ディアソムニア
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沈黙が心地いいと思える関係はそう多くない。
放課後の作業を終え、あたりには静寂が広がっていた。返却されたばかりの古い書物を元の場所へと戻す作業は、耳を澄ませば紙が擦れる音だけが響くほど静かに進んでいく。
「これで最後、ですね」
山積みにされていた荷物が消えた台を見て、ななしは小さく息を吐いた。隣で同じように最後の一束を片付けたシルバーが振り返る。
「ああ、助かった。手際が良くて驚いたな」
「シルバー先輩が力仕事を全部引き受けてくれたおかげです」
「俺はただ、重いものを運んだだけだ。感謝するのはこちらのほうだ、ななし」
シルバーの表情はいつも通り穏やかだ。普段の彼は必要以上のことを口にしない。真面目で実直。そんな彼と二人きりで作業をする係に選ばれた当初は、ななしの側には少し緊張もあったが、始まってみれば言葉はなくとも不思議と息が合っていた。
「もうこんな時間か」
シルバーが視線を外へ向ける。夕日はすでに地平線に沈みかけており、空は紫と琥珀色が混ざり合ったような深い色に変色しつつあった。
「そろそろ暗くなりますね」
「寮まで送ろう」
「大丈夫ですよ、まだ明かりはありますし」
「俺が送らせて欲しいんだ」
淡々とした口調ながらも、そこには譲らないという強い意志が含まれている。シルバーのそういう真っ直ぐなところには慣れているつもりだったが、面と向かって言われるとやはりななしの胸は少しだけ騒ぐ。
「……じゃあ、お願いします」
ななしが小さく頷くとシルバーの口元がわずかに緩んだ。
二人はその場を後にし、静まり返った道を歩き出す。通り抜ける風は少し冷たく、制服の袖をすり抜けて肌をかすめた。自然と二人の距離が近くなる。歩幅をななしに合わせてゆっくりと歩くシルバーの横顔を、ななしは盗み見るように視線を走らせた。
「シルバー先輩、眠くないですか?」
ふと思い立ったななしの問いにシルバーは少し決まり悪そうに視線を彷徨わせた。
「……大丈夫だ。お前の隣にいると、眠気とは違う落ち着きを感じる」
「落ち着き、ですか?」
「ああ、不思議な感覚だ」
「先輩は、いつも直球ですね」
「変なことを言っただろうか。思ったことをそのまま口にしただけなのだが」
「ううん、嬉しいです。私も、先輩といると安心します」
おざなりな世辞ではない。自分に向ける彼の真っ直ぐな言葉に、いつも密かに救われ惹かれているのは事実だった。熱を持つ胸の奥を隠すように、ななしは歩調を早める。
歩みを止めることなく交わされる言葉は夕暮れの空気に溶けていく。
しかし少し開けた場所に差し掛かったところで、シルバーの足がピタリと止まった。
「シルバー先輩?」
ななしが振り返るとシルバーは眉をひそめ、眠気に耐えるように強く目を閉じていた。
「すまない……少し、眠気が……」
「無理しないでください。そこに少し腰掛けられる場所がありますから」
ななしは慌ててシルバーの腕を引き、近くにあった腰掛けへと促した。シルバーは抵抗することなく吸い込まれるようにそこへ身体を預ける。そのまま壁に背をもたせかけ深い息を吐きながら瞼を閉じてしまった。
「先輩、大丈夫ですか?」
声をかけるが返事はない。規則正しい呼吸音が聞こえてくる。本当に一瞬で眠りに落ちてしまったようだ。
ななしはその場に少し屈み込み、しばらくの間、静かにシルバーの顔を覗き込んだ。
普段の凛とした佇まいとは違い、眠っている時の彼はどこか幼く見える。整った顔立ちが夕闇の中で柔らかく輪郭をぼやかしていた。起こすのは気が引けるが、ここで夜を迎えるわけにはいかない。
「シルバー先輩、ここで寝たら風邪ひいちゃいます」
肩を軽く揺すってみるがピクリとも動かない。
ななしは困り果て、もう少し近づいて彼の耳元で声をかけようとした。
「先輩――」
その瞬間、シルバーの長い睫毛が微かに揺れた。
ゆっくりと開かれた瞳は、まだ深い微睡みの底にあるように焦点が定まっていない。しかし目の前にいるななしの姿を認識した瞬間、その奥に強い光が宿った。
次の刹那、ななしの視界が大きく傾く。
「えっ」
気づいた時にはななしの手首がシルバーの手にしっかりと握られていた。驚いて声をあげる間もなく強い力で引っ張られ、ななしの身体はシルバーのすぐ近くへと引き寄せられる。
「シル、バー先輩……?」
すぐ目の前にシルバーの顔があった。
