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夜のラウンジは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。アズールはデスクの上の書類から目を離さずにペンを動かしていた。その向かい側で、手伝いを申し出たななしがインク瓶の蓋を閉める。
「アズール先輩、こっちの仕分け終わりました」
アズールはペンを止め、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「おや、もうですか。手際が良いですね」
「先輩の指示書が分かりやすかったからです」
「お世辞を言っても追加の報酬は出ませんよ」
「本当のことです。それに、報酬なんて最初から求めていませんよ」
ななしが少し唇を尖らせると、アズールはふっと息を漏らすように笑った。いつもの計算高い笑みとは違う、どこかあどけなさの残る表情だった。彼は手元の書類を綺麗に揃えてデスクの端に置く。
「冗談です。あなたにはいつも助けられていますから、感謝しているのは本当ですよ」
「なら、今度美味しい紅茶でも淹れてください」
「ええ、僕の特製を御馳走しましょう。ですが、今はこれ以上あなたを遅くまで引き留めるわけにはいきません。そろそろ寮へ戻る支度をしてください」
アズールが立ち上がり、ななしの持つ荷物に手を伸ばす。
「あ、自分で持てます」
「いえ、ここまで付き合わせたのです。これくらいはさせてください」
アズールは荷物を受け取ると、そのままななしを促して歩き出した。廊下に出ると、窓から差し込む月光が二人の足元を長く照らす。
「今日は随分と静かですね」
ななしが周囲を見渡しながら呟く。
「そうですね。この時間になれば、流石の騒がしい連中も大人しくなるというものです」
「いつもこれくらい穏やかだと良いんですけど」
「僕は賑やかなのも嫌いではありませんよ。商売になりますから」
「ふふ、やっぱりそこはブレないんですね」
笑い声が静かな廊下に響く。
アズールはその声を耳にしながら、一歩引いた位置を歩くななしへ視線を向けた。彼女の歩幅は、自分のペースに合わせようとしているのが分かる。アズールは無意識のうちに自らの歩調を緩めた。
「どうかしましたか」
ななしが足を止め、不思議そうに振り返る。
「……いえ。ななしさんが少し疲れているように見えたので」
「大丈夫です。先輩と一緒にいると、なんだか落ち着くので」
その言葉にアズールは一瞬だけ目を見開いた。すぐにいつもの澄ました顔に戻したが、荷物を握る手に少しだけ力が入る。
「……あなたという人は、たまに無防備なことを言いますね」
「変な意味じゃないですよ。ただ、アズール先輩の周りはいつも空気が穏やかだから」
「僕が穏やか、ですか。他人にそんな評価をされたのは初めてかもしれません」
アズールは少し困ったように眉を下げた。廊下の角を曲がると、月明かりが遮られて急に薄暗くなる。二人の距離が先ほどよりもほんの少しだけ縮まっていた。
「本当のアズール先輩は、みんなが思っているよりずっと優しいです」
「それは買い被りというものです。僕は利己的な男ですよ」
「知っています。でも、それだけじゃないことも知っています」
ななしがアズールを見上げる。
その真っ直ぐな視線を受け止めた瞬間、アズールは言葉を詰まらせた。喉の奥が妙に乾く。彼は視線を僅かに斜め下へと逸らし、再び歩き出した。
「……早く戻りましょう。夜風が冷えてきました」
「はい」
ななしはアズールの背中を追うように歩き出す。
二人の間に流れる沈黙は、先ほどまでのビジネスライクなそれとは明らかに異質だった。言葉にできない何かが、静かに足元から這い上がってくるような感覚がそこにはあった。
