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雨がコンクリートを叩く音が、路地裏の静寂を塗りつぶしていた。
薄暗いカフェの軒下で、コートの襟を立てて雨宿りをする。
濡れた髪が頬に張り付き、冷たい雫が首筋を伝う。
最悪のタイミングでの夕立だった。
「――おい。そんなところで何をもたついている」
低く、聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げると白と黒の髪、そして豪奢な毛皮のコートが目に飛び込んでくる。
「クルーウェル、先生……?」
デイヴィス・クルーウェルは、手にしていた傘を少し傾け、怪訝そうに眉をひそめた。
ナイトレイブンカレッジを卒業して数年。
まさかこんな街の片隅で、かつての恩師と遭遇するとは思ってもみなかった。
「卒業して多少は知恵がついたかと思えば、傘も持たずにうろついているのか。相変わらず出来の悪い仔犬だ」
「先生こそ、どうしてここに?」
「用件をいちいちお前に報告せねばならん義理はない。……チッ、ちょっとついて来い」
クルーウェルは短く舌打ちをすると、有無を言わせぬ足取りで歩き出した。
差し出された傘の影に慌てて滑り込む。
並んで歩くと、傘の中に閉じ込められた狭い空間から、微かに彼がいつも身にまとっていた香りが漂ってきた。
懐かしさと、それ以上の男としての彼を間近に感じる心臓の跳ね上がりに喉の奥が熱くなる。
「あの、どこに行くんですか?」
「お前をそのまま放置して、風邪でも引かれたら寝覚めが悪い。黙って歩け」
連れて行かれたのは、大通りから一本入った場所にある静かな喫茶店だった。
重厚な木製のドアを開けると、カウンターの奥から初老のマスターが静かに一礼する。
クルーウェルは慣れた仕草でコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。
その優雅さは学生時代と何一つ変わっていない。
それどころか教壇というフィルターが外れた分、仕立ての良いスーツに包まれた一人の男としての圧倒的な存在感が、容赦なくこちらの視界を占領してくる。
「座れ。温かいものでも腹に入れろ」
「ありがとうございます……」
勧められるままカウンターの端の席につくと、すぐに温かいシナモンティーが差し出された。
カップから立ち上る湯気が、冷え切った指先をじんわりと解かしていく。
クルーウェルは隣の席に腰掛け、コーヒーカップを傾けた。
「で、今は何をしている。魔法薬学の基礎くらいは、まだ頭に残っているだろうな」
「一応、調合関係の仕事に就いています。先生の課題のおかげで、徹夜には耐性がありましたから」
「すぐに音を上げるかと思っていたが、意外としぶといな。あの頃の泣き言はどこへやった」
「ひどい言い草ですね。わたしだって、いつまでも先生に叱られていた生徒のままじゃないです」
「口の減らないところだけは成長したようだな、ななし」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥底に沈めていた記憶が一気に表面まで浮かび上がってきた。
教鞭で机を叩く音。
すべてを見透かすような鋭い眼差し。
「ステイ」と命じられるたびに、悔しさと、それ以上に彼に特別に扱われたいと願っていたあの頃の痛いほどの熱。
それは紛れもなく、恋と呼ばれる類の感情だった。
「先生は、相変わらず学校で教鞭を振るっているんですか?」
「ああ、今年も骨の折れる新入生ばかりでな。お前たちの代が、いくらかマシに見えるほどだ」
「それ、褒め言葉として受け取っておきます」
「勝手に解釈しろ」
クルーウェルは呆れたように息を吐きながらも、コーヒーを口に運ぶ。
コーヒーカップの縁に触れる薄い唇や、綺麗に整えられた指先。
そのすべてが学生時代よりもずっと近くにあって、目が離せなくなる。
肩が触れ合いそうなほどの距離が酷くもどかしく、そして恐ろしかった。