眠気で微睡んでいたはずの彼の目は信じられないほど鮮明にななしを捉えている。その熱を帯びた眼差しにななしの身体は硬直した。
「……捕まえた」
低く掠れた声が鼓膜を揺らす。いつもよりずっと低いその声はひどく甘く、どこか危険な響きを含んでいた。
「あの、先輩? 起きたなら、手を離して……」
「離したくない」
きっぱりとした拒絶の言葉。普段のシルバーなら、こんな風に強引な真似をするはずがない。怪我をさせないようにと、いつも細心の注意を払ってくれる優しい先輩だ。それなのに手首を掴む彼の指先には、明確な力が込められている。痛くはないが絶対に逃がさないという意思が伝わってきた。
「シルバー先輩、近いです……」
「お前が近づいてきたんだ」
シルバーの顔がさらに近づく。吐息がななしの唇をかすめ互いの肌に緊張が走った。
「ななし」
名前を呼ばれた瞬間、シルバーはななしの頬を優しく包み込んだ。引き留めるような、確かめるような動きでシルバーはななしの顔を固定する。
「……先輩、何だかいつもと――」
言いかけた言葉は唇に触れた柔らかい感触によって遮られた。
重ねられた唇は温かく少しだけ震えているようだった。最初の一瞬は触れるだけの静かなものだった。しかしななしが驚きで息を呑んだ隙に、シルバーは深く深く、その隙間を埋めるように唇を押し当てていく。
普段の彼からは想像もつかないほど貪欲で、理性を焼き切るような熱がそこにはあった。
その熱は夕闇の静寂を簡単に置き去りにしていく。
驚きに目を見開くななしの戸惑いなど気にも留めないほど、シルバーの口づけは深い。一度離れかけた唇が角度を変えて再び強く押し当てられる。触れるだけの淡いものとは到底言えない、息が詰まるほどの貪欲さがそこにはあった。
「ん……、ふ、……ぁ、」
たまらずななしの口から小さな呼吸が漏れる。
シルバーはそれを呼び水にするように、さらに深く唇を重ねてきた。
普段の寡黙で冷静な彼からは想像もつかない激しさに、ななしの頭の中はまたたく間に真っ白に染まっていく。逃げようとする意志などとうに消え失せ、ただシルバーがもたらす熱に翻弄されるしかなかった。
どれほどの間そうしていただろうか。
ようやく唇が離れたとき、お互いの間に途切れがちな呼吸の音が響いた。
「は、……シルバー、先輩……?」
ななしの声は自分でも驚くほど震えていた。
見上げる視線の先、シルバーは少しだけ顔を離したものの、その距離はまだ酷く近い。彼の呼吸も同じように荒く、いつもは涼しげなその顔が今は見たこともないほど赤く染まっている。
「……すまない。驚かせたな」
シルバーの声は低く酷く掠れていた。
謝罪の言葉とは裏腹に、ななしの頬を包み込む彼の手は微塵も離れる気配を見せない。それどころか親指の腹が優しくななしの唇をなぞり、そこへ残った熱を確かめるように動いている。
「先輩……あの、どうして……」
「どうして、か。自分でも、少しおかしくなっているのが分かる」
シルバーは自嘲気味に微かに笑った。だが、その瞳に宿る熱は少しも引いていない。
「お前が近くにきてくれたとき……頭の中で何かが弾けたような音がしたんだ。いつもなら自制ができるはずなのに」
「シルバー先輩……」
「いまは我慢が効かない。お前をこのまま誰の手も届かない場所に連れていってしまいたいとすら思う」
真っ直ぐであまりにも情熱的な告白。
今、この手の中にあるななしの存在だけを激しく求めている。その事実がななしの胸を締め付け、同時に甘い痺れとなって全身に広がっていった。
「……怖がらせてしまっただろうか」
ふと我に返ったようにシルバーが眉を下げて尋ねる。その瞳には情熱と同時に、大切なものを傷つけていないか案じるような揺らぎが浮かんでいた。
ななしは小さく首を振った。
「怖く、ないです。シルバー先輩の本当の気持ちが知れて……嬉しい、から」
「……そうか」
安堵したような呟きとともにシルバーの口元に微かな笑みが浮かぶ。
次の瞬間、彼の腕がななしの肩へと滑り落ち、引き寄せるように強く抱きしめられた。シルバーの胸の鼓動が衣服越しに伝わってくる。
「お前がそう言ってくれるのが、たまらなく愛おしい。……だから、もう止められそうにない」
「え――」
抱擁が解かれ再び視線が交差する。
シルバーの顔がゆっくりと近づいてくるのに気づき、ななしはそっと目を閉じた。
今度の口づけは先ほどよりもずっと優しいものだった。唇と唇が触れ合うたびに二人の間に確かな約束が結ばれていくような、そんな甘やかで解けない魔法のような時間が静かに流れていった。
