ポムフィオーレ
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放課後の購買部はいつも通りの喧騒に包まれていた。
人混みを器用にすり抜けて、お目当ての焼き立てパンをふたつ確保したエペルは、ふうと小さく息を吐いて約束のベンチへと向かう。
「エペルお疲れ様。買えた?」
「うん、なんとか。これななしサンの分」
手渡されたパンを受け取り、ななしは嬉しそうに目を細める。
「ありがとう! 購買、いつも戦場だから本当に助かる」
「これくらい全然平気。僕、体格のいい上級生の間を抜けるの結構得意だから」
ふたりで並んでベンチに腰掛け袋を開ける。
その拍子に、ふわりと肩が触れ合った。
「あ、ごめん」
「ううん、気にしないで」
エペルは少しだけ身を引こうとしたが、ななしは特に気にする様子もなく、そのままの距離でパンを食べ進めている。
触れ合った肩から制服の生地越しに体温が伝わってくるようだった。
エペルはパンを咀嚼しながら隣の横顔をじっと見つめる。
ななしの距離感は最初からずっと近かった。
他の男子生徒に対してもそうなのかといえば、決してそんなことはない。適切な礼儀と距離を保って接しているのを何度も見ている。
けれど自分の前ではどういうわけか、その境界線がひどく曖昧になるのだ。
「エペル、口元にクリームついてるよ」
「え? 嘘?」
「待って、動かないで」
ななしの手が自然に伸びてきて、エペルの口端を親指の腹でそっとなぞった。
一瞬の出来事だった。
白くて柔らかい指先が肌に直接触れて、すぐに離れていく。
「ん、取れた」
「あ、……ありがと」
エペルは慌てて視線を斜め下に落とした。
耳の裏あたりが熱くなっていくのが分かる。
心臓の音が急にうるさくなった気がして、それを悟られないようにパンをごくりと飲み込んだ。
男友達同士ならまだしも、口元が汚れていると指摘することはあっても、直接手で拭うような真似はまずしない。
そもそも、そんな距離まで顔を近づけること自体があり得ない。
ななしにとっては何気ない親切のつもりなのだろう。
そこに悪意も特別な意味も含まれていないことは、その屈託のない笑顔を見れば一目瞭然だった。
「どうしたの? 喉詰まらせた?」
「違う、大丈夫。……ななしサンって、たまにすごく距離近いよね」
我慢できず、少しだけ探るように言葉を口にしてみる。
「そうかな? エペル相手だと、なんだか落ち着くからかな」
「落ち着く、って……」
「うん。ほら、エペルって可愛いし、一緒にいると安心するっていうか」
「……可愛い、か」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
やっぱり、そういうことなのだ。
ななしの中での自分は、安心できる可愛い存在として分類されている。
それは裏を返せば、一人の男として警戒の対象にすらなっていないということだった。
サバナクロー寮のレオナやジャック、他の体格の良い生徒たちに対するような、どこか身構えるような視線は自分には一切向けられない。
それは信頼されている証拠でもあるのかもしれないが、今のエペルにとっては素直に喜べるものではなかった。
「……あんまり嬉しくないな」
ぼそりと呟いた声は風にかき消されそうなほど小さかった。
「え? 何か言った?」
「何でもない。……ほら、もうすぐ予鈴鳴っちゃうよ。早く食べないと」
「あ、本当だ。急がなきゃ」
ななしは慌ててパンを口に放り込み、もぐもぐと頬を膨らませる。
その姿を見つめながら、エペルは胸の中で小さなため息をついた。
男として見られたいという欲求が、静かに頭をもたげ始めていることに、本人はまだ気づかない振りをしていた。
◇
数日後の放課後、ふたりは図書室の片隅にある閲覧席で課題のレポートに取り組んでいた。
周囲には数人の生徒しかおらず、静まり返った室内にはペン先が紙を滑る音だけが規則正しく響いている。
「ねえ、エペル。ここの記述なんだけど……」
ななしが教科書を指差しながらエペルの方へと身体を寄せた。
机の下で互いの膝がかすかに触れ合う。
エペルは一瞬ビクリと身体を硬くしたが、ななしは気にする様子もなく真剣な目でページを見つめている。
