サバナクロー
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西日が差し込む静かな廊下を軽い足音が二つ並んで歩く。
「ラギー先輩、本当に一人でこれ全部運ぶつもりだったんですか」
並んで歩く少女――ななしが、両手で抱えた大きなマジフト用の荷物を見上げて声をかける。
「まさか。オレを誰だと思ってるんスか。これでも要領良く生きるのがモットーなわけで」
ラギーは自分の分の防具とディスクのケースを器用に脇に抱え、足取り軽く歩みを勧める。その耳が心なしか嬉しそうに小さく揺れていた。
「でも、レオナ先輩の頼みなら、ラギー先輩が一人で引き受けてるのかなって……」
「シシシッ、人使いの荒い主人を持つと身が持たないんスよね。『整理しておけ』の一言でこれ。まあ、今日はたまたま通りかかったななしくんを巻き込んじゃったお詫びに、なんかお礼してあげたいところだけど……」
ラギーはポケットを外側から叩き、わざとらしくため息をついて見せる。
「あいにく、オレの財布はいつも大寒波なわけで」
「ふふ、お礼なんて気にしないでください。私も楽しんでますから」
ななしが小さく笑うと、夕日に照らされた横顔が柔らかく綻ぶ。それを見たラギーの足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
「……ん? 楽しんでるって、この雑用を?」
「はい。ラギー先輩とお話ししながら歩くの、結構好きなんです」
まっすぐな視線がラギーに向けられる。
邪気のない、ただの事実を口にしただけの綺麗な瞳。
ラギーは一瞬だけ言葉を詰まらせ、すぐにいつもの調子で笑い飛ばした。
「へえ、物好きな人がいるもんだ。オレといても、美味いもんが食えるわけでもないのにねぇ」
「美味しいものは、また今度ラギー先輩が作ってくれるって信じてます」
「調子いいこと言っちゃって。オレの料理、高いッスよ?」
「そこをなんとか、後輩割引でお願いします」
軽快なやり取りが廊下に響く。
二人の距離は、歩くたびに肩が触れそうになるほど近い。
風が窓から吹き込み、ななしの髪を優しく揺らす。その瞬間、ラギーの鼻腔を微かな香りが掠めた。それは植物園の温室にあるどの花とも違う、どこか甘くて、それでいて落ち着くような不思議な空気。
ラギーは密かに鼻を利かせる。
獣人としての鋭い嗅覚が、その出所を正確に捉えていた。
「ラギー先輩? どうかしましたか?」
不思議そうに覗き込んできたななしの顔が思ったよりも近くにある。ラギーは慌てて視線を逸らす。
「いや、なんでもないッス。ちょっと腹減ったなぁと思って」
「あはは。じゃあ、早くこれを届けちゃいましょう」
ななしは防具を持ち直し、少し歩幅を早める。
その後ろ姿をラギーは少しだけ遅れて追いかけた。
いつもなら効率よく用事を済ませることだけを考えるはずだった。これを片付ければ今日の任務は終了。それなのに今はなぜか、この廊下がもう少し長ければいいのに、などという贅沢な思考が頭を過る。
「ななしくん」
「はい?」
呼びかけると、ななしがすぐに振り返る。
「……いや、なんでもないッス。落とさないように気をつけなよ」
「ありがとうございます。気をつけます」
他愛のない会話。
いつも通りの、よくある放課後の一コマ。
しかしラギーの胸の奥で、何かが静かに芽生え始めていた。それが何の感情なのか、今の彼はまだ気づかないふりをしている。
◇
競技場裏にある倉庫。
重い扉を開けると、夕方の熱気がこもった独特の匂いが鼻を突く。ななしは腕の中の荷物を指定された棚へと慎重に下ろした。
「ふぅ……。これで全部ですね」
「お疲れさん。いやぁ、マジで助かったッス。一人ならあと二往復はしてるところだったし」
ラギーも手元のケースを器用に収め、埃を払うように自分の制服をパタパタと煽る。
「……あれ」
ななしが小さく声を漏らす。
ラギーの耳が、ぴくりと跳ねた。
「ん? どしたッスか」
「ラギー先輩の制服、背中が少し汚れてますよ」
「え、マジ? 最悪……落とすの面倒なんだよねぇ」
ラギーが後ろを振り向こうと身を捩る。
ななしの指先が、汚れを確かめるようにラギーの背中に触れる。その瞬間、ラギーの身体が微かに強張った。
「あ、ごめん、ちょっと待って」
反射的にラギーの手がななしの手首を掴んでいた。
驚くほど細い手首にラギーの動きが止まる。
「……ラギー先輩?」
