スカラビア
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「ジャミル先輩って、できないことあるんですか?」
ふと思いついた疑問が、そのまま口をついて出た。
しかしジャミルは動かしていたペンを止めることもなく、ただ淡々と手元の書類に文字を書き込み続けている。
「……ジャミル先輩、聞いてます?」
「お前が突拍子もないことを言い出すのはいつものことだが、いちいち付き合ってやるほど俺は暇じゃない」
ペンを走らせたまま低く冷ややかな声が返ってくる。
「いやだって、文武両道で料理もできて歌もうまくて、人の顔と名前覚えるのも得意じゃないですか。気にならない方が無理ですよ」
指を折り数えながら並べ立てると、そこでようやくジャミルはペンをぴたりと止め、呆れたように息を吐き出して椅子の背もたれに体を預けた。
「……褒めてくれてるってことでいいのか?」
「あ、虫がダメなんだしたっけ」
「は?」
「虫、苦手でしたよね」
確信を得たように頷くと、ジャミルは途端に嫌そうな顔をして、あからさまに視線を逸らした。
「……誰だって苦手なものはあるだろ」
「先輩ならこう……スタイリッシュに叩き落としたり、ハエ叩きを完璧に使いこなしたりしそうじゃないですか」
「お前は俺を何だと思っているんだ」
ジャミルは額に手を当てて小さく首を振る。
その仕草すら計算されたように綺麗だが、本人は至って大真面目に呆れているのがわかる。
「でも、本当に何でも合格点以上でこなしますよね。わたしなんて、この前も購買部で買い出しするときに頼まれたパンの数を間違えて、エースに笑われたばかりなのに」
「それはお前が単純に不注意なだけだろ」
「……耳が痛いです。でも、先輩はそういう『ちょっとしたドジ』とかもなさそうですよね。寝坊して髪が跳ねてるとか、服のボタンを掛け違えるとか」
「そんな隙のある姿を他人に晒せるか。特に……いや、何でもない。とにかく、自己管理の問題だ」
途中で言葉を濁したのは、きっと幼馴染の顔が浮かんだからだろう。
ジャミルは再びペンを握り直し、手元の書類に視線を落とした。
しかし、その耳がかすかにピクリと動いたのを見逃さなかった。
「もしかして今、誰かさんに見られたら格好悪いな、とか考えてました?」
「違う。早くその課題を終わらせろ。お前が手を動かさないから、ちっとも進まないだろうが」
「はーい。でも、先輩が一生懸命完璧を維持しようとしてるの、なんか人間らしくて安心します」
「……俺は最初から人間だ」
不機嫌そうに呟くジャミルの声は、いつもより少しだけ低く、それでいてどこか柔らかい響きを含んでいた。
西日はさらに傾き、部屋の隅に濃い影を落とし始める。
ジャミルは手際よく書類をまとめると、一つ息をついて立ち上がった。
「少し休憩にするか。喉が渇いただろ」
「やったー。ありがとうございます」
淹れてくれたのは、ほんのりとスパイスの香りが漂う温かいハーブティーだった。
その手際の良さを見るたびに、やはりこの人に隙などないのではないかと思ってしまう。
カップを受け取る際、指先がかすかに触れ合った。
ほんの一瞬の出来事だったが、ジャミルの手が思いのほか熱を持っていたことに驚く。
「熱いから気をつけろよ」
「あ、ありがとうございます……」
いつも通りの冷静な声。
けれど、ジャミルはカップを口元に運ぶと、熱さをごまかすように少し長めの沈黙を作った。
湯気の向こうで彼の視線がこちらをじっと見つめている。
「お前は、俺が何でもできるのがそんなに不思議か」
「不思議というか、純粋にすごいなって。わたしには真似できないことばかりですから」
「真似する必要なんてない。お前はお前で、そのままでいればいい」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、その言葉には嘘や飾りがなく、ストンと胸に落ちてくるような温かさがある。