「そこはね、こっちの文献の解釈を入れた方がいいって、先生が言ってた」
「そっか。だから話が繋がらなかったんだ」
納得したように頷くななしの髪がさらりと揺れて、エペルの肩に触れた。
ほんの少しシャンプーのような清涼感のある香りが鼻腔をくすぐる。
明言できないほど微かな、けれど確かにそこに存在する彼女の気配にエペルの思考が一瞬停止した。
のぞき込むように見られる教科書。
すぐ隣にある華奢な肩。
少し手を伸ばせば簡単に引き寄せられてしまいそうなほど、ななしは無防備だった。
「……ななしサン」
「ん?」
顔を上げたななしの瞳が至近距離でエペルを捉える。
その澄んだ双眸に見つめられると言葉に詰まってしまう。
男として見られていないことへの焦燥感と、けれどこの心地よい距離を壊したくないという臆病さがエペルの心の中で激しくせめぎ合っていた。
「……なんでもない。集中しないと、終わらないよ」
「あはは、そうだね。がんばろう」
ななしは小さく笑って、再びペンを握り直した。
エペルは自分の胸に手を当て、速くなる鼓動を必死に抑え込もうとする。
この無自覚な距離の近さが、どれほど自分を翻弄しているか彼女は知る由もないのだろう。
じわじわとエペルの中で何かが熱を帯び始めていた。
ただの友人の枠を今すぐにでも壊してしまいたいという衝動が、静かにその輪郭を現しつつあった。
図書室の窓から差し込む光が、いつの間にかオレンジ色に染まり始めている。
長時間の作業で疲れたのか、ななしは小さく伸びをして息を吐いた。
「んー! やっと終わった。エペル、付き合ってくれてありがとう」
「ううん。僕も自分の分が進んだから、お互い様だよ」
エペルは手元のノートを閉じ、机の上を片付け始める。
その間もななしはすぐ隣でやり切った充実感からか、どこか楽しそうにエペルの横顔を見つめていた。
「やっぱりエペルと一緒だと、はかどるなぁ」
「そう? 普通にやってただけだけど」
「エペルっていつも一生懸命だし、優しいし……一緒にいると落ち着く」
ななしはそう言って微笑んだ。
その濁りのないまっすぐな瞳がエペルの胸の奥をチクリと突く。
彼女の言う「落ち着く」という言葉は、自分を信頼してくれている証拠だ。
だが同時に、そこに危機感が一切含まれていないことの裏返しでもあった。
エペルは手元を片付ける手をわずかに止める
そしてゆっくりと顔を上げ、隣にいるななしをじっと見つめた。
「……これでも一応、男なんだけどな」
ぽつりと言い放った声は昼間のものよりもずっと低かった。
「え?」
「ななしサン、僕のこと、いっつもそうやって褒めるよね」
「あ、うん。だって、本当にそう思うから……。ごめん、わたし何か変なこと言っちゃった?」
少しだけ慌てたように首を傾げるななしに、エペルは小さく息を吐き出す。
嬉しくないわけではない。
ただ、その言葉の裏にある無警戒さが、今の彼にはひどくもどかしかった。
「変っていうか……。男に向かってそういうことを言うのは、あんまり危機感がないと思う」
「危機感?」
「そう、危機感」
エペルは椅子を少しだけななしの方へと向けた。
わずかに詰まる距離。
夕暮れの光を反射したエペルの姿がななしの瞳に映り込む。
「ななしサンって、僕に対して距離が近すぎる。こうやってすぐ隣に座ったり、顔を覗き込んできたり、口元を触ったり……」
「それは……エペルだから、つい」
「僕だからって、どういう意味?」
エペルは少しだけ攻めるように言葉を重ねる。
いつもならここで一歩引くはずのエペルが、今は引こうとしない。
むしろ、その距離を自ら詰めていく。
「それは……別に、変な意味じゃなくて」
「他の男子生徒にも同じことできるの?」
「え……?」
「エースクンやデュースクン、他のクラスの男子にも、同じように顔を近づけたりできる?」
「それは、できない、けど……」
ななしの言葉が詰まる。
図書室の静寂が急に重みを増したようにふたりの間にのしかかる。
エペルの視線はななしを捉えて離さなかった。
「できないでしょ? なのに、僕にはするんだ」
「エペル……?」
「僕の体格が小さいから? それとも、頼りなさそうに見えるから?」