アズールは扉に手をかけ、開ける前に一度だけ振り返る。その仕草はどこか躊躇いがちで、いつもの彼らしくなかった。
開け放たれた扉から冷たい夜風が吹き込んできた。
ななしの髪がふわりと揺れ、アズールの頬をかすめる。アズールは一歩踏み出すのを躊躇うように、その場に佇んでいた。
「アズール先輩?」
ななしが彼の顔を覗き込む。アズールははっとしたように、眼鏡のフレームに手をかけた。
「……いえ。少し、風が強いなと思っただけです。行きましょう」
並んで歩き出すと、昼間の太陽に温められた石畳の余熱と、夜の冷気が混ざり合って肌を刺す。
「寒くはありませんか」
「平気です。アズール先輩こそ、大丈夫ですか」
「僕の心配は不要です。それよりも、ななしさんの手が先ほどから少し震えているように見えますが」
「寒さのせいじゃなくて……なんだか、ドキドキしているのかもしれません」
「ドキドキ、ですか」
「はい。夜の学校って、いつもと違って特別に見えるから」
ななしの言葉に、アズールは小さく息を呑んだ。胸の奥で、カチリと小さな鍵が外れるような音がした。彼は手元にある荷物を強く握り直す。
「特別なのは、場所のせいだけですか」
アズールの声が先ほどよりも一段と低く、そして微かに震えている。
「え……?」
「あなたはいつも僕の計算を狂わせる。今だってそうです。ただの送迎のはずなのに、僕の鼓動はあなたに同調するように、ひどく騒がしい」
アズールが半歩、距離を詰めてきた。
ななしの視界がアズールで満たされる。
「先輩……」
「ななしさん。僕は今、ひどく格好の悪いことを考えていますよ」
アズールはななしの手首へと、ゆっくりと手を伸ばした。拒絶されることを恐れるように、その指先は小さく震えている。それでも確かな意志を持って、ななしの手首を優しく包み込んだ。
「冷たい。やはり、無理をしていたのではないですか」
「あ、の……そんなこと」
手首から伝わるアズールの体温は驚くほど高かった。いつも冷静で、すべてを完璧にこなす彼の内側にある、生々しい熱。それが皮膚を通じて、ななしの身体の奥深くへと流れ込んでくる。
「嘘をつかないでください。そんな顔をされたら……僕は、どうすればいいか分からなくなる」
アズールの瞳が至近距離でななしを捉えて離さない。息遣いが、ななしの唇に届きそうなほど近くなる。駆け引きなど、今の彼には一ミリも残っていなかった。ただ目の前のななしを失いたくないという、焦燥に似た熱情だけが二人の間の空気を濃密に変えていく。
「アズール先輩、わたし……」
「言わないでください。……これ以上、僕を臆病にさせないでほしい」
アズールはそう溢すと、ななしの頬へと手を添えた。指先がななしの熱い肌に触れる。その瞬間、お互いの世界からすべての雑音が消え失せた。
アズールは、ななしの視線を真っ直ぐに受け止めることができずにいた。
いつもなら相手の心理を見透かすように向けられるはずの眼差しが、今は泳ぐように彷徨っている。ななしの睫毛の微かな震え、小さく開かれた唇、そこから漏れる熱い吐息。その一つひとつに、アズールの心臓は容赦なく打ち鳴らされていた。
完璧な手順で事を進めるべきだと、頭のどこかで分かっていても、ななしの頬の柔らかさを知ってしまった手のひらは、これまでにないほど無様に強張っている。失敗を恐れるあまりに足が竦む感覚は、彼がとうの昔に切り捨てたはずの、あの惨めな記憶に酷く似ていた。
「アズール、先輩……」
ななしが、その震える指先でアズールの制服の袖口を、ほんの少しだけ掴んだ。その細かな動きがアズールの理性を容易く弾き飛ばす。
「……すみません」
消え入るような声でそう呟くと、アズールはゆっくりと顔を傾けた。
重なる唇は、お互いが思っていたよりもずっと熱かった。
触れるだけの酷く拙い口づけ。