手首を掴まれたままななしが驚いたように顔を上げる。
薄暗い倉庫の影の中で二人の視線が真っ向から重なる。
ラギーの喉の奥がカラカラに乾いていく。
心臓が耳のすぐ後ろでうるさいくらいに脈打ち、体温を逃がすための呼吸が、なぜか上手く機能しない。
掴んだ手首から伝わる熱と、自分の中にこもった熱が、じわじわと混ざり合っていくような奇妙な感覚。
「先輩、あの……」
「あ、……」
我に返ったようにラギーが手を離す。
彼は自分の手のひらを見つめ、それからわざとらしく顔を覆った。
「なんか、今日のオレ、調子狂うわ……。熱でもあんのかな」
「大丈夫ですか? 顔、すごく赤いですよ」
ななしが心配そうにラギーの額に手を伸ばそうとする。
その手を、ラギーは今度は優しく遮るように片手で受け止めた。
「ストップ。それ以上近づいたら、オレ、何するかわかんないッスよ?」
「え……?」
「冗談冗談。バカなこと言ってないで、早くここ出よ」
ラギーはななしの背中を軽く押し、倉庫の外へと促す。
先に歩き出すななしの小さな後ろ姿を見つめながら、ラギーは自分の胸のシャツをぎゅっと掴んだ。
暴れるような鼓動が止まらない。
じわじわと身体の芯から押し寄せる、この奇妙な熱の正体。まさかこれは、世に言う恋というやつなのか。彼はまだ、その答えを口にできずにいる。
倉庫を出ると、外はすっかり夜の帳が下り始めていた。
涼しい夜風が敷地内を吹き抜け、二人の火照った肌を優しく撫でる。しかしラギーの胸の奥に灯った熱は、風に煽られるようにむしろじわじわと勢いを増していく。
「あー、生き返るわぁ。やっぱり外の空気は最高ッスね」
ラギーはわざとらしく伸びをして、いつもの飄々とした笑顔を顔に張り付ける。
「そうですね。でもラギー先輩、本当に体調大丈夫ですか?」
ななしが歩幅を緩め、隣のラギーを覗き込む。
「大丈夫、大丈夫。オレが体調崩すなんて、腐ったもん食べた時くらいッスよ」
「もう、すぐそうやって誤魔化すんだから」
ななしが少し呆れたように笑う。
その笑顔を見るたび、ラギーの胸の奥で何かがきゅっと収縮する。
ただ彼女が笑うだけで胸の奥が妙に騒がしくなり、彼女が心配そうに自分を見つめるだけで、喉の奥が言葉にならない熱で満たされてしまう。
(……いやいや、あり得ないでしょ)
ラギーは内心で激しく頭を振る。
「あ、そうだ。ななしくん」
「なんですか?」
「さっきの手首、……その、痛かったッスか?」
歩きながら、ラギーは視線を前方に向けたまま、ぽつりと呟いた。いつもより少しだけ低くなった声が夜の静寂に溶けていく。
ななしは少し驚いたように瞬きをし、それから自分の手首をさすりながら小さく首を振った。
「ううん、驚いただけです。ラギー先輩の手、思ったよりずっと力強かったから」
「……へえ、そりゃどうも」
ぶっきらぼうに返事をしながらも、ラギーの手のひらは、まだあの時の細くて柔らかい感触を鮮明に記憶していた。掴んだ瞬間の、自分の体温と彼女の体温が境界を失って混ざり合うような、あの濃密な一瞬。
ただの雑用の帰り道。
いつも通りの放課後のはずだった。
それなのに、すれ違う風の冷たさも、遠くで聞こえる他の生徒たちの声も、今のラギーにはどこか遠くの出来事のように感じられる。
意識のすべてが、隣を歩くななしの存在だけに急激に収束していく。
「じゃあ、オレはここで。今日はマジで助かったッス。……じゃあね、ななしくん」
ラギーは足を止め、ななしに向き直る。
いつもなら、ここで手を振ってすぐに背を向けるはずだった。
「はい。また明日、学校で」
ななしが微笑み、お辞儀をして歩き出そうとする。
その瞬間、ラギーの身体がまたしても勝手に動いていた。彼女の制服の袖を、指先でほんの少しだけ引き留めるように引っ掛ける。
「……先輩?」
「いや……その、明日もさ。もし暇なら、またオレの雑用、手伝ってよ。……後輩割引の件、ちょっと考えてあげなくもないし」
意地を張ったような、けれどどこか必死な響きを含んだラギーの言葉。
ななしは一瞬だけきょとんとした後、今日一番の嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「はい! 喜んで!」
その返事を聞いた瞬間、ラギーは胸の奥の熱がすとんと腑に落ちるのを感じていた。
認めたくはなかった。
柄じゃないと笑い飛ばしたかった。
