ハーツラビュル
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放課後の図書室は魔導書の古い紙の匂いと窓から差し込む夕暮れの光に満ちていた。山のように積み上がった参考書の隙間で、デュースとななしは向かい合って座っている。
「……くそ、全然意味がわかんねえ……」
デュースがガシガシと自分の頭を掻きむしった。
手元のノートには間違えて何度も消しゴムをかけた跡が白く残っている。普段のきっちりとした制服の着こなしとは裏腹に、ネクタイが少し緩められているのが彼の余裕のなさを物語っていた。
「デュース、落ち着いて。まだ次の小テストまで時間はあるから」
「今回の錬金術の追試、これ以上点数が下がったらローズハート寮長に何を言われるか……。いや、それだけじゃない。真面目な学生になるって、もう決めたんだ。こんなところで躓いてる場合じゃないのに」
焦りからか、少しだけ語気が強くなる。
デュースはハッとしたように口を噤み申し訳なさそうにななしを見た。
「……ごめん。ななしに八つ当たりして、どうするんだよな。お前だって自分の課題があるのに付き合ってもらって……本当に情けない」
「そんなことないよ。私もこの前の授業、ちょっと聞き逃しちゃったところあるし。二人でやった方が一人で悩むよりずっといいよ」
「ななし……」
デュースはペンを握り直した。その瞳には申し訳なさと、それ以上の真剣な光が宿っている。
「……なあ、この計算なんだけどさ。ここの数字、なんで急に変わるんだ? 授業で言ってたこと、ノートに書き留めるのが追いつかなくて」
「あ、そこはね。周りの温度も計算に入れなきゃいけないって言ってたやつだよ。ほら、あのとき煙が出ちゃったじゃない?」
「う……あのときのことか。思い出しただけで冷や汗が出る」
「そのときの、周囲の温度が関係してるんだって。だから、ここの基本数値に、この表の数字を足すんだよ」
ななしがノートをデュースの方へと滑らせ、指先で該当する箇所を示した。
「……あ。なるほど、そういうことか」
デュースがななしのノートを覗き込もうと、ぐっと身を乗り出す。
その瞬間、二人の距離が急激に縮まった。
図書室の静寂が二人の間にゆっくりと降りていく。
時折、遠くの席でページがめくられる音が聞こえるだけで、二人の境界線が曖昧になるほど互いの存在が大きく感じられた。
「こうして……ここに足せばいいんだな?」
「うん、そう。合ってる」
デュースは真剣にペンを動かしているが、その耳の先端がほんのりと赤い。
ななしがノートをめくるたび、微かに動く彼女の指先にデュースの視線が何度も吸い寄せられては慌てて手元の計算式へと戻されていた。
彼が大きく息を吸い込むたび、わずかに近づく彼の体温と真剣な横顔にななしの胸が小さく跳ねる。
「……あの、さ」
「ん? どうしたの?」
デュースが急にペンを止め、まっすぐにななしを見た。
真面目で少し緊張したような硬い声音。
「次の週末、なんだけど」
「うん」
「その……何か予定、あるか?」
「特にないけど。何かあるの?」
デュースはペンを無意味に指先で弄びながら視線を泳がせた。
「いや、その。特にないなら、さ。……次の小テストの範囲、僕一人だとどうしてもまた分からなくなりそうで。もし、ななしが迷惑じゃなければ、またこうして一緒に勉強してくれないかって……」
「もちろんいいよ。私もデュースと一緒に勉強するの、楽しいし」
「楽しい、か……?」
「うん。デュース、一生懸命だから私も頑張らなきゃって思えるんだよ」
ななしがふわりと微笑むとデュースは途端に顔を真っ赤にして、持っていたペンを落としそうになった。
