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放課後の無人になった調理室には、スパイスの残香と夕刻の西日が斜めに差し込んでいた。
学園の購買で仕入れた食材の余りを整理していたジャミルは、棚の奥から見慣れないガラス瓶を取り出す。
「それ何ですか?」
背後から声をかけたのは、作業台の片付けを終えたばかりのななしだった。
「熱砂の国のハーブティーだ。少し息抜きをしようと思ってな」
ジャミルは手際よく湯を沸かし、乾燥した茶葉をポットに躍らせる。
透明なガラスの中で深い琥珀色の液体がゆっくりと広がっていった。
湯気とともに、どこか落ち着く香りが部屋に満ちる。
「おいしそう。独特な香りがしますね」
「お前の分も淹れてやる。そこに座って待っていろ」
手際よく二つのカップに液体が注がれる。
ジャミルは片方を手渡し、自らも席についた。
一口含んだななしが息を吐き出す。
「すこし、ピリッとします」
「シナモンとカルダモンが入っているからな。お前の口には合わなかったか?」
「いえ、すごく温まります。美味しいです」
微笑む顔を見て、ジャミルも手元のカップに口をつけた。
普段の寮での騒がしさから離れ、ただ静かに流れる時間が心地よい。
「ここでの生活は慣れたか。オンボロ寮の管理も楽ではないだろう」
「最初は大変でした。グリムはすぐ調子に乗るし、目を離すとトラブルばかりで。でも今はそれなりに、あそこのゴーストたちも思ったより親切ですし」
「ならいいが。何か困ったことがあれば早めに言えよ」
気遣わしげな視線を受けななしは小さく頷く。
会話の合間に、カップを傾ける音が規則正しく響いた。
半分ほど飲み進めたところでジャミルが思い出したように立ち上がる。
「そう言えば、次の試験の資料を談話室に忘れてきたな」
「取ってきましょうか」
「いや、俺が行く。すぐに戻るから、ここで待っていろ」
ジャミルは軽い足取りで調理室を出て行った。
残されたななしは、手元の温かいカップを両手で包み込みながら窓の外を見やる。空はいつの間にか、濃い橙色から紫色のグラデーションへと移り変わろうとしていた。
手持ち無沙汰になり、自分のカップを見る。
すでに底をつきかけていた。
ふと、ジャミルが置いていったカップに目が留まる。
彼のカップには、まだ半分以上の液体が残っていた。
「冷めちゃうな……」
ほんの少しの好奇心と、彼が淹れてくれた特別な茶をもう少し味わいたいという無邪気な欲求。
ななしは、ジャミルのカップに手を伸ばした。
自分のものとは違う、少し大ぶりの陶器の縁に唇を寄せる。
その瞬間、扉が静かに開いた。
「待たせたな。資料は見つかっ――」
手元に書類の束を抱えたジャミルが、その場で動きを止める。
ななしは、カップを口元に当てた姿勢のまま固まった。
気まずい沈黙が夕闇の迫る室内に満ちていく。
「あ……」
慌ててカップを机に戻したが、すでに遅かった。
ななしの唇には僅かに湿った琥珀色の痕跡が残っている。
ジャミルは戻されたばかりの自分のカップとななしの顔を交互に見つめた。
「ご、ごめんなさい…」
「……いや」
ジャミルの声は、いつもより少しだけ低かった。
彼は歩を進め椅子に座る。
普段通り平然としていたが、その視線は確実に自分のカップのある一点へと注がれていた。
ななしが口をつけたのは、まさにジャミルが先ほどまで唇を預けていた場所だった。
「……もうちょっと飲みたいなと思っただけなんです」
「そうか…」
ジャミルはカップの取っ手を掴んだ。
そのまま口元へ運ぶかと思われたが、彼は指先でカップの縁をなぞるように小さく回した。
「ジャミル先輩?」
