ハーツラビュル
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「リドル先輩」
「なんだい、ななし」
リドルは書類から目を離さないまま、硬質な声で応じた。
「この部分の解釈なんですけれど。魔法属性の相関について、少し分かりづらくて」
リドルは椅子の背もたれに預けていた体を起こす。
振り返ったその顔には、いつもの厳格な寮長としての表情が張り付いていた。
「どれ見せてごらん。……あぁ、ここは翻訳の段階でニュアンスが歪んでいるんだ。本来のテキストでは火と水の対立ではなく、循環として捉えるべきなんだよ」
「すみません。どうしても頭の中でこんがらがってしまって」
「謝る必要はないさ。分からないところをそのままにしない姿勢は評価する」
リドルは手元にあったメモ用紙に流麗な文字で要点を書き写していく。
その様子をじっと見つめていたななしは、ペンを持つ彼の白い指先に視線を落とした。
付き合い始めたのは一ヶ月前のことだった。
彼を支えたいと伝えたあの日、リドルはひどく真面目な顔をして「ボクがキミの特別な存在になることを許可する」と言った。
しかし、それからの二人の関係は傍から見れば以前と何一つ変わっていない。
放課後にこうして勉強を見る時間も、お茶会の席での会話も、すべてが従前の規律の延長線上にあった。
「リドル先輩は、冷たいわけではないんですよね」
ぽつりと言葉が零れた。
リドルが怪訝そうに眉を寄せる。
「唐突に何を言い出すんだい。ルールに則っている限り、ボクが理不尽に怒ることはないはずだが」
「違います。そうじゃなくて……なんでもないです」
ななしが小さく首を振るとリドルはそれ以上追及することをせず、手元に視線を戻した。
「ならいいけれど。お茶会の準備の時間が迫っている。今日はここまでにしよう」
立ち上がったリドルの背中は小さく、しかし誰も寄せ付けないような頑なな気高さを纏っている。
彼は一度も振り返ることなく、談話室の扉を開けて去っていった。
◇
夕食後のハーツラビュル寮はいつも騒がしい。
エースとデュースの言い争う声が廊下から聞こえ、ケイトがそれを取りなすような軽い声を上げている。
その騒音から少し離れた中庭のベンチにリドルは一人で座っていた。
夜風が彼の短い髪を揺らす。
手元には寮生から提出された翌週のスケジュール表が握られていた。
「リドル先輩、ここにいらしたんですね」
ハーブティーの入ったカップを二つ持ったななしが、芝生を踏みしめて近づいてくる。
「ななしか。どうしてボクの場所が分かったんだい」
「なんとなく、ここかなと思いまして。冷えてきたので、これどうぞ」
差し出されたカップをリドルは迷うように見つめた後、そっと受け取った。
温かい湯気が二人の間に立ち上る。
「……ありがとう。来週の予算案についての的外れな書類に頭痛がしていたところだった」
「お疲れ様です。いつもリドル先輩が細かく見てくれるから、みんな安心して過ごせるんですよ」
ななしの言葉にリドルはカップを見つめたまま、自嘲気味に口元を歪めた。
「安心、か。ボクから規律を取り上げたら、一体何が残るというんだい」
「そんなこと――」
「事実だよ。ボクは完璧でなければならない。キミだって、ボクが成績優秀で正しい判断を下せるから頼りにしてくれているのだろう?」
リドルの声は静かだった。
怒っているわけでも、拗ねているわけでもない。
ただ、それが世界の絶対的な法則であると信じ込んでいるような、淡々とした響きがあった。
ななしはリドルの手のすぐ隣に自分の手を置いた。
触れるか触れないかの距離で彼の体温が微かに伝わってくる。
「わたしは、リドル先輩が完璧だから一緒にいるわけじゃありません」
「……都合のいい言葉だね。だが、成果を出せない人間に価値はない」
リドルはカップを口元に運び、一口飲み込んだ。
その喉の動きがひどく張り詰めているように見えた。
「キミがボクの傍にいてくれるのも、ボクに提供できる正しさや利益があるからだ。違うかい?」
真っ直ぐに向けられたその瞳には疑いや悪意ではなく、深い諦念だけが宿っていた。
他者から無条件に愛されるという概念そのものが、彼の方程式には存在しないのだ。
ななしはリドルの指先にそっと触れた。
驚いたように、リドルの指がぴくりと跳ねる。
「リドル先輩、手を繋いでもいいですか」
「……何を言っているんだい。こんな外で、誰が見ているかも分からないのに――」
「誰も見ていませんよ」
ななしはそのままリドルの冷えた手を包み込むように握った。
リドルの肌は驚くほど滑らかで、そして微かに震えていた。
「な、何を……」