テンポの速い会話の裏で、お互いの視線が時折、ガラス越しのように交差する。
外の雨音は、いつの間にか遠くのノイズのように消え去っていた。
狭い空間の中で、互いの呼吸の音と、衣服が擦れる微かな音だけが、やけに明瞭に響いているような錯覚に陥る。
「……まだ、髪が濡れているな」
不意にクルーウェルの手がこちらへ伸びてきた。
指先が濡れて束になった髪を軽く掬い上げる。
触れられた頭皮からゾクりとした熱が背筋を駆け抜けた。
彼の指は驚くほど熱く、そして毛並みを整えるように繊細に髪を解いていく。
「あ、自分で拭きますから」
「動くな。毛並みの手入れもできんのか、お前は。……じっとしていろ」
低い声が、すぐ耳元で鼓膜を震わせる。
優れた魔法士である彼なら、この程度の水濡れなど一瞬で乾かせるはずだった。
それなのに、彼はあえて魔法を使おうとはしない。
懐から取り出した清潔なハンカチで、私の髪を丁寧に慈しむように手作業で拭き取っていく。
その行為が意味する贅沢さと、直接触れ合っている時間の長さに気づいてしまい、胸が引き裂かれそうなほど高鳴る。
彼の指先が耳の裏や首筋に微かに触れるたび肌が粟立ち、熱がそこに集まっていくのが分かった。
心臓の音がうるさくて、彼に聞こえてしまうのではないかと息を詰める。
「先生……」
「なんだ」
「わたし…もう、子供じゃないです」
ハンカチを動かす手が、ぴたりと止まった。
至近距離でクルーウェルの視線がじっとこちらを射抜く。
その眼差しに含まれる熱量が、先ほどまでとは明らかに変わっていた。
教師が教え子を見るそれではなく、もっと深く暗い、一人の男としての独占欲のようなものが、その奥で静かに揺らめいている。
「そうだな……」
クルーウェルは低く呟き、ゆっくりと手を引いた。
ハンカチをポケットに収める彼の動作はどこか冷徹で、同時に私を値踏みするようで酷く扇情的だった。
雨の冷たさなど、もうどこにも残っていなかった。
「なら、その言葉に責任を持て。お前が勝手に俺の前に現れて、踏み込んできたんだ、ななし」
その声に含まれた大人の色気に喉の奥が乾くのを感じた。
会話のテンポは緩やかになり、代わりに言葉にできない重みが二人の間に満ちていく。
互いの距離はあと数センチメートル。
差し出された彼の熱を掴むべきか、それとも拒むべきか。
答えを出す前に、クルーウェルはコーヒーを飲み干し、カップを小さく鳴らした。
「次は、いつ空いている」
ぶっきらぼうに投げかけられたその言葉が、過去の関係には戻れないことを決定づけたように感じた。
「……来週の、同じ時間なら」
絞り出すように答えると、クルーウェルは満足げに口元を僅かに緩めた。
しかし、すぐにいつもの冷徹な表情に戻り、カウンターに何枚かの紙幣を置く。
「決まりだ。おい、仔犬。行くぞ」
外へ出ると雨は先ほどまでの激しさを失い、しっとりとした霧雨に変わっていた。
一本の傘に身を寄せ合いながら、駅までの短い距離を歩く。
肩と肩がぶつかるたび、コート越しでも伝わってくる彼の体温に、意識がどうしても向いてしまう。
歩調を私に合わせてくれているその優しさに、胸の奥が少し痛む。
別れ際、彼は私の頭を一度だけ子供をあやすように乱暴に、だけどどこか名残惜しそうに撫でて人混みの向こうへと消えていった。
◇
それからの私たちは、驚くほどの頻度で会うようになった。
待ち合わせはいつもあの喫茶店か、あるいは彼が指定する静かなレストラン。
最初は学生時代の思い出話や、私の仕事の愚痴を彼が聞き流すような形だった。
しかし回数を重ねるごとに、会話の内容は互いの「現在」へと深く踏み込んでいく。
「お前が使っているその触媒、抽出の手順が甘い。だから変色する」
「これでもかなり気をつけているんです。先生の採点基準が厳しすぎるんですよ」
「プロの世界に甘えは許されん。……だが、色の出し方自体は悪くない。お前らしい、締まりのない暖かさだ」
「それ、褒めてます?」
「さあな。嫌ならもっと冷徹な色を出してみせろ」
