ディアソムニア
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放課後の廊下に、いつもより少し低い足音が響いていた。
窓の外からは夕暮れ前の曖昧な光が差し込んでいる。
「ななし」
不意に名前を呼ばれ、ななしが振り返るとセベクが立っていた。普段の圧倒されるような大声ではなく、どこか声音を抑えたような響きが廊下の静寂に混ざる。
「セベク。どうしたの?」
「いや、若様の元へ向かう途中、偶然見かけたから声をかけただけだ」
「そっか。ちょうど、次の課題に使う資料をまとめ終わって、片付けに行こうとしてたところなんだ」
腕に抱えた厚みのある資料が示されると、セベクの視線がそちらへ動く。彼は少しだけ眉をひそめたが、すぐに真っ直ぐな眼差しを戻した。
「そんな重そうなものを一人で運ぶつもりか? 僕が持とう」
「え、でもセベクは今から先輩のところに行くんでしょう? 悪いよ」
「構わない。まだ十分な時間がある」
セベクはななしの手元へ滑り込ませるように手を伸ばし、ファイルを引き取った。その瞬間二人の指先がわずかに擦れ合う。お互いの距離が縮まり、肌に届く体温が一段と近くなった。
「あ、ありがとう」
「礼には及ばない。さあ、行くぞ。案内しろ」
二人は並んで歩き出す。
いつもなら廊下に響き渡るはずのセベクの声は今は少しだけ低く、耳の奥に直接届くような響き方をしていた。沈黙が流れるたび、窓から吹き込む風が二人の間を通り抜けていく。そこには言葉にできない微かな空気の揺らぎが存在していた。
「セベクは、いつもマレウス先輩の話をしてるよね」
何気ない問いかけにセベクは一瞬だけ足を止め、それからまた同じ歩調で歩き始めた。
「当然だ。僕にとって若様は絶対であり、すべてだからな。貴様だって、それくらい理解しているだろう?」
「うん、知ってる。でも、なんて言うか……こうして二人で歩いてるときに、自分の話をされると、ちょっと新鮮かも」
「自分の話……? 僕が、自分の話を?」
セベクは不思議そうに小首を傾げた。その表情には、本当に自覚がないといった様子が浮かんでいる。
「そうだよ。いつもは若様がって主語が多いから。今のセベクは、自分の意志で私を手伝ってくれてるわけでしょ?」
「……それは、そうだ。僕がそうすべきだと判断したからであって、他意はない」
セベクは少しだけ視線を逸らしファイルの角を握り直した。その指先に、ほんの少しだけ力が入る。
「他意がなくても、嬉しいよ。ありがとね」
「ふん、貴様は少し大袈裟だ。これくらい感謝されるようなことではない」
ぶっきらぼうな口調の中に、ほんのりと熱が混ざり始める。
廊下を進むにつれ夕日の赤みが少しずつ濃くなっていった。二人の影が床に長く伸び、時折歩くタイミングが重なるたびに影が一つに溶け合う。
「ななし」
「ん?」
「その……いつもそんな風に、誰にでも気安く声をかけるのか?」
「え? 誰にでもってわけじゃないよ。セベクだから、普通に話してるだけ」
「僕だから、だと?」
セベクの足が完全に止まった。
西日が差し込む図書室前の廊下。逆光になったセベクの輪郭が夕日のオレンジ色に縁取られてぼやける。表情の細部までは判別できないが、彼から発せられる空気が先ほどよりも確実に温度を上げている。呼吸の音がいつもより少しだけ深く、静かに廊下に響いた。
「……変な意味じゃなくて。セベクはいつも真っ直ぐだから、私も話しやすいんだよ」
ななしが歩みを止めセベクと視線を合わせる。
セベクの視線が、逃げ場のないほどななしに注がれていた。彼の肌に夕日の熱とは違う、じわじわとした高揚のようなものが滲んでいる。
「貴様は、本当に……」
セベクの言葉が途切れた。
その手にあるファイルを持つ指が小さく震える。彼は何かを堪えるように喉を一度鳴らした。
「セベク?」
「いや、何でもない。先を急ごう。このままでは若様を待たせてしまうかもしれないからな」
セベクは再び歩き出したが、その歩幅は先ほどよりもわずかに狭く、ななしの速度に寄り添うようなものに変わっていた。
すれ違う風の中に、お互いの気配が濃く混ざり始める。言葉にすれば壊れてしまいそうな熱を帯びた沈黙が、二人の間にじわじわと満ちていった。
