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「ななしさん、この集計データの数字、少しズレていませんか」
アズールは眼鏡のブリッジを押し上げながら、手元の書類から目を離さずに告げた。
「すみません。もう一度確認します」
ななしが慌てて手を伸ばすとアズールはすっと書類を引き戻した。
「いえ、僕がやります。ななしさんはもう上がってください。これ以上残業をさせるわけにはいきませんから」
「でも、わたしのミスですから、やらせてください」
「結構です。僕の方が早いですし、何より、今のななしさんに任せるのは少し不安ですから」
突き放すような物言いにななしの胸がちくりと痛む。
ここ数日、アズールとの間に奇妙な距離感があった。
以前なら、どれだけ忙しくても冗談を交えたり、紅茶を淹れてくれたりする余裕があったはずなのに、最近は事務的な会話しか交わしていない。
「……わかりました。お先に失礼します。アズール先輩」
ななしが荷物をまとめて席を立つ。
その背中にアズールは視線すら向けなかった。
ただドアが閉まる小さな音が響いた瞬間、アズールはペンを握る手にぐっと力を込め、深くため息をついた。
「……あんな顔をさせたいわけではないのに」
誰にも聞こえない声で呟かれた言葉は空気に溶けて消えた。
◇
翌日の放課後、学園の中庭のベンチでななしは一人でノートを見返していた。
ラウンジでの自分の動きを思い返し、どこでミスが出たのかを書き出している。
「そんなところで何をしているんですか」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにはいつもの寮服に身を包んだアズールが立っていた。
手には数枚の資料を持っている。
「アズール先輩。…あの、昨日の件は本当にすみませんでした」
ななしが立ち上がって頭を下げると、アズールは困ったように眉をひそめた。
「謝罪を求めてここに来たわけではありません。これ、今日のシフトの変更点です。確認しておいてください」
「あ、ありがとうございます」
資料を受け取る際、指先がわずかに触れ合った。
その瞬間、アズールがビクッと肩を揺らし不自然なほど素早く手を引いた。
「では、僕はこれで。次の予定がありますから」
「待ってください」
ななしは思わずアズールの腕を掴もうとしたが空を切った。
アズールは一歩、距離を取った。
「何か?」
「……最近、わたしのこと避けていませんか。何かアズール先輩を怒らせるようなことをしましたか」
ずっと胸に溜まっていた疑問が口をついて出た。
アズールは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの完璧な笑みを張り付かせた。
「避ける? まさか。お互いにやるべきことが多いだけでしょう。深読みのしすぎはよくありませんよ」
「でも、前はもっと……」
「今は今です」
遮るような強い調子にななしは言葉を失う。
「あなたと僕とでは、立場も違います。これ以上、馴れ合いのような関係を続けるのはお互いのためになりません。……それでは」
アズールはそれだけ言い残すと、振り返ることもなく歩き去ってしまった。
残された中庭には風が草木を揺らす音だけが響いていた。
ななしは資料を強く握り締め、滲んでいく視界を遮るように俯いた。
◇
放課後の廊下を進むアズールの足取りは、いつになく乱れていた。
胸の奥が焼けるように熱い。
(立場が違う、などと……よくもあんな嘘を吐けたものです)
本当は避けている自覚など嫌というほどあった。
理由なら自分自身が一番よく知っている。
数日前、学園内で他の男子生徒と親しげに話すななしの姿を見た時、自分でも信じられないほどの黒い感情が湧き上がったのだ。
独占欲、嫉妬、そしてそれらをコントロールできない自分への嫌悪感。
自分が、ようやく手に入れた居場所。
そこで見つけた何よりも失いたくない存在。
強欲な自分を見せつけてしまえば、彼女は間違いなく逃げ出すだろう。
