ディアソムニア
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「ずいぶんと熱心だな」
開け放たれた窓から滑り込んできた影が音もなく床に降り立つ。
「ツノ太郎。びっくりした、また窓から入ってきたの」
マレウスは音もなく歩み寄り、机の上の書類を覗き込んだ。
その仕草に伴って、冷たい夜の空気と、どこか厳かで実体の掴めない気配がふわりと流れる。
それは特定の何かを想起させるものではなく、ただ彼という存在が持つ特有の空気だった。
「拒まないけど、普通に驚くよ。まだやることが終わらなくて」
「人間の時間は常に何かに追われているな。僕にとっては、瞬きをするほどの長さでしかないというのに」
「その瞬きの間に、わたしは一生懸命生きているんだよ」
「ふむ。確かに、ヒトの子のその小さな営みを見ているのは退屈しない」
「そんなに見つめられると、作業が進まないんだけど」
「邪魔をしているつもりはない。ただ、お前が僕の存在をどう受け止めるか、興味があるだけだ」
「気にしないわけにいかないでしょ。こんなに大きいんだから」
「大きい、か。人間から見れば、僕はそう映るのだろうな。だが、お前は決して僕から目を逸らそうとはしない」
マレウスの指先が机の上に置かれたペンを目的もなく弄ぶ。
爪の形が整った長い指が動くたび、ランプの光が反射して微かな軌跡を描いた。
「逸らす理由がないもの。ツノ太郎は、わたしに悪いことはしないでしょ」
「それはどうかな。僕がドラゴンの末裔だと忘れたわけではあるまい」
「忘れてないよ。でも、今ここにいるのはツノ太郎だから」
マレウスの唇が満足げに微かな弧を描く。
その表情は冷徹な美しさを持ちながらも、どこか子供が秘密の玩具を手に入れたときのような無邪気さが混ざっていた。
「お前はいつもそうだ。僕の肩書や、纏う力など最初から見えていないかのように振る舞う。それがどれほど不敬で、どれほど危ういことか、理解しているのか」
「理解してたら、最初からあんな呼び方してないよ」
「ふっ、確かに。僕を『ツノ太郎』などと呼ぶのは、世界を探してもお前くらいのものだ」
喉を鳴らすようにして笑う彼の声は、低く心地よく鼓膜を揺らす。
部屋の温度が彼の感情の動きに合わせるようにして、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「でも、気に入ってるでしょ」
「否定はしない。僕という存在を、ただの一人の個として繋ぎ止めてくれるような、不思議な響きがある」
マレウスはゆっくりと腰を落とし、目線を同じ高さに合わせた。
至近距離で対峙する彼の顔は人間離れした造形美を誇っている。
特に深く澄んだその双眸は、見つめているだけで吸い込まれそうな錯覚を抱かせた。
「そう言ってもらえると、呼んだ甲斐があるかな、名付け親はグリムだけど」
「なら、もっと呼ぶといい」
「ツノ太郎」
「あぁ」
返事をする彼の声が先ほどよりも一段と低く、甘やかさを孕んで響く。
ただ名前を呼んだだけだというのに、空気がわずかに爆ぜるような目に見えない火花が散ったような緊張感が走った。
それは恐怖ではなく、もっと根源的な生物としての本能を揺さぶる熱のようなものだった。
「……なんだか、今日のツノ太郎は少し距離が近い気がする」
「気のせいだろう。僕はいつも通りだ。それとも、僕が近づくと困る理由でもあるのか」
「困るというか、その、落ち着かないから」
「落ち着かない? なぜだ。僕の気配に怯えているのか」
マレウスはさらに顔を寄せた。
形のない、だが確実な彼の気配が、呼吸を通じて部屋の奥へと染み込んでくる。
「怯えてるんじゃないよ。ただ……」
