ディアソムニア
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「リリア先輩。こんなところで何をしているんですか?」
手元の資料の束を抱え直しながら、ななしが足を止めた。
リリアは顔を上げると、いつものように悪戯な笑みを浮かべて、ひらりと窓枠から飛び降りた。
着地した音は驚くほど静かで、床の埃すら立ち上がらない。
「ななしではないか。いやなに、少し風が心地よくてな。お主こそ、そんなに書類を抱えてどうした?」
「学園長に頼まれた提出物を届けるところです」
「ほう、それは感心なことじゃ。よし、暇を持て余しているわしが少し手伝ってやろう」
リリアは断る隙も与えず、ななしの腕の中から半分ほどの書類をひょいと抜き取った。
その手付きは軽やかで、指先がほんの少しだけななしの手に触れる。
カサリと紙が擦れる音だけが静かな廊下に響いた。
「ありがとうございます。助かります」
「気にするでない。これくらい、お主の大変さに比べれば造作もないことよ」
廊下を進む中、窓から差し込む茜色の西日がお互いの影を長く伸ばし、床の上で何度も重なり合っては離れていく。
言葉の端々に滲む好意は確かにそこにある。
しかし、それ以上に踏み込むための決定的な何かが、この二人にはいつも足りなかった。
「リリア先輩、今日のご予定は? 部活はもう終わったんですか?」
「うむ、軽音部の集まりは先ほど解散したところじゃ。寮の者たちも各々の用事で忙しそうにしておるし、わしはこうして放課後の散歩を楽しんでいたというわけじゃ」
「そうだったんですね。最近、先輩とゆっくり話す機会がなかったので嬉しいです」
「それはわしを恋しがっていた、という意味に捉えても良いのか?」
リリアがわざとらしく片目を瞑り顔を覗き込んできた。
冗談めかしたその口調に、ななしは少しだけ心拍数が上がるのを感じながらも、いつものように小さく息を吐き出して微笑み返す。
「もう、からかわないでください。先輩に会えなくて寂しかったのは本当ですけど」
「おや、今日は随分と素直じゃな」
「たまには本当のことを言いますよ」
会話は小気味よく、互いに笑い合える空気がある。
けれどもその笑い声の裏には、これ以上は踏み込まないという暗黙の境界線が引かれているようだった。
リリアが何百年という果てしない時間を生きてきた存在であること。
そしてななしがこの世界において、魔力も持たないただの普通の人間であること。
言葉にせずとも、その事実が二人の間に静かに横たわっている。
「学園長室は、この先ですね」
二人は学園長室の前に到着した。
「不在の時はデスクに置いておくように」という学園長の言葉を思い出し、ななしはノックをしてから静かに室内へ入る。
リリアの手から書類を受け取り、ななしが指定されたデスクへ書類を収めて戻ってくるまでの間、リリアは文句も言わずにドアの横で待っていた。
「お待たせしました。これで今日の用事は全部終わりです」
「ご苦労だったな。では、ここからは真の放課後というわけじゃ」
学園長室を出て、二人は中庭へと続く階段を下りていく。
外に出ると夕方の風が少し強くなり、空は茜色から紫色のグラデーションへと移り変わりつつあった。
「リリア先輩」
「なんじゃ?」
「先輩は、どうしていつもそうやって、私に構ってくれるんですか?」
ふと沸き上がった疑問を、ななしは口にしていた。
いつも通りの軽口で返されるだろうと思いながらも、その言葉にはほんの少しだけ、本当の気持ちが混ざっていた。
リリアは一瞬だけ歩みを止め、空を見上げた。
その横顔には先ほどまでの悪戯っぽい笑みは消え、どこか遠い時代を見つめているような深く静かな表情が浮かんでいる。
「そうじゃな……。お主を見ていると、退屈という言葉を忘れてしまうのじゃ」
「退屈、ですか?」
「うむ。わしにとって、多くのものは瞬く間に過ぎ去っていく。じゃが、お主の周りだけは、いつも新しい風が吹いておるように感じる。だから、つい近くにいたくなるのかも知れんな」
それはリリアなりの精一杯の、誠実な好意の告白に近いものだった。