キスがこれほどまでに不器用で、かつ暴力的なほどに五感を支配するものだとは、どちらも知らなかった。
ななしの甘い呼吸が鼻腔をくすぐり、アズールの手がななしの手首から離れ、溺れる者が縋るように彼女の背中へと回った。強く抱きしめたい衝動と壊してしまいそうな恐怖がせめぎ合い、背中が小さく戦慄く。
ほんの数秒の出来事のはずだった。
しかし二人にとっては、夜の時間がそのまま永遠に止まってしまったかのような濃密な錯覚だった。
ゆっくりと唇が離れる。
アズールは弾かれたように半歩後ろへと飛び退いた。
その顔は耳の裏まで真っ赤に染まっている。眼鏡が僅かに斜めにズレていることにも、今の彼は気づいていない。
「あの……今のは、その。僕としたことが、ひどく理性を欠いた行動を……」
アズールは片手で口元を覆い、取り乱したように早口で弁明を始めた。いつもの理路整然とした語調はどこへやら、視線は地面を右往左往している。
「……嫌、でしたか」
ななしが俯いたまま、消えそうな声で問いかける。
アズールは、息を詰まらせた。
「嫌なわけが、ないでしょう! むしろ、僕の方が……あなたに、嫌われていないかとそればかりが恐ろしい」
一気に捲し立てたアズールは、はっとしたように口を噤んだ。これでは、自分の余裕のなさを自ら暴露しているようなものだ。彼は大きく深呼吸をひとつして、ズレた眼鏡を律儀に直す。
「……とにかく、今日はもう戻りましょう。これ以上一緒にいると、僕は本当に、自分がどうなってしまうか分かりませんから」
アズールが歩き出そうと背を向けた、その瞬間だった。
ななしがその場に足を留め、アズールの制服の裾を今度はしっかりと、逃がさないように掴んだ。
「アズール先輩」
「はい……っ?」
振り返ったアズールの声が、情けないほどに裏返る。ななしは耳まで赤く染めながらも、真っ直ぐにアズールを見上げていた。
「もう一回、してくれませんか」
「なっ……!」
アズールの思考が完全に停止した。
目の前のななしが何を言っているのか、脳が理解を拒否している。いつもなら瞬時にあらゆる選択肢を計算する彼の頭脳が、今はただ真っ白な煙を上げているだけだった。
「ななしさん、あなたは自分が何を言っているのか分かって……」
「分かってます。先輩が、すごく格好悪くて、すごく優しいから」
ななしは掴んだ裾をきゅっと握りしめる。
「……わたしも、全然足りないんです」
その言葉はアズールの胸の奥の一番脆い部分を容赦なく撃ち抜いた。
これ以上、格好のつかない姿を晒したくはなかった。しかしそれ以上に、ななしの潤んだ瞳が、アズールのなけなしの自制心を完全に融解させていく。
「……本当に、ずるい人だ」
アズールは観念したように、小さく掠れた声を漏らした。
今度は躊躇わなかった。いや躊躇う余裕など、どこを探しても残っていなかった。
一歩踏み込み、ななしの身体を今度こそ強く抱き寄せる。
驚いたななしの小さな呼気が漏れるのと、二人の唇が再び重なるのは、ほぼ同時だった。
先ほどの触れるだけの拙いものとは違っていた。
アズールの手がななしの後頭部を優しく固定する。何度も角度を変えて深く重なり合う唇。そこから伝わるのは、アズールが必死に隠そうとしていた独占欲に満ちた熱い情動だった。
「ん……、アズー、ル先輩……」
ななしの口から、甘い吐息と共に零れ落ちる。
その響きがアズールの理性をさらに狂わせた。ななしの背中に回した手に力を込め、自らの身体へと強く押し付ける。お互いの心臓の音が衣服越しに激しくぶつかり合い、どちらの鼓動なのかも分からなくなる。
どれほど深く、貪るように重ねていただろうか。
ようやく唇が離れた時、二人の間には先ほどよりもずっと熱く濃密な空気が淀んでいた。
アズールはななしの肩に額を預け、ひどく荒くなった息を整えようとしている。耳元は夜闇の中でも分かるほどに赤く染まっていた。