(契約書のない関係ほど、不安定なものはない)
彼女の声が頭から離れない。
近づけば近づくほど、すべてを壊してしまいそうになる。
だから距離を置くしかないと決めたはずなのに、泣きそうな彼女の顔を見た瞬間、心臓が悲鳴をあげていた。
◇
その日のモストロ・ラウンジは、いつも以上の緊張感に包まれていた。
書き入れ時ということもあり客足が絶えない。
ななしはホールで注文を取り必死にドリンクを運んでいた。
頭では仕事に集中しようと思っていても、カウンターの奥から指示を出すアズールの声が聞こえるたびに手元が狂いそうになる。
「そこのテーブル、バッシングが遅れています。早くしてください」
アズールの鋭い声が飛ぶ。
焦ったななしは空いたグラスをトレイに乗せる際、バランスを崩してしまった。
ガシャンと激しい音が響き渡る。
床に散らばるガラスの破片。
周囲の視線が一斉に集まった。
「あ……すみません、すぐ片付けます」
ななしは動転し、素手で破片を拾おうと床にしゃがみ込んだ瞬間、強い力で手首を掴まれた。
見上げると息を荒くしたアズールがいた。
その表情は、いつもの冷静さを完全に失い酷く歪んでいる。
「あ、アズール先輩……」
「怪我をしたらどうするつもりですか!」
「でも、わたしが落としたから……」
「黙ってください」
アズールの怒声にホールが一瞬で静まり返る。
アズールはななしの手首を掴んだまま、周囲のスタッフに向かって言い放った。
「ここは誰か片付けておいてください。彼女は僕が連れていきます」
「アズール先輩、待ってください、まだ仕事が」
抵抗する声に耳を貸さず、アズールはななしを促すようにして足早にラウンジの奥へと向かった。
バックヤードを抜け誰もいない廊下に出たところで、ようやく足が止まる。
アズールは壁に背を向け、ななしから視線を外したまま、荒い呼吸を整えようとしていた。
掴まれていた手首には、まだアズールの手の熱が残っている。
「……すみませんでした。大声を出すつもりはなかったんです」
絞り出すような声だった。
「アズール先輩、あの……」
「あなたを見ていると、本当に計算が狂う」
アズールはゆっくりと振り返った。
その表情には先ほどの怒りはなく、ただ深い切なさと諦念のようなものが滲んでいた。
「近づかないようにしていたのに。どうしてあなたは、そうやって簡単に僕の境界線を越えてくるんですか」
「わたしは、前みたいに普通に話したくて……」
「普通、ですか。僕にとって、あなたと普通に接することがどれだけ困難かまるで分かっていない」
アズールは一歩、ななしに近づいた。
その距離は昼間に中庭で取られた距離よりもずっと近い。
「僕は欲しいものはすべて手に入れたい。……たとえそれが、他人の心であっても」
その言葉の真意を測りかねて、ななしは息を呑んだ。
アズールの言葉は静かに、しかし確実に二人の関係を歪めていく。
誰もいない廊下に、アズールの言葉が重く響いていた。
言葉の意味を理解しようとするが、ななしの頭は真っ白になっていくばかりだった。
「アズール先輩、それって……」
「……僕としたことが、少し感情が昂りすぎました」
アズールはふっといつもの冷徹な笑みを浮かべ、掴んでいたななしの手首をそっと離した。
その指先が名残惜しそうに震えたのを、ななしは見逃さなかった。
「今日はもう、オンボロ寮へ帰りなさい。ラウンジの片付けは他の者にやらせます。ななしさんのシフトも明日以降はしばらく外しておきますから」
「そんなの困ります! わたし、まだちゃんと働けます」
「これは命令です。今の状態でホールに立たれては、店の利益に関わります」
冷たく言い放ちアズールはくるりと背を向けた。
その背中はどんな交渉事の時よりも頑なで、一切の反論を許さない壁のようだった。
「……わかりました。失礼します」
ななしは小さく声を絞り出し、逃げるようにバックヤードを駆け抜けた。
寮への帰り道、夜風が火照った頬を冷ましていく。
けれど、胸の奥のモヤモヤとした痛みは消えなかった。
(どうしてそんなに突き放すの……?)