リドルは拒絶するように手を引こうとはしなかった。
ただ固まったようにななしの手を見つめている。
彼の顔が夜の闇の中でも分かるほどに、じわじわと赤く染まっていく。
「温かい、でしょう?」
「それは……キミの体温が、移っているからだろう」
「そうです。こうして触れていると、あったかいんです。わたしがリドル先輩の傍にいたいのは、こうして一緒にいると安心するから。理由なんて、それだけで十分なんです」
リドルの息が微かに止まる。
彼は握られた自分の手と、ななしの顔を何度も往復するように見つめた。
その胸の内で処理しきれない感情が激しく渦巻いているのが、繋いだ手を通じて伝わってくるようだった。
「理由がないなんて、そんな不確かなもので人が繋がっていられるはずがない……」
そう呟くリドルの声は、どこか泣き出しそうなほどに震えていた。
中庭の草木を揺らす夜風が、二人の間に落ちた沈黙をさらっていく。
リドルの指先はまだ微かに震えていた。
握りしめられたななしの手のひらから流れ込んでくる確かな熱量。
それが彼の張り巡らせていた思考の城壁をじわじわと侵食していく。
「ボクは、完璧なスケジュールをこなし、義務を果たしているからこそ存在を認められるんだ。そうでなければ、みんなボクから離れていく……」
リドルの胸の奥で、長い間澱のように溜まっていた怯えが、熱を帯びて指先から溢れ出していく。
「リドル先輩」
ななしは手をそっとリドルの頬に添えた。
ひりつくような緊張感の中で、触れ合っている肌の感覚だけが異常なほど濃密に伝わってくる。
彼の肌は熱く、しかしどこか冷たい夜風を吸い込んで硬くなっていた。
「……っ」
突然の感触にリドルの小さな肩が大きく跳ねる。
「リドル先輩は、自分がみんなから大切にされてる自覚が本当にないんですね」
「……っ、そんなことは……ボクは寮長として、それなりの敬意は払われているはずだ」
必死に言葉を返そうとするリドルの唇が、小さく震えている。
ななしは首を横に振って、その頑なな視線をまっすぐに受け止めた。
「そういう義務の話じゃありません。エースもデュースも、トレイ先輩もケイト先輩も、みんな先輩自身が大切だからここにいるんです。リドル先輩は……もっと、自分のことも愛してあげてください」
「自分を、愛する……?」
リドルは呆然と呟いた。
その言葉は彼のこれまでの人生の辞書には一度も載ったことのない、あまりにも見当違いの数式のように響いた。
「そんなこと、規律の弛緩に繋がるだけだ。ボクが完璧でなくなったら、誰がボクを――」
「わたしがいます」
ななしの声は、静かだけれど確かな重量を持ってリドルの胸に突き刺さった。
「規律も正しさも先輩の一部です。でも、わたしが好きなのは、その全部を抱えているリドル先輩なんです。隣にいたい理由なんて、それだけでいいんですよ」
愛おしいという言葉が耳に届いた瞬間、リドルの内側で何かが決定的に瓦解した。
頭の中でこれまで自分を縛り付けていた数々の教訓やルールが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
代わりに胸を満たしたのは、経験したことのない息が詰まるほどの甘い苦しさだった。
リドルはゆっくりと顔を上げ、ようやくななしの目を正面から見つめた。
その瞳は言葉にできない困惑と、ほんの少しの期待に揺れている。
「本当に……ボクが間違えても、満点を取れなくても、見捨てたりしないと約束できるかい?」
「約束します。何度でも言いますよ」
ななしが微笑むと、リドルは限界を迎えたように視線を落とし、そのまま頭をななしの肩口へと預けてきた。
小さな額が鎖骨のあたりに当たり、彼の少し速い呼吸が直接肌に伝わってくる。
「……ずるいよ、キミは」
リドルの声は衣服に遮られて小さく籠もっていた。
「そんな風に無条件に肯定されたら、ボクは……どうしていいか分からなくなる」
「頑張ってきたリドル先輩だから、わたしは好きになったんですから」
ななしがリドルの背中にそっと手を回すと、彼は小さく身を震わせた後、諦めたようにその背中に自分の手を回し強く抱きしめ返してきた。
その力強さは、彼がどれほどこの温もりを求めていたか、どれほど誰かに縋りたかったかを物語っていた。
理由のない愛という、彼にとって最も未知で最も恐ろしい、けれど一番欲しかったものが今、確かに彼の腕の中にあった。
夜の帳が完全に下りたハーツラビュルの中庭で、二人はしばらく互いの脈動を確かめ合うように重なり合っていた。
リドルはまだ、他者からの愛を受け入れる方程式を完全には理解していないかもしれない。
