イグニハイド
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「あ、またそれ食べてる」
画面から視線を外さないまま、イデアはキーボードを叩く速度を落とした。デスクの端に置かれた袋からカサリと乾いた音が響く。
「だって、これ美味しいんですよ」
「いやいや、拙者には理解不能というか。何それ、そんなに連日食べたら飽きるでしょ普通。味覚のバグを疑わざるを得ない」
「イデア先輩も一口食べます?」
差し出された小さな焼き菓子を、イデアはあからさまに顔を顰めて見つめた。キーボード叩いていた手は完全に止まっている。
「……いらない。それ、絶対ボロボロ零れるやつじゃん。精密機器の天敵。持ち込みを許可しただけでも温情だと思ってほしいっすわ」
「じゃあ、零さないように私が口まで運びましょうか?」
「は? ちょっ、待っ、距離感! ゼロ距離スイッチ押すのやめてもろて!?」
椅子を数センチだけ後退したイデアだったが、それ以上の抵抗は見せなかった。ただ向けられた指先と、その先にある小さな塊を交互に凝視している。
「はい、どうぞ」
「……」
観念したようにイデアがわずかに身を乗り出した。唇が小さく開かれ、指先から器用に菓子が奪われる。咀嚼する僅かな音が部屋に落ちた。
「どうですか」
「……普通。水分全部持ってかれる。エナドリを所望する」
「はいはい、今持ってきますね」
立ち上がろうとした袖口を微かな力で引かれた。イデアはすでに視線を画面へと戻している。しかし、服を掴む長い指は離されないままだ。
「……後でいい」
「飲み物、欲しかったんじゃないんですか?」
「今動かれる方が落ち着かない。そこに座ってて」
不器用な拒絶は、この距離においてのみ甘やかしへと変わる。付き合い始めてから数ヶ月、こういう時のイデアの体温や、声音の変化が少しずつ分かるようになっていた。
イデアの指が袖口から滑るようにして手首へと移動する。骨の感触が肌越しに伝わってきた。
「手、冷たいですね」
「デフォルトですが」
「わたしが温めましょうか」
重ねた手のひらは確かに冷えていた。けれど拒まれることなく指が絡みついてくる。細く長い指が隙間を埋めるようにして深く組み合わされた。
「……ななし氏は、いつも体温高いよね」
「そうですか? 普通だと思いますけど」
「いや、拙者基準だと完全にヒーター。熱い。ちょっとのぼせそう」
冗談めかした口調の裏で繋がれた手のひらにじわりと圧が加わる。それはイデアが言葉にできない執着の現れのようにも思えた。
「嫌なら離します?」
「……一言もそんなこと言ってないでしょ。人の話を都合よく改変しないで」
少しだけ尖らせた唇が視線の先で小さく動く。イデアは繋いだ手を自分の膝の上に置き、そのまま画面を睨みつけ続けた。タイピングの速度は先ほどよりも明らかに落ちている。片手での操作というハンデを差し引いても彼の意識が別の場所にあるのは明白だった。
「画面、全然進んでないですよ」
「素人は黙ってて」
「はーい」
覗き込むように顔を近づけると、イデアの首筋がびくりと跳ねた。青白い肌に微かな赤みが差していくのがわかる。
「近いんですが」
「逃げないでくださいよ」
「逃げてない。拙者がいつ逃げたと。ただその、パーソナルスペースの侵害について厳重に抗議しているだけですが」
言いながらもイデアは繋いだ手を離そうとはしなかった。むしろ指の力をさらに強め、引き寄せるようにして二人の距離を狭めていく。
「……ななし氏」
「なんですか?」
「エナドリ、やっぱり欲しい」
「え、今?」
「気が変わった。今すぐ飲みたい」
繋がれていた手がゆっくりと解かれる。離れた瞬間の空気の冷たさに小さく息が溢れた。イデアは背もたれに深く体重を預け、前髪の隙間からこちらをじっと見つめている。その瞳の奥にある熱に胸の奥が微かに疼いた。
冷えた缶を手にななしが元の位置へと戻ると、イデアは先ほどと全く同じ姿勢のまま待っていた。ただキーボードに向けられた指先は完全に孤立し微動だにしていない。
「先輩、はい」
「……遅い。拙者、カフェイン切れで完全シャットダウン寸前だった」