アズールの本心が分からない。
けれどあの時の切なそうな表情が、どうしても頭から離れなかった。
◇
翌日から、ななしは本当にモストロ・ラウンジへの立ち入りを禁止されてしまった。
シフト表から自分の名前が消えているのを見た時は、胸が締め付けられるように痛んだ。
学園内でアズールの姿を見かけても、彼はいつも他の寮生や教師に囲まれており話しかける隙すらない。
「このまま、本当に他人になっちゃうのかな」
放課後の図書室で、ななしは開いたままの教科書を見つめて呟いた。
周囲とのすれ違いや、アズールの冷たい態度を思い出すたびに悲しくなる。
けれど同時に、あの時手首を掴まれた瞬間の熱さや、本気で怒ってくれた声が嬉しくて、愛おしくてたまらないのだ。
切ない感情が胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
「一人でそんなにため息を吐いて、どうかしたんですか」
突然、すぐ近くから声がした。
驚いて顔を上げると、本棚の陰からアズールが姿を現した。
手には古い魔導書を数冊抱えている。
「アズール先輩……」
「図書室では静かに。他の利用者の迷惑になりますよ」
そう言いながらも、アズールはななしの向かいの席に静かに腰を下ろした。
数日ぶりの至近距離にななしの心臓が大きく跳ねる。
「あの、シフトの件なんですけど……」
「その話なら、すでに話をしたはずです」
アズールは手元の本を開き、視線をページに落とした。
会話を打ち切ろうとする態度にななしの心に小さな火が灯る。
「わたし、そんなに邪魔ですか?」
「邪魔などと、一言も言っていません」
「じゃあどうして! 理由も教えてくれないで、ただ離れろなんて…」
思わず声が大きくなり、周囲の生徒から鋭い視線が飛んできた。
ななしはハッとして口を噤み、肩をすくめる。
アズールはゆっくりと本を閉じ、眼鏡の奥の目を真っ直ぐにななしへ向けた。
「……場所を変えましょう。ここでは落ち着いて計算もできません」
アズールが案内したのはラウンジではなく、放課後の植物園の奥にある温室だった。
周囲には色鮮やかな熱帯植物が茂り、外の喧騒からは完全に遮断されている。
「ここまで来れば、誰にも邪魔されませんね」
アズールは周囲を見回した後、小さく息を吐いて壁に寄りかかった。
いつもの完璧な姿勢が少しだけ崩れている。
「アズール先輩、今度こそちゃんと教えてください。どうしてわたしを避けるんですか」
ななしが詰め寄ると、アズールは困ったように前髪をかき上げた。
「ななしさんは、本当に諦めが悪いですね。……いいでしょう。そこまで言うのなら、僕の損失を教えてあげます」
「損失?」
「ええ。あなたが他の男の生徒と笑い合っているのを見るたびに、僕の胸がどれほど不快に騒ぐか。あなたが怪我をしそうになった瞬間、頭の中の損得勘定がすべて吹き飛んで、体が勝手に動いてしまう。そんな自分を、僕は到底許せないんです」
アズールは自嘲気味に笑った。
「僕は常に冷静で、完璧な利益を導き出す人間でいたい。なのに、あなたが視界に入るだけで、その計算がすべて狂ってしまう。……これが、ななしさんを遠ざけようとした本当の理由です」
明かされた本音にななしは言葉を失った。
アズールが自分を嫌って避けていたわけではないこと、それどころか、自分と同じように……いや、それ以上に苦しんでいたことを知って、胸がいっぱいになる。
「それって、つまり……」
「ええ、認めますよ。僕はななしさんに、恋という名の酷く非効率な感情を抱いています」
アズールは一歩、ななしとの距離を詰めた。
温室の熱気のせいか、彼の頬がわずかに赤みを帯びているように見える。
「ですが、僕は自分の欲しいものを簡単に諦めるつもりはありません。あなたの心も時間も、すべて僕のものにしたい。……そんな強欲な僕でも、あなたは受け入れてくれますか?」
真っ直ぐな言葉が、ななしの心に深く突き刺さる。
すれ違っていた時間が嘘のように、嬉し涙が溢れそうになった。
「……わたしも、アズール先輩に避けられて、すごく悲しかった。だから、もう遠くに行かないでください」
「……全く、あなたという人は。僕の完璧な計画をここまで台無しにしておいて、そんな可愛いことを言うなんて反則です」
