据えた。
「元の世界に帰ってさ、そこで別の誰かと付き合ったり、結婚したり、普通に幸せになったりするわけ?」
唐突すぎる質問にななしは片付けの手を止め戸惑いの表情を浮かべた。
「え……? そんなこと、まだ考えたこともないけど……」
「……考えろよ」
エースの声が、いつもより少しだけ低くなる。それは冗談の仮面を剥ぎ取った彼自身の本音の一部だった。
「オレのいない世界で……幸せになって欲しくない」
ぽつりと溢れた言葉は静まり返ったオンボロ寮の談話室に驚くほどはっきりと響いた。
ななしは息を呑み、持っていたノートを抱きしめるようにして固まっている。目を見開いたその表情から困惑を読み取るのはエースにとっても難しいことではなかった。
自分で口にしておきながら、その言葉の重さにエース自身も心臓が跳ねている。二人の間の空気が、ぴたりと凍りついた。
「……エース、それ、どういう……」
「……あー、いや」
エースは小さく息を吐き乱暴に髪をかきあげた。やってしまったという後悔と、ついに言ってしまったという奇妙な居直りが胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。いつもの軽い調子に戻そうとしても一度剥がれ落ちた本音の仮面はうまく張り付いてくれない。
「今の、なし。忘れて」
「忘れるなんて無理だよ。そんな顔して言われたら」
ななしの声は静かだった。怒っているわけでも怯えているわけでもない。ただエースの痛みをそのまま受け止めようとするような、まっすぐな響きがあった。それが余計にエースの独占欲を刺激する。
エースはゆっくりとななしとの距離を詰めた。お互いの吐息が届きそうな距離で足を止める。
「……オレさ、ずっと考えてたわけ。お前が元の世界に帰る方法が見つかったら、オレは笑顔で『よかったな』って言って送り出してやるべきなんだろうな、って」
「……」
「でも本音を言えば、方法なんて一生見つからなきゃいいって思ってる。ここに閉じ込めてオレの目の届くところにずっと置いておきたい。あっちの世界にお前を連れ去る奴がいるかもしれないって考えるだけで、胸の奥がめちゃくちゃに掻き回されんだよ」
一気に捲し立てたエースの言葉にはいつもの余裕なんて微塵もなかった。情けなくて、みっともなくて、ひどく我儘な吐露。
ななしは抱えていたノートをそっと机に置いた。エースの視線から逃げることなく言葉を選ぶようにして唇を開く。
「私、ここに来たばかりのときは本当に早く帰りたいって、そればかり考えてた。でもエースが隣にいてくれたから、いつの間にかこの場所が私にとってもう一つの日常になってたんだよ」
「……日常、ね」
「うん。だからもし帰れるってなったら、私はきっと嬉しいと同時に、すごく寂しいと思う。エースと離れるのが嫌だから」
「だったらさ、」
エースは衝動を抑えきれない様子で身を乗り出した。
「帰るなよ、なんて言えたら楽なんだけどね。お前が元の世界を大事に思ってるのも知ってるから、オレにはそんなこと言う資格ない……ごめん、本当にタチが悪いわ、オレ」
自嘲気味に笑うエースの顔は今にも泣き出しそうだった。
ななしはそんなエースの手元を見つめた。触れたいけれど触れてしまえば、この歪な均衡が崩れてしまうことを知っているかのように、お互いに手を伸ばすことはしない。
「私ね、もし元の世界に帰ったとしても、エース以上の人になんて出会えるわけないと思ってるよ」
「は? 何それ。慰めのつもり?」
「違うよ、本気。こんなに私を振り回して意地悪して、だけど誰より早く異変に気づいて助けてくれる人、あっちの世界にはいないもん」
ななしが少しだけ悪戯っぽく笑う。その笑顔がエースの張り詰めていた心を僅かに解いた。
「……そんなこと言うなら、やっぱり帰したくなくなるんだけど」
「あはは、そうだね」
笑い合う二人の影が床に長く伸びている。窓の外は完全に夜の帳が下りていた。
遠くでグリムが帰ってくる賑やかな声が聞こえ始める。この二人だけの閉じた時間は、もうすぐ終わりを告げようとしていた。
エースはゆっくりと身体を起こしポケットに手を突っ込んだ。
「……じゃ、今度こそ帰るわ。これ以上いたら、寮長に首刎ねられそうだし」
「うん、引き留めちゃってごめんね」
「引き留めたのはオレの方……じゃあな、ななし」
「うん、また明日ね、エース」
「また明日」という言葉がいまは酷く愛おしく、そして残酷に響く。明日がある保証なんて、この歪んだ世界にはどこにもないのだ。
談話室の扉を開け、エースは振り返らずにオンボロ寮を後にした。夜風が火照った顔を冷やしていく。
