ポムフィオーレ
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「あら、そんなところで何をしているの?」
声をかけてきたのは、ポムフィオーレ寮長であるヴィル・シェーンハイトだった。一分の隙もない美しい佇まいに、周囲の生徒たちが自然と道をあける。
「あ、ヴィル先輩。次の合同授業で使うプリントの確認をしていました」
「ふん、随分と熱心ね。でも、そんなに背中を丸めていたら、せっかくの骨格が台無しよ。ほら、胸を張りなさい」
「すみません、つい集中しちゃって」
「謝る暇があるなら、自分の見せ方を学びなさい」
ヴィルは皮肉を交えながらも、その視線はななしの目元や少し乾燥した唇へと注がれていた。
彼は小さくため息をつき自身のポケットから一本のリップバームを取り出す。
「手を出しなさい」
「えっ?」
「手を出しなさいって言っているの。それ、アンタにあげるわ。アンタのその荒れた唇、見ていてイライラするから」
「ありがとうございます。でも……ヴィル先輩にこんな、気を使ってもらうなんて。なんだかわたしなんかじゃ、恐れ多いっていうか……」
「……何それ」
ヴィルの声のトーンが、わずかに低くなった。
「だってヴィル先輩はいつも完璧で、本当に遠い世界の人だから。わたしみたいなのが、こうして普通にお話しできてるだけでも、本当は贅沢すぎるくらいだなって思って」
「アンタ、本気で言っているの?」
「え?」
ななしが小首を傾げると、ヴィルは端正な眉を不機嫌そうにひそめた。
その胸の奥で、じわじわと広がる苛立ちがある。
なぜ、この少女はいつも自分と綺麗に線を引こうとするのだろうか。
「アタシがアンタを選んで声をかけているのよ。その意味を、少しは考えたらどう?」
「それは、わたしが色々やらかしちゃうから、見兼ねてアドバイスしてくれてるんですよね……?」
一点の曇りもない瞳がヴィルを見上げる。
その無垢さが、今の彼にはひどくもどかしく同時に独占欲を刺激する劇薬のようだった。
「……もういいわ。これ以上話しているとアタシの肌に障りそう」
ヴィルはそれだけ言い残すと翻ってその場を去っていった。
残されたななしは手の中のリップバームを握りしめ、彼の背中をただ見送るしかなかった。
◇
数日後の夕方、二人は購買部近くのテラス席で再び言葉を交わす機会を得た。ヴィルが直々にななしを呼び出したのだ。
「この前渡したリップバームの使い心地はどうだった?」
ヴィルは対面に座るななしの唇をじっと見つめた。
先日の乾燥は消え、今は潤いを帯びて柔らかそうな光を放っている。
その変化に彼の心臓がわずかに跳ねた。
「すごく潤って、びっくりしました。やっぱりヴィル先輩ってすごいですね」
「当然よ。アタシが妥協するものなんて、この世に存在しないわ」
「本当にそう思います。先輩の努力とかこだわりを見てると、自分がいかに中途半端か思い知らされるっていうか。だから……」
「だから、何?」
ヴィルの視線が鋭さを増す。
「だから、わたしなんかが先輩の視界に入るのも申し訳ないなって。もっと綺麗で、先輩に相応しい人が周りにたくさんいるのに」
ななしの言葉は決して謙遜や嫌みではなかった。
本気で心からヴィルという存在を崇拝し、自分を低く見積もっている。
それがヴィルには耐え難かった。
なぜ、他の誰かをその口から出すのか。
「アンタのそんな基準はどうでもいいのよ」
「ヴィル先輩……?」
「アタシが今、誰を見て、誰と話していると思っているの? アンタよ、ななし」
ヴィルはテーブルを挟んで身を乗り出し、彼女の手首を掴んだ。
手首が彼の長い指の中にすっぽりと収まる。
掴んだ皮膚の向こうから、彼女の微かな脈動が伝わってくる。
「あの……」
「……なんでアタシが、アンタのことで、こんなに心を乱されなきゃいけないのよ」
最後の一句は、ほとんど呟きに近かった。