「…何でもない」
彼はそのままカップを持ち上げ迷うことなく口をつけた。
ななしが触れたまさにその位置に今度はジャミルの唇が重なる。
ごくり、と喉が鳴る音が静かな室内にやけに大きく響いた。
「っ……」
それまで何も意識していなかったななしの胸の奥が、にわかに跳ねる。
ジャミルは表情を変えないまま、残されていた液体をすべて飲み干した。
カップがソーサーに戻される硬質な音が響く。
「確かに、冷めないうちに飲む方がいいな」
そう言って微笑むジャミルの瞳に、先ほどまでとは違うわずかな熱のようなものが揺れた。差し込む西日が、彼の睫毛の影を頬に落とす。
「もう片付けるぞ、ななし」
名前を呼ばれた瞬間、ななしの背中に微かな震えが走った。
手慣れた様子でカップを片付け始めるジャミルの背中はいつもと変わらないはずなのに、なぜか調理室の空気が先ほどよりも少しだけ重く、そして息苦しく感じられた。
シンクに流れる水の音が、やけに鼓膜を刺激する。
ジャミルは手際よく二つのカップを洗い、白い布巾で水気を拭き取っていく。
「ジャミル先輩、あの」
「何だ」
振り返った彼の表情は普段通りだった。
しかし布巾を畳んで調理台に置く指先が、いつもよりほんの少しだけ強張っているように見える。
「その、さっきのは本当に、深い意味はなくて」
「分かっている。お前がそんなことを深く考えてやるような奴じゃないことくらい、付き合いの中で知っているつもりだ」
そう言って笑う彼の声は、いつも通りの心地よい低音だった。
それなのに言葉の端々に含まれた響きが、なぜか皮膚にじわじわと刺さるように熱い。
ジャミルは一歩、こちらへと歩み寄ってきた。
「だが、無防備すぎるのは感心しないな」
「無防備、ですか」
「そうだ」
ジャミルがすぐ目の前で立ち止まる。
調理室の西日はすでに落ち、室内は急速に薄暗い青へと染まりつつあった。その影の中でジャミルの存在感がいつも以上に大きく感じられる。
「俺だから良かったものの、他の連中に同じことをしてみろ」
咎めるような口調。
けれどその声はどこか掠れていて、普段の彼らしからぬ揺らぎを含んでいた。
息が届きそうな距離。
ジャミルが呼吸を刻むたびに、目に見えない熱が空気を通じて伝わってくる。
「わたしは、ただ…ジャミル先輩が淹れてくれたお茶が美味しかったから」
「……お前な」
ジャミルが小さく溜息をついた。
その刹那、彼の右手がゆっくりと持ち上がり、調理台の縁へと手を置く。図らずも退路を断たれたような形になり、思わず息を呑んだ。
「そうやって素直に言えば、何でも許されると思うな」
見上げる視線の先、ジャミルの輪郭が暗がりに溶けかかっている。
ただその中心にある双眸だけが、夜の始まりを告げる光を帯びてななしを射抜いていた。
心臓の音がうるさい。
「ジャミル先輩、手が…」
「手が、何だ」
すぐ近くにある彼の指先が、心なしか微かに震えていることに気づく。
いつも隙のない動きをするジャミルの指が、だ。
ジャミルは自分の指先に視線を落とし、何かを堪えるように顎のラインを強張らせた。
「……少し、この部屋は暑いな。ハーブティーのせいか」
「そう、かもしれません。わたしも、熱いです」
その言葉が引き金になったかのように、ジャミルの瞳の奥の熱が一段と深い色を帯びた。
ジャミルがゆっくりと顔を近づけてくる。
鼻先が触れ合いそうなほどの距離で、お互いの呼気が混ざり合い熱を帯びた塊となって空間を支配していく。
「ななし、」
低くひそやかに呼ばれた名前。
その響きが耳の奥から脳裏へと染み渡り、身体の芯を痺れさせていくようだった。
ジャミルの視線が今度はゆっくりとななしの唇へと落ちる。
