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机の上に広げられた資料の束を揃えていると、背後から音もなく伸びてきた影が書類に重なった。
「ななしさん、こんなところで何をされているんですか?」
聞き慣れた少し朗らかな声。
振り返ったななしの視線の先には、いつもの穏やかな微笑があった。
「ジェイド先輩! 学園長に頼まれた書類の整理をしてたんです」
「よければ、僕も少しお手伝いしましょうか。ちょうど暇を持て余していたところでして」
ジェイドは対面の席に腰を下ろすと、長い指先で書類の端を器用に引き寄せた。彼が手伝い始めると、煩雑だった作業が驚くほどの速度で片付いていく。
「ありがとうございます、助かります」
「あなたのお役に立てるなら、僕としても喜ばしい限りです」
ジェイドは楽しそうに目を細め、手際よく紙を揃えていく。
「ジェイド先輩はいつも優しくて、本当に頼りになります」
「おや、そんな風に言っていただけるなんて光栄です。ですが、僕もそこまで無欲な聖人というわけではありませんよ?」
「どういうことですか?」
「僕がこうしてあなたに手を貸すのは、極めて個人的な下心があるからです」
「またそうやってからかう。でも、ジェイド先輩が優しいのは本当ですから。わたし、すごく感謝してるんです」
「からかってなどいないのですが……僕はいつでも大真面目です」
ジェイドの指先が書類をやり取りする際に少しだけ、ななしの指先に触れた。
普段なら気に留めないような微かな接触。
けれどジェイドは手を引くことなく、そのまま静かにななしを見つめる。
「あなたは僕を信用しきっているのですね」
「だって、ジェイド先輩はわたしにとって、頼りになるお兄さんみたいなものです」
親愛の情を込めて告げられたその言葉が空気をわずかに変えた。
ジェイドの手が、ぴたりと止まる。
「……お兄さん、ですか」
「はい。いつも落ち着いていて、一歩引いて見守ってくれて。本当に理想の先輩って感じです」
ジェイドは手に持っていた用紙をゆっくりと机に置くと、わずかに上体を傾けた。
先ほどまでの、どこか距離感のあった空気が出口を失ったように滞り始める。
「なるほど。理想の先輩、ですか。それはとても名誉なことです。ですが……同時に、これほど物足りない言葉もありませんね」
「ジェイド、先輩……?」
「その呼び方も、今の僕には少し冷たく響きますね。あなたは僕を安全な場所に置いて、決してそこから出そうとしない」
ジェイドの声のトーンが一段低くなる。
いつもの丁寧な口調はそのままだが、響きに含まれる熱が、その場の空気をじわじわと支配していく。
ジェイドはゆっくりと立ち上がり、机を回り込んで歩み寄ってきた。
一歩、また一歩と近づくたびに、彼がまとっている目に見えない存在感が膨れ上がっていく。
「すみません……わたし、何か気に触ることを言いましたか……?」
「いいえ。あなたは何も間違っていません。ただ、僕の欲が少しばかり、あなたの想定を超えてしまっているだけです」
ジェイドは椅子の背もたれに手をかけ、上から覗き込むような姿勢をとった。
逃げ場を塞がれたななしの身体が、かすかに強張る。
「ジェイド先輩、距離が、少し近いです」
「おや、そうですか? 僕としては、これでも随分と我慢しているつもりなのですが。……あなたは本当にひどい人だ」
「ひどい……?」
無自覚に小首を傾げるななしを見て、ジェイドはふっと微笑みを深くした。しかし、その瞳の奥にある光は先ほどまでとは明らかに違っていた。
「ええ、とてもひどいです。僕を先輩という枠に閉じ込めて、自分だけは無邪気に笑っている」
その言葉は、まるで呪文のように静かに耳元で囁かれた。
「僕としては、異性として意識していただきたいのですが」
ジェイドの顔が、さらに一寸の距離まで近づく。
呼吸の気配が肌に直接触れるほどの近さのなか、彼の指先が頬の輪郭をなぞるように動いた。
触れられた場所が、じわじわと熱を帯びていく。
「……っ」
ななしは思わず息を呑み動けなくなる。