それでもこの胸の痛いほどの熱さが、その第一歩であることだけは彼の聡明な頭脳ではなく本能が確かに理解していた。
「なんだい、ななし」
リドルは書類から目を離さないまま、硬質な声で応じた。
「この部分の解釈なんですけれど。魔法属性の相関について、少し分かりづらくて」
リドルは椅子の背もたれに預けていた体を起こす。
振り返ったその顔には、いつもの厳格な寮長としての表情が張り付いていた。
「どれ見せてごらん。……あぁ、ここは翻訳の段階でニュアンスが歪んでいるんだ。本来のテキストでは火と水の対立ではなく、循環として捉えるべきなんだよ」
「すみません。どうしても頭の中でこんがらがってしまって」
「謝る必要はないさ。分からないところをそのままにしない姿勢は評価する」
リドルは手元にあったメモ用紙に流麗な文字で要点を書き写していく。
その様子をじっと見つめていたななしは、ペンを持つ彼の白い指先に視線を落とした。
付き合い始めたのは一ヶ月前のことだった。
彼を支えたいと伝えたあの日、リドルはひどく真面目な顔をして「ボクがキミの特別な存在になることを許可する」と言った。
しかし、それからの二人の関係は傍から見れば以前と何一つ変わっていない。
放課後にこうして勉強を見る時間も、お茶会の席での会話も、すべてが従前の規律の延長線上にあった。
「リドル先輩は、冷たいわけではないんですよね」
ぽつりと言葉が零れた。
リドルが怪訝そうに眉を寄せる。
「唐突に何を言い出すんだい。ルールに則っている限り、ボクが理不尽に怒ることはないはずだが」
「違います。そうじゃなくて……なんでもないです」
ななしが小さく首を振るとリドルはそれ以上追及することをせず、手元に視線を戻した。
「ならいいけれど。お茶会の準備の時間が迫っている。今日はここまでにしよう」
立ち上がったリドルの背中は小さく、しかし誰も寄せ付けないような頑なな気高さを纏っている。
彼は一度も振り返ることなく、談話室の扉を開けて去っていった。
◇
夕食後のハーツラビュル寮はいつも騒がしい。
エースとデュースの言い争う声が廊下から聞こえ、ケイトがそれを取りなすような軽い声を上げている。
その騒音から少し離れた中庭のベンチにリドルは一人で座っていた。
夜風が彼の短い髪を揺らす。
手元には寮生から提出された翌週のスケジュール表が握られていた。
「リドル先輩、ここにいらしたんですね」
ハーブティーの入ったカップを二つ持ったななしが、芝生を踏みしめて近づいてくる。
「ななしか。どうしてボクの場所が分かったんだい」
「なんとなく、ここかなと思いまして。冷えてきたので、これどうぞ」
差し出されたカップをリドルは迷うように見つめた後、そっと受け取った。
温かい湯気が二人の間に立ち上る。
「……ありがとう。来週の予算案についての的外れな書類に頭痛がしていたところだった」
「お疲れ様です。いつもリドル先輩が細かく見てくれるから、みんな安心して過ごせるんですよ」
ななしの言葉にリドルはカップを見つめたまま、自嘲気味に口元を歪めた。
「安心、か。ボクから規律を取り上げたら、一体何が残るというんだい」
「そんなこと――」
「事実だよ。ボクは完璧でなければならない。キミだって、ボクが成績優秀で正しい判断を下せるから頼りにしてくれているのだろう?」
リドルの声は静かだった。
怒っているわけでも、拗ねているわけでもない。
ただ、それが世界の絶対的な法則であると信じ込んでいるような、淡々とした響きがあった。
ななしはリドルの手のすぐ隣に自分の手を置いた。
触れるか触れないかの距離で彼の体温が微かに伝わってくる。
「わたしは、リドル先輩が完璧だから一緒にいるわけじゃありません」
「……都合のいい言葉だね。だが、成果を出せない人間に価値はない」
リドルはカップを口元に運び、一口飲み込んだ。
その喉の動きがひどく張り詰めているように見えた。
「キミがボクの傍にいてくれるのも、ボクに提供できる正しさや利益があるからだ。違うかい?」
真っ直ぐに向けられたその瞳には疑いや悪意ではなく、深い諦念だけが宿っていた。
他者から無条件に愛されるという概念そのものが、彼の方程式には存在しないのだ。
ななしはリドルの指先にそっと触れた。
驚いたように、リドルの指がぴくりと跳ねる。
「リドル先輩、手を繋いでもいいですか」
「……何を言っているんだい。こんな外で、誰が見ているかも分からないのに――」
「誰も見ていませんよ」
ななしはそのままリドルの冷えた手を包み込むように握った。
リドルの肌は驚くほど滑らかで、そして微かに震えていた。
「な、何を……」
リドルは拒絶するように手を引こうとはしなかった。
ただ固まったようにななしの手を見つめている。