アズールはそっと手を伸ばし、ななしの涙を指先で拭った。
今度は、もう手を引いたりはしなかった。
「これからは、僕のそばでたっぷりと働いてもらいますからね。もちろん、ラウンジのシフトも、僕の隣の席も……すべて僕が独占させてもらいます」
「大好きです、アズール先輩」
温室を抜ける優しい風が二人を包み込んでいた。
遠回りをした二人の距離は、これ以上ないほどに縮まっていた。
アズールは眼鏡のブリッジを押し上げながら、手元の書類から目を離さずに告げた。
「すみません。もう一度確認します」
ななしが慌てて手を伸ばすとアズールはすっと書類を引き戻した。
「いえ、僕がやります。ななしさんはもう上がってください。これ以上残業をさせるわけにはいきませんから」
「でも、わたしのミスですから、やらせてください」
「結構です。僕の方が早いですし、何より、今のななしさんに任せるのは少し不安ですから」
突き放すような物言いにななしの胸がちくりと痛む。
ここ数日、アズールとの間に奇妙な距離感があった。
以前なら、どれだけ忙しくても冗談を交えたり、紅茶を淹れてくれたりする余裕があったはずなのに、最近は事務的な会話しか交わしていない。
「……わかりました。お先に失礼します。アズール先輩」
ななしが荷物をまとめて席を立つ。
その背中にアズールは視線すら向けなかった。
ただドアが閉まる小さな音が響いた瞬間、アズールはペンを握る手にぐっと力を込め、深くため息をついた。
「……あんな顔をさせたいわけではないのに」
誰にも聞こえない声で呟かれた言葉は空気に溶けて消えた。
◇
翌日の放課後、学園の中庭のベンチでななしは一人でノートを見返していた。
ラウンジでの自分の動きを思い返し、どこでミスが出たのかを書き出している。
「そんなところで何をしているんですか」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにはいつもの寮服に身を包んだアズールが立っていた。
手には数枚の資料を持っている。
「アズール先輩。…あの、昨日の件は本当にすみませんでした」
ななしが立ち上がって頭を下げると、アズールは困ったように眉をひそめた。
「謝罪を求めてここに来たわけではありません。これ、今日のシフトの変更点です。確認しておいてください」
「あ、ありがとうございます」
資料を受け取る際、指先がわずかに触れ合った。
その瞬間、アズールがビクッと肩を揺らし不自然なほど素早く手を引いた。
「では、僕はこれで。次の予定がありますから」
「待ってください」
ななしは思わずアズールの腕を掴もうとしたが空を切った。
アズールは一歩、距離を取った。
「何か?」
「……最近、わたしのこと避けていませんか。何かアズール先輩を怒らせるようなことをしましたか」
ずっと胸に溜まっていた疑問が口をついて出た。
アズールは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの完璧な笑みを張り付かせた。
「避ける? まさか。お互いにやるべきことが多いだけでしょう。深読みのしすぎはよくありませんよ」
「でも、前はもっと……」
「今は今です」
遮るような強い調子にななしは言葉を失う。
「あなたと僕とでは、立場も違います。これ以上、馴れ合いのような関係を続けるのはお互いのためになりません。……それでは」
アズールはそれだけ言い残すと、振り返ることもなく歩き去ってしまった。
残された中庭には風が草木を揺らす音だけが響いていた。
ななしは資料を強く握り締め、滲んでいく視界を遮るように俯いた。
◇
放課後の廊下を進むアズールの足取りは、いつになく乱れていた。
胸の奥が焼けるように熱い。
(立場が違う、などと……よくもあんな嘘を吐けたものです)
本当は避けている自覚など嫌というほどあった。
理由なら自分自身が一番よく知っている。
数日前、学園内で他の男子生徒と親しげに話すななしの姿を見た時、自分でも信じられないほどの黒い感情が湧き上がったのだ。
独占欲、嫉妬、そしてそれらをコントロールできない自分への嫌悪感。
自分が、ようやく手に入れた居場所。