少しだけ尖ったエペルの声にななしは驚いたように目を見開く。
決して怒っているわけではない。
ただ、その瞳の奥にある熱が言葉以上の圧となってななしを圧迫していた。
「違うよ。そんな風に思ってない」
「じゃあ、どう思ってるの」
「それは……」
ななしは張り詰めた空気に初めて気付いたかのように身を硬くした。
いつも隣で優しく微笑んでいた同級生の男の子が、今はまったく違う生き物のように見えていた。
机の下、すぐ近くにあるエペルの膝が、かすかに震えている。
それは恐怖ではなく抑えきれない感情の昂ぶりのせいだった。
「……ななしサン」
エペルがななしの手に、そっと自分の手を重ねた。
驚いて引こうとするななしの指先を逃がさないように、静かに包み込む。
「エペル……」
「僕だって、普通の男なんだよ。好きな子の前では、格好いいって思われたいし……本当はすごく、悔しい」
『好きな子』という単語が静かな室内に質量を持って響いた。
ななしの顔が一瞬で朱に染まっていく。
重ねられたエペルの手は、確かに自分よりも少し骨張っていて熱い。
優しくて安心できると思っていたはずのその指が、今はひどく雄々しく、そして確かな力強さを持って自分を繋ぎ止めている。
「エペル、あの……」
「距離が近いのも、落ち着くからって言ってくれるのも、本当はすごく嬉しい。だけど、それは友達だからじゃなくて、男として見てほしいから、だよ」
エペルは少しだけ顔を近づけた。
お互いの吐息が触れ合うほどの至近距離。
ななしはエペルの瞳から目を逸らすことができなかった。
そこに宿る真剣な光が、自分のこれまでの無自覚な行動をすべて暴き立てていくような、不思議な気恥ずかしさを呼び起こす。
「……分かってくれた?」
エペルが少しだけ声を潜めて囁く。
低く、耳の奥にじんわりと残るような特別な響き。
「……うん」
ななしは小さく頷くのが精一杯だった。
その返事を聞くとエペルは満足したように、ふっといつもの柔らかい笑みを浮かべた。
けれど繋いだ手はまだ離してくれない。
「じゃあ、これからは……ちゃんと、覚悟してね」
これまでの境界線が静かに塗り替えられていく音が聞こえた気がした。
人混みを器用にすり抜けて、お目当ての焼き立てパンをふたつ確保したエペルは、ふうと小さく息を吐いて約束のベンチへと向かう。
「エペルお疲れ様。買えた?」
「うん、なんとか。これななしサンの分」
手渡されたパンを受け取り、ななしは嬉しそうに目を細める。
「ありがとう! 購買、いつも戦場だから本当に助かる」
「これくらい全然平気。僕、体格のいい上級生の間を抜けるの結構得意だから」
ふたりで並んでベンチに腰掛け袋を開ける。
その拍子に、ふわりと肩が触れ合った。
「あ、ごめん」
「ううん、気にしないで」
エペルは少しだけ身を引こうとしたが、ななしは特に気にする様子もなく、そのままの距離でパンを食べ進めている。
触れ合った肩から制服の生地越しに体温が伝わってくるようだった。
エペルはパンを咀嚼しながら隣の横顔をじっと見つめる。
ななしの距離感は最初からずっと近かった。
他の男子生徒に対してもそうなのかといえば、決してそんなことはない。適切な礼儀と距離を保って接しているのを何度も見ている。
けれど自分の前ではどういうわけか、その境界線がひどく曖昧になるのだ。
「エペル、口元にクリームついてるよ」
「え? 嘘?」
「待って、動かないで」
ななしの手が自然に伸びてきて、エペルの口端を親指の腹でそっとなぞった。
一瞬の出来事だった。
白くて柔らかい指先が肌に直接触れて、すぐに離れていく。
「ん、取れた」
「あ、……ありがと」
エペルは慌てて視線を斜め下に落とした。
耳の裏あたりが熱くなっていくのが分かる。
心臓の音が急にうるさくなった気がして、それを悟られないようにパンをごくりと飲み込んだ。
男友達同士ならまだしも、口元が汚れていると指摘することはあっても、直接手で拭うような真似はまずしない。
そもそも、そんな距離まで顔を近づけること自体があり得ない。
ななしにとっては何気ない親切のつもりなのだろう。
そこに悪意も特別な意味も含まれていないことは、その屈託のない笑顔を見れば一目瞭然だった。