そんな、どこか縮まりきらない二人の距離感が湯気の中に静かに溶けていくようだった。
「じゃあ、今度わたしがドジをしたら、ジャミル先輩が助けてくれますか?」
「……調子に乗るな。自分のことは自分でやれ」
そう言いながらも、ジャミルは小さく口元を緩めていた。
驚くほど優しい味わいのハーブティーは、冷えた指先をじんわりと温めていく。
淹れた本人はといえば、自分の分のカップを片手に持ち、窓の外へと視線を向けていた。
そこには夕闇が静かに忍び寄り、校舎の影を長く引き延ばしている。
「……でも、本当に自分で全部やっちゃうから、誰も先輩を助けようって思わないのかもしれませんね」
ふと、ハーブティーの温かさに気が緩んで、また余計な一言が口をついて出た。
ジャミルはカップを口元から離し、酷く冷淡な視線をこちらへ寄せる。
「助ける? 俺をか?」
「あ、いや、変な意味じゃなくて。何でも完璧にこなせるから、周りの人もジャミル先輩なら大丈夫って頼りきりになっちゃうのかなって。たまには誰かに甘えたり、丸投げしたりしたくならないのかな、と思っただけです」
「馬鹿馬鹿しい。丸投げした後に他人がやらかした不始末を、後から自分が被る羽目になるくらいなら、最初からすべて俺の管理下に置いておく方がよっぽど合理的だろうが」
一息に紡がれた言葉は、彼が日頃から抱いている本音そのもののようで少しだけ重い。
けれど、その頑なさがどこか危うく見えてしまうのは、こちらが普通の人間だからなのだろうか。
「合理的、ですか……。じゃあもし、本当にどうしようもないくらい大変なことが起きて、先輩の手が回らなくなったらどうするんですか?」
「そんな事態にならないように、常に先を読んで動いている。お前のように、行き当たりばったりで生きている人間と一緒にしないでくれ」
「う、それはそうですけど……。でも、予期せぬトラブルってあるじゃないですか。例えば、突然空から大量の虫が降ってくるとか」
「……お前、わざと言っているのか?」
ジャミルの声のトーンが目に見えて一段下がった。
その顔には明確な嫌悪感が浮かんでおり、やはり先ほどの「虫」というワードは相当な地雷だったらしい。
「あ、すみません。つい極端な例えを」
「極端すぎるし、悪趣味だ。二度とその不快な仮定を口にするな」
「はーい。でも、本当に虫が苦手なんですね。あんなに強くて格好いい先輩なのに、なんだか可愛いところもあるんだなって」
「可愛い、だと?」
ジャミルの眉が跳ね上がる。
その表情は怒りというよりも、想定外の単語を投げつけられたことに対する純粋な困惑に近いようだった。
「誰に向かってそんな口を利いている。仮にも先輩だぞ」
「わかってますよ、ジャミル先輩。でも、完璧な人が見せるちょっとした苦手分野って、親近感が湧くじゃないですか。わたし、先輩との距離がちょっと縮まった気がして、実はちょっと嬉しいんです」
そう言って笑ってみせると、ジャミルは完全に毒気を抜かれたように、ふいと顔を背けた。
夕暮れの赤い光のせいか、彼の耳のあたりが少しだけ色づいているように見えるのは、きっと気のせいではないはずだ。
「……お前は、本当に緊張感のない奴だな。俺の周りには、そんな風に気安く踏み込んでくる奴はいない」
「カリム先輩とか結構踏み込んできてる気がしますけどね。わたしは、ただのドジで普通の生徒ですから。先輩の凄さに圧倒されつつも、こうして普通にお話しできるのが楽しいんです」
ジャミルは何も言わず、ただ手元のハーブティーをゆっくりと飲み干した。
カップが机に置かれる、小さなコツンという音が響く。
彼は再びこちらを真っ直ぐに見つめ直した。
その瞳の奥には、いつも周囲を警戒している時のような鋭さはなく、どこか穏やかな光が宿っている。
「楽しい、か。お前といると調子が狂うのは確かだ。普段なら絶対に言わないような無駄口を叩いている自覚はある」