しかし、彼はそれを年長者の気まぐれという安全な額縁に収めて提示する。
傷つけないように、そして自分たちを縛らないように。
ななしはその言葉の重みと同時に感じられる距離感に胸が少しだけ疼くのを感じた。
「……ずるいですね、リリア先輩は」
「おや、褒め言葉として受け取っておこう」
リリアは再び、いつもの顔に戻って笑った。
◇
中庭を抜ける頃には夜の帳が本格的に下り始めていた。
学園の象徴である式典服の黒を彷彿とさせる深い夜空に、ぽつぽつと星が瞬き始める。
「そういえば、シルバーから聞いたのじゃが」
リリアが、ふと思い出したように弾んだ声で話題を切り替えた。
「お主、最近は自炊を頑張っておるらしいな」
「ええ、少しずつですけど。この前はトマト煮込みを作ってみたんです。でも、なんだか味が決まらなくて……」
「わしも料理には一家言あるからのう。お主の作ったものならどのような味であれ喜んで突撃するが、今度、素晴らしい隠し味を教えてやろう。例えばトカゲの尾の粉末などを少し入れると、味が劇的に——」
「先輩、それは絶対に遠慮しておきます。食事は戦いじゃないんですから」
食い気味に返したななしの言葉に、リリアは声を上げて笑った。
「くふふ! 手厳しいのう。せっかくの秘伝のレシピを、最初から拒否されてしまうとは。わしの料理への情熱が泣くぞ? まあ、お主が心を込めて作ったものなら、すべてが至高の逸品に変わるというものよ」
さらりと何のてらいもなくそんな台詞を口にする。
ななしはリリアのこういうところが少しだけ苦手だった。
本気なのか、それともただの甘やかしなのか。
彼の言葉にはいつも境界線を曖昧にする魔力が潜んでいる。
「……そういうことを、他の女の子にも言っちゃダメですよ」
「おや、嫉妬か?」
「違います。誤解する人がいたら大変だなって思っただけです」
「心配せずとも、わしがこのような言葉をかけるのは、世界広しといえどお主だけじゃ」
リリアは楽しそうに、弾むような足取りで数歩先を進み、くるりと振り返ってななしを正面から見据えた。
その姿を見ながら、先ほど彼が冗談めかして言った「トカゲの尾」のことが、なぜか頭の片隅に引っかかっていた。
――トカゲは敵に襲われた時、自ら尾を切り離して逃げるという。
本体が傷つかないよう、自ら一部を切り離してその場に置いていく、身代わりの戦術。
彼はそうやって、誠実な好意の決定的な部分だけを綺麗に切り離し、自分の本心を上手に隠してしまうのだ。
最後の一歩で必ず、彼は笑顔のまま一歩後ろへ退いてしまう。
その無意識の拒絶が、たまらなくもどかしかった。
夜の闇に溶け込みそうな彼の姿の中で、その存在感だけが妙に際立っている。
「ななし」
「はい」
「お主は、わしといると退屈か?」
「えっ……? いえ、そんなわけないです。むしろ、先輩といるといつも驚かされてばかりで、時間が経つのが早いくらいです」
「そうか、なら良かった」
リリアは満足そうに目を細めた。
その仕草があまりにも無邪気で、けれどどこか寂しげに見えるのは、彼が背負ってきた気の遠くなるような時間のせいなのだろうか。
二人の間にある空気は、間違いなく温かい。
お互いを特別に思い、大切にしたいという感情が静かに通い合っている。
それなのに、ここから一歩進み明確な形に収まる気配がまるでなかった。
リリアはどこまでも優しく、そしてどこまでも境界線を守り続けている。
「リリア先輩は、たまにすごく遠くに行ってしまいそうな気がします」
気がつけば、ななしの本音が言葉になって零れ落ちていた。
慌てて口元を押さえたが、もう遅い。
静まり返った中庭に、その声ははっきりと響いてしまった。
リリアは動きを止め、少しだけ目を見開いた。
しかしすぐにその表情を和らげ、ななしとの距離をすっと詰めてきた。
近づく彼の気配に、ななしの身体がわずかに緊張で強張った。
「遠く、か。確かにわしは、お主たちの時間軸から見れば、いささか長く生きすぎている。じゃがな、ななし。わしが今、こうしてお主の目の前に立ち、お主の声を聞いている。この事実だけは、何者にも変えられん現実じゃぞ」
