ハーツラビュル
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放課後の少し落ち着いた時間、テーブルの上に置かれたノートをめくりながらトレイは眼鏡の位置を人差し指で直す。その向かい側で同じように課題と格闘していたななしが、ふとペンを止めて顔を上げた。
「……トレイ先輩」
「ん? どうした、ななし。どこか分からないところでもあったか?」
トレイは手元から視線を外し穏やかな笑みを浮かべて見つめ返す。
「えっと、課題のことではないんですけど……」
「どうしたかしこまって。なんでも言ってみろ」
「えっと、じゃあお言葉に甘えて聞きますけど……トレイ先輩って、いつも自分のこと『普通』って言うじゃないですか」
「ななし、さては課題に飽きて集中力が切れたな?」
トレイは悪戯っぽく口元を緩めると手にしたペンで自分のノートを軽く叩いた。
「まあ、実際そうだからな。この学園は一癖も二癖もあるやつらばかりだろ? あいつらと比べたら、俺なんて本当に普通の男だよ」
トレイは困ったように眉を下げ肩をすくめてみせる。しかしななしは納得がいかないというように、わずかに唇を尖らせた。
「……これ、完全にわたしの個人的な見解なんですけど」
「なんだ? 遠慮せず言ってみろ」
「普通の人だったら、レオナさんとかツノ太郎のこと、気軽に呼び捨てにできないと思うんですよね」
「……ぶっ」
トレイの手元が僅かに狂い、持っていたペンが机の上に転がった。彼は一瞬だけ目を丸くした後、すぐに片手で口元を覆って低く笑い声を漏らす。
「はは、ツノ太郎って……。お前、相変わらずマレウスのことをそんな風に呼んでるのか」
「本人公認というか、そう呼んでいいって言われたので。じゃなくて! 話を逸らさないでください、トレイ先輩」
ななしが小さく抗議すると、トレイは転がったペンを拾い上げ苦笑いを浮かべた。
「逸らしたつもりはないさ。ただ、レオナやマレウスのことか。……あれは別に、なんて言えばいいか……距離感の問題だ」
「距離感、ですか?」
「そう。同じ学校の同級生だからな。そりゃ最初はあの迫力に圧倒されそうにもなったけど、学園で顔を合わせていれば慣れる。ただそれだけのことさ」
さらりとそう言ってのけるトレイにななしはため息をついた。その慣れのハードル自体が、常人にとってはどれほど高いものか分かっていないのだろうか。
「それが普通じゃないんですよ。あの二人の威圧感、すごいですし。普通の人は遠巻きに見てるだけなのに、トレイ先輩はちゃんと対等に接してるじゃないですか。そういうところが、全然普通じゃないんです」
「買い被りすぎだよ。俺はただそれとなく立ち回ってるだけさ」
トレイは自嘲気味に笑いながら机の上の紅茶のカップに手を伸ばした。一口含み小さく息を吐き出す。
「でも、わたしはトレイ先輩のそういう、誰が相手でも変わらないところがすごいなって思います」
「……変わらない、か」
「はい。他の先輩方と話す時も、わたしとこうして話してくれている時も、いつも穏やかで優しくて安心します。だから普通って片付けちゃうのは、なんだか勿体ないです」
そこまで一気に言ってから、ななしは少し恥ずかしくなったのか慌てて視線をノートに戻した。
静寂が二人を包み込む。
トレイはカップをソーサーに戻すと、静かにななしの様子を窺った。いつもなら「ありがとう」と大人の余裕で返すはずの彼が、今は少しだけ言葉に詰まっているように見えた。
「……ななし」
「は、はいっ」
名前を呼ばれ弾かれたように顔を上げると、トレイが少しだけ真剣な表情で見つめていた。眼鏡の奥にある瞳がいつもよりわずかに熱を帯びているように感じられ、二人の間の空気が一瞬で張り詰める。
「お前がそう言ってくれるのは、正直悪い気はしない。……いや、むしろかなり嬉しいよ」
トレイはそう言って、ほんの少しだけ声を低くした。
「でもな、俺が誰に対しても変わらないっていうのは……少し違うかもしれない」
「そうなんですか……?」
想定外の言葉にななしは小首を傾げる。トレイはそんな彼女の反応を楽しむかのように口元を緩めた。
「俺だって、相手によって心境の変化くらいはあるさ。例えば……」
トレイは机の上に肘をつき、少しだけななしの方へと顔を近づけた。一気に縮まった距離にななしは思わず息を呑む。
「今こうして、お前と二人だけで話している時とかな」
「……トレイ、先輩?」
「はは、そんなに固まるな。冗談だよ」
トレイはふっと身体を元の位置に戻し、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。その瞬間、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