「それって、少しはリラックスできてるってことですか?」
「さあな。お前のあまりの計画性のなさに、呆れて頭のネジが緩んでいるだけかもしれない」
「ひどいなぁ。これでも一生懸命課題をやってるんですよ?」
「手元が止まっている奴が言うセリフじゃない。ほら、休憩は終わりだ。さっさとペンを握れ」
ジャミルは自分のカップを片付けると、こちらの机の上をトントンと指先で叩いた。催促の合図だ。
「はーい。……あ、この部分の計算、やっぱりちょっと自信がないんですけど、教えてもらえますか?」
「どこだ。……あぁ、ここはさっき説明した法則をそのまま当てはめればいい。ほら、ここにこの数値を代入して……」
ジャミルが少しだけ身を乗り出し、手元の書類を覗き込んでくる。
彼の髪がわずかに揺れ、微かに香る何かが鼻腔をくすぐったが、それが何の匂いなのかを深く考える前に、彼の明晰な解説が耳に飛び込んできた。
相変わらず教え方は完璧で、どれだけこちらの頭が追いついていなかろうが、噛み砕いて説明してくれる。
「……なるほど、わかりました! さすがジャミル先輩」
「納得したらすぐに書け。忘れないうちに、な」
「はい!」
ペンを走らせる音が再び部屋の中に響き始める。
外はもう完全に夜の帳が下りようとしていた。
結局、二人の間には世間一般で言うような「甘い雰囲気」なんてものは一滴も生まれなかった。
手と手が触れ合っても、目が合っても、そこにあるのは至って健全で、どこか凸凹な関係性のまま。
しかしジャミルの口元に時折浮かぶ、皮肉ではない本物の小さな笑みを見られただけで、今日の放課後は十分に価値があったのだと思う。
「よし、これで終わりです!」
「……よくやった。予定時間を大幅に過ぎているがな。ほら、片付けて帰るぞ」
ジャミルは立ち上がり制服を整えた。
その背中を追いかけながら、きっと明日もまた、彼のできないことを探しては呆れられるのだろうなと、少しだけ先の未来を想像して小さく笑った。
ふと思いついた疑問が、そのまま口をついて出た。
しかしジャミルは動かしていたペンを止めることもなく、ただ淡々と手元の書類に文字を書き込み続けている。
「……ジャミル先輩、聞いてます?」
「お前が突拍子もないことを言い出すのはいつものことだが、いちいち付き合ってやるほど俺は暇じゃない」
ペンを走らせたまま低く冷ややかな声が返ってくる。
「いやだって、文武両道で料理もできて歌もうまくて、人の顔と名前覚えるのも得意じゃないですか。気にならない方が無理ですよ」
指を折り数えながら並べ立てると、そこでようやくジャミルはペンをぴたりと止め、呆れたように息を吐き出して椅子の背もたれに体を預けた。
「……褒めてくれてるってことでいいのか?」
「あ、虫がダメなんだしたっけ」
「は?」
「虫、苦手でしたよね」
確信を得たように頷くと、ジャミルは途端に嫌そうな顔をして、あからさまに視線を逸らした。
「……誰だって苦手なものはあるだろ」
「先輩ならこう……スタイリッシュに叩き落としたり、ハエ叩きを完璧に使いこなしたりしそうじゃないですか」
「お前は俺を何だと思っているんだ」
ジャミルは額に手を当てて小さく首を振る。
その仕草すら計算されたように綺麗だが、本人は至って大真面目に呆れているのがわかる。
「でも、本当に何でも合格点以上でこなしますよね。わたしなんて、この前も購買部で買い出しするときに頼まれたパンの数を間違えて、エースに笑われたばかりなのに」
「それはお前が単純に不注意なだけだろ」
「……耳が痛いです。でも、先輩はそういう『ちょっとしたドジ』とかもなさそうですよね。寝坊して髪が跳ねてるとか、服のボタンを掛け違えるとか」
「そんな隙のある姿を他人に晒せるか。特に……いや、何でもない。とにかく、自己管理の問題だ」