「どうしたの? 喉詰まらせた?」
「違う、大丈夫。……ななしサンって、たまにすごく距離近いよね」
我慢できず、少しだけ探るように言葉を口にしてみる。
「そうかな? エペル相手だと、なんだか落ち着くからかな」
「落ち着く、って……」
「うん。ほら、エペルって可愛いし、一緒にいると安心するっていうか」
「……可愛い、か」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
やっぱり、そういうことなのだ。
ななしの中での自分は、安心できる可愛い存在として分類されている。
それは裏を返せば、一人の男として警戒の対象にすらなっていないということだった。
サバナクロー寮のレオナやジャック、他の体格の良い生徒たちに対するような、どこか身構えるような視線は自分には一切向けられない。
それは信頼されている証拠でもあるのかもしれないが、今のエペルにとっては素直に喜べるものではなかった。
「……あんまり嬉しくないな」
ぼそりと呟いた声は風にかき消されそうなほど小さかった。
「え? 何か言った?」
「何でもない。……ほら、もうすぐ予鈴鳴っちゃうよ。早く食べないと」
「あ、本当だ。急がなきゃ」
ななしは慌ててパンを口に放り込み、もぐもぐと頬を膨らませる。
その姿を見つめながら、エペルは胸の中で小さなため息をついた。
男として見られたいという欲求が、静かに頭をもたげ始めていることに、本人はまだ気づかない振りをしていた。
◇
数日後の放課後、ふたりは図書室の片隅にある閲覧席で課題のレポートに取り組んでいた。
周囲には数人の生徒しかおらず、静まり返った室内にはペン先が紙を滑る音だけが規則正しく響いている。
「ねえ、エペル。ここの記述なんだけど……」
ななしが教科書を指差しながらエペルの方へと身体を寄せた。
机の下で互いの膝がかすかに触れ合う。
エペルは一瞬ビクリと身体を硬くしたが、ななしは気にする様子もなく真剣な目でページを見つめている。
「そこはね、こっちの文献の解釈を入れた方がいいって、先生が言ってた」
「そっか。だから話が繋がらなかったんだ」
納得したように頷くななしの髪がさらりと揺れて、エペルの肩に触れた。
ほんの少しシャンプーのような清涼感のある香りが鼻腔をくすぐる。
明言できないほど微かな、けれど確かにそこに存在する彼女の気配にエペルの思考が一瞬停止した。
のぞき込むように見られる教科書。
すぐ隣にある華奢な肩。
少し手を伸ばせば簡単に引き寄せられてしまいそうなほど、ななしは無防備だった。
「……ななしサン」
「ん?」
顔を上げたななしの瞳が至近距離でエペルを捉える。
その澄んだ双眸に見つめられると言葉に詰まってしまう。
男として見られていないことへの焦燥感と、けれどこの心地よい距離を壊したくないという臆病さがエペルの心の中で激しくせめぎ合っていた。
「……なんでもない。集中しないと、終わらないよ」
「あはは、そうだね。がんばろう」
ななしは小さく笑って、再びペンを握り直した。
エペルは自分の胸に手を当て、速くなる鼓動を必死に抑え込もうとする。
この無自覚な距離の近さが、どれほど自分を翻弄しているか彼女は知る由もないのだろう。
じわじわとエペルの中で何かが熱を帯び始めていた。
ただの友人の枠を今すぐにでも壊してしまいたいという衝動が、静かにその輪郭を現しつつあった。
図書室の窓から差し込む光が、いつの間にかオレンジ色に染まり始めている。
長時間の作業で疲れたのか、ななしは小さく伸びをして息を吐いた。
「んー! やっと終わった。エペル、付き合ってくれてありがとう」
「ううん。僕も自分の分が進んだから、お互い様だよ」
エペルは手元のノートを閉じ、机の上を片付け始める。
その間もななしはすぐ隣でやり切った充実感からか、どこか楽しそうにエペルの横顔を見つめていた。
「やっぱりエペルと一緒だと、はかどるなぁ」
「そう? 普通にやってただけだけど」
「エペルっていつも一生懸命だし、優しいし……一緒にいると落ち着く」
ななしはそう言って微笑んだ。
その濁りのないまっすぐな瞳がエペルの胸の奥をチクリと突く。