「し、心臓に悪いです。からかわないでください」
「悪い悪い。お前があまりにも俺を褒めるから、ちょっと調子が狂っただけさ」
「でも、トレイ先輩が誰にでも同じように接しているわけじゃないって、どういう意味ですか?」
ななしが尋ねると、トレイは空になったカップをトントンと指先で叩き少し考えるような仕草を見せた。
「言葉通りの意味さ。俺だって人間だからな。誰に対しても全く同じ温度で接しているわけじゃない。それこそ状況によって役割があるしな……それに」
そこで一度言葉を区切り、トレイは真っ直ぐにななしを見た。
「お前の前では、俺でいられる」
「わたしの、前?」
「そう。余計な気を張る必要もなければ、誰かの機嫌を窺う必要もない。お前とこうして話している時間は、俺にとってもすごく息抜きになってるんだ。だからさっき言っただろ? お前と二人でいる時は、俺の中の心境がちょっと違うって」
トレイの声はいつになく低く落ち着いた響きを帯びている。それがどのような意図を含んだものなのか言葉だけでは測りきれない。けれど二人の間に流れる空気は確実に熱を帯びていた。
「……やっぱり普通じゃないですよ、トレイ先輩」
「えっ!? 何がだ?」
「そういうことを、さらっと言うところがです。やっぱり、全然普通の人じゃないです」
ななしが少し拗ねたように視線を逸らすと、トレイは嬉しそうに声を立てて笑った。
「そうか? 俺としては、これでもかなり必死なんだけどな」
ななしが不思議そうに首を傾げると、トレイはさらに言葉を続けた。
「いや、こっちの話だ。……ほら、話が逸れてる間に課題がちっとも進んでないぞ。集中力が切れたのは大目に見るから」
トレイはそう言ってななしの開いたままのノートをトントンと指差した。指先が今にも触れそうなほどの近さにある。
「……はい。がんばります」
「よし。じゃあ、これが終わったら昨日試作したタルトを切り分けてやるよ」
「本当ですか!?」
「ああ。お前が俺のことを特別扱いしてくれるなら、俺もお前を特別に甘やかしてやらないとな」
トレイは眼鏡の位置を直しながら、どこか楽しげに微笑んでみせる。ななしは少し耳を赤くしながらも慌ててペンを握り直した。
すぐ目の前でトレイもまた自分のノートに視線を落とす。
放課後の静かな空間。ただ課題をこなすだけの時間は、ほんの少しの甘いスパイスを含んだ二人だけの特別なものへと変わっていた。
「……トレイ先輩」
「ん? どうした、ななし。どこか分からないところでもあったか?」
トレイは手元から視線を外し穏やかな笑みを浮かべて見つめ返す。
「えっと、課題のことではないんですけど……」
「どうしたかしこまって。なんでも言ってみろ」
「えっと、じゃあお言葉に甘えて聞きますけど……トレイ先輩って、いつも自分のこと『普通』って言うじゃないですか」
「ななし、さては課題に飽きて集中力が切れたな?」
トレイは悪戯っぽく口元を緩めると手にしたペンで自分のノートを軽く叩いた。
「まあ、実際そうだからな。この学園は一癖も二癖もあるやつらばかりだろ? あいつらと比べたら、俺なんて本当に普通の男だよ」
トレイは困ったように眉を下げ肩をすくめてみせる。しかしななしは納得がいかないというように、わずかに唇を尖らせた。
「……これ、完全にわたしの個人的な見解なんですけど」
「なんだ? 遠慮せず言ってみろ」
「普通の人だったら、レオナさんとかツノ太郎のこと、気軽に呼び捨てにできないと思うんですよね」
「……ぶっ」
トレイの手元が僅かに狂い、持っていたペンが机の上に転がった。彼は一瞬だけ目を丸くした後、すぐに片手で口元を覆って低く笑い声を漏らす。
「はは、ツノ太郎って……。お前、相変わらずマレウスのことをそんな風に呼んでるのか」
「本人公認というか、そう呼んでいいって言われたので。じゃなくて! 話を逸らさないでください、トレイ先輩」
ななしが小さく抗議すると、トレイは転がったペンを拾い上げ苦笑いを浮かべた。
「逸らしたつもりはないさ。ただ、レオナやマレウスのことか。……あれは別に、なんて言えばいいか……距離感の問題だ」
「距離感、ですか?」
「そう。同じ学校の同級生だからな。そりゃ最初はあの迫力に圧倒されそうにもなったけど、学園で顔を合わせていれば慣れる。ただそれだけのことさ」
さらりとそう言ってのけるトレイにななしはため息をついた。その慣れのハードル自体が、常人にとってはどれほど高いものか分かっていないのだろうか。