渡り廊下を進むにつれ周囲の喧騒はさらに遠のいていく。
窓の外には、すっかり赤みを増した空が広がっていた。建物の隙間を抜ける風が時折二人の制服の裾を小さく揺らす。
「資料室は、この先だったな」
「あ、うん。ちょっと奥まった場所にあるから、持ってもらうの本当に申し訳ないな」
「何度も言うが、これくらい僕にとっては無に等しい。それよりも、貴様の足取りが先ほどから少し遅いようだが……疲れたのか?」
セベクは歩調を緩めななしの顔をのぞき込むようにした。
その距離は先ほど指先が触れ合ったときよりも、さらに一歩分近い。
「ううん、疲れてないよ。ただ夕日が綺麗だから、ついゆっくり歩きたくなっちゃって」
「ふん、そんなものを眺める余裕があるなら、もっと鍛錬に時間を割くべきだと思うが」
「セベクは本当に真面目だね。でも、たまにはこういう時間も良くない?」
ななしが小さく笑うと、セベクは言葉に詰まったように唇を真一文字に結んだ。
彼の視線がななしの目元から緩やかに動く唇へと一瞬だけ移り、またすぐに逸らされる。廊下に差し込む西日の熱のせいか、彼の耳の裏が先ほどよりも少しだけ赤みを帯びているように見えた。
「……悪くは、ないかもしれないな」
「え?」
「何でもない! 独り言だ!」
急にいつもの声量に戻りかけたセベクの声が狭い渡り廊下に反響する。セベクはハッとしたように自分で自分の口を手で覆い、それから周囲を気にするように視線を泳がせた。
「あはは、びっくりした」
「笑うな! 貴様が妙なことを言うから、調子が狂うんだ!」
セベクはそっぽを向いたが、その首筋には熱が上っていた。
彼が抱えているファイルを持つ手に、さらにぎゅっと力がこもる。紙がわずかに擦れる音が二人の間の沈黙をいっそう際立たせていた。
「調子、狂わせちゃったならごめんね」
「謝る必要はない。ただ……貴様といると、どうにも普段通りのペースが保てなくなるのは事実だ。それがなぜなのか、僕自身にもよく分からないのだが」
セベクの声音が再び低く落ち着いたものに変わる。
その言葉は、まるで自分の内側にある正体不明の感情を、一つ一つ確かめるように紡がれていた。
「セベク……」
「貴様は、僕が若様の話をするとき以外の顔を、よく見ている気がする。気のせいかもしれないが……いや、気のせいではないな。現に今も、貴様は僕の言葉を真っ直ぐに聞いている」
二人の歩みが自然とまたゆっくりになっていく。
廊下の壁に映る二人の影は境界線が曖昧になるほど近くで並んで揺れていた。
「真っ直ぐ話してくれるから、私も真っ直ぐ聞きたいって思うんだよ。セベクの言葉は、いつも一生懸命だから」
「一生懸命……。ふん、当然だ。僕はいついかなる時も、全力で事に向き合うと決めている」
そう答えるセベクの横顔は強張っていたが、その瞳の奥には夕日の光とは異なる、もっと濃い熱が宿っていた。
彼の手が資料室の重い扉の前で止まる。
「着いたぞ。ここだな」
「うん。ありがとう、セベク」
ななしが扉を開けるために一歩踏み出した瞬間、セベクも同時に一歩前へ踏み出した。
狭い扉の前で二人の肩と腕が、遮るものなくしっかりと触れ合う。
衣服越しにも伝わるセベクの体温は、夕暮れの廊下の空気よりも明らかに熱く、ドクドクと刻まれる彼の鼓動の気配さえも、その距離感の中に混ざり合っていくようだった。
重い木製の扉が小さく軋んだ音を立てて開いた。
資料室の中はカーテンが閉め切られているせいか、廊下よりも一段と薄暗い。窓の隙間から細く差し込む一筋の西日だけが、室内に浮遊する微細な埃をきらきらと光らせていた。
「暗いな。僕が先に立ち入ろう」
セベクは片手でファイルを抱えたまま、もう片方の手でななしの肩をそっと遮るようにして中へ進んだ。
部屋の奥にある古い木机の上にセベクが静かにファイルを置く。コト、という静かな音が誰もいない室内に思いのほか大きく響き渡った。
「ありがとう、セベク。本当に助かったよ」
「……これくらい、大したことではないと言っているだろう」
役目を終えたはずのセベクだったが、その場から動こうとはしなかった。
薄暗がりの資料室のような空間の中で、二人の距離は歩いていたときよりもさらに縮まっている。すぐ目の前にあるセベクの胸元からは、激しい運動をしたわけでもないのに、どこか急いたような熱い呼吸の気配が規則正しく伝わってきた。