「……言ったはずです。どうなっても知らない、と」
ななしの耳元で、アズールの低く掠れた声が響く。そこにはいつもの余裕に満ちた笑みはなく、ただ一人の恋する少年の剥き出しの熱だけがあった。
「アズール先輩、こっちの仕分け終わりました」
アズールはペンを止め、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「おや、もうですか。手際が良いですね」
「先輩の指示書が分かりやすかったからです」
「お世辞を言っても追加の報酬は出ませんよ」
「本当のことです。それに、報酬なんて最初から求めていませんよ」
ななしが少し唇を尖らせると、アズールはふっと息を漏らすように笑った。いつもの計算高い笑みとは違う、どこかあどけなさの残る表情だった。彼は手元の書類を綺麗に揃えてデスクの端に置く。
「冗談です。あなたにはいつも助けられていますから、感謝しているのは本当ですよ」
「なら、今度美味しい紅茶でも淹れてください」
「ええ、僕の特製を御馳走しましょう。ですが、今はこれ以上あなたを遅くまで引き留めるわけにはいきません。そろそろ寮へ戻る支度をしてください」
アズールが立ち上がり、ななしの持つ荷物に手を伸ばす。
「あ、自分で持てます」
「いえ、ここまで付き合わせたのです。これくらいはさせてください」
アズールは荷物を受け取ると、そのままななしを促して歩き出した。廊下に出ると、窓から差し込む月光が二人の足元を長く照らす。
「今日は随分と静かですね」
ななしが周囲を見渡しながら呟く。
「そうですね。この時間になれば、流石の騒がしい連中も大人しくなるというものです」
「いつもこれくらい穏やかだと良いんですけど」
「僕は賑やかなのも嫌いではありませんよ。商売になりますから」
「ふふ、やっぱりそこはブレないんですね」
笑い声が静かな廊下に響く。
アズールはその声を耳にしながら、一歩引いた位置を歩くななしへ視線を向けた。彼女の歩幅は、自分のペースに合わせようとしているのが分かる。アズールは無意識のうちに自らの歩調を緩めた。
「どうかしましたか」
ななしが足を止め、不思議そうに振り返る。
「……いえ。ななしさんが少し疲れているように見えたので」
「大丈夫です。先輩と一緒にいると、なんだか落ち着くので」
その言葉にアズールは一瞬だけ目を見開いた。すぐにいつもの澄ました顔に戻したが、荷物を握る手に少しだけ力が入る。
「……あなたという人は、たまに無防備なことを言いますね」
「変な意味じゃないですよ。ただ、アズール先輩の周りはいつも空気が穏やかだから」
「僕が穏やか、ですか。他人にそんな評価をされたのは初めてかもしれません」
アズールは少し困ったように眉を下げた。廊下の角を曲がると、月明かりが遮られて急に薄暗くなる。二人の距離が先ほどよりもほんの少しだけ縮まっていた。
「本当のアズール先輩は、みんなが思っているよりずっと優しいです」
「それは買い被りというものです。僕は利己的な男ですよ」
「知っています。でも、それだけじゃないことも知っています」
ななしがアズールを見上げる。
その真っ直ぐな視線を受け止めた瞬間、アズールは言葉を詰まらせた。喉の奥が妙に乾く。彼は視線を僅かに斜め下へと逸らし、再び歩き出した。
「……早く戻りましょう。夜風が冷えてきました」
「はい」
ななしはアズールの背中を追うように歩き出す。
二人の間に流れる沈黙は、先ほどまでのビジネスライクなそれとは明らかに異質だった。言葉にできない何かが、静かに足元から這い上がってくるような感覚がそこにはあった。
アズールは扉に手をかけ、開ける前に一度だけ振り返る。その仕草はどこか躊躇いがちで、いつもの彼らしくなかった。
開け放たれた扉から冷たい夜風が吹き込んできた。