ヴィルの瞳の奥に、いつもは見せない焦燥と暗い熱が灯る。
「先輩、手、痛いです……」
ななしの声にハッとしたヴィルは、ゆっくりと指の力を緩めた。
しかし完全に手を離すことはせず、その指先は彼女の掌へと滑り落ち、指を絡めるようにして肌を擦り合わせた。
「痛かったなら謝るわ。でも、アンタがそんな顔でアタシを見るから、調子が狂うのよ」
ヴィルの体温が触れ合う皮膚を通じてななしの中へと流れ込んでいく。夕闇が迫るテラスで、二人の距離は言葉のすれ違いとは裏腹に確実に密なものへと変貌しつつあった。
「わたしは……」
「言い訳は聞きたくないわ」
ヴィルの紡いだ言葉が冷えかけた大気の中に重く、そして酷く熱く溶けていく。
ななしは、ただその圧に圧倒されていた。
彼の長い指がじわじわと力を増し、拒絶を許さないようにその隙間を隙間なく埋めてくる。
「ヴィル先輩……」
「何よ」
「その、本当に、どうかしちゃったんですか? いつもの先輩らしくないっていうか……」
「らしくない、ね。アタシがアンタの前でだけこうなる理由を、アンタは本気で分かっていないの?」
ヴィルは絡めた指先を少しだけ引き寄せた。
二人の距離が、あと数センチメートルというところまで狭まる。
「アタシがどうかしたのだとしたら、それは全部、アンタのその煮え切らない態度のせいよ」
「わたしの、せい……?」
「そう。いつもそうやって、一歩引いた安全な場所からアタシを眺めて、勝手に納得した顔をして。アタシが求めているのは、そんな綺麗に整えられただけの崇拝じゃないわ」
ヴィルの双眸に宿る光が、じっとななしを射抜くように捉えて離さない。その視線の強さにななしは喉の奥が震えるのを感じた。
「でも、わたしは……。先輩の隣にいると自分がすごく惨めに見えちゃって。先輩の綺麗な世界を、わたしが汚しちゃうんじゃないかって、本当にそう思うんです」
「アンタがアタシを汚す?」
ヴィルは低く喉を鳴らすようにして笑った。
だが、その笑みに温度は一切ない。
「大きく出たものね。アタシの世界がアンタ一人に汚されるほど脆弱だとでも思っているの? それとも何、アタシの審美眼に狂いがあるとでも言いたいの?」
「そんなこと…!」
「だったら、アタシが選んだアンタ自身を否定するんじゃないわよ。アンタが自分を卑下することは、アタシに対する最大の侮辱よ」
ヴィルの言葉は傲慢で、それでいてひどく優しかった。
ななしは、彼が自分に向けている感情の重さに、ようやく気づき始めていた。
単なる憐れみでも指導でもない。
もっと暗くて強くて、手放すことを拒むような――執着という名の甘い意思だ。
「……本気、なんですね」
「アタシがいつ、仕事以外で冗談を言ったかしら?」
ヴィルはななしの頬をそっと包み込んだ。
指先が彼女の体温に触れて瞬く間に熱を帯びていく。
親指の腹が彼女の唇の端を優しく、確かめるようにしてなぞった。
「アンタのその、すぐに逃げようとする狡さも、自分を特別だと思わない鈍さも、全部アタシが正してあげる」
「先輩って、結構強引なんですね」
「強引で結構。アンタがアタシをここまで狂わせたんだから、それ相応の責任は取ってもらうわよ」
ななしの瞳に涙が滲む。
それは悲しみではなく、押し流されそうになっていることへの戸惑いだった。だが彼女の手は、ヴィルの指を拒絶するように振り払うことはしなかった。それどころか、彼の大きな手のひらに、すがりつくようにほんの少しだけ自らの頭を預けた。
「……わたし、先輩に追いつけるように、少しは頑張ってもいいですか」
「いいですか、じゃないわ。アタシの隣に立つのよ、死に物狂いでついてきなさい。アタシがその手を引いてあげるわ」
お互いの呼吸が完全に混ざり合い、熱を帯びた空気が二人の間を循環する。
「もう二度と、自分なんか、なんて言わせないわよ、ななし」
「……はい、ヴィル先輩」