憎まれ口を叩き合いながらも、差し出される彼のアドバイスはいつも的確で、何より私という人間に向けられていることが伝わってきた。
彼が時折見せる、私を気遣うような視線の熱。
からかわれ、子供扱いされるたびに、胸の奥がチリチリと焦げるような、甘酸っぱいもどかしさに襲われる。
一人の男として私を見てほしいと、欲張る気持ちが抑えきれなくなっていく。
◇
ある夜、いつもより少し強い酒を飲んだせいか、店を出た後の足取りが少しだけもたついた。
濡れた夜の路地、街灯の鈍い光が水たまりに反射して、まるで妖しく揺らめく魔法の薬のように足元を惑わせる。
一歩、踏み出し損ねて身体が傾いた。
「……危ない。やはりただの仔犬だな」
低く呆れたような声と同時に強い力で腕を引かれる。
抵抗する隙もなく引き寄せられた先は彼の広い胸の中だった。
仕立ての良い上着の少し硬い生地が頬に触れる。
衣服越しでもはっきりと伝わってくる彼の男らしい体格と、ドクドクと一定の昂ぶりを持って刻まれる力強い鼓動が伝わってくる。
「す、すみません……」
あまりの近さに怖気づき、慌てて離れようと身をよじる。
しかし彼の腕は即座にこちらの背中へと回され、その場に強く縫い留められた。そこにあったのは強引さではなく、どこか必死に引き留めるような確かな熱を帯びた抱擁だった。
「先生……?」
恐る恐る見上げると、すぐ近くに彼の顔があった。
いつも教壇から生徒たちを見下ろしていたあの鋭い眼差し。
それが今はひどく潤んで形を変えた独占欲に満ちた熱を湛えながら、じっとこちらだけを捉えている。
捉えられたまま、動けない。
夜の静寂の中で、互いの熱い吐息が静かに混ざり合っていく。
「ななし。お前は本当に、俺を試すのが上手い。……いつまでそうやって、無防備に俺の懐に入り込んでくるつもりだ」
クルーウェルの声は、いつもよりずっと低く掠れていた。
耳元に吹き付けられる熱い息が、肌に直接伝わって背筋を震わせる。
その声に呼応するように、胸の奥に閉じ込めていた恋心が激しく疼き、疼きがやがて全身へと広がっていく。
彼の端正な指先が、今度は躊躇わずに顎を持ち上げた。
上向かせるその力には、もう一切の容赦がなかった。
「俺がいつまでも都合よく、教師の顔をしていられると思うな」
彼は一度言葉を切り、さらに顔を近づけてくる。
息が触れ合うほどの距離で彼の唇が微かに動いた。
「……俺をいつまで、ただの『先生』でいさせる気だ、お前は」
その言葉の裏にある剥き出しの飢えたような独占欲に、頭の芯が激しく痺れる。
彼がずっと、私を「教え子」という枠に押し込めようと、どれほどの理性を削って耐えてくれていたのか。
その事実が、今になって皮膚から直接流れ込んでくるようだった。
内側から湧き上がる愛おしさと、抑えきれない恋心が一気に身体中を駆け巡る。
「わたしも……ただの先生だなんて、もう、ずっと思ってないです」
視線から逃げずに、震える声で小さく告白する。
その言葉を聞いた瞬間、クルーウェルの目元が微かに揺れ、そして何かを諦めたように細められた。
「……ステイ、と言いたいが。もう限界だ」
次の瞬間、遮るものをすべて取り払うように降ってきたのは驚くほど深く熱を孕んだ口づけだった。
唇に触れる彼の柔らかな感触と、深く深く貪るような息が止まるほどの圧倒的な圧迫感が全身を包み込み、思考を綺麗に塗りつぶしていく。
雨の匂いも、遠くを通る車の雑音も、世界のすべてが遠くへ吹き飛んでいく。
ただ互いの肌から伝わる圧倒的な体温と、お互いを狂おしいほどに求める激しい心音だけが暗い路地裏の真ん中で重なり合い、響き続けていた。
どれだけの時間が経っただろうか。
名残惜しそうに、ゆっくりと唇が離される。
クルーウェルは紅潮したこちらの顔を、今度は慈しむように指先で優しくなぞった。
その口元には、ふっと大人の余裕を感じさせる、だけどどこか熱の引ききらない歪な笑みが浮かんでいる。
「よく言えたな。……いい子だ、ななし」
その声は、かつて学校の教室で聞いたどの言葉よりも甘く、そして深く永遠に心を縛り付ける。