言葉が途切れ部屋の隅にある古い柱時計の秒針の音だけが、やけに大きく二人の間に割り込んでくる。
セベクの視線はまっすぐにななしへと向けられていた。その瞳の奥にある熱は、もはや隠しようもないほどに濃くなっている。夕闇が迫る部屋の暗さが、かえって彼の存在感を際立たせ、すぐ近くにある輪郭を濃密に感じさせていた。
「セベク……?」
名前を呼ぶななしの声も、いつもより少しだけ低く震えるような響きを帯びる。その声を遮るように、セベクが一歩足を進めた。床の絨毯がわずかに沈み、彼の大きな体躯がななしを包み込むような影となって迫る。
「ななし。僕は、その……」
セベクの言葉は酷く掠れていた。
普段の彼からは想像もつかないほど慎重に、そして切迫した響きを持っている。彼の手がゆっくりと持ち上がり宙で一瞬躊躇った後、ななしの頬のすぐ横、木机の縁へと置かれた。実質的に退路を塞がれた形になり、お互いの吐息が容易に触れ合うほどの至近距離になる。
「セベク、大丈夫……?」
「黙れ……。貴様がそんな距離で、そんな風に僕を見るからだ」
セベクの声は低く押し殺したような唸りに近かった。
彼の衣服から伝わる体温が狭い空間の空気を一気に支配していく。衣服の擦れる微かな音、お互いの高鳴る鼓動のテンポが暗闇の中で重なり合って一つの大きな熱の塊になっていくようだった。
セベクはじっとななしの唇を見つめ、それから促されるようにゆっくりと顔を近づけていく。セベクの睫毛が薄暗がりの中で微かに揺れた。
「僕は、若様へ忠誠を誓っている。それは、何があっても変わらない」
「うん……」
「だが……今、この瞬間だけは、僕の目にはななししか映っていない。このおかしな胸の騒ぎを、僕はもう無視することができそうにない」
言い終えるか終えないかのうちにセベクの顔がさらに近づく。
お互いの鼻先が触れ合いそうなほどの距離で、彼は大きく一度息を吸い込んだ。その表情には未知の感情に翻弄される少年のような危うさと、決して引き下がらないという強い執着が同居している。
迫り来る彼の熱に包まれながら、ななしもまた静かに目を閉じた。
静寂に満ちた資料室の中で、二人の影は完全に一つへと溶け込んでいった。
窓の外からは夕暮れ前の曖昧な光が差し込んでいる。
「ななし」
不意に名前を呼ばれ、ななしが振り返るとセベクが立っていた。普段の圧倒されるような大声ではなく、どこか声音を抑えたような響きが廊下の静寂に混ざる。
「セベク。どうしたの?」
「いや、若様の元へ向かう途中、偶然見かけたから声をかけただけだ」
「そっか。ちょうど、次の課題に使う資料をまとめ終わって、片付けに行こうとしてたところなんだ」
腕に抱えた厚みのある資料が示されると、セベクの視線がそちらへ動く。彼は少しだけ眉をひそめたが、すぐに真っ直ぐな眼差しを戻した。
「そんな重そうなものを一人で運ぶつもりか? 僕が持とう」
「え、でもセベクは今から先輩のところに行くんでしょう? 悪いよ」
「構わない。まだ十分な時間がある」
セベクはななしの手元へ滑り込ませるように手を伸ばし、ファイルを引き取った。その瞬間二人の指先がわずかに擦れ合う。お互いの距離が縮まり、肌に届く体温が一段と近くなった。
「あ、ありがとう」
「礼には及ばない。さあ、行くぞ。案内しろ」
二人は並んで歩き出す。
いつもなら廊下に響き渡るはずのセベクの声は今は少しだけ低く、耳の奥に直接届くような響き方をしていた。沈黙が流れるたび、窓から吹き込む風が二人の間を通り抜けていく。そこには言葉にできない微かな空気の揺らぎが存在していた。
「セベクは、いつもマレウス先輩の話をしてるよね」
何気ない問いかけにセベクは一瞬だけ足を止め、それからまた同じ歩調で歩き始めた。
「当然だ。僕にとって若様は絶対であり、すべてだからな。貴様だって、それくらい理解しているだろう?」
「うん、知ってる。でも、なんて言うか……こうして二人で歩いてるときに、自分の話をされると、ちょっと新鮮かも」
「自分の話……? 僕が、自分の話を?」
セベクは不思議そうに小首を傾げた。その表情には、本当に自覚がないといった様子が浮かんでいる。
「そうだよ。いつもは若様がって主語が多いから。今のセベクは、自分の意志で私を手伝ってくれてるわけでしょ?」