途中で言葉を濁したのは、きっと幼馴染の顔が浮かんだからだろう。
ジャミルは再びペンを握り直し、手元の書類に視線を落とした。
しかし、その耳がかすかにピクリと動いたのを見逃さなかった。
「もしかして今、誰かさんに見られたら格好悪いな、とか考えてました?」
「違う。早くその課題を終わらせろ。お前が手を動かさないから、ちっとも進まないだろうが」
「はーい。でも、先輩が一生懸命完璧を維持しようとしてるの、なんか人間らしくて安心します」
「……俺は最初から人間だ」
不機嫌そうに呟くジャミルの声は、いつもより少しだけ低く、それでいてどこか柔らかい響きを含んでいた。
西日はさらに傾き、部屋の隅に濃い影を落とし始める。
ジャミルは手際よく書類をまとめると、一つ息をついて立ち上がった。
「少し休憩にするか。喉が渇いただろ」
「やったー。ありがとうございます」
淹れてくれたのは、ほんのりとスパイスの香りが漂う温かいハーブティーだった。
その手際の良さを見るたびに、やはりこの人に隙などないのではないかと思ってしまう。
カップを受け取る際、指先がかすかに触れ合った。
ほんの一瞬の出来事だったが、ジャミルの手が思いのほか熱を持っていたことに驚く。
「熱いから気をつけろよ」
「あ、ありがとうございます……」
いつも通りの冷静な声。
けれど、ジャミルはカップを口元に運ぶと、熱さをごまかすように少し長めの沈黙を作った。
湯気の向こうで彼の視線がこちらをじっと見つめている。
「お前は、俺が何でもできるのがそんなに不思議か」
「不思議というか、純粋にすごいなって。わたしには真似できないことばかりですから」
「真似する必要なんてない。お前はお前で、そのままでいればいい」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、その言葉には嘘や飾りがなく、ストンと胸に落ちてくるような温かさがある。
そんな、どこか縮まりきらない二人の距離感が湯気の中に静かに溶けていくようだった。
「じゃあ、今度わたしがドジをしたら、ジャミル先輩が助けてくれますか?」
「……調子に乗るな。自分のことは自分でやれ」
そう言いながらも、ジャミルは小さく口元を緩めていた。
驚くほど優しい味わいのハーブティーは、冷えた指先をじんわりと温めていく。
淹れた本人はといえば、自分の分のカップを片手に持ち、窓の外へと視線を向けていた。
そこには夕闇が静かに忍び寄り、校舎の影を長く引き延ばしている。
「……でも、本当に自分で全部やっちゃうから、誰も先輩を助けようって思わないのかもしれませんね」
ふと、ハーブティーの温かさに気が緩んで、また余計な一言が口をついて出た。
ジャミルはカップを口元から離し、酷く冷淡な視線をこちらへ寄せる。
「助ける? 俺をか?」
「あ、いや、変な意味じゃなくて。何でも完璧にこなせるから、周りの人もジャミル先輩なら大丈夫って頼りきりになっちゃうのかなって。たまには誰かに甘えたり、丸投げしたりしたくならないのかな、と思っただけです」
「馬鹿馬鹿しい。丸投げした後に他人がやらかした不始末を、後から自分が被る羽目になるくらいなら、最初からすべて俺の管理下に置いておく方がよっぽど合理的だろうが」
一息に紡がれた言葉は、彼が日頃から抱いている本音そのもののようで少しだけ重い。
けれど、その頑なさがどこか危うく見えてしまうのは、こちらが普通の人間だからなのだろうか。
「合理的、ですか……。じゃあもし、本当にどうしようもないくらい大変なことが起きて、先輩の手が回らなくなったらどうするんですか?」
「そんな事態にならないように、常に先を読んで動いている。お前のように、行き当たりばったりで生きている人間と一緒にしないでくれ」
「う、それはそうですけど……。でも、予期せぬトラブルってあるじゃないですか。例えば、突然空から大量の虫が降ってくるとか」