ハーツラビュルへと続く道を歩きながらエースは夜空を見上げた。星の並びさえ元の世界とは違うというこの場所で、いつか訪れる終わりの日を想う。
(幸せになって欲しくない、なんてさ。最低なことを言った自覚はある。だけど……)
もし本当にその日が来たら自分はどんな顔をして彼女を見送るのだろう。
胸の奥に残る切ない痛みを抱えたまま、エースはマジカルペンを強く握りしめた。叶うなら、この夜が明けないままでいてほしいと願わずにはいられなかった。
エースは色褪せたソファの背もたれに深く身体を預け、手元のマジカルペンを無意識に指先で弄んでいた。その視線の先にはガタつく机に向かって熱心にペンを動かしているななしの姿がある。
「ねえ、エース。ここの数式の意味、ちょっと教えてくれない?」
ななしがノートを向けながら困ったように笑う。その表情には、この世界にやってきた当初の怯えや戸惑いはもうひとかけらも残っていない。すっかりこの場所での生活に馴染んでいる。
エースは小さく息を吐き、ソファから腰を浮かせてななしの隣へと移動した。
「どれどれ? あー、これね。魔法の軌道を安定させるための基礎式だからさ。ここをこうして、こう繋ぐわけ」
「あ、なるほど。だからさっきから数字が合わなかったんだ。ありがとう、助かった」
「つーか、ななしってば本当に真面目だよね。座学だけはオレより成績いいんじゃないの?」
「そんなことないよ。覚えることが多すぎて毎日頭がパンクしそうだもん」
軽い口調で返しながら、エースの胸の奥にはいつも同じ澱んだような感情が湧き上がってくる。
ななしがどれだけ努力して、どれだけこの世界の知識を吸収しようとも彼女には本来帰るべき世界が存在する。学園長があてにならないとはいえ、いつかその方法が見つかるかもしれないという可能性は常に二人の間に横たわっていた。
「……ねえ、ななし」
「ん? なに?」
ななしがペンを止め、まっすぐな視線をエースに向ける。その曇りのない瞳に見つめられると胸の奥がちりりと焼けるように痛む。
「もしさ、本当に元の世界に帰れる方法が見つかったら、やっぱりすぐに帰っちゃうわけ?」
冗談めかしたトーンを維持するのに思いのほか骨が折れた。
ななしは少し驚いたように瞬きをして、それから視線を落とした。
「……そうだね。やっぱり家族もいるし、帰れるなら帰りたいって思ってるよ」
「そりゃ、そうだよな」
エースはあえて大袈裟に肩をすくめてみせた。
「あっちに帰ったら、オレたちのことなんて全部忘れちゃうんじゃない? ただの悪い夢だったなー、とか言ってさ」
「そんなわけないよ。エースたちのこと忘れるわけない。ここで過ごした時間は私にとってすごく大切なものだから」
慌てて否定するななしの声は真剣そのもので、その純粋さが余計にエースの心を締め付ける。
本音を言えば方法なんて一生見つからなければいいとさえ思っている。このままこのオンボロ寮で自分の目の届く場所にずっといてほしい。そんな身勝手な欲望が喉奥まで出かかっては飲み込む日々だった。
「ま、そう簡単に帰れる方法なんて見つかんないだろうけどね。学園長があれだしさ」
「あはは、確かに。あの学園長だもんね」
ななしの笑顔に張り詰めていた空気が一瞬で緩む。
その笑顔を見ているだけでエースの心はひどく満たされると同時に、ひどく飢えていくのが分かった。自分のものにしたい。けれど彼女の未来を奪う権利は誰にもない。
「あ、もうこんな時間。そろそろグリムが戻ってくる頃かな。夕食の準備もしなきゃ」
時計を見たななしが慌てて教科書やノートを片付け始める。
「じゃあ、オレはそろそろハーツラビュルに戻るわ」
「うん、今日も付き合ってくれてありがとう。気をつけてね」
「おう」
エースは立ち上がり談話室の扉へと向かったが、ノブに手をかけたところで、どうしても足が止まってしまった。まだ夜になりきらない薄暗い空間の中でななしの姿が妙に鮮明に見える。
扉の前に佇んだままエースは振り返らずに呟いた。
「……あのさ」
「どうかした?」
「いや、もしさ。もしもの話ね」
エースはゆっくりと振り返りななしをまっすぐに見据えた。
「元の世界に帰ってさ、そこで別の誰かと付き合ったり、結婚したり、普通に幸せになったりするわけ?」
唐突すぎる質問にななしは片付けの手を止め戸惑いの表情を浮かべた。
「え……? そんなこと、まだ考えたこともないけど……」
「……考えろよ」
エースの声が、いつもより少しだけ低くなる。それは冗談の仮面を剥ぎ取った彼自身の本音の一部だった。
「オレのいない世界で……幸せになって欲しくない」