「あ、いや! 僕はその、お前に頼ってばかりで、全然格好いいところ見せられてないし! もっと、こう……頼りになる男になりたいって思ってるのに」
「ふふ、何それ。今のままでも十分頼りにしてるよ」
「……っ」
墓穴を掘ったことに気づいたのか、デュースは両手で顔を覆ってしまった。指の隙間から覗く肌が夕暮れの光よりも赤く染まっている。
「……じゃあ、約束な。週末、オンボロ寮でも、どこでも行くから」
「うん、約束ね」
デュースはゆっくりと手を下ろし、それから少し照れくさそうに笑った。
窓際から吹き込んだ風がななしの髪をふわりと揺らす。
デュースは小さく息を呑み、ほんの少しだけ椅子の位置をななしの方へと引き寄せた。吸い寄せられるようなその自然な動きに、心臓が跳ねる。
「……ななし」
「なあに?」
「……いや、なんでもない。次の問題、早く終わらせて購買にでも行こう」
重なる視線の中に、まだ名前のつかない熱がほんのりと灯り始めていた。
◇
約束の週末、オンボロ寮にはいつもと違う濃密な時間が流れていた。
窓の外はあいにくの雨で、古い建物特有の湿った冷気が足元をかすめていく。暖炉に火は入っていなかったが、ソファの上に広げられた大きなブランケットが二人の境界線を曖昧に区切っていた。
「……できた。今度こそ、これで合ってるはずだ」
デュースが弾かれたように顔を上げ、手書きの解答用紙をななしに差し出した。
「うん……すごい、全問正解だよデュース!」
「本当か!? よしっ……!」
デュースは子供のように顔を輝かせ小さく拳を握った。
喜びのあまりななしの顔を覗き込むようにして距離が詰まる。お互いの膝がブランケットの薄い生地を挟んで小さくぶつかった。
「……あ。すまない、つい興奮して」
「ううん、大丈夫。デュースが頑張ったからだよ」
「お前が根気強く付き合ってくれたおかげだ」
そう言って照れくさそうに笑うデュースの顔がすぐ近くにある。
彼の大きな身体が動くたび、狭いソファのクッションが小さく沈み、その振動がダイレクトにななしへと伝わってきた。
雨の音が世界を二人きりの中に閉じ込めていく。
図書室のときよりもさらに近い距離。静寂が長引くにつれ、空気がじわじわと形を変えていくのがわかった。
「……なあ、ななし」
「ん?」
「お前、手が冷えてないか?」
デュースが自分の手を少し持ち上げ躊躇うように空中で止めた。
彼の大きな手は見るからに頑丈で、そして温かそうだった。
「少し冷たいかも。雨のせいかな」
「やっぱりな。見てて、ずっと寒そうだと思ってたんだ」
デュースはそう言うと自分が使っていた側のブランケットの端をぐっと引っ張り、ななしの肩へと掛け直した。
その際、彼の大きな手のひらがななしの肩口に一瞬だけ触れる。
「あ……ありがと、デュース」
「その……もっと近くに寄れば、少しは温かいんじゃないか?」
「え……?」
「あっ、変な意味じゃないんだ! その、お前が風邪を引いたら大変だし、僕の体温は昔から高めだから、その、役に立つかと思って!」
慌てて顔を真っ赤にするデュースの言葉は、いつも通り真っ直ぐで不器用だった。
けれど、その必死な表情とは裏腹に、彼の身体から放たれる熱が確実に二人の間の空気を爆発的に熱くしていく。
ななしが小さく頷き、ほんの数センチだけ身体を寄せると、デュースは微かに息を詰まらせた。
肩と肩が触れ合う。
それはほんの少しの面積のはずなのに、そこから全身に向けてドクドクと熱い血液が巡っていくような錯覚に囚われる。
デュースの胸が緊張でいつもより大きく上下しているのが分かった。彼が息を吸い込むたび、かすかに衣類から香る石鹸の匂いのような彼自身の体温の匂いがななしを包み込む。