「それが普通じゃないんですよ。あの二人の威圧感、すごいですし。普通の人は遠巻きに見てるだけなのに、トレイ先輩はちゃんと対等に接してるじゃないですか。そういうところが、全然普通じゃないんです」
「買い被りすぎだよ。俺はただそれとなく立ち回ってるだけさ」
トレイは自嘲気味に笑いながら机の上の紅茶のカップに手を伸ばした。一口含み小さく息を吐き出す。
「でも、わたしはトレイ先輩のそういう、誰が相手でも変わらないところがすごいなって思います」
「……変わらない、か」
「はい。他の先輩方と話す時も、わたしとこうして話してくれている時も、いつも穏やかで優しくて安心します。だから普通って片付けちゃうのは、なんだか勿体ないです」
そこまで一気に言ってから、ななしは少し恥ずかしくなったのか慌てて視線をノートに戻した。
静寂が二人を包み込む。
トレイはカップをソーサーに戻すと、静かにななしの様子を窺った。いつもなら「ありがとう」と大人の余裕で返すはずの彼が、今は少しだけ言葉に詰まっているように見えた。
「……ななし」
「は、はいっ」
名前を呼ばれ弾かれたように顔を上げると、トレイが少しだけ真剣な表情で見つめていた。眼鏡の奥にある瞳がいつもよりわずかに熱を帯びているように感じられ、二人の間の空気が一瞬で張り詰める。
「お前がそう言ってくれるのは、正直悪い気はしない。……いや、むしろかなり嬉しいよ」
トレイはそう言って、ほんの少しだけ声を低くした。
「でもな、俺が誰に対しても変わらないっていうのは……少し違うかもしれない」
「そうなんですか……?」
想定外の言葉にななしは小首を傾げる。トレイはそんな彼女の反応を楽しむかのように口元を緩めた。
「俺だって、相手によって心境の変化くらいはあるさ。例えば……」
トレイは机の上に肘をつき、少しだけななしの方へと顔を近づけた。一気に縮まった距離にななしは思わず息を呑む。
「今こうして、お前と二人だけで話している時とかな」
「……トレイ、先輩?」
「はは、そんなに固まるな。冗談だよ」
トレイはふっと身体を元の位置に戻し、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。その瞬間、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
「し、心臓に悪いです。からかわないでください」
「悪い悪い。お前があまりにも俺を褒めるから、ちょっと調子が狂っただけさ」
「でも、トレイ先輩が誰にでも同じように接しているわけじゃないって、どういう意味ですか?」
ななしが尋ねると、トレイは空になったカップをトントンと指先で叩き少し考えるような仕草を見せた。
「言葉通りの意味さ。俺だって人間だからな。誰に対しても全く同じ温度で接しているわけじゃない。それこそ状況によって役割があるしな……それに」
そこで一度言葉を区切り、トレイは真っ直ぐにななしを見た。
「お前の前では、俺でいられる」
「わたしの、前?」
「そう。余計な気を張る必要もなければ、誰かの機嫌を窺う必要もない。お前とこうして話している時間は、俺にとってもすごく息抜きになってるんだ。だからさっき言っただろ? お前と二人でいる時は、俺の中の心境がちょっと違うって」
トレイの声はいつになく低く落ち着いた響きを帯びている。それがどのような意図を含んだものなのか言葉だけでは測りきれない。けれど二人の間に流れる空気は確実に熱を帯びていた。
「……やっぱり普通じゃないですよ、トレイ先輩」
「えっ!? 何がだ?」
「そういうことを、さらっと言うところがです。やっぱり、全然普通の人じゃないです」
ななしが少し拗ねたように視線を逸らすと、トレイは嬉しそうに声を立てて笑った。
「そうか? 俺としては、これでもかなり必死なんだけどな」
ななしが不思議そうに首を傾げると、トレイはさらに言葉を続けた。
「いや、こっちの話だ。……ほら、話が逸れてる間に課題がちっとも進んでないぞ。集中力が切れたのは大目に見るから」
トレイはそう言ってななしの開いたままのノートをトントンと指差した。指先が今にも触れそうなほどの近さにある。
「……はい。がんばります」
「よし。じゃあ、これが終わったら昨日試作したタルトを切り分けてやるよ」
「本当ですか!?」
「ああ。お前が俺のことを特別扱いしてくれるなら、俺もお前を特別に甘やかしてやらないとな」
トレイは眼鏡の位置を直しながら、どこか楽しげに微笑んでみせる。ななしは少し耳を赤くしながらも慌ててペンを握り直した。
すぐ目の前でトレイもまた自分のノートに視線を落とす。
放課後の静かな空間。ただ課題をこなすだけの時間は、ほんの少しの甘いスパイスを含んだ二人だけの特別なものへと変わっていた。