彼の顔が夜の闇の中でも分かるほどに、じわじわと赤く染まっていく。
「温かい、でしょう?」
「それは……キミの体温が、移っているからだろう」
「そうです。こうして触れていると、あったかいんです。わたしがリドル先輩の傍にいたいのは、こうして一緒にいると安心するから。理由なんて、それだけで十分なんです」
リドルの息が微かに止まる。
彼は握られた自分の手と、ななしの顔を何度も往復するように見つめた。
その胸の内で処理しきれない感情が激しく渦巻いているのが、繋いだ手を通じて伝わってくるようだった。
「理由がないなんて、そんな不確かなもので人が繋がっていられるはずがない……」
そう呟くリドルの声は、どこか泣き出しそうなほどに震えていた。
中庭の草木を揺らす夜風が、二人の間に落ちた沈黙をさらっていく。
リドルの指先はまだ微かに震えていた。
握りしめられたななしの手のひらから流れ込んでくる確かな熱量。
それが彼の張り巡らせていた思考の城壁をじわじわと侵食していく。
「ボクは、完璧なスケジュールをこなし、義務を果たしているからこそ存在を認められるんだ。そうでなければ、みんなボクから離れていく……」
リドルの胸の奥で、長い間澱のように溜まっていた怯えが、熱を帯びて指先から溢れ出していく。
「リドル先輩」
ななしは手をそっとリドルの頬に添えた。
ひりつくような緊張感の中で、触れ合っている肌の感覚だけが異常なほど濃密に伝わってくる。
彼の肌は熱く、しかしどこか冷たい夜風を吸い込んで硬くなっていた。
「……っ」
突然の感触にリドルの小さな肩が大きく跳ねる。
「リドル先輩は、自分がみんなから大切にされてる自覚が本当にないんですね」
「……っ、そんなことは……ボクは寮長として、それなりの敬意は払われているはずだ」
必死に言葉を返そうとするリドルの唇が、小さく震えている。
ななしは首を横に振って、その頑なな視線をまっすぐに受け止めた。
「そういう義務の話じゃありません。エースもデュースも、トレイ先輩もケイト先輩も、みんな先輩自身が大切だからここにいるんです。リドル先輩は……もっと、自分のことも愛してあげてください」
「自分を、愛する……?」
リドルは呆然と呟いた。
その言葉は彼のこれまでの人生の辞書には一度も載ったことのない、あまりにも見当違いの数式のように響いた。
「そんなこと、規律の弛緩に繋がるだけだ。ボクが完璧でなくなったら、誰がボクを――」
「わたしがいます」
ななしの声は、静かだけれど確かな重量を持ってリドルの胸に突き刺さった。
「規律も正しさも先輩の一部です。でも、わたしが好きなのは、その全部を抱えているリドル先輩なんです。隣にいたい理由なんて、それだけでいいんですよ」
愛おしいという言葉が耳に届いた瞬間、リドルの内側で何かが決定的に瓦解した。
頭の中でこれまで自分を縛り付けていた数々の教訓やルールが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
代わりに胸を満たしたのは、経験したことのない息が詰まるほどの甘い苦しさだった。
リドルはゆっくりと顔を上げ、ようやくななしの目を正面から見つめた。
その瞳は言葉にできない困惑と、ほんの少しの期待に揺れている。
「本当に……ボクが間違えても、満点を取れなくても、見捨てたりしないと約束できるかい?」
「約束します。何度でも言いますよ」
ななしが微笑むと、リドルは限界を迎えたように視線を落とし、そのまま頭をななしの肩口へと預けてきた。
小さな額が鎖骨のあたりに当たり、彼の少し速い呼吸が直接肌に伝わってくる。
「……ずるいよ、キミは」
リドルの声は衣服に遮られて小さく籠もっていた。
「そんな風に無条件に肯定されたら、ボクは……どうしていいか分からなくなる」
「頑張ってきたリドル先輩だから、わたしは好きになったんですから」
ななしがリドルの背中にそっと手を回すと、彼は小さく身を震わせた後、諦めたようにその背中に自分の手を回し強く抱きしめ返してきた。
その力強さは、彼がどれほどこの温もりを求めていたか、どれほど誰かに縋りたかったかを物語っていた。
理由のない愛という、彼にとって最も未知で最も恐ろしい、けれど一番欲しかったものが今、確かに彼の腕の中にあった。
夜の帳が完全に下りたハーツラビュルの中庭で、二人はしばらく互いの脈動を確かめ合うように重なり合っていた。
リドルはまだ、他者からの愛を受け入れる方程式を完全には理解していないかもしれない。
それでもこの胸の痛いほどの熱さが、その第一歩であることだけは彼の聡明な頭脳ではなく本能が確かに理解していた。