ななしの髪がふわりと揺れ、アズールの頬をかすめる。アズールは一歩踏み出すのを躊躇うように、その場に佇んでいた。
「アズール先輩?」
ななしが彼の顔を覗き込む。アズールははっとしたように、眼鏡のフレームに手をかけた。
「……いえ。少し、風が強いなと思っただけです。行きましょう」
並んで歩き出すと、昼間の太陽に温められた石畳の余熱と、夜の冷気が混ざり合って肌を刺す。
「寒くはありませんか」
「平気です。アズール先輩こそ、大丈夫ですか」
「僕の心配は不要です。それよりも、ななしさんの手が先ほどから少し震えているように見えますが」
「寒さのせいじゃなくて……なんだか、ドキドキしているのかもしれません」
「ドキドキ、ですか」
「はい。夜の学校って、いつもと違って特別に見えるから」
ななしの言葉に、アズールは小さく息を呑んだ。胸の奥で、カチリと小さな鍵が外れるような音がした。彼は手元にある荷物を強く握り直す。
「特別なのは、場所のせいだけですか」
アズールの声が先ほどよりも一段と低く、そして微かに震えている。
「え……?」
「あなたはいつも僕の計算を狂わせる。今だってそうです。ただの送迎のはずなのに、僕の鼓動はあなたに同調するように、ひどく騒がしい」
アズールが半歩、距離を詰めてきた。
ななしの視界がアズールで満たされる。
「先輩……」
「ななしさん。僕は今、ひどく格好の悪いことを考えていますよ」
アズールはななしの手首へと、ゆっくりと手を伸ばした。拒絶されることを恐れるように、その指先は小さく震えている。それでも確かな意志を持って、ななしの手首を優しく包み込んだ。
「冷たい。やはり、無理をしていたのではないですか」
「あ、の……そんなこと」
手首から伝わるアズールの体温は驚くほど高かった。いつも冷静で、すべてを完璧にこなす彼の内側にある、生々しい熱。それが皮膚を通じて、ななしの身体の奥深くへと流れ込んでくる。
「嘘をつかないでください。そんな顔をされたら……僕は、どうすればいいか分からなくなる」
アズールの瞳が至近距離でななしを捉えて離さない。息遣いが、ななしの唇に届きそうなほど近くなる。駆け引きなど、今の彼には一ミリも残っていなかった。ただ目の前のななしを失いたくないという、焦燥に似た熱情だけが二人の間の空気を濃密に変えていく。
「アズール先輩、わたし……」
「言わないでください。……これ以上、僕を臆病にさせないでほしい」
アズールはそう溢すと、ななしの頬へと手を添えた。指先がななしの熱い肌に触れる。その瞬間、お互いの世界からすべての雑音が消え失せた。
アズールは、ななしの視線を真っ直ぐに受け止めることができずにいた。
いつもなら相手の心理を見透かすように向けられるはずの眼差しが、今は泳ぐように彷徨っている。ななしの睫毛の微かな震え、小さく開かれた唇、そこから漏れる熱い吐息。その一つひとつに、アズールの心臓は容赦なく打ち鳴らされていた。
完璧な手順で事を進めるべきだと、頭のどこかで分かっていても、ななしの頬の柔らかさを知ってしまった手のひらは、これまでにないほど無様に強張っている。失敗を恐れるあまりに足が竦む感覚は、彼がとうの昔に切り捨てたはずの、あの惨めな記憶に酷く似ていた。
「アズール、先輩……」
ななしが、その震える指先でアズールの制服の袖口を、ほんの少しだけ掴んだ。その細かな動きがアズールの理性を容易く弾き飛ばす。
「……すみません」
消え入るような声でそう呟くと、アズールはゆっくりと顔を傾けた。
重なる唇は、お互いが思っていたよりもずっと熱かった。
触れるだけの酷く拙い口づけ。
キスがこれほどまでに不器用で、かつ暴力的なほどに五感を支配するものだとは、どちらも知らなかった。
ななしの甘い呼吸が鼻腔をくすぐり、アズールの手がななしの手首から離れ、溺れる者が縋るように彼女の背中へと回った。強く抱きしめたい衝動と壊してしまいそうな恐怖がせめぎ合い、背中が小さく戦慄く。