彼女の言う「落ち着く」という言葉は、自分を信頼してくれている証拠だ。
だが同時に、そこに危機感が一切含まれていないことの裏返しでもあった。
エペルは手元を片付ける手をわずかに止める
そしてゆっくりと顔を上げ、隣にいるななしをじっと見つめた。
「……これでも一応、男なんだけどな」
ぽつりと言い放った声は昼間のものよりもずっと低かった。
「え?」
「ななしサン、僕のこと、いっつもそうやって褒めるよね」
「あ、うん。だって、本当にそう思うから……。ごめん、わたし何か変なこと言っちゃった?」
少しだけ慌てたように首を傾げるななしに、エペルは小さく息を吐き出す。
嬉しくないわけではない。
ただ、その言葉の裏にある無警戒さが、今の彼にはひどくもどかしかった。
「変っていうか……。男に向かってそういうことを言うのは、あんまり危機感がないと思う」
「危機感?」
「そう、危機感」
エペルは椅子を少しだけななしの方へと向けた。
わずかに詰まる距離。
夕暮れの光を反射したエペルの姿がななしの瞳に映り込む。
「ななしサンって、僕に対して距離が近すぎる。こうやってすぐ隣に座ったり、顔を覗き込んできたり、口元を触ったり……」
「それは……エペルだから、つい」
「僕だからって、どういう意味?」
エペルは少しだけ攻めるように言葉を重ねる。
いつもならここで一歩引くはずのエペルが、今は引こうとしない。
むしろ、その距離を自ら詰めていく。
「それは……別に、変な意味じゃなくて」
「他の男子生徒にも同じことできるの?」
「え……?」
「エースクンやデュースクン、他のクラスの男子にも、同じように顔を近づけたりできる?」
「それは、できない、けど……」
ななしの言葉が詰まる。
図書室の静寂が急に重みを増したようにふたりの間にのしかかる。
エペルの視線はななしを捉えて離さなかった。
「できないでしょ? なのに、僕にはするんだ」
「エペル……?」
「僕の体格が小さいから? それとも、頼りなさそうに見えるから?」
少しだけ尖ったエペルの声にななしは驚いたように目を見開く。
決して怒っているわけではない。
ただ、その瞳の奥にある熱が言葉以上の圧となってななしを圧迫していた。
「違うよ。そんな風に思ってない」
「じゃあ、どう思ってるの」
「それは……」
ななしは張り詰めた空気に初めて気付いたかのように身を硬くした。
いつも隣で優しく微笑んでいた同級生の男の子が、今はまったく違う生き物のように見えていた。
机の下、すぐ近くにあるエペルの膝が、かすかに震えている。
それは恐怖ではなく抑えきれない感情の昂ぶりのせいだった。
「……ななしサン」
エペルがななしの手に、そっと自分の手を重ねた。
驚いて引こうとするななしの指先を逃がさないように、静かに包み込む。
「エペル……」
「僕だって、普通の男なんだよ。好きな子の前では、格好いいって思われたいし……本当はすごく、悔しい」
『好きな子』という単語が静かな室内に質量を持って響いた。
ななしの顔が一瞬で朱に染まっていく。
重ねられたエペルの手は、確かに自分よりも少し骨張っていて熱い。
優しくて安心できると思っていたはずのその指が、今はひどく雄々しく、そして確かな力強さを持って自分を繋ぎ止めている。
「エペル、あの……」
「距離が近いのも、落ち着くからって言ってくれるのも、本当はすごく嬉しい。だけど、それは友達だからじゃなくて、男として見てほしいから、だよ」
エペルは少しだけ顔を近づけた。
お互いの吐息が触れ合うほどの至近距離。
ななしはエペルの瞳から目を逸らすことができなかった。
そこに宿る真剣な光が、自分のこれまでの無自覚な行動をすべて暴き立てていくような、不思議な気恥ずかしさを呼び起こす。
「……分かってくれた?」
エペルが少しだけ声を潜めて囁く。
低く、耳の奥にじんわりと残るような特別な響き。
「……うん」
ななしは小さく頷くのが精一杯だった。
その返事を聞くとエペルは満足したように、ふっといつもの柔らかい笑みを浮かべた。
けれど繋いだ手はまだ離してくれない。
「じゃあ、これからは……ちゃんと、覚悟してね」
これまでの境界線が静かに塗り替えられていく音が聞こえた気がした。