指先は確かな強さで固く固く結ばれていた。
薄暗いカフェの軒下で、コートの襟を立てて雨宿りをする。
濡れた髪が頬に張り付き、冷たい雫が首筋を伝う。
最悪のタイミングでの夕立だった。
「――おい。そんなところで何をもたついている」
低く、聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げると白と黒の髪、そして豪奢な毛皮のコートが目に飛び込んでくる。
「クルーウェル、先生……?」
デイヴィス・クルーウェルは、手にしていた傘を少し傾け、怪訝そうに眉をひそめた。
ナイトレイブンカレッジを卒業して数年。
まさかこんな街の片隅で、かつての恩師と遭遇するとは思ってもみなかった。
「卒業して多少は知恵がついたかと思えば、傘も持たずにうろついているのか。相変わらず出来の悪い仔犬だ」
「先生こそ、どうしてここに?」
「用件をいちいちお前に報告せねばならん義理はない。……チッ、ちょっとついて来い」
クルーウェルは短く舌打ちをすると、有無を言わせぬ足取りで歩き出した。
差し出された傘の影に慌てて滑り込む。
並んで歩くと、傘の中に閉じ込められた狭い空間から、微かに彼がいつも身にまとっていた香りが漂ってきた。
懐かしさと、それ以上の男としての彼を間近に感じる心臓の跳ね上がりに喉の奥が熱くなる。
「あの、どこに行くんですか?」
「お前をそのまま放置して、風邪でも引かれたら寝覚めが悪い。黙って歩け」
連れて行かれたのは、大通りから一本入った場所にある静かな喫茶店だった。
重厚な木製のドアを開けると、カウンターの奥から初老のマスターが静かに一礼する。
クルーウェルは慣れた仕草でコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。
その優雅さは学生時代と何一つ変わっていない。
それどころか教壇というフィルターが外れた分、仕立ての良いスーツに包まれた一人の男としての圧倒的な存在感が、容赦なくこちらの視界を占領してくる。
「座れ。温かいものでも腹に入れろ」
「ありがとうございます……」
勧められるままカウンターの端の席につくと、すぐに温かいシナモンティーが差し出された。
カップから立ち上る湯気が、冷え切った指先をじんわりと解かしていく。
クルーウェルは隣の席に腰掛け、コーヒーカップを傾けた。
「で、今は何をしている。魔法薬学の基礎くらいは、まだ頭に残っているだろうな」
「一応、調合関係の仕事に就いています。先生の課題のおかげで、徹夜には耐性がありましたから」
「すぐに音を上げるかと思っていたが、意外としぶといな。あの頃の泣き言はどこへやった」
「ひどい言い草ですね。わたしだって、いつまでも先生に叱られていた生徒のままじゃないです」
「口の減らないところだけは成長したようだな、ななし」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥底に沈めていた記憶が一気に表面まで浮かび上がってきた。
教鞭で机を叩く音。
すべてを見透かすような鋭い眼差し。
「ステイ」と命じられるたびに、悔しさと、それ以上に彼に特別に扱われたいと願っていたあの頃の痛いほどの熱。
それは紛れもなく、恋と呼ばれる類の感情だった。
「先生は、相変わらず学校で教鞭を振るっているんですか?」
「ああ、今年も骨の折れる新入生ばかりでな。お前たちの代が、いくらかマシに見えるほどだ」
「それ、褒め言葉として受け取っておきます」
「勝手に解釈しろ」
クルーウェルは呆れたように息を吐きながらも、コーヒーを口に運ぶ。
コーヒーカップの縁に触れる薄い唇や、綺麗に整えられた指先。
そのすべてが学生時代よりもずっと近くにあって、目が離せなくなる。
肩が触れ合いそうなほどの距離が酷くもどかしく、そして恐ろしかった。
テンポの速い会話の裏で、お互いの視線が時折、ガラス越しのように交差する。