「……ななし」
「……うん」
「お前の髪、少し濡れてる。さっき外に出たときか?」
「そう? 気づかなかった」
「だめだろ、ちゃんと拭かないと」
デュースはそう言いながら自分の大きくて不器用な指先を、そっとななしの毛先に滑らせた。
触れるか触れないかのような、優しくてひどく慎重な手つき。
その指先がななしのうなじの薄い肌に微かにかすれた瞬間、二人の間に走ったのは火花のような甘い戦慄だった。
「デュース……」
「……っ、すまない。僕、また勝手に……」
デュースが慌てて手を引こうとした。
けれど、その視線はななしの唇のあたりを彷徨ったあと、じっと彼女の瞳に吸い寄せられたまま動かなくなる。
雨の音に混じって、どちらのものか分からない激しい鼓動がラウンジに響いている気がした。お互いの吐息が混ざり合うほどの距離でデュースの喉が小さく動く。
「……嫌じゃ、ないか?」
掠れた、いつもよりずっと低い声がななしの耳元を揺らした。
ななしの答えを待つ数秒の間、デュースの指先が微かに震えていた。真面目で不器用で、いつだって正道を進もうとする彼が、猛烈な衝動と理性の狭間で必死に踏みとどまっているのが、触れ合う肩から伝わる熱量だけで痛いほどに分かる。
ななしが小さく首を振ると、デュースの瞳の奥の光が深いものに変わった。
「ななし……」
名前を呼ぶ吐息がななしの頬を優しく撫でる。
デュースの大きな手が今度は迷うことなくななしの頬に添えられた。男の子らしい、少し固くて熱い手のひら。その体温が肌に触れた瞬間、頭の奥がじわリと痺れるような感覚に襲われる。
お互いの視線が、もう一秒も逸らすことができないほど強く絡み合っていた。
図書室で始まった小さな火種が、ブランケットの温もりの中で完全に二人を焼き尽くそうとしている。
デュースがゆっくりと顔を近づけてくる。
近づくほどに彼の長い睫毛が微かに震えているのが見えた。お互いの鼻先が触れ合い、混ざり合う吐息が熱を帯びて、すべてが溶けてしまいそうになった、その時。
バタン!! と、重い扉が勢いよく撥ね上がった。
「グリム様のおかえりなんだゾーーー!!」
静寂を引き裂く大声と共に、ずぶ濡れの灰色の一塊がドタバタと室内に転がり込んでくる。
「おい、子分! デュース! 早くオレ様にツナ缶を差し出すんだゾ! 外は雨で最悪だし、お腹と背中がくっつきそうなんだゾ!」
「う、うわあああっ!?」
デュースはまるでスプリングが仕込まれていたかのように、跳ね上がってソファの端へと飛び退いた。その拍子に机の上の参考書が数冊床に落ち、派手な音を立てる。
「グ、グ、グリム……! お前、なんで今……!?」
「なんでって、腹が減ったからに決まってるんだゾ? なんだ、お前ら二人して顔を真っ赤にして。さてはオレ様に内緒で美味いもん食ってたな!?」
グリムが不満げに尻尾を揺らしながら、二人の間のブランケットへと割り込んできた。
「ち、違う! 勉強してただけだ!」
デュースは顔を耳の根元まで真っ赤に染め上げ、必死に自分の髪をガシガシと掻きむしって誤魔化そうとしているが、手が震えて全く手元に収まっていない。
「怪しいんだゾ……。それよりツナ缶だゾ!」
足元で騒ぐグリムの声を遠くに聞きながら、デュースはゆっくりとななしへと視線を戻した。まだ赤みが引かない顔のまま、彼はばつが悪そうに、けれどどこか名残惜しそうに唇を小さく結ぶ。
「……その、ななし」
「うん?」
「……続きは、また今度。……な?」
グリムに見つからないようにデュースは小さな声でそう呟くと、ふいっと顔を背けて床の参考書を拾い始めた。