ジェイドはその反応を確かめるように、満足げな、それでいてどこか冷徹な光を孕んだ微笑を浮かべた。
「どうしました? 親しい先輩に対する態度としては、少し硬すぎるのではないですか」
「だって、ジェイド先輩が急に、そんなことを言うから……」
「急、ですか。僕にとっては、ずいぶんと長い時間をかけて、ようやく零れ落ちた本音なのですが」
ジェイドの手がななしの頬から顎へと移動し、優しく上を向かせる。
夕日はすでに沈みかけ、周囲は紫色の薄暗闇に包まれ始めていた。
視界が狭まりジェイドの輪郭だけが鮮明に浮かび上がる。
彼の内側から溢れ出る執着とも情熱ともつかない重苦しい感情が、静かにその場を満たしていく。
「あなたが僕をどう思おうと、それはあなたの自由です。ですが、僕があなたをどう思っているかについては……もう隠すのをやめにしようと思いまして」
ジェイドはそう言うと、唇をゆっくりと歪めた。
「……さあ、続きをしましょうか」
何事もなかったかのように手を離し、一歩身を引くジェイド。
しかし一度変化してしまった空気は二度と元には戻らない。
ななしは手元を動かそうとするものの指先が微かに震え、書類が一枚ひらりと机の下へ落ちてしまった。
「あ……」
拾おうと同時に屈んだ拍子に、またしてもジェイドの影が重なる。
床に落ちた紙の上で、ななしの手の上に彼の大きな手が重なった。
今度は偶然を装うことすらしない、確実な質量を持った拘束だった。
「おや、どうかしましたか? 手元が狂うなんて、あなたらしくもない」
「ジェイド先輩、あの……さっき、異性としてって……」
「ええ、言いましたね」
ジェイドは床に膝をついた姿勢のまま、視線だけをまっすぐにななしへ向けた。
薄暗がりのなかで彼の瞳が妖しく濡れたような光を放っている。
「冗談、ですよね……? いつもみたいに、わたしをからかって楽しんでいるんじゃ……」
「僕がそんな、あなたの心を無駄にかき乱すような、非効率的な嘘を吐くと思いますか?」
ジェイドは重ねた手にじわりと力を込め、ななしの指の隙間に自身の長い指をそっと滑り込ませて、絡めていく。
指と指が隙間なく噛み合い、完全に手が固定される。
「……本気、なんですか」
「ええ。最初から、ずっと。あなたが無邪気に笑うたび、僕がどれほど暗い喜びと、それ以上の渇きを覚えていたか……想像できますか?」
ジェイドはゆっくりと立ち上がりながら、繋いだ手を離さないまま優しく引き上げた。
ななしの背中が背後の机に当たる。
ジェイドはその隙を逃さず、今度は両手でななしの身体を挟み込むように机に手をついた。
「ジェイド先輩……」
「まだその呼び方ですか。……まあ、いいでしょう。その、少し怯えたような声で呼ばれるのも、悪くはありません」
ジェイドの顔が、唇が触れそうなほどの距離まで近づく。
彼の言葉が呼吸の熱とともにまっすぐに吹き付けられる。
「ななしさん。あなたのなかで、僕は今どんな風に映っていますか?」
「……っ、それは……」
「ようやく、僕の存在を正しく認識していただけたようだ」
満足げに目を細めたジェイドの表情はどこか酷薄で、それでいて酷く艶っぽかった。
それは普段の学園生活では決して見せることのない彼の姿だった。
ジェイドの放つ圧倒的な熱量に圧され、ななしはその場から動くことも目を逸らすこともできずにいる。
「本当は、このままあなたをどこかへ連れ去ってしまいたい」
「え……?」
「ですが、急にそんなことをすれば、あなたは僕を拒絶してしまうでしょう? 僕は、あなたに嫌われるような愚策は選びません。じっくりと確実に、あなたの日常を僕で埋め尽くしていくと決めました」
ジェイドの長い指先が、今度は耳裏からうなじにかけて、その熱を確かめるようにゆっくりと滑り降りる。
「これからは僕の顔を見るたびに、今日のことを思い出してください。僕に優しくされるたび、その裏にある僕の下心を邪推してください。……そうして、少しずつ僕に溺れていけばいい」
夕闇が二人の輪郭を一つに溶かしていく。
ジェイドはななしの額へ触れるだけの、切ないほどに優しいキスを落とした。
「さあ、書類の整理も終わりましたし、寮までお送りしましょう」