放課後の作業を終え、あたりには静寂が広がっていた。返却されたばかりの古い書物を元の場所へと戻す作業は、耳を澄ませば紙が擦れる音だけが響くほど静かに進んでいく。
「これで最後、ですね」
山積みにされていた荷物が消えた台を見て、ななしは小さく息を吐いた。隣で同じように最後の一束を片付けたシルバーが振り返る。
「ああ、助かった。手際が良くて驚いたな」
「シルバー先輩が力仕事を全部引き受けてくれたおかげです」
「俺はただ、重いものを運んだだけだ。感謝するのはこちらのほうだ、ななし」
シルバーの表情はいつも通り穏やかだ。普段の彼は必要以上のことを口にしない。真面目で実直。そんな彼と二人きりで作業をする係に選ばれた当初は、ななしの側には少し緊張もあったが、始まってみれば言葉はなくとも不思議と息が合っていた。
「もうこんな時間か」
シルバーが視線を外へ向ける。夕日はすでに地平線に沈みかけており、空は紫と琥珀色が混ざり合ったような深い色に変色しつつあった。
「そろそろ暗くなりますね」
「寮まで送ろう」
「大丈夫ですよ、まだ明かりはありますし」
「俺が送らせて欲しいんだ」
淡々とした口調ながらも、そこには譲らないという強い意志が含まれている。シルバーのそういう真っ直ぐなところには慣れているつもりだったが、面と向かって言われるとやはりななしの胸は少しだけ騒ぐ。
「……じゃあ、お願いします」
ななしが小さく頷くとシルバーの口元がわずかに緩んだ。
二人はその場を後にし、静まり返った道を歩き出す。通り抜ける風は少し冷たく、制服の袖をすり抜けて肌をかすめた。自然と二人の距離が近くなる。歩幅をななしに合わせてゆっくりと歩くシルバーの横顔を、ななしは盗み見るように視線を走らせた。
「シルバー先輩、眠くないですか?」
ふと思い立ったななしの問いにシルバーは少し決まり悪そうに視線を彷徨わせた。
「……大丈夫だ。お前の隣にいると、眠気とは違う落ち着きを感じる」
「落ち着き、ですか?」
「ああ、不思議な感覚だ」
「先輩は、いつも直球ですね」
「変なことを言っただろうか。思ったことをそのまま口にしただけなのだが」
「ううん、嬉しいです。私も、先輩といると安心します」
おざなりな世辞ではない。自分に向ける彼の真っ直ぐな言葉に、いつも密かに救われ惹かれているのは事実だった。熱を持つ胸の奥を隠すように、ななしは歩調を早める。
歩みを止めることなく交わされる言葉は夕暮れの空気に溶けていく。
しかし少し開けた場所に差し掛かったところで、シルバーの足がピタリと止まった。
「シルバー先輩?」
ななしが振り返るとシルバーは眉をひそめ、眠気に耐えるように強く目を閉じていた。
「すまない……少し、眠気が……」
「無理しないでください。そこに少し腰掛けられる場所がありますから」
ななしは慌ててシルバーの腕を引き、近くにあった腰掛けへと促した。シルバーは抵抗することなく吸い込まれるようにそこへ身体を預ける。そのまま壁に背をもたせかけ深い息を吐きながら瞼を閉じてしまった。
「先輩、大丈夫ですか?」
声をかけるが返事はない。規則正しい呼吸音が聞こえてくる。本当に一瞬で眠りに落ちてしまったようだ。
ななしはその場に少し屈み込み、しばらくの間、静かにシルバーの顔を覗き込んだ。
普段の凛とした佇まいとは違い、眠っている時の彼はどこか幼く見える。整った顔立ちが夕闇の中で柔らかく輪郭をぼやかしていた。起こすのは気が引けるが、ここで夜を迎えるわけにはいかない。
「シルバー先輩、ここで寝たら風邪ひいちゃいます」
肩を軽く揺すってみるがピクリとも動かない。
ななしは困り果て、もう少し近づいて彼の耳元で声をかけようとした。
「先輩――」
その瞬間、シルバーの長い睫毛が微かに揺れた。
ゆっくりと開かれた瞳は、まだ深い微睡みの底にあるように焦点が定まっていない。しかし目の前にいるななしの姿を認識した瞬間、その奥に強い光が宿った。
次の刹那、ななしの視界が大きく傾く。
「えっ」
気づいた時にはななしの手首がシルバーの手にしっかりと握られていた。驚いて声をあげる間もなく強い力で引っ張られ、ななしの身体はシルバーのすぐ近くへと引き寄せられる。
「シル、バー先輩……?」
すぐ目の前にシルバーの顔があった。
眠気で微睡んでいたはずの彼の目は信じられないほど鮮明にななしを捉えている。その熱を帯びた眼差しにななしの身体は硬直した。