けれど、この身体の芯まで痺れるような濃密な感覚の正体を、彼はもう、恋以外のどんな言葉でも説明することができなかった。
「ラギー先輩、本当に一人でこれ全部運ぶつもりだったんですか」
並んで歩く少女――ななしが、両手で抱えた大きなマジフト用の荷物を見上げて声をかける。
「まさか。オレを誰だと思ってるんスか。これでも要領良く生きるのがモットーなわけで」
ラギーは自分の分の防具とディスクのケースを器用に脇に抱え、足取り軽く歩みを勧める。その耳が心なしか嬉しそうに小さく揺れていた。
「でも、レオナ先輩の頼みなら、ラギー先輩が一人で引き受けてるのかなって……」
「シシシッ、人使いの荒い主人を持つと身が持たないんスよね。『整理しておけ』の一言でこれ。まあ、今日はたまたま通りかかったななしくんを巻き込んじゃったお詫びに、なんかお礼してあげたいところだけど……」
ラギーはポケットを外側から叩き、わざとらしくため息をついて見せる。
「あいにく、オレの財布はいつも大寒波なわけで」
「ふふ、お礼なんて気にしないでください。私も楽しんでますから」
ななしが小さく笑うと、夕日に照らされた横顔が柔らかく綻ぶ。それを見たラギーの足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
「……ん? 楽しんでるって、この雑用を?」
「はい。ラギー先輩とお話ししながら歩くの、結構好きなんです」
まっすぐな視線がラギーに向けられる。
邪気のない、ただの事実を口にしただけの綺麗な瞳。
ラギーは一瞬だけ言葉を詰まらせ、すぐにいつもの調子で笑い飛ばした。
「へえ、物好きな人がいるもんだ。オレといても、美味いもんが食えるわけでもないのにねぇ」
「美味しいものは、また今度ラギー先輩が作ってくれるって信じてます」
「調子いいこと言っちゃって。オレの料理、高いッスよ?」
「そこをなんとか、後輩割引でお願いします」
軽快なやり取りが廊下に響く。
二人の距離は、歩くたびに肩が触れそうになるほど近い。
風が窓から吹き込み、ななしの髪を優しく揺らす。その瞬間、ラギーの鼻腔を微かな香りが掠めた。それは植物園の温室にあるどの花とも違う、どこか甘くて、それでいて落ち着くような不思議な空気。
ラギーは密かに鼻を利かせる。
獣人としての鋭い嗅覚が、その出所を正確に捉えていた。
「ラギー先輩? どうかしましたか?」
不思議そうに覗き込んできたななしの顔が思ったよりも近くにある。ラギーは慌てて視線を逸らす。
「いや、なんでもないッス。ちょっと腹減ったなぁと思って」
「あはは。じゃあ、早くこれを届けちゃいましょう」
ななしは防具を持ち直し、少し歩幅を早める。
その後ろ姿をラギーは少しだけ遅れて追いかけた。
いつもなら効率よく用事を済ませることだけを考えるはずだった。これを片付ければ今日の任務は終了。それなのに今はなぜか、この廊下がもう少し長ければいいのに、などという贅沢な思考が頭を過る。
「ななしくん」
「はい?」
呼びかけると、ななしがすぐに振り返る。
「……いや、なんでもないッス。落とさないように気をつけなよ」
「ありがとうございます。気をつけます」
他愛のない会話。
いつも通りの、よくある放課後の一コマ。
しかしラギーの胸の奥で、何かが静かに芽生え始めていた。それが何の感情なのか、今の彼はまだ気づかないふりをしている。
◇
競技場裏にある倉庫。
重い扉を開けると、夕方の熱気がこもった独特の匂いが鼻を突く。ななしは腕の中の荷物を指定された棚へと慎重に下ろした。
「ふぅ……。これで全部ですね」
「お疲れさん。いやぁ、マジで助かったッス。一人ならあと二往復はしてるところだったし」
ラギーも手元のケースを器用に収め、埃を払うように自分の制服をパタパタと煽る。
「……あれ」
ななしが小さく声を漏らす。
ラギーの耳が、ぴくりと跳ねた。
「ん? どしたッスか」
「ラギー先輩の制服、背中が少し汚れてますよ」
「え、マジ? 最悪……落とすの面倒なんだよねぇ」
ラギーが後ろを振り向こうと身を捩る。
ななしの指先が、汚れを確かめるようにラギーの背中に触れる。その瞬間、ラギーの身体が微かに強張った。
「あ、ごめん、ちょっと待って」
反射的にラギーの手がななしの手首を掴んでいた。
驚くほど細い手首にラギーの動きが止まる。
「……ラギー先輩?」
手首を掴まれたままななしが驚いたように顔を上げる。
薄暗い倉庫の影の中で二人の視線が真っ向から重なる。