夕闇が完全にテラスを支配する頃、二人の間に引かれていた境界線は甘く濃密な熱によって静かに消し去られていた。
声をかけてきたのは、ポムフィオーレ寮長であるヴィル・シェーンハイトだった。一分の隙もない美しい佇まいに、周囲の生徒たちが自然と道をあける。
「あ、ヴィル先輩。次の合同授業で使うプリントの確認をしていました」
「ふん、随分と熱心ね。でも、そんなに背中を丸めていたら、せっかくの骨格が台無しよ。ほら、胸を張りなさい」
「すみません、つい集中しちゃって」
「謝る暇があるなら、自分の見せ方を学びなさい」
ヴィルは皮肉を交えながらも、その視線はななしの目元や少し乾燥した唇へと注がれていた。
彼は小さくため息をつき自身のポケットから一本のリップバームを取り出す。
「手を出しなさい」
「えっ?」
「手を出しなさいって言っているの。それ、アンタにあげるわ。アンタのその荒れた唇、見ていてイライラするから」
「ありがとうございます。でも……ヴィル先輩にこんな、気を使ってもらうなんて。なんだかわたしなんかじゃ、恐れ多いっていうか……」
「……何それ」
ヴィルの声のトーンが、わずかに低くなった。
「だってヴィル先輩はいつも完璧で、本当に遠い世界の人だから。わたしみたいなのが、こうして普通にお話しできてるだけでも、本当は贅沢すぎるくらいだなって思って」
「アンタ、本気で言っているの?」
「え?」
ななしが小首を傾げると、ヴィルは端正な眉を不機嫌そうにひそめた。
その胸の奥で、じわじわと広がる苛立ちがある。
なぜ、この少女はいつも自分と綺麗に線を引こうとするのだろうか。
「アタシがアンタを選んで声をかけているのよ。その意味を、少しは考えたらどう?」
「それは、わたしが色々やらかしちゃうから、見兼ねてアドバイスしてくれてるんですよね……?」
一点の曇りもない瞳がヴィルを見上げる。
その無垢さが、今の彼にはひどくもどかしく同時に独占欲を刺激する劇薬のようだった。
「……もういいわ。これ以上話しているとアタシの肌に障りそう」
ヴィルはそれだけ言い残すと翻ってその場を去っていった。
残されたななしは手の中のリップバームを握りしめ、彼の背中をただ見送るしかなかった。
◇
数日後の夕方、二人は購買部近くのテラス席で再び言葉を交わす機会を得た。ヴィルが直々にななしを呼び出したのだ。
「この前渡したリップバームの使い心地はどうだった?」
ヴィルは対面に座るななしの唇をじっと見つめた。
先日の乾燥は消え、今は潤いを帯びて柔らかそうな光を放っている。
その変化に彼の心臓がわずかに跳ねた。
「すごく潤って、びっくりしました。やっぱりヴィル先輩ってすごいですね」
「当然よ。アタシが妥協するものなんて、この世に存在しないわ」
「本当にそう思います。先輩の努力とかこだわりを見てると、自分がいかに中途半端か思い知らされるっていうか。だから……」
「だから、何?」
ヴィルの視線が鋭さを増す。
「だから、わたしなんかが先輩の視界に入るのも申し訳ないなって。もっと綺麗で、先輩に相応しい人が周りにたくさんいるのに」
ななしの言葉は決して謙遜や嫌みではなかった。
本気で心からヴィルという存在を崇拝し、自分を低く見積もっている。
それがヴィルには耐え難かった。
なぜ、他の誰かをその口から出すのか。
「アンタのそんな基準はどうでもいいのよ」
「ヴィル先輩……?」
「アタシが今、誰を見て、誰と話していると思っているの? アンタよ、ななし」
ヴィルはテーブルを挟んで身を乗り出し、彼女の手首を掴んだ。
手首が彼の長い指の中にすっぽりと収まる。
掴んだ皮膚の向こうから、彼女の微かな脈動が伝わってくる。
「あの……」
「……なんでアタシが、アンタのことで、こんなに心を乱されなきゃいけないのよ」
最後の一句は、ほとんど呟きに近かった。
ヴィルの瞳の奥に、いつもは見せない焦燥と暗い熱が灯る。
「先輩、手、痛いです……」