隠しきれないその声の甘さと、引き返せないところまで育ってしまった二人の熱は、雨の音の中に静かに確実に溶け残っていた。
「……くそ、全然意味がわかんねえ……」
デュースがガシガシと自分の頭を掻きむしった。
手元のノートには間違えて何度も消しゴムをかけた跡が白く残っている。普段のきっちりとした制服の着こなしとは裏腹に、ネクタイが少し緩められているのが彼の余裕のなさを物語っていた。
「デュース、落ち着いて。まだ次の小テストまで時間はあるから」
「今回の錬金術の追試、これ以上点数が下がったらローズハート寮長に何を言われるか……。いや、それだけじゃない。真面目な学生になるって、もう決めたんだ。こんなところで躓いてる場合じゃないのに」
焦りからか、少しだけ語気が強くなる。
デュースはハッとしたように口を噤み申し訳なさそうにななしを見た。
「……ごめん。ななしに八つ当たりして、どうするんだよな。お前だって自分の課題があるのに付き合ってもらって……本当に情けない」
「そんなことないよ。私もこの前の授業、ちょっと聞き逃しちゃったところあるし。二人でやった方が一人で悩むよりずっといいよ」
「ななし……」
デュースはペンを握り直した。その瞳には申し訳なさと、それ以上の真剣な光が宿っている。
「……なあ、この計算なんだけどさ。ここの数字、なんで急に変わるんだ? 授業で言ってたこと、ノートに書き留めるのが追いつかなくて」
「あ、そこはね。周りの温度も計算に入れなきゃいけないって言ってたやつだよ。ほら、あのとき煙が出ちゃったじゃない?」
「う……あのときのことか。思い出しただけで冷や汗が出る」
「そのときの、周囲の温度が関係してるんだって。だから、ここの基本数値に、この表の数字を足すんだよ」
ななしがノートをデュースの方へと滑らせ、指先で該当する箇所を示した。
「……あ。なるほど、そういうことか」
デュースがななしのノートを覗き込もうと、ぐっと身を乗り出す。
その瞬間、二人の距離が急激に縮まった。
図書室の静寂が二人の間にゆっくりと降りていく。
時折、遠くの席でページがめくられる音が聞こえるだけで、二人の境界線が曖昧になるほど互いの存在が大きく感じられた。
「こうして……ここに足せばいいんだな?」
「うん、そう。合ってる」
デュースは真剣にペンを動かしているが、その耳の先端がほんのりと赤い。
ななしがノートをめくるたび、微かに動く彼女の指先にデュースの視線が何度も吸い寄せられては慌てて手元の計算式へと戻されていた。
彼が大きく息を吸い込むたび、わずかに近づく彼の体温と真剣な横顔にななしの胸が小さく跳ねる。
「……あの、さ」
「ん? どうしたの?」
デュースが急にペンを止め、まっすぐにななしを見た。
真面目で少し緊張したような硬い声音。
「次の週末、なんだけど」
「うん」
「その……何か予定、あるか?」
「特にないけど。何かあるの?」
デュースはペンを無意味に指先で弄びながら視線を泳がせた。
「いや、その。特にないなら、さ。……次の小テストの範囲、僕一人だとどうしてもまた分からなくなりそうで。もし、ななしが迷惑じゃなければ、またこうして一緒に勉強してくれないかって……」
「もちろんいいよ。私もデュースと一緒に勉強するの、楽しいし」
「楽しい、か……?」
「うん。デュース、一生懸命だから私も頑張らなきゃって思えるんだよ」
ななしがふわりと微笑むとデュースは途端に顔を真っ赤にして、持っていたペンを落としそうになった。
「あ、いや! 僕はその、お前に頼ってばかりで、全然格好いいところ見せられてないし! もっと、こう……頼りになる男になりたいって思ってるのに」