「ただ、何だ」
言葉を詰まらせた先を促すように、マレウスの視線が唇へと落とされる。
その僅かな視線の移動だけで、その場の空気に微かな痺れを伴う緊張が走った。
「ツノ太郎の顔が、綺麗すぎるからだと思う」
「綺麗、か。人間にその言葉で評されるのは妙な気分だな」
マレウスの手がゆっくりと持ち上がった。
躊躇うような素振りを見せながらも、その指先は真っ直ぐにこちらの頬へと向かってくる。
冷たいはずの彼の指先が、すでに微かな熱を帯びているように感じられた。
「嫌だった?」
「嫌なはずがないだろう。お前の言葉は、いつも僕の予測を心地よく裏切る」
指先が頬に触れた。
想像していたよりもずっと滑らかで、傷ひとつない陶器のようでありながら驚くほどに熱い。
妖精族の体温が人間とどう違うのかは知らないが、その一点から伝わる温度は夜の冷気を一瞬で掻き消すほどに鮮烈だった。
「ツノ太郎の手、あったかいね」
「そうか? 僕には、ヒトの子の肌のほうがずっと柔らかく、熱を孕んでいるように思えるが」
親指の腹が頬の曲線をゆっくりとなぞる。
その動きは酷く繊細で、まるで壊れやすい硝子細工を確かめているかのようだった。
触れられている場所からじわじわと、得体の知れない熱が皮膚の下を伝って広がっていく。
「それは、ツノ太郎が急に触るからだよ」
「僕のせいだと言うのか。理不尽なものだな」
口ではそう言いながらも、マレウスの指先は離れようとしなかった。
むしろ慈しむような力を込めて、そのまま髪の隙間に指を滑り込ませていく。
髪が指に絡まる微かな感触が、二人の距離をさらに縮めていく。
「理不尽じゃないよ。現に、心臓がすごくうるさいもの」
「ほう。それは僕のせい、ということか」
「そうだよ。だから、あんまりいじわるしないで」
マレウスの目が細められた。
その奥で言葉にできない複雑な感情が、静かに激しく渦巻いているのがわかる。
彼は何も言わず、ただじっとその強い視線でこちらを縛り付けた。
窓の外では夜の木々が風に揺れてざわざわと音を立てている。
しかしこの部屋の中だけは、まるで時間の流れから切り離されたかのように静まり返っていた。
聞こえるのは微かな呼吸の音と、ランプの芯が小さく爆ぜる音だけだ。
「いじわる、か。僕が本気になれば、人の子はひとたまりもないはずだが」
「知ってるよ。ツノ太郎がすごい魔法士だってことくらい」
「魔法、か。今僕が使っているのは、そんな便利なものではない」
マレウスの顔が、さらに近づく。
彼の吐息が、こちらの唇の端に微かに触れた。
それは実体のない風のはずなのに、まるで質量を持った熱の塊のように明確な感触を伴って皮膚にのしかかってくる。
「じゃあ、何を使っているの」
「ただの、僕自身の欲求だ。お前もっと近くで感じたいという酷く原始的なものだ」
その言葉が耳に届いた瞬間、室内の熱が一気に跳ね上がった。
身体の境界線が融けていくような、奇妙な浮遊感が足元から立ちのぼる。
マレウスの大きな影が完全に視界を覆い尽くしていた。
「ツノ太郎……」
「ななし。僕を拒まないと言ったな」
彼の声はもはや命令ではなく、掠れた祈りのように響いた。
お互いの距離は、あと数センチメートルも残されていない。
空気の壁が完全に押し潰され、二人の輪郭が夜の闇のなかでじっとりと混ざり合おうとしていた。
「拒まない、よ。……でも」
「でも、何だ。今更、逃げたいとでも言うのか」
「ううん。逃げたいんじゃなくて、息が、うまくできなくて」
「僕がお前の呼吸を奪っているというわけか」
マレウスは小さく鼻で笑ったが、その瞳の奥にある熱はまったく冷めていなかった。
むしろ困惑を滲ませるこちらの反応を楽しむかのように、さらに顔を寄せてくる。