ぽつりと溢れた言葉は静まり返ったオンボロ寮の談話室に驚くほどはっきりと響いた。
ななしは息を呑み、持っていたノートを抱きしめるようにして固まっている。目を見開いたその表情から困惑を読み取るのはエースにとっても難しいことではなかった。
自分で口にしておきながら、その言葉の重さにエース自身も心臓が跳ねている。二人の間の空気が、ぴたりと凍りついた。
「……エース、それ、どういう……」
「……あー、いや」
エースは小さく息を吐き乱暴に髪をかきあげた。やってしまったという後悔と、ついに言ってしまったという奇妙な居直りが胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。いつもの軽い調子に戻そうとしても一度剥がれ落ちた本音の仮面はうまく張り付いてくれない。
「今の、なし。忘れて」
「忘れるなんて無理だよ。そんな顔して言われたら」
ななしの声は静かだった。怒っているわけでも怯えているわけでもない。ただエースの痛みをそのまま受け止めようとするような、まっすぐな響きがあった。それが余計にエースの独占欲を刺激する。
エースはゆっくりとななしとの距離を詰めた。お互いの吐息が届きそうな距離で足を止める。
「……オレさ、ずっと考えてたわけ。お前が元の世界に帰る方法が見つかったら、オレは笑顔で『よかったな』って言って送り出してやるべきなんだろうな、って」
「……」
「でも本音を言えば、方法なんて一生見つからなきゃいいって思ってる。ここに閉じ込めてオレの目の届くところにずっと置いておきたい。あっちの世界にお前を連れ去る奴がいるかもしれないって考えるだけで、胸の奥がめちゃくちゃに掻き回されんだよ」
一気に捲し立てたエースの言葉にはいつもの余裕なんて微塵もなかった。情けなくて、みっともなくて、ひどく我儘な吐露。
ななしは抱えていたノートをそっと机に置いた。エースの視線から逃げることなく言葉を選ぶようにして唇を開く。
「私、ここに来たばかりのときは本当に早く帰りたいって、そればかり考えてた。でもエースが隣にいてくれたから、いつの間にかこの場所が私にとってもう一つの日常になってたんだよ」
「……日常、ね」
「うん。だからもし帰れるってなったら、私はきっと嬉しいと同時に、すごく寂しいと思う。エースと離れるのが嫌だから」
「だったらさ、」
エースは衝動を抑えきれない様子で身を乗り出した。
「帰るなよ、なんて言えたら楽なんだけどね。お前が元の世界を大事に思ってるのも知ってるから、オレにはそんなこと言う資格ない……ごめん、本当にタチが悪いわ、オレ」
自嘲気味に笑うエースの顔は今にも泣き出しそうだった。
ななしはそんなエースの手元を見つめた。触れたいけれど触れてしまえば、この歪な均衡が崩れてしまうことを知っているかのように、お互いに手を伸ばすことはしない。
「私ね、もし元の世界に帰ったとしても、エース以上の人になんて出会えるわけないと思ってるよ」
「は? 何それ。慰めのつもり?」
「違うよ、本気。こんなに私を振り回して意地悪して、だけど誰より早く異変に気づいて助けてくれる人、あっちの世界にはいないもん」
ななしが少しだけ悪戯っぽく笑う。その笑顔がエースの張り詰めていた心を僅かに解いた。
「……そんなこと言うなら、やっぱり帰したくなくなるんだけど」
「あはは、そうだね」
笑い合う二人の影が床に長く伸びている。窓の外は完全に夜の帳が下りていた。
遠くでグリムが帰ってくる賑やかな声が聞こえ始める。この二人だけの閉じた時間は、もうすぐ終わりを告げようとしていた。
エースはゆっくりと身体を起こしポケットに手を突っ込んだ。
「……じゃ、今度こそ帰るわ。これ以上いたら、寮長に首刎ねられそうだし」
「うん、引き留めちゃってごめんね」
「引き留めたのはオレの方……じゃあな、ななし」
「うん、また明日ね、エース」
「また明日」という言葉がいまは酷く愛おしく、そして残酷に響く。明日がある保証なんて、この歪んだ世界にはどこにもないのだ。
談話室の扉を開け、エースは振り返らずにオンボロ寮を後にした。夜風が火照った顔を冷やしていく。
ハーツラビュルへと続く道を歩きながらエースは夜空を見上げた。星の並びさえ元の世界とは違うというこの場所で、いつか訪れる終わりの日を想う。
(幸せになって欲しくない、なんてさ。最低なことを言った自覚はある。だけど……)
もし本当にその日が来たら自分はどんな顔をして彼女を見送るのだろう。
胸の奥に残る切ない痛みを抱えたまま、エースはマジカルペンを強く握りしめた。叶うなら、この夜が明けないままでいてほしいと願わずにはいられなかった。