「……それは、そうだ。僕がそうすべきだと判断したからであって、他意はない」
セベクは少しだけ視線を逸らしファイルの角を握り直した。その指先に、ほんの少しだけ力が入る。
「他意がなくても、嬉しいよ。ありがとね」
「ふん、貴様は少し大袈裟だ。これくらい感謝されるようなことではない」
ぶっきらぼうな口調の中に、ほんのりと熱が混ざり始める。
廊下を進むにつれ夕日の赤みが少しずつ濃くなっていった。二人の影が床に長く伸び、時折歩くタイミングが重なるたびに影が一つに溶け合う。
「ななし」
「ん?」
「その……いつもそんな風に、誰にでも気安く声をかけるのか?」
「え? 誰にでもってわけじゃないよ。セベクだから、普通に話してるだけ」
「僕だから、だと?」
セベクの足が完全に止まった。
西日が差し込む図書室前の廊下。逆光になったセベクの輪郭が夕日のオレンジ色に縁取られてぼやける。表情の細部までは判別できないが、彼から発せられる空気が先ほどよりも確実に温度を上げている。呼吸の音がいつもより少しだけ深く、静かに廊下に響いた。
「……変な意味じゃなくて。セベクはいつも真っ直ぐだから、私も話しやすいんだよ」
ななしが歩みを止めセベクと視線を合わせる。
セベクの視線が、逃げ場のないほどななしに注がれていた。彼の肌に夕日の熱とは違う、じわじわとした高揚のようなものが滲んでいる。
「貴様は、本当に……」
セベクの言葉が途切れた。
その手にあるファイルを持つ指が小さく震える。彼は何かを堪えるように喉を一度鳴らした。
「セベク?」
「いや、何でもない。先を急ごう。このままでは若様を待たせてしまうかもしれないからな」
セベクは再び歩き出したが、その歩幅は先ほどよりもわずかに狭く、ななしの速度に寄り添うようなものに変わっていた。
すれ違う風の中に、お互いの気配が濃く混ざり始める。言葉にすれば壊れてしまいそうな熱を帯びた沈黙が、二人の間にじわじわと満ちていった。
渡り廊下を進むにつれ周囲の喧騒はさらに遠のいていく。
窓の外には、すっかり赤みを増した空が広がっていた。建物の隙間を抜ける風が時折二人の制服の裾を小さく揺らす。
「資料室は、この先だったな」
「あ、うん。ちょっと奥まった場所にあるから、持ってもらうの本当に申し訳ないな」
「何度も言うが、これくらい僕にとっては無に等しい。それよりも、貴様の足取りが先ほどから少し遅いようだが……疲れたのか?」
セベクは歩調を緩めななしの顔をのぞき込むようにした。
その距離は先ほど指先が触れ合ったときよりも、さらに一歩分近い。
「ううん、疲れてないよ。ただ夕日が綺麗だから、ついゆっくり歩きたくなっちゃって」
「ふん、そんなものを眺める余裕があるなら、もっと鍛錬に時間を割くべきだと思うが」
「セベクは本当に真面目だね。でも、たまにはこういう時間も良くない?」
ななしが小さく笑うと、セベクは言葉に詰まったように唇を真一文字に結んだ。
彼の視線がななしの目元から緩やかに動く唇へと一瞬だけ移り、またすぐに逸らされる。廊下に差し込む西日の熱のせいか、彼の耳の裏が先ほどよりも少しだけ赤みを帯びているように見えた。
「……悪くは、ないかもしれないな」
「え?」
「何でもない! 独り言だ!」
急にいつもの声量に戻りかけたセベクの声が狭い渡り廊下に反響する。セベクはハッとしたように自分で自分の口を手で覆い、それから周囲を気にするように視線を泳がせた。
「あはは、びっくりした」
「笑うな! 貴様が妙なことを言うから、調子が狂うんだ!」
セベクはそっぽを向いたが、その首筋には熱が上っていた。
彼が抱えているファイルを持つ手に、さらにぎゅっと力がこもる。紙がわずかに擦れる音が二人の間の沈黙をいっそう際立たせていた。
「調子、狂わせちゃったならごめんね」
「謝る必要はない。ただ……貴様といると、どうにも普段通りのペースが保てなくなるのは事実だ。それがなぜなのか、僕自身にもよく分からないのだが」
セベクの声音が再び低く落ち着いたものに変わる。
その言葉は、まるで自分の内側にある正体不明の感情を、一つ一つ確かめるように紡がれていた。
「セベク……」