彼の切れ長の目が至近距離で瞬くたび、長いまつ毛がかすかな影を落とした。
その一挙手一投足に、身体の奥の細胞がひとつずつ粟立つような奇妙な戦慄が走る。
「ツノ太郎のせいだよ。そんなに近くにいたら、誰だってそうなる」
「誰だって、だと? 僕が他の人間の前でもこのように振る舞うと思っているのか」
「そうじゃなくて……」
「僕がこうして己の熱を預けるのは、世界でお前だけだ、ななし」
名前を呼ばれた瞬間、背筋を鋭い電流が駆け抜けた。
マレウスの低い声は、ただの音波ではなく物理的な質量を持って鼓膜から脳の芯へと染み込んでくる。
彼の手が頬から滑り落ち、今度は首筋へと移動した。
大きな掌が喉元を緩やかに覆う。
命の手綱を完全に握られたような圧倒的な支配感と、それに対する奇妙な安堵感が、その場の空気をぐずぐずに混ぜ合わせていく。
「ツノ太郎、手が……少し、熱い」
「お前の熱だ。僕の掌を焦がすほどの」
「わたしは、いつも通りだよ」
「ここが、こんなに激しく跳ねている」
首筋に当てられたマレウスの親指の腹が、トクトクと早く脈打つ頸動脈を正確に捉えていた。
その圧迫感は決して苦しいものではないのに、なぜか身体の力が急激に抜けていくような脱力感が空間を満たす。
椅子の背を掴んでいた自分の指先が、微かに震えているのがわかった。
視界がわずかに潤み、ランプの光が歪んだ輪郭となって滲む。
「それは、びっくりしているからで……」
「本当に驚いているだけか? この脈動は、僕を恐れている人間のそれではない。もっと別の……」
マレウスは言葉を濁し、代わりにななしの腰の後ろへ手を回した。
引き寄せられる身体。
机と彼の胸板の間に挟まれる形になり、いよいよ逃げ場が失われる。
衣服越しに伝わる彼の胸の厚み、そしてそこから放射される圧倒的な存在感が、全身をじりじりと侵食していくようだった。
「……ななし」
「なに、ツノ太郎」
「人間の身体は、これほどまでに脆く、そして容易に綻ぶものなのだな。僕がほんの少し力を込めれば壊れてしまいそうだ」
「壊さないって、信じてるよ」
「その盲目的な信頼が、僕のなかの欲を掻き立てるのだと、なぜ気づかない」
マレウスの唇がななしの額に、そして鼻筋へと順に触れた。
ただの軽い接触のはずなのに、触れられた場所にじわりと焼き印を押されたような熱が残る。
「ツノ太郎の、いじわる」
「二度も同じ言葉で僕を煽るのだな。ならば、本当にそう思われても構わない」
マレウスの瞳が妖しく光を増したように見えた。
彼の吐息が今度は完全に唇の上へと覆いかぶさる。
直接的に触れてはいない。
けれど彼が息を吸い、吐き出すその流れのすべてが、互いの吐息すらも融け合っていくような濃密な錯覚がその場を満たしていく。
「ななし」
「ん……っ」
「目を閉じるな。僕を、そのなかに映し続けろ」
囁かれた言葉に抗う術など最初から持ち合わせていない。
じわじわと込み上げてくる熱に浮かされながら、ただ目の前の圧倒的な存在に、すべてを委ねるように視線を返した。
部屋の隅でランプの炎が大きく揺らめき、二人の長い影を壁に濃く焼き付けた。
「ツノ太郎……」
「あぁ。もう、言葉はいらないな」
遮るものは何一つとして残されていない。
重なるようにして落ちてきた彼の唇が、こちらの唇を静かに塞いだ。
触れた瞬間、頭の奥で何かが爆ぜるような衝撃が走る。
それは周囲の空気を圧するほど濃密で、圧倒的な質量を持った接触だった。
マレウスの唇は驚くほど柔らかく、そして恐ろしいほどに熱い。
ただ柔らかに押し当てられるだけで、身体の芯からじわじわと甘い痺れが立ちのぼり、互いの吐息すらも融け合っていくような、濃密な錯覚がその場を満たしていく。