ほんの数秒の出来事のはずだった。
しかし二人にとっては、夜の時間がそのまま永遠に止まってしまったかのような濃密な錯覚だった。
ゆっくりと唇が離れる。
アズールは弾かれたように半歩後ろへと飛び退いた。
その顔は耳の裏まで真っ赤に染まっている。眼鏡が僅かに斜めにズレていることにも、今の彼は気づいていない。
「あの……今のは、その。僕としたことが、ひどく理性を欠いた行動を……」
アズールは片手で口元を覆い、取り乱したように早口で弁明を始めた。いつもの理路整然とした語調はどこへやら、視線は地面を右往左往している。
「……嫌、でしたか」
ななしが俯いたまま、消えそうな声で問いかける。
アズールは、息を詰まらせた。
「嫌なわけが、ないでしょう! むしろ、僕の方が……あなたに、嫌われていないかとそればかりが恐ろしい」
一気に捲し立てたアズールは、はっとしたように口を噤んだ。これでは、自分の余裕のなさを自ら暴露しているようなものだ。彼は大きく深呼吸をひとつして、ズレた眼鏡を律儀に直す。
「……とにかく、今日はもう戻りましょう。これ以上一緒にいると、僕は本当に、自分がどうなってしまうか分かりませんから」
アズールが歩き出そうと背を向けた、その瞬間だった。
ななしがその場に足を留め、アズールの制服の裾を今度はしっかりと、逃がさないように掴んだ。
「アズール先輩」
「はい……っ?」
振り返ったアズールの声が、情けないほどに裏返る。ななしは耳まで赤く染めながらも、真っ直ぐにアズールを見上げていた。
「もう一回、してくれませんか」
「なっ……!」
アズールの思考が完全に停止した。
目の前のななしが何を言っているのか、脳が理解を拒否している。いつもなら瞬時にあらゆる選択肢を計算する彼の頭脳が、今はただ真っ白な煙を上げているだけだった。
「ななしさん、あなたは自分が何を言っているのか分かって……」
「分かってます。先輩が、すごく格好悪くて、すごく優しいから」
ななしは掴んだ裾をきゅっと握りしめる。
「……わたしも、全然足りないんです」
その言葉はアズールの胸の奥の一番脆い部分を容赦なく撃ち抜いた。
これ以上、格好のつかない姿を晒したくはなかった。しかしそれ以上に、ななしの潤んだ瞳が、アズールのなけなしの自制心を完全に融解させていく。
「……本当に、ずるい人だ」
アズールは観念したように、小さく掠れた声を漏らした。
今度は躊躇わなかった。いや躊躇う余裕など、どこを探しても残っていなかった。
一歩踏み込み、ななしの身体を今度こそ強く抱き寄せる。
驚いたななしの小さな呼気が漏れるのと、二人の唇が再び重なるのは、ほぼ同時だった。
先ほどの触れるだけの拙いものとは違っていた。
アズールの手がななしの後頭部を優しく固定する。何度も角度を変えて深く重なり合う唇。そこから伝わるのは、アズールが必死に隠そうとしていた独占欲に満ちた熱い情動だった。
「ん……、アズー、ル先輩……」
ななしの口から、甘い吐息と共に零れ落ちる。
その響きがアズールの理性をさらに狂わせた。ななしの背中に回した手に力を込め、自らの身体へと強く押し付ける。お互いの心臓の音が衣服越しに激しくぶつかり合い、どちらの鼓動なのかも分からなくなる。
どれほど深く、貪るように重ねていただろうか。
ようやく唇が離れた時、二人の間には先ほどよりもずっと熱く濃密な空気が淀んでいた。
アズールはななしの肩に額を預け、ひどく荒くなった息を整えようとしている。耳元は夜闇の中でも分かるほどに赤く染まっていた。
「……言ったはずです。どうなっても知らない、と」
ななしの耳元で、アズールの低く掠れた声が響く。そこにはいつもの余裕に満ちた笑みはなく、ただ一人の恋する少年の剥き出しの熱だけがあった。