そこで見つけた何よりも失いたくない存在。
強欲な自分を見せつけてしまえば、彼女は間違いなく逃げ出すだろう。
(契約書のない関係ほど、不安定なものはない)
彼女の声が頭から離れない。
近づけば近づくほど、すべてを壊してしまいそうになる。
だから距離を置くしかないと決めたはずなのに、泣きそうな彼女の顔を見た瞬間、心臓が悲鳴をあげていた。
◇
その日のモストロ・ラウンジは、いつも以上の緊張感に包まれていた。
書き入れ時ということもあり客足が絶えない。
ななしはホールで注文を取り必死にドリンクを運んでいた。
頭では仕事に集中しようと思っていても、カウンターの奥から指示を出すアズールの声が聞こえるたびに手元が狂いそうになる。
「そこのテーブル、バッシングが遅れています。早くしてください」
アズールの鋭い声が飛ぶ。
焦ったななしは空いたグラスをトレイに乗せる際、バランスを崩してしまった。
ガシャンと激しい音が響き渡る。
床に散らばるガラスの破片。
周囲の視線が一斉に集まった。
「あ……すみません、すぐ片付けます」
ななしは動転し、素手で破片を拾おうと床にしゃがみ込んだ瞬間、強い力で手首を掴まれた。
見上げると息を荒くしたアズールがいた。
その表情は、いつもの冷静さを完全に失い酷く歪んでいる。
「あ、アズール先輩……」
「怪我をしたらどうするつもりですか!」
「でも、わたしが落としたから……」
「黙ってください」
アズールの怒声にホールが一瞬で静まり返る。
アズールはななしの手首を掴んだまま、周囲のスタッフに向かって言い放った。
「ここは誰か片付けておいてください。彼女は僕が連れていきます」
「アズール先輩、待ってください、まだ仕事が」
抵抗する声に耳を貸さず、アズールはななしを促すようにして足早にラウンジの奥へと向かった。
バックヤードを抜け誰もいない廊下に出たところで、ようやく足が止まる。
アズールは壁に背を向け、ななしから視線を外したまま、荒い呼吸を整えようとしていた。
掴まれていた手首には、まだアズールの手の熱が残っている。
「……すみませんでした。大声を出すつもりはなかったんです」
絞り出すような声だった。
「アズール先輩、あの……」
「あなたを見ていると、本当に計算が狂う」
アズールはゆっくりと振り返った。
その表情には先ほどの怒りはなく、ただ深い切なさと諦念のようなものが滲んでいた。
「近づかないようにしていたのに。どうしてあなたは、そうやって簡単に僕の境界線を越えてくるんですか」
「わたしは、前みたいに普通に話したくて……」
「普通、ですか。僕にとって、あなたと普通に接することがどれだけ困難かまるで分かっていない」
アズールは一歩、ななしに近づいた。
その距離は昼間に中庭で取られた距離よりもずっと近い。
「僕は欲しいものはすべて手に入れたい。……たとえそれが、他人の心であっても」
その言葉の真意を測りかねて、ななしは息を呑んだ。
アズールの言葉は静かに、しかし確実に二人の関係を歪めていく。
誰もいない廊下に、アズールの言葉が重く響いていた。
言葉の意味を理解しようとするが、ななしの頭は真っ白になっていくばかりだった。
「アズール先輩、それって……」
「……僕としたことが、少し感情が昂りすぎました」
アズールはふっといつもの冷徹な笑みを浮かべ、掴んでいたななしの手首をそっと離した。
その指先が名残惜しそうに震えたのを、ななしは見逃さなかった。
「今日はもう、オンボロ寮へ帰りなさい。ラウンジの片付けは他の者にやらせます。ななしさんのシフトも明日以降はしばらく外しておきますから」
「そんなの困ります! わたし、まだちゃんと働けます」
「これは命令です。今の状態でホールに立たれては、店の利益に関わります」
冷たく言い放ちアズールはくるりと背を向けた。
その背中はどんな交渉事の時よりも頑なで、一切の反論を許さない壁のようだった。
「……わかりました。失礼します」
ななしは小さく声を絞り出し、逃げるようにバックヤードを駆け抜けた。
寮への帰り道、夜風が火照った頬を冷ましていく。
けれど、胸の奥のモヤモヤとした痛みは消えなかった。
(どうしてそんなに突き放すの……?)