大袈裟な表現とは裏腹に、イデアの手はすぐに差し出された。しかし受け取ったのは結露した缶ではなく、それを置いて空いたばかりのななしの手首だった。
「どうしたんですか」
「それは後。今はいい」
引き寄せられる力はそれほど強くなかったが、拒む理由もなかった。吸い寄せられるようにして二人の距離が再び狭まる。デスクの上の電子音が、先ほどよりも遠くで鳴っているように感じられた。
「……冷たい。缶の結露がついてる」
「イデア先輩の手も冷たいですね」
イデアは何も言わず捕らえた手首から掌へと指を滑らせた。今度は指を絡めるのではなく、こちらの掌を自分の両手で包み込むようにして、じっとその熱を確かめている。衣服の擦れる音が静かな部屋の中で妙に明瞭に響いた。
「……ずるい」
ぽつりと言葉が零れ落ちる。
「何がですか?」
「別に。何でもない」
イデアの視線は繋いだ手元からゆっくりと上がり、ななしの顔へと注がれた。いつもならすぐに逸らされるはずの視線が今は吸い付いたように動かない。沈黙が流れるたびに部屋の空気が一段ずつ重くなっていくような錯覚を覚える。
「先輩の顔、赤いですよ」
「部屋の温度が高いだけ。空調のバグ」
言い訳を紡ぐイデアの唇がわずかに震えている。言葉の軽さとは対照的に、その場の空気は確実に熱を帯び始めていた。
ななしの指先が無意識にイデアの手の甲をなぞる。その微かな刺激にイデアの喉が小さく上下した。息を呑む音が二人の間で重なる。
「……ななし氏、」
名前を呼ぶ声音は、いつもよりずっと低かった。いつもの捲し立てるような早口は影を潜め、一語一語が質量を持って空間に落ちる。
「はい」
「その、……拙者は、今からすごく身勝手なコマンドを入力しようとしてるんだけど」
「コマンド?」
「警告なしで実行するから、嫌なら今すぐログアウトして」
イデアの顔がゆっくりと近づいてくる。
繋がれた手にじわりと強い圧力がかかった。
それは単なる肉体的な接触ではなく、互いの境界線が曖昧になっていくような奇妙な身体感覚を伴っていた。
吐息が触れ合うほどの距離で二人の動きが完全に止まる。
お互いの鼓動が繋いだ手を通じてシンクロしていくかのように、ドクドクと不規則に脈打っていた。イデアの長い前髪がななしの額に微かに触れる。
「……逃げないんだ」
諦念とも歓喜ともつかない呟きが二人の隙間に溶けた。
言葉は途切れ、部屋の温度はさらに上昇した。
イデアの指先がななしの頬に触れる。
その指先はまだ少し冷たいが、触れられた肌は驚くほど熱を帯びていた。お互いの息遣いだけが液晶画面から発せられる微かなファンノイズをかき消していく。
ななしの睫毛が揺れる。
すぐ目の前には影を落とすイデアの長い前髪があった。
近づく吐息とともに、二人の距離を隔てていた空気の壁が消失していく。画面の向こうの仮想現実よりも互いの肌に触れる指先の温度が、その場にある何よりも確かな質量を持っていた。
「……後悔しても、知らないから」
唇が重なる。
それは、かすめるような微かな接触から始まった。
しかし一度触れ合ってしまえば、冷たかったイデアの唇にもすぐに熱が伝染していく。ななしの背中にイデアの腕が回された。引き寄せられる力は先ほどよりもずっと強く、容赦がない。拒む隙間など最初から残されていなかった。
衣服が擦れる柔らかな音が沈黙の部屋に溶けていく。
キスの合間に熱い吐息が交差する。
ななしはイデアの肩に手を回し、その薄い体躯をしっかりと支えるように力を込めた。
イデアの胸が小さく跳ね、さらに深く唇を重ねていく。まるで喉の渇きを潤すように。傍らに置かれたままの冷たい結露をまとったエナジードリンクのことなど、二人の頭からは完全に消え去っていた。
重なる唇から互いの輪郭が融解していくような錯覚が生まれる。引かれた身体の強さは拒む隙間を与えず、交わされる息の熱さだけが二人の境界を曖昧に繋いでいた。
ゆっくりと唇が離れた。
わずかな距離。
イデアの息は乱れ、ななしの頬は赤く色づいていた。
「……僕、やっぱりバグってるかもしれない」
「わたしのせいですか?」
「そう。完全に君のせい」
少しだけ照れくさそうに、けれど愛おしそうに視線を彷徨わせるイデアがいた。繋がれたままの手だけが、お互いの存在が幻ではないことを証明するように強く深く握りしめられていた。