「ん……っ」
小さく漏れた吐息すらも、すべて彼の内に吸い込まれていく。
マレウスは一度唇を離し、こちらの出方を確かめるようにすぐにまた角度を変えて深く重ねてきた。
今度はより深く貪るような強さが混ざり合っている。
彼の大きな身体から発せられる気配が、全方位から肌にのしかかる。
どこに視線を向けてもマレウスの影しか見えず、部屋を満たす空気のすべてが彼の熱を孕んでいた。
心臓の音が耳の奥でうるさいほどに打ち鳴らされ、それがどちらの鼓動なのかも、もう分からなかった。
「……ななし」
唇が離れた瞬間、互いの間に細い銀の糸が微かに引いた。
マレウスの呼吸も先ほどまでの静寂が嘘のように荒くなっている。
彼の額がこちらの額にこつんと預けられ、互いの熱い吐息が開いた唇の間で激しく交差した。
「ツノ太郎、わたし……」
「何も言うな。お前が何を考えているかなど、その瞳を見ればすべて伝わる」
マレウスの声は酷く掠れていて、まるで内に秘めた巨大な感情を必死に抑え込んでいるかのようだった。
彼の大きな掌が今度は愛おしそうに頬を包み込む。
その親指の腹が、熱で赤く火照った唇を名残惜しそうにゆっくりとなぞった。
触れられた場所がピリピリと痺れ、一度与えられた熱を、さらに求めるような濃密な沈黙が二人の間に流れた。
「驚いたか。僕が、このような人間じみた欲を剥き出しにするなど」
「驚いたけど……嫌じゃ、ない」
「ふっ、本当にお前という人間は、どこまでも僕を狂わせる」
マレウスは満足げに、しかしどこか切なさを孕んだ笑みを浮かべた。
再度、慈しむような深い口づけが落とされる。
先ほどよりもずっと優しく、だが確実な独占欲を伴ったそれは夜の闇よりも深く心へと染み渡っていった。
長机の上のランプがパチリと小さな音を立てて爆ぜる。
その微かな光に照らされた二人の影は完全に重なり合ったまま、いつまでも離れることはなかった。
開け放たれた窓から滑り込んできた影が音もなく床に降り立つ。
「ツノ太郎。びっくりした、また窓から入ってきたの」
マレウスは音もなく歩み寄り、机の上の書類を覗き込んだ。
その仕草に伴って、冷たい夜の空気と、どこか厳かで実体の掴めない気配がふわりと流れる。
それは特定の何かを想起させるものではなく、ただ彼という存在が持つ特有の空気だった。
「拒まないけど、普通に驚くよ。まだやることが終わらなくて」
「人間の時間は常に何かに追われているな。僕にとっては、瞬きをするほどの長さでしかないというのに」
「その瞬きの間に、わたしは一生懸命生きているんだよ」
「ふむ。確かに、ヒトの子のその小さな営みを見ているのは退屈しない」
「そんなに見つめられると、作業が進まないんだけど」
「邪魔をしているつもりはない。ただ、お前が僕の存在をどう受け止めるか、興味があるだけだ」
「気にしないわけにいかないでしょ。こんなに大きいんだから」
「大きい、か。人間から見れば、僕はそう映るのだろうな。だが、お前は決して僕から目を逸らそうとはしない」
マレウスの指先が机の上に置かれたペンを目的もなく弄ぶ。
爪の形が整った長い指が動くたび、ランプの光が反射して微かな軌跡を描いた。
「逸らす理由がないもの。ツノ太郎は、わたしに悪いことはしないでしょ」
「それはどうかな。僕がドラゴンの末裔だと忘れたわけではあるまい」
「忘れてないよ。でも、今ここにいるのはツノ太郎だから」
マレウスの唇が満足げに微かな弧を描く。
その表情は冷徹な美しさを持ちながらも、どこか子供が秘密の玩具を手に入れたときのような無邪気さが混ざっていた。
「お前はいつもそうだ。僕の肩書や、纏う力など最初から見えていないかのように振る舞う。それがどれほど不敬で、どれほど危ういことか、理解しているのか」