「……お前、わざと言っているのか?」
ジャミルの声のトーンが目に見えて一段下がった。
その顔には明確な嫌悪感が浮かんでおり、やはり先ほどの「虫」というワードは相当な地雷だったらしい。
「あ、すみません。つい極端な例えを」
「極端すぎるし、悪趣味だ。二度とその不快な仮定を口にするな」
「はーい。でも、本当に虫が苦手なんですね。あんなに強くて格好いい先輩なのに、なんだか可愛いところもあるんだなって」
「可愛い、だと?」
ジャミルの眉が跳ね上がる。
その表情は怒りというよりも、想定外の単語を投げつけられたことに対する純粋な困惑に近いようだった。
「誰に向かってそんな口を利いている。仮にも先輩だぞ」
「わかってますよ、ジャミル先輩。でも、完璧な人が見せるちょっとした苦手分野って、親近感が湧くじゃないですか。わたし、先輩との距離がちょっと縮まった気がして、実はちょっと嬉しいんです」
そう言って笑ってみせると、ジャミルは完全に毒気を抜かれたように、ふいと顔を背けた。
夕暮れの赤い光のせいか、彼の耳のあたりが少しだけ色づいているように見えるのは、きっと気のせいではないはずだ。
「……お前は、本当に緊張感のない奴だな。俺の周りには、そんな風に気安く踏み込んでくる奴はいない」
「カリム先輩とか結構踏み込んできてる気がしますけどね。わたしは、ただのドジで普通の生徒ですから。先輩の凄さに圧倒されつつも、こうして普通にお話しできるのが楽しいんです」
ジャミルは何も言わず、ただ手元のハーブティーをゆっくりと飲み干した。
カップが机に置かれる、小さなコツンという音が響く。
彼は再びこちらを真っ直ぐに見つめ直した。
その瞳の奥には、いつも周囲を警戒している時のような鋭さはなく、どこか穏やかな光が宿っている。
「楽しい、か。お前といると調子が狂うのは確かだ。普段なら絶対に言わないような無駄口を叩いている自覚はある」
「それって、少しはリラックスできてるってことですか?」
「さあな。お前のあまりの計画性のなさに、呆れて頭のネジが緩んでいるだけかもしれない」
「ひどいなぁ。これでも一生懸命課題をやってるんですよ?」
「手元が止まっている奴が言うセリフじゃない。ほら、休憩は終わりだ。さっさとペンを握れ」
ジャミルは自分のカップを片付けると、こちらの机の上をトントンと指先で叩いた。催促の合図だ。
「はーい。……あ、この部分の計算、やっぱりちょっと自信がないんですけど、教えてもらえますか?」
「どこだ。……あぁ、ここはさっき説明した法則をそのまま当てはめればいい。ほら、ここにこの数値を代入して……」
ジャミルが少しだけ身を乗り出し、手元の書類を覗き込んでくる。
彼の髪がわずかに揺れ、微かに香る何かが鼻腔をくすぐったが、それが何の匂いなのかを深く考える前に、彼の明晰な解説が耳に飛び込んできた。
相変わらず教え方は完璧で、どれだけこちらの頭が追いついていなかろうが、噛み砕いて説明してくれる。
「……なるほど、わかりました! さすがジャミル先輩」
「納得したらすぐに書け。忘れないうちに、な」
「はい!」
ペンを走らせる音が再び部屋の中に響き始める。
外はもう完全に夜の帳が下りようとしていた。
結局、二人の間には世間一般で言うような「甘い雰囲気」なんてものは一滴も生まれなかった。
手と手が触れ合っても、目が合っても、そこにあるのは至って健全で、どこか凸凹な関係性のまま。
しかしジャミルの口元に時折浮かぶ、皮肉ではない本物の小さな笑みを見られただけで、今日の放課後は十分に価値があったのだと思う。
「よし、これで終わりです!」
「……よくやった。予定時間を大幅に過ぎているがな。ほら、片付けて帰るぞ」
ジャミルは立ち上がり制服を整えた。
その背中を追いかけながら、きっと明日もまた、彼のできないことを探しては呆れられるのだろうなと、少しだけ先の未来を想像して小さく笑った。