外の雨音は、いつの間にか遠くのノイズのように消え去っていた。
狭い空間の中で、互いの呼吸の音と、衣服が擦れる微かな音だけが、やけに明瞭に響いているような錯覚に陥る。
「……まだ、髪が濡れているな」
不意にクルーウェルの手がこちらへ伸びてきた。
指先が濡れて束になった髪を軽く掬い上げる。
触れられた頭皮からゾクりとした熱が背筋を駆け抜けた。
彼の指は驚くほど熱く、そして毛並みを整えるように繊細に髪を解いていく。
「あ、自分で拭きますから」
「動くな。毛並みの手入れもできんのか、お前は。……じっとしていろ」
低い声が、すぐ耳元で鼓膜を震わせる。
優れた魔法士である彼なら、この程度の水濡れなど一瞬で乾かせるはずだった。
それなのに、彼はあえて魔法を使おうとはしない。
懐から取り出した清潔なハンカチで、私の髪を丁寧に慈しむように手作業で拭き取っていく。
その行為が意味する贅沢さと、直接触れ合っている時間の長さに気づいてしまい、胸が引き裂かれそうなほど高鳴る。
彼の指先が耳の裏や首筋に微かに触れるたび肌が粟立ち、熱がそこに集まっていくのが分かった。
心臓の音がうるさくて、彼に聞こえてしまうのではないかと息を詰める。
「先生……」
「なんだ」
「わたし…もう、子供じゃないです」
ハンカチを動かす手が、ぴたりと止まった。
至近距離でクルーウェルの視線がじっとこちらを射抜く。
その眼差しに含まれる熱量が、先ほどまでとは明らかに変わっていた。
教師が教え子を見るそれではなく、もっと深く暗い、一人の男としての独占欲のようなものが、その奥で静かに揺らめいている。
「そうだな……」
クルーウェルは低く呟き、ゆっくりと手を引いた。
ハンカチをポケットに収める彼の動作はどこか冷徹で、同時に私を値踏みするようで酷く扇情的だった。
雨の冷たさなど、もうどこにも残っていなかった。
「なら、その言葉に責任を持て。お前が勝手に俺の前に現れて、踏み込んできたんだ、ななし」
その声に含まれた大人の色気に喉の奥が乾くのを感じた。
会話のテンポは緩やかになり、代わりに言葉にできない重みが二人の間に満ちていく。
互いの距離はあと数センチメートル。
差し出された彼の熱を掴むべきか、それとも拒むべきか。
答えを出す前に、クルーウェルはコーヒーを飲み干し、カップを小さく鳴らした。
「次は、いつ空いている」
ぶっきらぼうに投げかけられたその言葉が、過去の関係には戻れないことを決定づけたように感じた。
「……来週の、同じ時間なら」
絞り出すように答えると、クルーウェルは満足げに口元を僅かに緩めた。
しかし、すぐにいつもの冷徹な表情に戻り、カウンターに何枚かの紙幣を置く。
「決まりだ。おい、仔犬。行くぞ」
外へ出ると雨は先ほどまでの激しさを失い、しっとりとした霧雨に変わっていた。
一本の傘に身を寄せ合いながら、駅までの短い距離を歩く。
肩と肩がぶつかるたび、コート越しでも伝わってくる彼の体温に、意識がどうしても向いてしまう。
歩調を私に合わせてくれているその優しさに、胸の奥が少し痛む。
別れ際、彼は私の頭を一度だけ子供をあやすように乱暴に、だけどどこか名残惜しそうに撫でて人混みの向こうへと消えていった。
◇
それからの私たちは、驚くほどの頻度で会うようになった。
待ち合わせはいつもあの喫茶店か、あるいは彼が指定する静かなレストラン。
最初は学生時代の思い出話や、私の仕事の愚痴を彼が聞き流すような形だった。
しかし回数を重ねるごとに、会話の内容は互いの「現在」へと深く踏み込んでいく。
「お前が使っているその触媒、抽出の手順が甘い。だから変色する」
「これでもかなり気をつけているんです。先生の採点基準が厳しすぎるんですよ」
「プロの世界に甘えは許されん。……だが、色の出し方自体は悪くない。お前らしい、締まりのない暖かさだ」
「それ、褒めてます?」
「さあな。嫌ならもっと冷徹な色を出してみせろ」
憎まれ口を叩き合いながらも、差し出される彼のアドバイスはいつも的確で、何より私という人間に向けられていることが伝わってきた。