間接的に触れ合ったあの瞬間の記憶が今、この暗闇の中で鮮明な熱を持って蘇ろうとしていた。
ジャミルの唇が、すぐ近くにある。
二人の呼吸だけが熱を帯びて重なっていた。
ジャミルの視線はななしの唇に注がれたまま微動だにしない。
その瞳の奥には彼自身も制御しきれないような、濃密な熱が渦巻いていた。
「ジャミル先輩……」
声に出したつもりが吐息となって消えた。
けれどその微かな振動は確実に彼に届いていた。
ジャミルの身体が、さらに一歩近づく。
壁と彼の身体に挟まれ、ジャミルの体温がダイレクトに伝わってきた。
いつもは冷静な彼から発せられる、暴力的なまでの熱。
それが、ななしの理性をじわじわと溶かしていく。
「お前が……」
ジャミルの声は掠れ震えていた。
その声に彼が内面で抱える葛藤と、それを凌駕するほどの衝動が滲んでいる。
「お前が、あんな顔をするから……」
ジャミルの右手が調理台から離れ、ななしの頬へと伸びた。
熱を帯びた指先が肌に触れる。
その瞬間、身体の芯が痺れるような甘やかな衝撃が走った。
ジャミルの指は愛おしむように頬をなぞり、そのまま顎を上向かせる。
ななしに拒む気配はなかった。
むしろこの熱に全てを委ねてしまいたいという欲求が、心の奥底から湧き上がってくる。
ジャミルの顔がゆっくりと近づいてくる。
お互いの鼓動が一つに重なっていく。
鼻先が触れ合い熱い呼気が混じり合う。
その瞬間、ジャミルの唇がななしの唇に重ねられた。
触れるだけの優しいキス。
これまでジャミルが押し殺してきた想いの全てが込められているかのように、深く濃密な熱が込められていた。
ジャミルの唇から彼の熱が、彼の感情が、直接注ぎ込まれてくる。
言葉以上に饒舌に彼の心を伝えてきた。
切なくて、愛おしくて、どうしようもないほどの強い想い。
ななしの唇からもジャミルへの想いが、自然と溢れ出していく。
彼のシャツの裾をギュッと掴み、彼をさらに深く、その存在をすべて受け入れようとする。
ジャミルは一度唇を離し、ななしの顔をじっと見つめた。
その瞳は熱に潤み愛おしさに満ちている。
「ななし……」
もう一度、ジャミルの口から名前が呼ばれる。
その響きは先ほどよりもさらに甘く、深く、心に響く。
ななしの頬を両手で包み込み、今度はさらに深く貪るようなキスを求めてきた。
ジャミルの熱が身体の隅々まで行き渡り、思考を真っ白に染め上げていく。ただ互いの熱だけが、闇の中で確かに存在していた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ジャミルがゆっくりと唇を離すと、調理室は完全に闇に包まれていた。
けれど、その闇は二人の間を隔てるものではなく、二人だけの世界を優しく包み込んでいるかのように温かかった。
「……遅くなったな。帰ろう」
ジャミルの声は、いつも通りの冷静さを取り戻していた。
けれどその瞳には、まだ微かな熱が残っている。
「あの、ジャミル先輩」
呼びかける声が微かに震える。
引き止めようとしたわけではなかった。
ジャミルの足が止まる。
彼は振り返り暗闇の中でじっとななしを見つめた。
その瞳の奥には、まだすべてを隠しきれていない静かな熱が確かに灯っている。
「何だ」
「……やっぱり、何でも…ないです」
言葉がうまく繋がらない。
そんな様子を察したのか、ジャミルは小さく溜息をつき再び歩み寄ってきた。そして躊躇うことなく、ななしの右手をそっと包み込む。
「暗くて危ないから、はぐれるな」
繋がれた手のひらから、先ほど唇を交わしたときと同じ熱い体温がダイレクトに伝わってきた。
ジャミルはそれ以上何も言わず、ゆっくりと歩き出す。
「…はい」
小さく応じ、その背中に続く。