「ふふ、何それ。今のままでも十分頼りにしてるよ」
「……っ」
墓穴を掘ったことに気づいたのか、デュースは両手で顔を覆ってしまった。指の隙間から覗く肌が夕暮れの光よりも赤く染まっている。
「……じゃあ、約束な。週末、オンボロ寮でも、どこでも行くから」
「うん、約束ね」
デュースはゆっくりと手を下ろし、それから少し照れくさそうに笑った。
窓際から吹き込んだ風がななしの髪をふわりと揺らす。
デュースは小さく息を呑み、ほんの少しだけ椅子の位置をななしの方へと引き寄せた。吸い寄せられるようなその自然な動きに、心臓が跳ねる。
「……ななし」
「なあに?」
「……いや、なんでもない。次の問題、早く終わらせて購買にでも行こう」
重なる視線の中に、まだ名前のつかない熱がほんのりと灯り始めていた。
◇
約束の週末、オンボロ寮にはいつもと違う濃密な時間が流れていた。
窓の外はあいにくの雨で、古い建物特有の湿った冷気が足元をかすめていく。暖炉に火は入っていなかったが、ソファの上に広げられた大きなブランケットが二人の境界線を曖昧に区切っていた。
「……できた。今度こそ、これで合ってるはずだ」
デュースが弾かれたように顔を上げ、手書きの解答用紙をななしに差し出した。
「うん……すごい、全問正解だよデュース!」
「本当か!? よしっ……!」
デュースは子供のように顔を輝かせ小さく拳を握った。
喜びのあまりななしの顔を覗き込むようにして距離が詰まる。お互いの膝がブランケットの薄い生地を挟んで小さくぶつかった。
「……あ。すまない、つい興奮して」
「ううん、大丈夫。デュースが頑張ったからだよ」
「お前が根気強く付き合ってくれたおかげだ」
そう言って照れくさそうに笑うデュースの顔がすぐ近くにある。
彼の大きな身体が動くたび、狭いソファのクッションが小さく沈み、その振動がダイレクトにななしへと伝わってきた。
雨の音が世界を二人きりの中に閉じ込めていく。
図書室のときよりもさらに近い距離。静寂が長引くにつれ、空気がじわじわと形を変えていくのがわかった。
「……なあ、ななし」
「ん?」
「お前、手が冷えてないか?」
デュースが自分の手を少し持ち上げ躊躇うように空中で止めた。
彼の大きな手は見るからに頑丈で、そして温かそうだった。
「少し冷たいかも。雨のせいかな」
「やっぱりな。見てて、ずっと寒そうだと思ってたんだ」
デュースはそう言うと自分が使っていた側のブランケットの端をぐっと引っ張り、ななしの肩へと掛け直した。
その際、彼の大きな手のひらがななしの肩口に一瞬だけ触れる。
「あ……ありがと、デュース」
「その……もっと近くに寄れば、少しは温かいんじゃないか?」
「え……?」
「あっ、変な意味じゃないんだ! その、お前が風邪を引いたら大変だし、僕の体温は昔から高めだから、その、役に立つかと思って!」
慌てて顔を真っ赤にするデュースの言葉は、いつも通り真っ直ぐで不器用だった。
けれど、その必死な表情とは裏腹に、彼の身体から放たれる熱が確実に二人の間の空気を爆発的に熱くしていく。
ななしが小さく頷き、ほんの数センチだけ身体を寄せると、デュースは微かに息を詰まらせた。
肩と肩が触れ合う。
それはほんの少しの面積のはずなのに、そこから全身に向けてドクドクと熱い血液が巡っていくような錯覚に囚われる。
デュースの胸が緊張でいつもより大きく上下しているのが分かった。彼が息を吸い込むたび、かすかに衣類から香る石鹸の匂いのような彼自身の体温の匂いがななしを包み込む。
「……ななし」
「……うん」
「お前の髪、少し濡れてる。さっき外に出たときか?」