差し出されたジェイドの手のひらは、これからの狂おしい関係の変化を何よりも濃密に物語っていた。
「ななしさん、こんなところで何をされているんですか?」
聞き慣れた少し朗らかな声。
振り返ったななしの視線の先には、いつもの穏やかな微笑があった。
「ジェイド先輩! 学園長に頼まれた書類の整理をしてたんです」
「よければ、僕も少しお手伝いしましょうか。ちょうど暇を持て余していたところでして」
ジェイドは対面の席に腰を下ろすと、長い指先で書類の端を器用に引き寄せた。彼が手伝い始めると、煩雑だった作業が驚くほどの速度で片付いていく。
「ありがとうございます、助かります」
「あなたのお役に立てるなら、僕としても喜ばしい限りです」
ジェイドは楽しそうに目を細め、手際よく紙を揃えていく。
「ジェイド先輩はいつも優しくて、本当に頼りになります」
「おや、そんな風に言っていただけるなんて光栄です。ですが、僕もそこまで無欲な聖人というわけではありませんよ?」
「どういうことですか?」
「僕がこうしてあなたに手を貸すのは、極めて個人的な下心があるからです」
「またそうやってからかう。でも、ジェイド先輩が優しいのは本当ですから。わたし、すごく感謝してるんです」
「からかってなどいないのですが……僕はいつでも大真面目です」
ジェイドの指先が書類をやり取りする際に少しだけ、ななしの指先に触れた。
普段なら気に留めないような微かな接触。
けれどジェイドは手を引くことなく、そのまま静かにななしを見つめる。
「あなたは僕を信用しきっているのですね」
「だって、ジェイド先輩はわたしにとって、頼りになるお兄さんみたいなものです」
親愛の情を込めて告げられたその言葉が空気をわずかに変えた。
ジェイドの手が、ぴたりと止まる。
「……お兄さん、ですか」
「はい。いつも落ち着いていて、一歩引いて見守ってくれて。本当に理想の先輩って感じです」
ジェイドは手に持っていた用紙をゆっくりと机に置くと、わずかに上体を傾けた。
先ほどまでの、どこか距離感のあった空気が出口を失ったように滞り始める。
「なるほど。理想の先輩、ですか。それはとても名誉なことです。ですが……同時に、これほど物足りない言葉もありませんね」
「ジェイド、先輩……?」
「その呼び方も、今の僕には少し冷たく響きますね。あなたは僕を安全な場所に置いて、決してそこから出そうとしない」
ジェイドの声のトーンが一段低くなる。
いつもの丁寧な口調はそのままだが、響きに含まれる熱が、その場の空気をじわじわと支配していく。
ジェイドはゆっくりと立ち上がり、机を回り込んで歩み寄ってきた。
一歩、また一歩と近づくたびに、彼がまとっている目に見えない存在感が膨れ上がっていく。
「すみません……わたし、何か気に触ることを言いましたか……?」
「いいえ。あなたは何も間違っていません。ただ、僕の欲が少しばかり、あなたの想定を超えてしまっているだけです」
ジェイドは椅子の背もたれに手をかけ、上から覗き込むような姿勢をとった。
逃げ場を塞がれたななしの身体が、かすかに強張る。
「ジェイド先輩、距離が、少し近いです」
「おや、そうですか? 僕としては、これでも随分と我慢しているつもりなのですが。……あなたは本当にひどい人だ」
「ひどい……?」
無自覚に小首を傾げるななしを見て、ジェイドはふっと微笑みを深くした。しかし、その瞳の奥にある光は先ほどまでとは明らかに違っていた。
「ええ、とてもひどいです。僕を先輩という枠に閉じ込めて、自分だけは無邪気に笑っている」
その言葉は、まるで呪文のように静かに耳元で囁かれた。
「僕としては、異性として意識していただきたいのですが」
ジェイドの顔が、さらに一寸の距離まで近づく。
呼吸の気配が肌に直接触れるほどの近さのなか、彼の指先が頬の輪郭をなぞるように動いた。
触れられた場所が、じわじわと熱を帯びていく。
「……っ」
ななしは思わず息を呑み動けなくなる。
ジェイドはその反応を確かめるように、満足げな、それでいてどこか冷徹な光を孕んだ微笑を浮かべた。