「理解してたら、最初からあんな呼び方してないよ」
「ふっ、確かに。僕を『ツノ太郎』などと呼ぶのは、世界を探してもお前くらいのものだ」
喉を鳴らすようにして笑う彼の声は、低く心地よく鼓膜を揺らす。
部屋の温度が彼の感情の動きに合わせるようにして、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「でも、気に入ってるでしょ」
「否定はしない。僕という存在を、ただの一人の個として繋ぎ止めてくれるような、不思議な響きがある」
マレウスはゆっくりと腰を落とし、目線を同じ高さに合わせた。
至近距離で対峙する彼の顔は人間離れした造形美を誇っている。
特に深く澄んだその双眸は、見つめているだけで吸い込まれそうな錯覚を抱かせた。
「そう言ってもらえると、呼んだ甲斐があるかな、名付け親はグリムだけど」
「なら、もっと呼ぶといい」
「ツノ太郎」
「あぁ」
返事をする彼の声が先ほどよりも一段と低く、甘やかさを孕んで響く。
ただ名前を呼んだだけだというのに、空気がわずかに爆ぜるような目に見えない火花が散ったような緊張感が走った。
それは恐怖ではなく、もっと根源的な生物としての本能を揺さぶる熱のようなものだった。
「……なんだか、今日のツノ太郎は少し距離が近い気がする」
「気のせいだろう。僕はいつも通りだ。それとも、僕が近づくと困る理由でもあるのか」
「困るというか、その、落ち着かないから」
「落ち着かない? なぜだ。僕の気配に怯えているのか」
マレウスはさらに顔を寄せた。
形のない、だが確実な彼の気配が、呼吸を通じて部屋の奥へと染み込んでくる。
「怯えてるんじゃないよ。ただ……」
「ただ、何だ」
言葉を詰まらせた先を促すように、マレウスの視線が唇へと落とされる。
その僅かな視線の移動だけで、その場の空気に微かな痺れを伴う緊張が走った。
「ツノ太郎の顔が、綺麗すぎるからだと思う」
「綺麗、か。人間にその言葉で評されるのは妙な気分だな」
マレウスの手がゆっくりと持ち上がった。
躊躇うような素振りを見せながらも、その指先は真っ直ぐにこちらの頬へと向かってくる。
冷たいはずの彼の指先が、すでに微かな熱を帯びているように感じられた。
「嫌だった?」
「嫌なはずがないだろう。お前の言葉は、いつも僕の予測を心地よく裏切る」
指先が頬に触れた。
想像していたよりもずっと滑らかで、傷ひとつない陶器のようでありながら驚くほどに熱い。
妖精族の体温が人間とどう違うのかは知らないが、その一点から伝わる温度は夜の冷気を一瞬で掻き消すほどに鮮烈だった。
「ツノ太郎の手、あったかいね」
「そうか? 僕には、ヒトの子の肌のほうがずっと柔らかく、熱を孕んでいるように思えるが」
親指の腹が頬の曲線をゆっくりとなぞる。
その動きは酷く繊細で、まるで壊れやすい硝子細工を確かめているかのようだった。
触れられている場所からじわじわと、得体の知れない熱が皮膚の下を伝って広がっていく。
「それは、ツノ太郎が急に触るからだよ」
「僕のせいだと言うのか。理不尽なものだな」
口ではそう言いながらも、マレウスの指先は離れようとしなかった。
むしろ慈しむような力を込めて、そのまま髪の隙間に指を滑り込ませていく。
髪が指に絡まる微かな感触が、二人の距離をさらに縮めていく。
「理不尽じゃないよ。現に、心臓がすごくうるさいもの」
「ほう。それは僕のせい、ということか」
「そうだよ。だから、あんまりいじわるしないで」
マレウスの目が細められた。
その奥で言葉にできない複雑な感情が、静かに激しく渦巻いているのがわかる。