リリアは、そっとななしの頭に手を置いた。
くしゃくしゃと髪を撫でるその手は、驚くほど優しくあたたかい。
「わしを遠い存在だと思う必要はない。お主が呼べば、いついかなる時でも駆けつけるのが年長者の役目だからな」
「……ずるいです、本当に」
「またずるい、か。わしはいつでも大真面目なのじゃが、どうにもお主には不評のようじゃな」
リリアは困ったように眉を下げて笑った。
その手の温もりが頭頂部から伝ってくるたびに、ななしの胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
こんなに近くにいるのに、触れているのに、これ以上を求めてはいけないような気がしてしまう。
彼が与えてくれる優しさはあまりにも完璧で、だからこそそれ以上の歪みを許さない強さがあった。
「さて、そろそろ戻らねば、マレウスたちが心配する頃合いじゃな」
リリアは名残惜しそうに頭から手を離した。
離れていく温もりにななしは喪失感を覚えながらも、小さく頷いた。
「そうですね。私も寮に戻ります」
「うむ。気をつけるのじゃぞ。もし寂しくなったら、いつでもわしを呼ぶが良い。壁を壊してでも、すぐに会いに行ってやろう」
「それは本当に驚くので、普通にドアから来てくださいね」
「くふふ、善処しよう」
二人は再び歩き出し、それぞれの寮へと続く分岐点へとたどり着いた。
「ではな、ななし。また明日、学園で会おう」
「はい、リリア先輩。また明日」
リリアは最後に一度だけ悪戯っぽく微笑んで手を振ると、闇に溶けるような軽やかさで歩き去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ななしは深く息を吸い込んだ。
お互いに特別な好意を抱いているのは分かっている。
けれど甘い雰囲気になりきれない、このもどかしくも愛おしい距離感。
きっと明日も二人はこうして他愛のない会話を交わし、付かず離れずの距離で笑い合うのだろう。
夜がいっそう深まり星が輝きを増す中、ななしはリリアの温もりが残る髪にそっと触れながら、自分の寮へと歩き出した。
手元の資料の束を抱え直しながら、ななしが足を止めた。
リリアは顔を上げると、いつものように悪戯な笑みを浮かべて、ひらりと窓枠から飛び降りた。
着地した音は驚くほど静かで、床の埃すら立ち上がらない。
「ななしではないか。いやなに、少し風が心地よくてな。お主こそ、そんなに書類を抱えてどうした?」
「学園長に頼まれた提出物を届けるところです」
「ほう、それは感心なことじゃ。よし、暇を持て余しているわしが少し手伝ってやろう」
リリアは断る隙も与えず、ななしの腕の中から半分ほどの書類をひょいと抜き取った。
その手付きは軽やかで、指先がほんの少しだけななしの手に触れる。
カサリと紙が擦れる音だけが静かな廊下に響いた。
「ありがとうございます。助かります」
「気にするでない。これくらい、お主の大変さに比べれば造作もないことよ」
廊下を進む中、窓から差し込む茜色の西日がお互いの影を長く伸ばし、床の上で何度も重なり合っては離れていく。
言葉の端々に滲む好意は確かにそこにある。
しかし、それ以上に踏み込むための決定的な何かが、この二人にはいつも足りなかった。
「リリア先輩、今日のご予定は? 部活はもう終わったんですか?」
「うむ、軽音部の集まりは先ほど解散したところじゃ。寮の者たちも各々の用事で忙しそうにしておるし、わしはこうして放課後の散歩を楽しんでいたというわけじゃ」
「そうだったんですね。最近、先輩とゆっくり話す機会がなかったので嬉しいです」
「それはわしを恋しがっていた、という意味に捉えても良いのか?」
リリアがわざとらしく片目を瞑り顔を覗き込んできた。
冗談めかしたその口調に、ななしは少しだけ心拍数が上がるのを感じながらも、いつものように小さく息を吐き出して微笑み返す。
「もう、からかわないでください。先輩に会えなくて寂しかったのは本当ですけど」
「おや、今日は随分と素直じゃな」
「たまには本当のことを言いますよ」