彼が時折見せる、私を気遣うような視線の熱。
からかわれ、子供扱いされるたびに、胸の奥がチリチリと焦げるような、甘酸っぱいもどかしさに襲われる。
一人の男として私を見てほしいと、欲張る気持ちが抑えきれなくなっていく。
◇
ある夜、いつもより少し強い酒を飲んだせいか、店を出た後の足取りが少しだけもたついた。
濡れた夜の路地、街灯の鈍い光が水たまりに反射して、まるで妖しく揺らめく魔法の薬のように足元を惑わせる。
一歩、踏み出し損ねて身体が傾いた。
「……危ない。やはりただの仔犬だな」
低く呆れたような声と同時に強い力で腕を引かれる。
抵抗する隙もなく引き寄せられた先は彼の広い胸の中だった。
仕立ての良い上着の少し硬い生地が頬に触れる。
衣服越しでもはっきりと伝わってくる彼の男らしい体格と、ドクドクと一定の昂ぶりを持って刻まれる力強い鼓動が伝わってくる。
「す、すみません……」
あまりの近さに怖気づき、慌てて離れようと身をよじる。
しかし彼の腕は即座にこちらの背中へと回され、その場に強く縫い留められた。そこにあったのは強引さではなく、どこか必死に引き留めるような確かな熱を帯びた抱擁だった。
「先生……?」
恐る恐る見上げると、すぐ近くに彼の顔があった。
いつも教壇から生徒たちを見下ろしていたあの鋭い眼差し。
それが今はひどく潤んで形を変えた独占欲に満ちた熱を湛えながら、じっとこちらだけを捉えている。
捉えられたまま、動けない。
夜の静寂の中で、互いの熱い吐息が静かに混ざり合っていく。
「ななし。お前は本当に、俺を試すのが上手い。……いつまでそうやって、無防備に俺の懐に入り込んでくるつもりだ」
クルーウェルの声は、いつもよりずっと低く掠れていた。
耳元に吹き付けられる熱い息が、肌に直接伝わって背筋を震わせる。
その声に呼応するように、胸の奥に閉じ込めていた恋心が激しく疼き、疼きがやがて全身へと広がっていく。
彼の端正な指先が、今度は躊躇わずに顎を持ち上げた。
上向かせるその力には、もう一切の容赦がなかった。
「俺がいつまでも都合よく、教師の顔をしていられると思うな」
彼は一度言葉を切り、さらに顔を近づけてくる。
息が触れ合うほどの距離で彼の唇が微かに動いた。
「……俺をいつまで、ただの『先生』でいさせる気だ、お前は」
その言葉の裏にある剥き出しの飢えたような独占欲に、頭の芯が激しく痺れる。
彼がずっと、私を「教え子」という枠に押し込めようと、どれほどの理性を削って耐えてくれていたのか。
その事実が、今になって皮膚から直接流れ込んでくるようだった。
内側から湧き上がる愛おしさと、抑えきれない恋心が一気に身体中を駆け巡る。
「わたしも……ただの先生だなんて、もう、ずっと思ってないです」
視線から逃げずに、震える声で小さく告白する。
その言葉を聞いた瞬間、クルーウェルの目元が微かに揺れ、そして何かを諦めたように細められた。
「……ステイ、と言いたいが。もう限界だ」
次の瞬間、遮るものをすべて取り払うように降ってきたのは驚くほど深く熱を孕んだ口づけだった。
唇に触れる彼の柔らかな感触と、深く深く貪るような息が止まるほどの圧倒的な圧迫感が全身を包み込み、思考を綺麗に塗りつぶしていく。
雨の匂いも、遠くを通る車の雑音も、世界のすべてが遠くへ吹き飛んでいく。
ただ互いの肌から伝わる圧倒的な体温と、お互いを狂おしいほどに求める激しい心音だけが暗い路地裏の真ん中で重なり合い、響き続けていた。
どれだけの時間が経っただろうか。
名残惜しそうに、ゆっくりと唇が離される。
クルーウェルは紅潮したこちらの顔を、今度は慈しむように指先で優しくなぞった。
その口元には、ふっと大人の余裕を感じさせる、だけどどこか熱の引ききらない歪な笑みが浮かんでいる。
「よく言えたな。……いい子だ、ななし」
その声は、かつて学校の教室で聞いたどの言葉よりも甘く、そして深く永遠に心を縛り付ける。
指先は確かな強さで固く固く結ばれていた。