彼は何も言わず、ただじっとその強い視線でこちらを縛り付けた。
窓の外では夜の木々が風に揺れてざわざわと音を立てている。
しかしこの部屋の中だけは、まるで時間の流れから切り離されたかのように静まり返っていた。
聞こえるのは微かな呼吸の音と、ランプの芯が小さく爆ぜる音だけだ。
「いじわる、か。僕が本気になれば、人の子はひとたまりもないはずだが」
「知ってるよ。ツノ太郎がすごい魔法士だってことくらい」
「魔法、か。今僕が使っているのは、そんな便利なものではない」
マレウスの顔が、さらに近づく。
彼の吐息が、こちらの唇の端に微かに触れた。
それは実体のない風のはずなのに、まるで質量を持った熱の塊のように明確な感触を伴って皮膚にのしかかってくる。
「じゃあ、何を使っているの」
「ただの、僕自身の欲求だ。お前もっと近くで感じたいという酷く原始的なものだ」
その言葉が耳に届いた瞬間、室内の熱が一気に跳ね上がった。
身体の境界線が融けていくような、奇妙な浮遊感が足元から立ちのぼる。
マレウスの大きな影が完全に視界を覆い尽くしていた。
「ツノ太郎……」
「ななし。僕を拒まないと言ったな」
彼の声はもはや命令ではなく、掠れた祈りのように響いた。
お互いの距離は、あと数センチメートルも残されていない。
空気の壁が完全に押し潰され、二人の輪郭が夜の闇のなかでじっとりと混ざり合おうとしていた。
「拒まない、よ。……でも」
「でも、何だ。今更、逃げたいとでも言うのか」
「ううん。逃げたいんじゃなくて、息が、うまくできなくて」
「僕がお前の呼吸を奪っているというわけか」
マレウスは小さく鼻で笑ったが、その瞳の奥にある熱はまったく冷めていなかった。
むしろ困惑を滲ませるこちらの反応を楽しむかのように、さらに顔を寄せてくる。
彼の切れ長の目が至近距離で瞬くたび、長いまつ毛がかすかな影を落とした。
その一挙手一投足に、身体の奥の細胞がひとつずつ粟立つような奇妙な戦慄が走る。
「ツノ太郎のせいだよ。そんなに近くにいたら、誰だってそうなる」
「誰だって、だと? 僕が他の人間の前でもこのように振る舞うと思っているのか」
「そうじゃなくて……」
「僕がこうして己の熱を預けるのは、世界でお前だけだ、ななし」
名前を呼ばれた瞬間、背筋を鋭い電流が駆け抜けた。
マレウスの低い声は、ただの音波ではなく物理的な質量を持って鼓膜から脳の芯へと染み込んでくる。
彼の手が頬から滑り落ち、今度は首筋へと移動した。
大きな掌が喉元を緩やかに覆う。
命の手綱を完全に握られたような圧倒的な支配感と、それに対する奇妙な安堵感が、その場の空気をぐずぐずに混ぜ合わせていく。
「ツノ太郎、手が……少し、熱い」
「お前の熱だ。僕の掌を焦がすほどの」
「わたしは、いつも通りだよ」
「ここが、こんなに激しく跳ねている」
首筋に当てられたマレウスの親指の腹が、トクトクと早く脈打つ頸動脈を正確に捉えていた。
その圧迫感は決して苦しいものではないのに、なぜか身体の力が急激に抜けていくような脱力感が空間を満たす。
椅子の背を掴んでいた自分の指先が、微かに震えているのがわかった。
視界がわずかに潤み、ランプの光が歪んだ輪郭となって滲む。
「それは、びっくりしているからで……」
「本当に驚いているだけか? この脈動は、僕を恐れている人間のそれではない。もっと別の……」
マレウスは言葉を濁し、代わりにななしの腰の後ろへ手を回した。
引き寄せられる身体。
机と彼の胸板の間に挟まれる形になり、いよいよ逃げ場が失われる。
衣服越しに伝わる彼の胸の厚み、そしてそこから放射される圧倒的な存在感が、全身をじりじりと侵食していくようだった。
「……ななし」
「なに、ツノ太郎」