アズールの本心が分からない。
けれどあの時の切なそうな表情が、どうしても頭から離れなかった。
◇
翌日から、ななしは本当にモストロ・ラウンジへの立ち入りを禁止されてしまった。
シフト表から自分の名前が消えているのを見た時は、胸が締め付けられるように痛んだ。
学園内でアズールの姿を見かけても、彼はいつも他の寮生や教師に囲まれており話しかける隙すらない。
「このまま、本当に他人になっちゃうのかな」
放課後の図書室で、ななしは開いたままの教科書を見つめて呟いた。
周囲とのすれ違いや、アズールの冷たい態度を思い出すたびに悲しくなる。
けれど同時に、あの時手首を掴まれた瞬間の熱さや、本気で怒ってくれた声が嬉しくて、愛おしくてたまらないのだ。
切ない感情が胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
「一人でそんなにため息を吐いて、どうかしたんですか」
突然、すぐ近くから声がした。
驚いて顔を上げると、本棚の陰からアズールが姿を現した。
手には古い魔導書を数冊抱えている。
「アズール先輩……」
「図書室では静かに。他の利用者の迷惑になりますよ」
そう言いながらも、アズールはななしの向かいの席に静かに腰を下ろした。
数日ぶりの至近距離にななしの心臓が大きく跳ねる。
「あの、シフトの件なんですけど……」
「その話なら、すでに話をしたはずです」
アズールは手元の本を開き、視線をページに落とした。
会話を打ち切ろうとする態度にななしの心に小さな火が灯る。
「わたし、そんなに邪魔ですか?」
「邪魔などと、一言も言っていません」
「じゃあどうして! 理由も教えてくれないで、ただ離れろなんて…」
思わず声が大きくなり、周囲の生徒から鋭い視線が飛んできた。
ななしはハッとして口を噤み、肩をすくめる。
アズールはゆっくりと本を閉じ、眼鏡の奥の目を真っ直ぐにななしへ向けた。
「……場所を変えましょう。ここでは落ち着いて計算もできません」
アズールが案内したのはラウンジではなく、放課後の植物園の奥にある温室だった。
周囲には色鮮やかな熱帯植物が茂り、外の喧騒からは完全に遮断されている。
「ここまで来れば、誰にも邪魔されませんね」
アズールは周囲を見回した後、小さく息を吐いて壁に寄りかかった。
いつもの完璧な姿勢が少しだけ崩れている。
「アズール先輩、今度こそちゃんと教えてください。どうしてわたしを避けるんですか」
ななしが詰め寄ると、アズールは困ったように前髪をかき上げた。
「ななしさんは、本当に諦めが悪いですね。……いいでしょう。そこまで言うのなら、僕の損失を教えてあげます」
「損失?」
「ええ。あなたが他の男の生徒と笑い合っているのを見るたびに、僕の胸がどれほど不快に騒ぐか。あなたが怪我をしそうになった瞬間、頭の中の損得勘定がすべて吹き飛んで、体が勝手に動いてしまう。そんな自分を、僕は到底許せないんです」
アズールは自嘲気味に笑った。
「僕は常に冷静で、完璧な利益を導き出す人間でいたい。なのに、あなたが視界に入るだけで、その計算がすべて狂ってしまう。……これが、ななしさんを遠ざけようとした本当の理由です」
明かされた本音にななしは言葉を失った。
アズールが自分を嫌って避けていたわけではないこと、それどころか、自分と同じように……いや、それ以上に苦しんでいたことを知って、胸がいっぱいになる。
「それって、つまり……」
「ええ、認めますよ。僕はななしさんに、恋という名の酷く非効率な感情を抱いています」
アズールは一歩、ななしとの距離を詰めた。
温室の熱気のせいか、彼の頬がわずかに赤みを帯びているように見える。
「ですが、僕は自分の欲しいものを簡単に諦めるつもりはありません。あなたの心も時間も、すべて僕のものにしたい。……そんな強欲な僕でも、あなたは受け入れてくれますか?」
真っ直ぐな言葉が、ななしの心に深く突き刺さる。
すれ違っていた時間が嘘のように、嬉し涙が溢れそうになった。
「……わたしも、アズール先輩に避けられて、すごく悲しかった。だから、もう遠くに行かないでください」
「……全く、あなたという人は。僕の完璧な計画をここまで台無しにしておいて、そんな可愛いことを言うなんて反則です」
アズールはそっと手を伸ばし、ななしの涙を指先で拭った。
今度は、もう手を引いたりはしなかった。
「これからは、僕のそばでたっぷりと働いてもらいますからね。もちろん、ラウンジのシフトも、僕の隣の席も……すべて僕が独占させてもらいます」
「大好きです、アズール先輩」
温室を抜ける優しい風が二人を包み込んでいた。
遠回りをした二人の距離は、これ以上ないほどに縮まっていた。