画面から視線を外さないまま、イデアはキーボードを叩く速度を落とした。デスクの端に置かれた袋からカサリと乾いた音が響く。
「だって、これ美味しいんですよ」
「いやいや、拙者には理解不能というか。何それ、そんなに連日食べたら飽きるでしょ普通。味覚のバグを疑わざるを得ない」
「イデア先輩も一口食べます?」
差し出された小さな焼き菓子を、イデアはあからさまに顔を顰めて見つめた。キーボード叩いていた手は完全に止まっている。
「……いらない。それ、絶対ボロボロ零れるやつじゃん。精密機器の天敵。持ち込みを許可しただけでも温情だと思ってほしいっすわ」
「じゃあ、零さないように私が口まで運びましょうか?」
「は? ちょっ、待っ、距離感! ゼロ距離スイッチ押すのやめてもろて!?」
椅子を数センチだけ後退したイデアだったが、それ以上の抵抗は見せなかった。ただ向けられた指先と、その先にある小さな塊を交互に凝視している。
「はい、どうぞ」
「……」
観念したようにイデアがわずかに身を乗り出した。唇が小さく開かれ、指先から器用に菓子が奪われる。咀嚼する僅かな音が部屋に落ちた。
「どうですか」
「……普通。水分全部持ってかれる。エナドリを所望する」
「はいはい、今持ってきますね」
立ち上がろうとした袖口を微かな力で引かれた。イデアはすでに視線を画面へと戻している。しかし、服を掴む長い指は離されないままだ。
「……後でいい」
「飲み物、欲しかったんじゃないんですか?」
「今動かれる方が落ち着かない。そこに座ってて」
不器用な拒絶は、この距離においてのみ甘やかしへと変わる。付き合い始めてから数ヶ月、こういう時のイデアの体温や、声音の変化が少しずつ分かるようになっていた。
イデアの指が袖口から滑るようにして手首へと移動する。骨の感触が肌越しに伝わってきた。
「手、冷たいですね」
「デフォルトですが」
「わたしが温めましょうか」
重ねた手のひらは確かに冷えていた。けれど拒まれることなく指が絡みついてくる。細く長い指が隙間を埋めるようにして深く組み合わされた。
「……ななし氏は、いつも体温高いよね」
「そうですか? 普通だと思いますけど」
「いや、拙者基準だと完全にヒーター。熱い。ちょっとのぼせそう」
冗談めかした口調の裏で繋がれた手のひらにじわりと圧が加わる。それはイデアが言葉にできない執着の現れのようにも思えた。
「嫌なら離します?」
「……一言もそんなこと言ってないでしょ。人の話を都合よく改変しないで」
少しだけ尖らせた唇が視線の先で小さく動く。イデアは繋いだ手を自分の膝の上に置き、そのまま画面を睨みつけ続けた。タイピングの速度は先ほどよりも明らかに落ちている。片手での操作というハンデを差し引いても彼の意識が別の場所にあるのは明白だった。
「画面、全然進んでないですよ」
「素人は黙ってて」
「はーい」
覗き込むように顔を近づけると、イデアの首筋がびくりと跳ねた。青白い肌に微かな赤みが差していくのがわかる。
「近いんですが」
「逃げないでくださいよ」
「逃げてない。拙者がいつ逃げたと。ただその、パーソナルスペースの侵害について厳重に抗議しているだけですが」
言いながらもイデアは繋いだ手を離そうとはしなかった。むしろ指の力をさらに強め、引き寄せるようにして二人の距離を狭めていく。
「……ななし氏」
「なんですか?」
「エナドリ、やっぱり欲しい」
「え、今?」
「気が変わった。今すぐ飲みたい」
繋がれていた手がゆっくりと解かれる。離れた瞬間の空気の冷たさに小さく息が溢れた。イデアは背もたれに深く体重を預け、前髪の隙間からこちらをじっと見つめている。その瞳の奥にある熱に胸の奥が微かに疼いた。
冷えた缶を手にななしが元の位置へと戻ると、イデアは先ほどと全く同じ姿勢のまま待っていた。ただキーボードに向けられた指先は完全に孤立し微動だにしていない。
「先輩、はい」
「……遅い。拙者、カフェイン切れで完全シャットダウン寸前だった」
大袈裟な表現とは裏腹に、イデアの手はすぐに差し出された。しかし受け取ったのは結露した缶ではなく、それを置いて空いたばかりのななしの手首だった。