「どうしました? 親しい先輩に対する態度としては、少し硬すぎるのではないですか」
「だって、ジェイド先輩が急に、そんなことを言うから……」
「急、ですか。僕にとっては、ずいぶんと長い時間をかけて、ようやく零れ落ちた本音なのですが」
ジェイドの手がななしの頬から顎へと移動し、優しく上を向かせる。
夕日はすでに沈みかけ、周囲は紫色の薄暗闇に包まれ始めていた。
視界が狭まりジェイドの輪郭だけが鮮明に浮かび上がる。
彼の内側から溢れ出る執着とも情熱ともつかない重苦しい感情が、静かにその場を満たしていく。
「あなたが僕をどう思おうと、それはあなたの自由です。ですが、僕があなたをどう思っているかについては……もう隠すのをやめにしようと思いまして」
ジェイドはそう言うと、唇をゆっくりと歪めた。
「……さあ、続きをしましょうか」
何事もなかったかのように手を離し、一歩身を引くジェイド。
しかし一度変化してしまった空気は二度と元には戻らない。
ななしは手元を動かそうとするものの指先が微かに震え、書類が一枚ひらりと机の下へ落ちてしまった。
「あ……」
拾おうと同時に屈んだ拍子に、またしてもジェイドの影が重なる。
床に落ちた紙の上で、ななしの手の上に彼の大きな手が重なった。
今度は偶然を装うことすらしない、確実な質量を持った拘束だった。
「おや、どうかしましたか? 手元が狂うなんて、あなたらしくもない」
「ジェイド先輩、あの……さっき、異性としてって……」
「ええ、言いましたね」
ジェイドは床に膝をついた姿勢のまま、視線だけをまっすぐにななしへ向けた。
薄暗がりのなかで彼の瞳が妖しく濡れたような光を放っている。
「冗談、ですよね……? いつもみたいに、わたしをからかって楽しんでいるんじゃ……」
「僕がそんな、あなたの心を無駄にかき乱すような、非効率的な嘘を吐くと思いますか?」
ジェイドは重ねた手にじわりと力を込め、ななしの指の隙間に自身の長い指をそっと滑り込ませて、絡めていく。
指と指が隙間なく噛み合い、完全に手が固定される。
「……本気、なんですか」
「ええ。最初から、ずっと。あなたが無邪気に笑うたび、僕がどれほど暗い喜びと、それ以上の渇きを覚えていたか……想像できますか?」
ジェイドはゆっくりと立ち上がりながら、繋いだ手を離さないまま優しく引き上げた。
ななしの背中が背後の机に当たる。
ジェイドはその隙を逃さず、今度は両手でななしの身体を挟み込むように机に手をついた。
「ジェイド先輩……」
「まだその呼び方ですか。……まあ、いいでしょう。その、少し怯えたような声で呼ばれるのも、悪くはありません」
ジェイドの顔が、唇が触れそうなほどの距離まで近づく。
彼の言葉が呼吸の熱とともにまっすぐに吹き付けられる。
「ななしさん。あなたのなかで、僕は今どんな風に映っていますか?」
「……っ、それは……」
「ようやく、僕の存在を正しく認識していただけたようだ」
満足げに目を細めたジェイドの表情はどこか酷薄で、それでいて酷く艶っぽかった。
それは普段の学園生活では決して見せることのない彼の姿だった。
ジェイドの放つ圧倒的な熱量に圧され、ななしはその場から動くことも目を逸らすこともできずにいる。
「本当は、このままあなたをどこかへ連れ去ってしまいたい」
「え……?」
「ですが、急にそんなことをすれば、あなたは僕を拒絶してしまうでしょう? 僕は、あなたに嫌われるような愚策は選びません。じっくりと確実に、あなたの日常を僕で埋め尽くしていくと決めました」
ジェイドの長い指先が、今度は耳裏からうなじにかけて、その熱を確かめるようにゆっくりと滑り降りる。
「これからは僕の顔を見るたびに、今日のことを思い出してください。僕に優しくされるたび、その裏にある僕の下心を邪推してください。……そうして、少しずつ僕に溺れていけばいい」
夕闇が二人の輪郭を一つに溶かしていく。
ジェイドはななしの額へ触れるだけの、切ないほどに優しいキスを落とした。
「さあ、書類の整理も終わりましたし、寮までお送りしましょう」
差し出されたジェイドの手のひらは、これからの狂おしい関係の変化を何よりも濃密に物語っていた。