ラギーの喉の奥がカラカラに乾いていく。
心臓が耳のすぐ後ろでうるさいくらいに脈打ち、体温を逃がすための呼吸が、なぜか上手く機能しない。
掴んだ手首から伝わる熱と、自分の中にこもった熱が、じわじわと混ざり合っていくような奇妙な感覚。
「先輩、あの……」
「あ、……」
我に返ったようにラギーが手を離す。
彼は自分の手のひらを見つめ、それからわざとらしく顔を覆った。
「なんか、今日のオレ、調子狂うわ……。熱でもあんのかな」
「大丈夫ですか? 顔、すごく赤いですよ」
ななしが心配そうにラギーの額に手を伸ばそうとする。
その手を、ラギーは今度は優しく遮るように片手で受け止めた。
「ストップ。それ以上近づいたら、オレ、何するかわかんないッスよ?」
「え……?」
「冗談冗談。バカなこと言ってないで、早くここ出よ」
ラギーはななしの背中を軽く押し、倉庫の外へと促す。
先に歩き出すななしの小さな後ろ姿を見つめながら、ラギーは自分の胸のシャツをぎゅっと掴んだ。
暴れるような鼓動が止まらない。
じわじわと身体の芯から押し寄せる、この奇妙な熱の正体。まさかこれは、世に言う恋というやつなのか。彼はまだ、その答えを口にできずにいる。
倉庫を出ると、外はすっかり夜の帳が下り始めていた。
涼しい夜風が敷地内を吹き抜け、二人の火照った肌を優しく撫でる。しかしラギーの胸の奥に灯った熱は、風に煽られるようにむしろじわじわと勢いを増していく。
「あー、生き返るわぁ。やっぱり外の空気は最高ッスね」
ラギーはわざとらしく伸びをして、いつもの飄々とした笑顔を顔に張り付ける。
「そうですね。でもラギー先輩、本当に体調大丈夫ですか?」
ななしが歩幅を緩め、隣のラギーを覗き込む。
「大丈夫、大丈夫。オレが体調崩すなんて、腐ったもん食べた時くらいッスよ」
「もう、すぐそうやって誤魔化すんだから」
ななしが少し呆れたように笑う。
その笑顔を見るたび、ラギーの胸の奥で何かがきゅっと収縮する。
ただ彼女が笑うだけで胸の奥が妙に騒がしくなり、彼女が心配そうに自分を見つめるだけで、喉の奥が言葉にならない熱で満たされてしまう。
(……いやいや、あり得ないでしょ)
ラギーは内心で激しく頭を振る。
「あ、そうだ。ななしくん」
「なんですか?」
「さっきの手首、……その、痛かったッスか?」
歩きながら、ラギーは視線を前方に向けたまま、ぽつりと呟いた。いつもより少しだけ低くなった声が夜の静寂に溶けていく。
ななしは少し驚いたように瞬きをし、それから自分の手首をさすりながら小さく首を振った。
「ううん、驚いただけです。ラギー先輩の手、思ったよりずっと力強かったから」
「……へえ、そりゃどうも」
ぶっきらぼうに返事をしながらも、ラギーの手のひらは、まだあの時の細くて柔らかい感触を鮮明に記憶していた。掴んだ瞬間の、自分の体温と彼女の体温が境界を失って混ざり合うような、あの濃密な一瞬。
ただの雑用の帰り道。
いつも通りの放課後のはずだった。
それなのに、すれ違う風の冷たさも、遠くで聞こえる他の生徒たちの声も、今のラギーにはどこか遠くの出来事のように感じられる。
意識のすべてが、隣を歩くななしの存在だけに急激に収束していく。
「じゃあ、オレはここで。今日はマジで助かったッス。……じゃあね、ななしくん」
ラギーは足を止め、ななしに向き直る。
いつもなら、ここで手を振ってすぐに背を向けるはずだった。
「はい。また明日、学校で」
ななしが微笑み、お辞儀をして歩き出そうとする。
その瞬間、ラギーの身体がまたしても勝手に動いていた。彼女の制服の袖を、指先でほんの少しだけ引き留めるように引っ掛ける。
「……先輩?」
「いや……その、明日もさ。もし暇なら、またオレの雑用、手伝ってよ。……後輩割引の件、ちょっと考えてあげなくもないし」
意地を張ったような、けれどどこか必死な響きを含んだラギーの言葉。
ななしは一瞬だけきょとんとした後、今日一番の嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「はい! 喜んで!」
その返事を聞いた瞬間、ラギーは胸の奥の熱がすとんと腑に落ちるのを感じていた。
認めたくはなかった。
柄じゃないと笑い飛ばしたかった。
けれど、この身体の芯まで痺れるような濃密な感覚の正体を、彼はもう、恋以外のどんな言葉でも説明することができなかった。