握られた手に込められた微かな力強さが、言葉にできない二人の距離を静かに繋ぎ止めていた。
学園の購買で仕入れた食材の余りを整理していたジャミルは、棚の奥から見慣れないガラス瓶を取り出す。
「それ何ですか?」
背後から声をかけたのは、作業台の片付けを終えたばかりのななしだった。
「熱砂の国のハーブティーだ。少し息抜きをしようと思ってな」
ジャミルは手際よく湯を沸かし、乾燥した茶葉をポットに躍らせる。
透明なガラスの中で深い琥珀色の液体がゆっくりと広がっていった。
湯気とともに、どこか落ち着く香りが部屋に満ちる。
「おいしそう。独特な香りがしますね」
「お前の分も淹れてやる。そこに座って待っていろ」
手際よく二つのカップに液体が注がれる。
ジャミルは片方を手渡し、自らも席についた。
一口含んだななしが息を吐き出す。
「すこし、ピリッとします」
「シナモンとカルダモンが入っているからな。お前の口には合わなかったか?」
「いえ、すごく温まります。美味しいです」
微笑む顔を見て、ジャミルも手元のカップに口をつけた。
普段の寮での騒がしさから離れ、ただ静かに流れる時間が心地よい。
「ここでの生活は慣れたか。オンボロ寮の管理も楽ではないだろう」
「最初は大変でした。グリムはすぐ調子に乗るし、目を離すとトラブルばかりで。でも今はそれなりに、あそこのゴーストたちも思ったより親切ですし」
「ならいいが。何か困ったことがあれば早めに言えよ」
気遣わしげな視線を受けななしは小さく頷く。
会話の合間に、カップを傾ける音が規則正しく響いた。
半分ほど飲み進めたところでジャミルが思い出したように立ち上がる。
「そう言えば、次の試験の資料を談話室に忘れてきたな」
「取ってきましょうか」
「いや、俺が行く。すぐに戻るから、ここで待っていろ」
ジャミルは軽い足取りで調理室を出て行った。
残されたななしは、手元の温かいカップを両手で包み込みながら窓の外を見やる。空はいつの間にか、濃い橙色から紫色のグラデーションへと移り変わろうとしていた。
手持ち無沙汰になり、自分のカップを見る。
すでに底をつきかけていた。
ふと、ジャミルが置いていったカップに目が留まる。
彼のカップには、まだ半分以上の液体が残っていた。
「冷めちゃうな……」
ほんの少しの好奇心と、彼が淹れてくれた特別な茶をもう少し味わいたいという無邪気な欲求。
ななしは、ジャミルのカップに手を伸ばした。
自分のものとは違う、少し大ぶりの陶器の縁に唇を寄せる。
その瞬間、扉が静かに開いた。
「待たせたな。資料は見つかっ――」
手元に書類の束を抱えたジャミルが、その場で動きを止める。
ななしは、カップを口元に当てた姿勢のまま固まった。
気まずい沈黙が夕闇の迫る室内に満ちていく。
「あ……」
慌ててカップを机に戻したが、すでに遅かった。
ななしの唇には僅かに湿った琥珀色の痕跡が残っている。
ジャミルは戻されたばかりの自分のカップとななしの顔を交互に見つめた。
「ご、ごめんなさい…」
「……いや」
ジャミルの声は、いつもより少しだけ低かった。
彼は歩を進め椅子に座る。
普段通り平然としていたが、その視線は確実に自分のカップのある一点へと注がれていた。
ななしが口をつけたのは、まさにジャミルが先ほどまで唇を預けていた場所だった。
「……もうちょっと飲みたいなと思っただけなんです」
「そうか…」
ジャミルはカップの取っ手を掴んだ。
そのまま口元へ運ぶかと思われたが、彼は指先でカップの縁をなぞるように小さく回した。
「ジャミル先輩?」
「…何でもない」
彼はそのままカップを持ち上げ迷うことなく口をつけた。