「そう? 気づかなかった」
「だめだろ、ちゃんと拭かないと」
デュースはそう言いながら自分の大きくて不器用な指先を、そっとななしの毛先に滑らせた。
触れるか触れないかのような、優しくてひどく慎重な手つき。
その指先がななしのうなじの薄い肌に微かにかすれた瞬間、二人の間に走ったのは火花のような甘い戦慄だった。
「デュース……」
「……っ、すまない。僕、また勝手に……」
デュースが慌てて手を引こうとした。
けれど、その視線はななしの唇のあたりを彷徨ったあと、じっと彼女の瞳に吸い寄せられたまま動かなくなる。
雨の音に混じって、どちらのものか分からない激しい鼓動がラウンジに響いている気がした。お互いの吐息が混ざり合うほどの距離でデュースの喉が小さく動く。
「……嫌じゃ、ないか?」
掠れた、いつもよりずっと低い声がななしの耳元を揺らした。
ななしの答えを待つ数秒の間、デュースの指先が微かに震えていた。真面目で不器用で、いつだって正道を進もうとする彼が、猛烈な衝動と理性の狭間で必死に踏みとどまっているのが、触れ合う肩から伝わる熱量だけで痛いほどに分かる。
ななしが小さく首を振ると、デュースの瞳の奥の光が深いものに変わった。
「ななし……」
名前を呼ぶ吐息がななしの頬を優しく撫でる。
デュースの大きな手が今度は迷うことなくななしの頬に添えられた。男の子らしい、少し固くて熱い手のひら。その体温が肌に触れた瞬間、頭の奥がじわリと痺れるような感覚に襲われる。
お互いの視線が、もう一秒も逸らすことができないほど強く絡み合っていた。
図書室で始まった小さな火種が、ブランケットの温もりの中で完全に二人を焼き尽くそうとしている。
デュースがゆっくりと顔を近づけてくる。
近づくほどに彼の長い睫毛が微かに震えているのが見えた。お互いの鼻先が触れ合い、混ざり合う吐息が熱を帯びて、すべてが溶けてしまいそうになった、その時。
バタン!! と、重い扉が勢いよく撥ね上がった。
「グリム様のおかえりなんだゾーーー!!」
静寂を引き裂く大声と共に、ずぶ濡れの灰色の一塊がドタバタと室内に転がり込んでくる。
「おい、子分! デュース! 早くオレ様にツナ缶を差し出すんだゾ! 外は雨で最悪だし、お腹と背中がくっつきそうなんだゾ!」
「う、うわあああっ!?」
デュースはまるでスプリングが仕込まれていたかのように、跳ね上がってソファの端へと飛び退いた。その拍子に机の上の参考書が数冊床に落ち、派手な音を立てる。
「グ、グ、グリム……! お前、なんで今……!?」
「なんでって、腹が減ったからに決まってるんだゾ? なんだ、お前ら二人して顔を真っ赤にして。さてはオレ様に内緒で美味いもん食ってたな!?」
グリムが不満げに尻尾を揺らしながら、二人の間のブランケットへと割り込んできた。
「ち、違う! 勉強してただけだ!」
デュースは顔を耳の根元まで真っ赤に染め上げ、必死に自分の髪をガシガシと掻きむしって誤魔化そうとしているが、手が震えて全く手元に収まっていない。
「怪しいんだゾ……。それよりツナ缶だゾ!」
足元で騒ぐグリムの声を遠くに聞きながら、デュースはゆっくりとななしへと視線を戻した。まだ赤みが引かない顔のまま、彼はばつが悪そうに、けれどどこか名残惜しそうに唇を小さく結ぶ。
「……その、ななし」
「うん?」
「……続きは、また今度。……な?」
グリムに見つからないようにデュースは小さな声でそう呟くと、ふいっと顔を背けて床の参考書を拾い始めた。
隠しきれないその声の甘さと、引き返せないところまで育ってしまった二人の熱は、雨の音の中に静かに確実に溶け残っていた。