会話は小気味よく、互いに笑い合える空気がある。
けれどもその笑い声の裏には、これ以上は踏み込まないという暗黙の境界線が引かれているようだった。
リリアが何百年という果てしない時間を生きてきた存在であること。
そしてななしがこの世界において、魔力も持たないただの普通の人間であること。
言葉にせずとも、その事実が二人の間に静かに横たわっている。
「学園長室は、この先ですね」
二人は学園長室の前に到着した。
「不在の時はデスクに置いておくように」という学園長の言葉を思い出し、ななしはノックをしてから静かに室内へ入る。
リリアの手から書類を受け取り、ななしが指定されたデスクへ書類を収めて戻ってくるまでの間、リリアは文句も言わずにドアの横で待っていた。
「お待たせしました。これで今日の用事は全部終わりです」
「ご苦労だったな。では、ここからは真の放課後というわけじゃ」
学園長室を出て、二人は中庭へと続く階段を下りていく。
外に出ると夕方の風が少し強くなり、空は茜色から紫色のグラデーションへと移り変わりつつあった。
「リリア先輩」
「なんじゃ?」
「先輩は、どうしていつもそうやって、私に構ってくれるんですか?」
ふと沸き上がった疑問を、ななしは口にしていた。
いつも通りの軽口で返されるだろうと思いながらも、その言葉にはほんの少しだけ、本当の気持ちが混ざっていた。
リリアは一瞬だけ歩みを止め、空を見上げた。
その横顔には先ほどまでの悪戯っぽい笑みは消え、どこか遠い時代を見つめているような深く静かな表情が浮かんでいる。
「そうじゃな……。お主を見ていると、退屈という言葉を忘れてしまうのじゃ」
「退屈、ですか?」
「うむ。わしにとって、多くのものは瞬く間に過ぎ去っていく。じゃが、お主の周りだけは、いつも新しい風が吹いておるように感じる。だから、つい近くにいたくなるのかも知れんな」
それはリリアなりの精一杯の、誠実な好意の告白に近いものだった。
しかし、彼はそれを年長者の気まぐれという安全な額縁に収めて提示する。
傷つけないように、そして自分たちを縛らないように。
ななしはその言葉の重みと同時に感じられる距離感に胸が少しだけ疼くのを感じた。
「……ずるいですね、リリア先輩は」
「おや、褒め言葉として受け取っておこう」
リリアは再び、いつもの顔に戻って笑った。
◇
中庭を抜ける頃には夜の帳が本格的に下り始めていた。
学園の象徴である式典服の黒を彷彿とさせる深い夜空に、ぽつぽつと星が瞬き始める。
「そういえば、シルバーから聞いたのじゃが」
リリアが、ふと思い出したように弾んだ声で話題を切り替えた。
「お主、最近は自炊を頑張っておるらしいな」
「ええ、少しずつですけど。この前はトマト煮込みを作ってみたんです。でも、なんだか味が決まらなくて……」
「わしも料理には一家言あるからのう。お主の作ったものならどのような味であれ喜んで突撃するが、今度、素晴らしい隠し味を教えてやろう。例えばトカゲの尾の粉末などを少し入れると、味が劇的に——」
「先輩、それは絶対に遠慮しておきます。食事は戦いじゃないんですから」
食い気味に返したななしの言葉に、リリアは声を上げて笑った。
「くふふ! 手厳しいのう。せっかくの秘伝のレシピを、最初から拒否されてしまうとは。わしの料理への情熱が泣くぞ? まあ、お主が心を込めて作ったものなら、すべてが至高の逸品に変わるというものよ」
さらりと何のてらいもなくそんな台詞を口にする。
ななしはリリアのこういうところが少しだけ苦手だった。
本気なのか、それともただの甘やかしなのか。
彼の言葉にはいつも境界線を曖昧にする魔力が潜んでいる。
「……そういうことを、他の女の子にも言っちゃダメですよ」
「おや、嫉妬か?」
「違います。誤解する人がいたら大変だなって思っただけです」
「心配せずとも、わしがこのような言葉をかけるのは、世界広しといえどお主だけじゃ」
リリアは楽しそうに、弾むような足取りで数歩先を進み、くるりと振り返ってななしを正面から見据えた。
その姿を見ながら、先ほど彼が冗談めかして言った「トカゲの尾」のことが、なぜか頭の片隅に引っかかっていた。