ななしが触れたまさにその位置に今度はジャミルの唇が重なる。
ごくり、と喉が鳴る音が静かな室内にやけに大きく響いた。
「っ……」
それまで何も意識していなかったななしの胸の奥が、にわかに跳ねる。
ジャミルは表情を変えないまま、残されていた液体をすべて飲み干した。
カップがソーサーに戻される硬質な音が響く。
「確かに、冷めないうちに飲む方がいいな」
そう言って微笑むジャミルの瞳に、先ほどまでとは違うわずかな熱のようなものが揺れた。差し込む西日が、彼の睫毛の影を頬に落とす。
「もう片付けるぞ、ななし」
名前を呼ばれた瞬間、ななしの背中に微かな震えが走った。
手慣れた様子でカップを片付け始めるジャミルの背中はいつもと変わらないはずなのに、なぜか調理室の空気が先ほどよりも少しだけ重く、そして息苦しく感じられた。
シンクに流れる水の音が、やけに鼓膜を刺激する。
ジャミルは手際よく二つのカップを洗い、白い布巾で水気を拭き取っていく。
「ジャミル先輩、あの」
「何だ」
振り返った彼の表情は普段通りだった。
しかし布巾を畳んで調理台に置く指先が、いつもよりほんの少しだけ強張っているように見える。
「その、さっきのは本当に、深い意味はなくて」
「分かっている。お前がそんなことを深く考えてやるような奴じゃないことくらい、付き合いの中で知っているつもりだ」
そう言って笑う彼の声は、いつも通りの心地よい低音だった。
それなのに言葉の端々に含まれた響きが、なぜか皮膚にじわじわと刺さるように熱い。
ジャミルは一歩、こちらへと歩み寄ってきた。
「だが、無防備すぎるのは感心しないな」
「無防備、ですか」
「そうだ」
ジャミルがすぐ目の前で立ち止まる。
調理室の西日はすでに落ち、室内は急速に薄暗い青へと染まりつつあった。その影の中でジャミルの存在感がいつも以上に大きく感じられる。
「俺だから良かったものの、他の連中に同じことをしてみろ」
咎めるような口調。
けれどその声はどこか掠れていて、普段の彼らしからぬ揺らぎを含んでいた。
息が届きそうな距離。
ジャミルが呼吸を刻むたびに、目に見えない熱が空気を通じて伝わってくる。
「わたしは、ただ…ジャミル先輩が淹れてくれたお茶が美味しかったから」
「……お前な」
ジャミルが小さく溜息をついた。
その刹那、彼の右手がゆっくりと持ち上がり、調理台の縁へと手を置く。図らずも退路を断たれたような形になり、思わず息を呑んだ。
「そうやって素直に言えば、何でも許されると思うな」
見上げる視線の先、ジャミルの輪郭が暗がりに溶けかかっている。
ただその中心にある双眸だけが、夜の始まりを告げる光を帯びてななしを射抜いていた。
心臓の音がうるさい。
「ジャミル先輩、手が…」
「手が、何だ」
すぐ近くにある彼の指先が、心なしか微かに震えていることに気づく。
いつも隙のない動きをするジャミルの指が、だ。
ジャミルは自分の指先に視線を落とし、何かを堪えるように顎のラインを強張らせた。
「……少し、この部屋は暑いな。ハーブティーのせいか」
「そう、かもしれません。わたしも、熱いです」
その言葉が引き金になったかのように、ジャミルの瞳の奥の熱が一段と深い色を帯びた。
ジャミルがゆっくりと顔を近づけてくる。
鼻先が触れ合いそうなほどの距離で、お互いの呼気が混ざり合い熱を帯びた塊となって空間を支配していく。
「ななし、」
低くひそやかに呼ばれた名前。
その響きが耳の奥から脳裏へと染み渡り、身体の芯を痺れさせていくようだった。
ジャミルの視線が今度はゆっくりとななしの唇へと落ちる。
間接的に触れ合ったあの瞬間の記憶が今、この暗闇の中で鮮明な熱を持って蘇ろうとしていた。
ジャミルの唇が、すぐ近くにある。