「人間の身体は、これほどまでに脆く、そして容易に綻ぶものなのだな。僕がほんの少し力を込めれば壊れてしまいそうだ」
「壊さないって、信じてるよ」
「その盲目的な信頼が、僕のなかの欲を掻き立てるのだと、なぜ気づかない」
マレウスの唇がななしの額に、そして鼻筋へと順に触れた。
ただの軽い接触のはずなのに、触れられた場所にじわりと焼き印を押されたような熱が残る。
「ツノ太郎の、いじわる」
「二度も同じ言葉で僕を煽るのだな。ならば、本当にそう思われても構わない」
マレウスの瞳が妖しく光を増したように見えた。
彼の吐息が今度は完全に唇の上へと覆いかぶさる。
直接的に触れてはいない。
けれど彼が息を吸い、吐き出すその流れのすべてが、互いの吐息すらも融け合っていくような濃密な錯覚がその場を満たしていく。
「ななし」
「ん……っ」
「目を閉じるな。僕を、そのなかに映し続けろ」
囁かれた言葉に抗う術など最初から持ち合わせていない。
じわじわと込み上げてくる熱に浮かされながら、ただ目の前の圧倒的な存在に、すべてを委ねるように視線を返した。
部屋の隅でランプの炎が大きく揺らめき、二人の長い影を壁に濃く焼き付けた。
「ツノ太郎……」
「あぁ。もう、言葉はいらないな」
遮るものは何一つとして残されていない。
重なるようにして落ちてきた彼の唇が、こちらの唇を静かに塞いだ。
触れた瞬間、頭の奥で何かが爆ぜるような衝撃が走る。
それは周囲の空気を圧するほど濃密で、圧倒的な質量を持った接触だった。
マレウスの唇は驚くほど柔らかく、そして恐ろしいほどに熱い。
ただ柔らかに押し当てられるだけで、身体の芯からじわじわと甘い痺れが立ちのぼり、互いの吐息すらも融け合っていくような、濃密な錯覚がその場を満たしていく。
「ん……っ」
小さく漏れた吐息すらも、すべて彼の内に吸い込まれていく。
マレウスは一度唇を離し、こちらの出方を確かめるようにすぐにまた角度を変えて深く重ねてきた。
今度はより深く貪るような強さが混ざり合っている。
彼の大きな身体から発せられる気配が、全方位から肌にのしかかる。
どこに視線を向けてもマレウスの影しか見えず、部屋を満たす空気のすべてが彼の熱を孕んでいた。
心臓の音が耳の奥でうるさいほどに打ち鳴らされ、それがどちらの鼓動なのかも、もう分からなかった。
「……ななし」
唇が離れた瞬間、互いの間に細い銀の糸が微かに引いた。
マレウスの呼吸も先ほどまでの静寂が嘘のように荒くなっている。
彼の額がこちらの額にこつんと預けられ、互いの熱い吐息が開いた唇の間で激しく交差した。
「ツノ太郎、わたし……」
「何も言うな。お前が何を考えているかなど、その瞳を見ればすべて伝わる」
マレウスの声は酷く掠れていて、まるで内に秘めた巨大な感情を必死に抑え込んでいるかのようだった。
彼の大きな掌が今度は愛おしそうに頬を包み込む。
その親指の腹が、熱で赤く火照った唇を名残惜しそうにゆっくりとなぞった。
触れられた場所がピリピリと痺れ、一度与えられた熱を、さらに求めるような濃密な沈黙が二人の間に流れた。
「驚いたか。僕が、このような人間じみた欲を剥き出しにするなど」
「驚いたけど……嫌じゃ、ない」
「ふっ、本当にお前という人間は、どこまでも僕を狂わせる」
マレウスは満足げに、しかしどこか切なさを孕んだ笑みを浮かべた。
再度、慈しむような深い口づけが落とされる。
先ほどよりもずっと優しく、だが確実な独占欲を伴ったそれは夜の闇よりも深く心へと染み渡っていった。
長机の上のランプがパチリと小さな音を立てて爆ぜる。
その微かな光に照らされた二人の影は完全に重なり合ったまま、いつまでも離れることはなかった。