「……捕まえた」
低く掠れた声が鼓膜を揺らす。いつもよりずっと低いその声はひどく甘く、どこか危険な響きを含んでいた。
「あの、先輩? 起きたなら、手を離して……」
「離したくない」
きっぱりとした拒絶の言葉。普段のシルバーなら、こんな風に強引な真似をするはずがない。怪我をさせないようにと、いつも細心の注意を払ってくれる優しい先輩だ。それなのに手首を掴む彼の指先には、明確な力が込められている。痛くはないが絶対に逃がさないという意思が伝わってきた。
「シルバー先輩、近いです……」
「お前が近づいてきたんだ」
シルバーの顔がさらに近づく。吐息がななしの唇をかすめ互いの肌に緊張が走った。
「ななし」
名前を呼ばれた瞬間、シルバーはななしの頬を優しく包み込んだ。引き留めるような、確かめるような動きでシルバーはななしの顔を固定する。
「……先輩、何だかいつもと――」
言いかけた言葉は唇に触れた柔らかい感触によって遮られた。
重ねられた唇は温かく少しだけ震えているようだった。最初の一瞬は触れるだけの静かなものだった。しかしななしが驚きで息を呑んだ隙に、シルバーは深く深く、その隙間を埋めるように唇を押し当てていく。
普段の彼からは想像もつかないほど貪欲で、理性を焼き切るような熱がそこにはあった。
その熱は夕闇の静寂を簡単に置き去りにしていく。
驚きに目を見開くななしの戸惑いなど気にも留めないほど、シルバーの口づけは深い。一度離れかけた唇が角度を変えて再び強く押し当てられる。触れるだけの淡いものとは到底言えない、息が詰まるほどの貪欲さがそこにはあった。
「ん……、ふ、……ぁ、」
たまらずななしの口から小さな呼吸が漏れる。
シルバーはそれを呼び水にするように、さらに深く唇を重ねてきた。
普段の寡黙で冷静な彼からは想像もつかない激しさに、ななしの頭の中はまたたく間に真っ白に染まっていく。逃げようとする意志などとうに消え失せ、ただシルバーがもたらす熱に翻弄されるしかなかった。
どれほどの間そうしていただろうか。
ようやく唇が離れたとき、お互いの間に途切れがちな呼吸の音が響いた。
「は、……シルバー、先輩……?」
ななしの声は自分でも驚くほど震えていた。
見上げる視線の先、シルバーは少しだけ顔を離したものの、その距離はまだ酷く近い。彼の呼吸も同じように荒く、いつもは涼しげなその顔が今は見たこともないほど赤く染まっている。
「……すまない。驚かせたな」
シルバーの声は低く酷く掠れていた。
謝罪の言葉とは裏腹に、ななしの頬を包み込む彼の手は微塵も離れる気配を見せない。それどころか親指の腹が優しくななしの唇をなぞり、そこへ残った熱を確かめるように動いている。
「先輩……あの、どうして……」
「どうして、か。自分でも、少しおかしくなっているのが分かる」
シルバーは自嘲気味に微かに笑った。だが、その瞳に宿る熱は少しも引いていない。
「お前が近くにきてくれたとき……頭の中で何かが弾けたような音がしたんだ。いつもなら自制ができるはずなのに」
「シルバー先輩……」
「いまは我慢が効かない。お前をこのまま誰の手も届かない場所に連れていってしまいたいとすら思う」
真っ直ぐであまりにも情熱的な告白。
今、この手の中にあるななしの存在だけを激しく求めている。その事実がななしの胸を締め付け、同時に甘い痺れとなって全身に広がっていった。
「……怖がらせてしまっただろうか」
ふと我に返ったようにシルバーが眉を下げて尋ねる。その瞳には情熱と同時に、大切なものを傷つけていないか案じるような揺らぎが浮かんでいた。
ななしは小さく首を振った。
「怖く、ないです。シルバー先輩の本当の気持ちが知れて……嬉しい、から」
「……そうか」
安堵したような呟きとともにシルバーの口元に微かな笑みが浮かぶ。
次の瞬間、彼の腕がななしの肩へと滑り落ち、引き寄せるように強く抱きしめられた。シルバーの胸の鼓動が衣服越しに伝わってくる。
「お前がそう言ってくれるのが、たまらなく愛おしい。……だから、もう止められそうにない」
「え――」
抱擁が解かれ再び視線が交差する。
シルバーの顔がゆっくりと近づいてくるのに気づき、ななしはそっと目を閉じた。
今度の口づけは先ほどよりもずっと優しいものだった。唇と唇が触れ合うたびに二人の間に確かな約束が結ばれていくような、そんな甘やかで解けない魔法のような時間が静かに流れていった。