ななしの声にハッとしたヴィルは、ゆっくりと指の力を緩めた。
しかし完全に手を離すことはせず、その指先は彼女の掌へと滑り落ち、指を絡めるようにして肌を擦り合わせた。
「痛かったなら謝るわ。でも、アンタがそんな顔でアタシを見るから、調子が狂うのよ」
ヴィルの体温が触れ合う皮膚を通じてななしの中へと流れ込んでいく。夕闇が迫るテラスで、二人の距離は言葉のすれ違いとは裏腹に確実に密なものへと変貌しつつあった。
「わたしは……」
「言い訳は聞きたくないわ」
ヴィルの紡いだ言葉が冷えかけた大気の中に重く、そして酷く熱く溶けていく。
ななしは、ただその圧に圧倒されていた。
彼の長い指がじわじわと力を増し、拒絶を許さないようにその隙間を隙間なく埋めてくる。
「ヴィル先輩……」
「何よ」
「その、本当に、どうかしちゃったんですか? いつもの先輩らしくないっていうか……」
「らしくない、ね。アタシがアンタの前でだけこうなる理由を、アンタは本気で分かっていないの?」
ヴィルは絡めた指先を少しだけ引き寄せた。
二人の距離が、あと数センチメートルというところまで狭まる。
「アタシがどうかしたのだとしたら、それは全部、アンタのその煮え切らない態度のせいよ」
「わたしの、せい……?」
「そう。いつもそうやって、一歩引いた安全な場所からアタシを眺めて、勝手に納得した顔をして。アタシが求めているのは、そんな綺麗に整えられただけの崇拝じゃないわ」
ヴィルの双眸に宿る光が、じっとななしを射抜くように捉えて離さない。その視線の強さにななしは喉の奥が震えるのを感じた。
「でも、わたしは……。先輩の隣にいると自分がすごく惨めに見えちゃって。先輩の綺麗な世界を、わたしが汚しちゃうんじゃないかって、本当にそう思うんです」
「アンタがアタシを汚す?」
ヴィルは低く喉を鳴らすようにして笑った。
だが、その笑みに温度は一切ない。
「大きく出たものね。アタシの世界がアンタ一人に汚されるほど脆弱だとでも思っているの? それとも何、アタシの審美眼に狂いがあるとでも言いたいの?」
「そんなこと…!」
「だったら、アタシが選んだアンタ自身を否定するんじゃないわよ。アンタが自分を卑下することは、アタシに対する最大の侮辱よ」
ヴィルの言葉は傲慢で、それでいてひどく優しかった。
ななしは、彼が自分に向けている感情の重さに、ようやく気づき始めていた。
単なる憐れみでも指導でもない。
もっと暗くて強くて、手放すことを拒むような――執着という名の甘い意思だ。
「……本気、なんですね」
「アタシがいつ、仕事以外で冗談を言ったかしら?」
ヴィルはななしの頬をそっと包み込んだ。
指先が彼女の体温に触れて瞬く間に熱を帯びていく。
親指の腹が彼女の唇の端を優しく、確かめるようにしてなぞった。
「アンタのその、すぐに逃げようとする狡さも、自分を特別だと思わない鈍さも、全部アタシが正してあげる」
「先輩って、結構強引なんですね」
「強引で結構。アンタがアタシをここまで狂わせたんだから、それ相応の責任は取ってもらうわよ」
ななしの瞳に涙が滲む。
それは悲しみではなく、押し流されそうになっていることへの戸惑いだった。だが彼女の手は、ヴィルの指を拒絶するように振り払うことはしなかった。それどころか、彼の大きな手のひらに、すがりつくようにほんの少しだけ自らの頭を預けた。
「……わたし、先輩に追いつけるように、少しは頑張ってもいいですか」
「いいですか、じゃないわ。アタシの隣に立つのよ、死に物狂いでついてきなさい。アタシがその手を引いてあげるわ」
お互いの呼吸が完全に混ざり合い、熱を帯びた空気が二人の間を循環する。
「もう二度と、自分なんか、なんて言わせないわよ、ななし」
「……はい、ヴィル先輩」
夕闇が完全にテラスを支配する頃、二人の間に引かれていた境界線は甘く濃密な熱によって静かに消し去られていた。