――トカゲは敵に襲われた時、自ら尾を切り離して逃げるという。
本体が傷つかないよう、自ら一部を切り離してその場に置いていく、身代わりの戦術。
彼はそうやって、誠実な好意の決定的な部分だけを綺麗に切り離し、自分の本心を上手に隠してしまうのだ。
最後の一歩で必ず、彼は笑顔のまま一歩後ろへ退いてしまう。
その無意識の拒絶が、たまらなくもどかしかった。
夜の闇に溶け込みそうな彼の姿の中で、その存在感だけが妙に際立っている。
「ななし」
「はい」
「お主は、わしといると退屈か?」
「えっ……? いえ、そんなわけないです。むしろ、先輩といるといつも驚かされてばかりで、時間が経つのが早いくらいです」
「そうか、なら良かった」
リリアは満足そうに目を細めた。
その仕草があまりにも無邪気で、けれどどこか寂しげに見えるのは、彼が背負ってきた気の遠くなるような時間のせいなのだろうか。
二人の間にある空気は、間違いなく温かい。
お互いを特別に思い、大切にしたいという感情が静かに通い合っている。
それなのに、ここから一歩進み明確な形に収まる気配がまるでなかった。
リリアはどこまでも優しく、そしてどこまでも境界線を守り続けている。
「リリア先輩は、たまにすごく遠くに行ってしまいそうな気がします」
気がつけば、ななしの本音が言葉になって零れ落ちていた。
慌てて口元を押さえたが、もう遅い。
静まり返った中庭に、その声ははっきりと響いてしまった。
リリアは動きを止め、少しだけ目を見開いた。
しかしすぐにその表情を和らげ、ななしとの距離をすっと詰めてきた。
近づく彼の気配に、ななしの身体がわずかに緊張で強張った。
「遠く、か。確かにわしは、お主たちの時間軸から見れば、いささか長く生きすぎている。じゃがな、ななし。わしが今、こうしてお主の目の前に立ち、お主の声を聞いている。この事実だけは、何者にも変えられん現実じゃぞ」
リリアは、そっとななしの頭に手を置いた。
くしゃくしゃと髪を撫でるその手は、驚くほど優しくあたたかい。
「わしを遠い存在だと思う必要はない。お主が呼べば、いついかなる時でも駆けつけるのが年長者の役目だからな」
「……ずるいです、本当に」
「またずるい、か。わしはいつでも大真面目なのじゃが、どうにもお主には不評のようじゃな」
リリアは困ったように眉を下げて笑った。
その手の温もりが頭頂部から伝ってくるたびに、ななしの胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
こんなに近くにいるのに、触れているのに、これ以上を求めてはいけないような気がしてしまう。
彼が与えてくれる優しさはあまりにも完璧で、だからこそそれ以上の歪みを許さない強さがあった。
「さて、そろそろ戻らねば、マレウスたちが心配する頃合いじゃな」
リリアは名残惜しそうに頭から手を離した。
離れていく温もりにななしは喪失感を覚えながらも、小さく頷いた。
「そうですね。私も寮に戻ります」
「うむ。気をつけるのじゃぞ。もし寂しくなったら、いつでもわしを呼ぶが良い。壁を壊してでも、すぐに会いに行ってやろう」
「それは本当に驚くので、普通にドアから来てくださいね」
「くふふ、善処しよう」
二人は再び歩き出し、それぞれの寮へと続く分岐点へとたどり着いた。
「ではな、ななし。また明日、学園で会おう」
「はい、リリア先輩。また明日」
リリアは最後に一度だけ悪戯っぽく微笑んで手を振ると、闇に溶けるような軽やかさで歩き去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ななしは深く息を吸い込んだ。
お互いに特別な好意を抱いているのは分かっている。
けれど甘い雰囲気になりきれない、このもどかしくも愛おしい距離感。
きっと明日も二人はこうして他愛のない会話を交わし、付かず離れずの距離で笑い合うのだろう。
夜がいっそう深まり星が輝きを増す中、ななしはリリアの温もりが残る髪にそっと触れながら、自分の寮へと歩き出した。