「貴様は、僕が若様の話をするとき以外の顔を、よく見ている気がする。気のせいかもしれないが……いや、気のせいではないな。現に今も、貴様は僕の言葉を真っ直ぐに聞いている」
二人の歩みが自然とまたゆっくりになっていく。
廊下の壁に映る二人の影は境界線が曖昧になるほど近くで並んで揺れていた。
「真っ直ぐ話してくれるから、私も真っ直ぐ聞きたいって思うんだよ。セベクの言葉は、いつも一生懸命だから」
「一生懸命……。ふん、当然だ。僕はいついかなる時も、全力で事に向き合うと決めている」
そう答えるセベクの横顔は強張っていたが、その瞳の奥には夕日の光とは異なる、もっと濃い熱が宿っていた。
彼の手が資料室の重い扉の前で止まる。
「着いたぞ。ここだな」
「うん。ありがとう、セベク」
ななしが扉を開けるために一歩踏み出した瞬間、セベクも同時に一歩前へ踏み出した。
狭い扉の前で二人の肩と腕が、遮るものなくしっかりと触れ合う。
衣服越しにも伝わるセベクの体温は、夕暮れの廊下の空気よりも明らかに熱く、ドクドクと刻まれる彼の鼓動の気配さえも、その距離感の中に混ざり合っていくようだった。
重い木製の扉が小さく軋んだ音を立てて開いた。
資料室の中はカーテンが閉め切られているせいか、廊下よりも一段と薄暗い。窓の隙間から細く差し込む一筋の西日だけが、室内に浮遊する微細な埃をきらきらと光らせていた。
「暗いな。僕が先に立ち入ろう」
セベクは片手でファイルを抱えたまま、もう片方の手でななしの肩をそっと遮るようにして中へ進んだ。
部屋の奥にある古い木机の上にセベクが静かにファイルを置く。コト、という静かな音が誰もいない室内に思いのほか大きく響き渡った。
「ありがとう、セベク。本当に助かったよ」
「……これくらい、大したことではないと言っているだろう」
役目を終えたはずのセベクだったが、その場から動こうとはしなかった。
薄暗がりの資料室のような空間の中で、二人の距離は歩いていたときよりもさらに縮まっている。すぐ目の前にあるセベクの胸元からは、激しい運動をしたわけでもないのに、どこか急いたような熱い呼吸の気配が規則正しく伝わってきた。
言葉が途切れ部屋の隅にある古い柱時計の秒針の音だけが、やけに大きく二人の間に割り込んでくる。
セベクの視線はまっすぐにななしへと向けられていた。その瞳の奥にある熱は、もはや隠しようもないほどに濃くなっている。夕闇が迫る部屋の暗さが、かえって彼の存在感を際立たせ、すぐ近くにある輪郭を濃密に感じさせていた。
「セベク……?」
名前を呼ぶななしの声も、いつもより少しだけ低く震えるような響きを帯びる。その声を遮るように、セベクが一歩足を進めた。床の絨毯がわずかに沈み、彼の大きな体躯がななしを包み込むような影となって迫る。
「ななし。僕は、その……」
セベクの言葉は酷く掠れていた。
普段の彼からは想像もつかないほど慎重に、そして切迫した響きを持っている。彼の手がゆっくりと持ち上がり宙で一瞬躊躇った後、ななしの頬のすぐ横、木机の縁へと置かれた。実質的に退路を塞がれた形になり、お互いの吐息が容易に触れ合うほどの至近距離になる。
「セベク、大丈夫……?」
「黙れ……。貴様がそんな距離で、そんな風に僕を見るからだ」
セベクの声は低く押し殺したような唸りに近かった。
彼の衣服から伝わる体温が狭い空間の空気を一気に支配していく。衣服の擦れる微かな音、お互いの高鳴る鼓動のテンポが暗闇の中で重なり合って一つの大きな熱の塊になっていくようだった。
セベクはじっとななしの唇を見つめ、それから促されるようにゆっくりと顔を近づけていく。セベクの睫毛が薄暗がりの中で微かに揺れた。
「僕は、若様へ忠誠を誓っている。それは、何があっても変わらない」
「うん……」
「だが……今、この瞬間だけは、僕の目にはななししか映っていない。このおかしな胸の騒ぎを、僕はもう無視することができそうにない」
言い終えるか終えないかのうちにセベクの顔がさらに近づく。
お互いの鼻先が触れ合いそうなほどの距離で、彼は大きく一度息を吸い込んだ。その表情には未知の感情に翻弄される少年のような危うさと、決して引き下がらないという強い執着が同居している。
迫り来る彼の熱に包まれながら、ななしもまた静かに目を閉じた。
静寂に満ちた資料室の中で、二人の影は完全に一つへと溶け込んでいった。