「どうしたんですか」
「それは後。今はいい」
引き寄せられる力はそれほど強くなかったが、拒む理由もなかった。吸い寄せられるようにして二人の距離が再び狭まる。デスクの上の電子音が、先ほどよりも遠くで鳴っているように感じられた。
「……冷たい。缶の結露がついてる」
「イデア先輩の手も冷たいですね」
イデアは何も言わず捕らえた手首から掌へと指を滑らせた。今度は指を絡めるのではなく、こちらの掌を自分の両手で包み込むようにして、じっとその熱を確かめている。衣服の擦れる音が静かな部屋の中で妙に明瞭に響いた。
「……ずるい」
ぽつりと言葉が零れ落ちる。
「何がですか?」
「別に。何でもない」
イデアの視線は繋いだ手元からゆっくりと上がり、ななしの顔へと注がれた。いつもならすぐに逸らされるはずの視線が今は吸い付いたように動かない。沈黙が流れるたびに部屋の空気が一段ずつ重くなっていくような錯覚を覚える。
「先輩の顔、赤いですよ」
「部屋の温度が高いだけ。空調のバグ」
言い訳を紡ぐイデアの唇がわずかに震えている。言葉の軽さとは対照的に、その場の空気は確実に熱を帯び始めていた。
ななしの指先が無意識にイデアの手の甲をなぞる。その微かな刺激にイデアの喉が小さく上下した。息を呑む音が二人の間で重なる。
「……ななし氏、」
名前を呼ぶ声音は、いつもよりずっと低かった。いつもの捲し立てるような早口は影を潜め、一語一語が質量を持って空間に落ちる。
「はい」
「その、……拙者は、今からすごく身勝手なコマンドを入力しようとしてるんだけど」
「コマンド?」
「警告なしで実行するから、嫌なら今すぐログアウトして」
イデアの顔がゆっくりと近づいてくる。
繋がれた手にじわりと強い圧力がかかった。
それは単なる肉体的な接触ではなく、互いの境界線が曖昧になっていくような奇妙な身体感覚を伴っていた。
吐息が触れ合うほどの距離で二人の動きが完全に止まる。
お互いの鼓動が繋いだ手を通じてシンクロしていくかのように、ドクドクと不規則に脈打っていた。イデアの長い前髪がななしの額に微かに触れる。
「……逃げないんだ」
諦念とも歓喜ともつかない呟きが二人の隙間に溶けた。
言葉は途切れ、部屋の温度はさらに上昇した。
イデアの指先がななしの頬に触れる。
その指先はまだ少し冷たいが、触れられた肌は驚くほど熱を帯びていた。お互いの息遣いだけが液晶画面から発せられる微かなファンノイズをかき消していく。
ななしの睫毛が揺れる。
すぐ目の前には影を落とすイデアの長い前髪があった。
近づく吐息とともに、二人の距離を隔てていた空気の壁が消失していく。画面の向こうの仮想現実よりも互いの肌に触れる指先の温度が、その場にある何よりも確かな質量を持っていた。
「……後悔しても、知らないから」
唇が重なる。
それは、かすめるような微かな接触から始まった。
しかし一度触れ合ってしまえば、冷たかったイデアの唇にもすぐに熱が伝染していく。ななしの背中にイデアの腕が回された。引き寄せられる力は先ほどよりもずっと強く、容赦がない。拒む隙間など最初から残されていなかった。
衣服が擦れる柔らかな音が沈黙の部屋に溶けていく。
キスの合間に熱い吐息が交差する。
ななしはイデアの肩に手を回し、その薄い体躯をしっかりと支えるように力を込めた。
イデアの胸が小さく跳ね、さらに深く唇を重ねていく。まるで喉の渇きを潤すように。傍らに置かれたままの冷たい結露をまとったエナジードリンクのことなど、二人の頭からは完全に消え去っていた。
重なる唇から互いの輪郭が融解していくような錯覚が生まれる。引かれた身体の強さは拒む隙間を与えず、交わされる息の熱さだけが二人の境界を曖昧に繋いでいた。
ゆっくりと唇が離れた。
わずかな距離。
イデアの息は乱れ、ななしの頬は赤く色づいていた。
「……僕、やっぱりバグってるかもしれない」
「わたしのせいですか?」
「そう。完全に君のせい」
少しだけ照れくさそうに、けれど愛おしそうに視線を彷徨わせるイデアがいた。繋がれたままの手だけが、お互いの存在が幻ではないことを証明するように強く深く握りしめられていた。