二人の呼吸だけが熱を帯びて重なっていた。
ジャミルの視線はななしの唇に注がれたまま微動だにしない。
その瞳の奥には彼自身も制御しきれないような、濃密な熱が渦巻いていた。
「ジャミル先輩……」
声に出したつもりが吐息となって消えた。
けれどその微かな振動は確実に彼に届いていた。
ジャミルの身体が、さらに一歩近づく。
壁と彼の身体に挟まれ、ジャミルの体温がダイレクトに伝わってきた。
いつもは冷静な彼から発せられる、暴力的なまでの熱。
それが、ななしの理性をじわじわと溶かしていく。
「お前が……」
ジャミルの声は掠れ震えていた。
その声に彼が内面で抱える葛藤と、それを凌駕するほどの衝動が滲んでいる。
「お前が、あんな顔をするから……」
ジャミルの右手が調理台から離れ、ななしの頬へと伸びた。
熱を帯びた指先が肌に触れる。
その瞬間、身体の芯が痺れるような甘やかな衝撃が走った。
ジャミルの指は愛おしむように頬をなぞり、そのまま顎を上向かせる。
ななしに拒む気配はなかった。
むしろこの熱に全てを委ねてしまいたいという欲求が、心の奥底から湧き上がってくる。
ジャミルの顔がゆっくりと近づいてくる。
お互いの鼓動が一つに重なっていく。
鼻先が触れ合い熱い呼気が混じり合う。
その瞬間、ジャミルの唇がななしの唇に重ねられた。
触れるだけの優しいキス。
これまでジャミルが押し殺してきた想いの全てが込められているかのように、深く濃密な熱が込められていた。
ジャミルの唇から彼の熱が、彼の感情が、直接注ぎ込まれてくる。
言葉以上に饒舌に彼の心を伝えてきた。
切なくて、愛おしくて、どうしようもないほどの強い想い。
ななしの唇からもジャミルへの想いが、自然と溢れ出していく。
彼のシャツの裾をギュッと掴み、彼をさらに深く、その存在をすべて受け入れようとする。
ジャミルは一度唇を離し、ななしの顔をじっと見つめた。
その瞳は熱に潤み愛おしさに満ちている。
「ななし……」
もう一度、ジャミルの口から名前が呼ばれる。
その響きは先ほどよりもさらに甘く、深く、心に響く。
ななしの頬を両手で包み込み、今度はさらに深く貪るようなキスを求めてきた。
ジャミルの熱が身体の隅々まで行き渡り、思考を真っ白に染め上げていく。ただ互いの熱だけが、闇の中で確かに存在していた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ジャミルがゆっくりと唇を離すと、調理室は完全に闇に包まれていた。
けれど、その闇は二人の間を隔てるものではなく、二人だけの世界を優しく包み込んでいるかのように温かかった。
「……遅くなったな。帰ろう」
ジャミルの声は、いつも通りの冷静さを取り戻していた。
けれどその瞳には、まだ微かな熱が残っている。
「あの、ジャミル先輩」
呼びかける声が微かに震える。
引き止めようとしたわけではなかった。
ジャミルの足が止まる。
彼は振り返り暗闇の中でじっとななしを見つめた。
その瞳の奥には、まだすべてを隠しきれていない静かな熱が確かに灯っている。
「何だ」
「……やっぱり、何でも…ないです」
言葉がうまく繋がらない。
そんな様子を察したのか、ジャミルは小さく溜息をつき再び歩み寄ってきた。そして躊躇うことなく、ななしの右手をそっと包み込む。
「暗くて危ないから、はぐれるな」
繋がれた手のひらから、先ほど唇を交わしたときと同じ熱い体温がダイレクトに伝わってきた。
ジャミルはそれ以上何も言わず、ゆっくりと歩き出す。
「…はい」
小さく応じ、その背中に続く。
握られた手に込められた微かな力強さが、言葉にできない二人の距離を静かに繋ぎ止めていた。
