ハーツラビュル
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「あ、ななしちゃん。ちょうどいいところに」
夕暮れ時の廊下。
スマホ画面から顔を上げたケイトが、ひらひらと軽い調子で手を振る。
「ケイト先輩、何か用事ですか?」
「用事がないと声かけちゃダメ? けーくんちょっと傷ついちゃうなー」
大袈裟に胸を押さえる仕草をするものの、その表情には余裕がある。
「そういうわけじゃありませんけど。新作スイーツの列に並んでほしい、とかですか」
「あはは、それも捨てがたいけどね。今日はこれ」
ケイトが画面をこちらに向ける。映し出されていたのは、画面を二分する形で並んだ色鮮やかなタルトの写真。
「どっちがマジカメ映えすると思う? こっちのベリー盛り盛りのやつか、それともシックなシトラス系か。女の子の意見、聞きたくてさ」
「……そうですね。私なら、こっちのベリーの方を選びます」
「やっぱり? ななしちゃんならそう言うと思った。可愛いもんね、これ」
「可愛いのもありますけど。……あっちで、よく似たのを食べたことがあるので」
呟きは、喧騒に紛れて消えそうなほど小さかった。
だが、ケイトの指がピタリと止まる。
「あっち、ね」
ケイトの声のトーンが、わずかに低くなった。
ほんの一瞬の出来事。
すぐにまた、いつもの明るい声音に戻る。
「そっか。元の世界にも、こういう美味しそうなスイーツ、いっぱいあったんだ」
「はい。小さなお店なんですけど、すごく人気があって」
「へえ、行ってみたいな。オレがそっちの世界に行けたら、ななしちゃんが案内して付いてきてくれる?」
「それは……」
言葉を詰まらせた。視線が自然と下を向く。
案内する、その隣に立つのは誰なのか。
脳裏を過る、ここではないどこかにいる彼の姿。
その存在を思い出した瞬間、彼を裏切るような想像に胸の奥がチクリと痛んだ。
ケイトはその視線の動きを逃さず捉えていた。
「あ、そうだ。せっかく会えたんだし、ちょっと付き合ってよ。中庭のベンチでマジカメ用の写真撮りたいなーって思ってたんだよね」
「写真ですか? 私は映らなくてもいいなら」
「何言ってるの。ななしちゃんが一緒に写ってくれないと、お出かけ感が出ないじゃん。ほら、行こ?」
断る隙を与えない滑らかな手際で、ケイトが歩き出す。その背中を追うように、二つの足音が中庭へと続いていく。
中庭には傾きかけた太陽が長い影を落としていた。
オレンジ色の光がケイトの髪を淡く染め上げる。ベンチに腰を下ろすと、ケイトは手慣れた動作でスマートフォンのインカメラを起動した。
「ほらほら、もうちょっと寄って。画面からはみ出しちゃう」
「これくらいですか」
「もっともっと。ほら、これじゃ他人行儀すぎでしょ」
ケイトが肩を寄せてくる。
衣服の擦れる音。
すぐ近くから漂う、彼の気配。
それは洗練された大人のような、それでいてどこか掴みどころのない、彼自身の存在を証明するような独特のもの。具体的な言葉にはできないが、彼がそこにいるという事実だけがダイレクトに伝わってくる。
「ケイト先輩、近いです」
「これくらい普通だって。はい、チーズ」
画面の中でケイトが完璧な笑みを作る。
その隣に並ぶ顔は、どこかぎこちなく口角が上がっていた。
シャッター音が数回、静かな中庭に響いた。
「うん、いい感じ。……あ、でも、ななしちゃんちょっと顔硬いかな。何か考え事してた?」
スマートフォンを操作しながら、ケイトが覗き込んでくる。その距離は、写真を撮り終えた今も、それほど離れていない。
「別に、何も」
「隠してもダメだよ。オレ、女の子の表情の変化には、すっごく敏感だから。元の世界のこと、考えてたでしょ」
図星だった。
小さく息を呑む音が、自分でも分かるほどはっきりと聞こえた。
「分かりますか」
「分かるよ。だってななしちゃん、あっちの話をするとき、いっつも寂しそうな顔するんだもん。……それとも、寂しいのは世界に対してじゃないのかな?」
ケイトの言葉が核心へとじわりと近づいてくる。
ただ郷愁に駆られているだけではない。
そこに残してきた「誰か」を想っている。
その事実を彼はとうに察しているようだった。
「私には、きっと待っててくれる人がいます」
はっきりと口にしたのは、初めてかもしれない。
自分に言い聞かせるための言葉。
これ以上、この心地よい距離感に流されてしまわないための防波堤。
「……うん。知ってるよ」
ケイトは驚いた風でもなく、穏やかに微笑んだ。
その表情はマジカメで見せるどれよりも、ずっと生々しく本物のように見えた。
「知って、いたんですか」
「薄々はね。だってななしちゃん、メンズものの雑貨をなんとなく眺めてたりするじゃん? オレ、そういう細かい仕草を見つけるの得意なんだよね」
軽口の中に、ほんの少しの苦味が混ざる。
「だったら、どうして」
どうして、そんな風に優しくするのか。
距離を詰めてくるのか。
問いかけようとした言葉は、ケイトの長い指先によって遮られた。
「どうして、かな。自分でもよく分かんないかも。でもさ、オレがここにいて、ななしちゃんもここにいる。それが今の現実でしょ」
指先が離れる。
代わりに、ケイトの手がそっとベンチの座面に置かれた。
二人の手の距離は、わずか数センチメートル。
「あっちの彼がどれだけ君を想っていても、今、君の隣にいるのはオレだし。君が寂しいときに、こうやって話を聴けるのもオレなんだよね」
「ケイト先輩」
「あはは、ちょっと意地悪だった? ごめんごめん、忘れて」
ケイトは立ち上がり、伸びをするように両手を上げた。その背中に沈みかけた夕日が最後の強い光を投げかける。
「じゃ、オレは寮に戻るね。写真、後で送っとくから。……ちゃんと、保存してよね?」
悪戯っぽく微笑んで、彼は振り返る。
その背中を見送る間、先ほどまで彼がいた場所から消えかけの気配が揺らめいていた。それは確かにそこにあったはずなのに、決して形として残らない、もどかしい何か。
胸の奥の痛みが先ほどとは少し違う種類のものに変質していくのを、止められなかった。
◇
翌日の放課後、図書室の片隅。
窓際の席で古い魔導書を開いていると、不意に上から影が落ちた。
「お疲れ様。隣、いーい?」
見上げると、ノートを抱えたケイトが立っていた。許可を出す前に、彼は流れるような動作で隣の椅子を引いて腰を下ろす。
「ケイト先輩。課題ですか?」
「そうそう。レポートの資料探し。でも、ななしちゃん見つけたらそっちの方が気になっちゃって」
ケイトはノートを開きつつも、視線はこちらに向けている。昨日の中庭での会話が頭の片隅でかすかに燻っていた。
「私のことは気にせず、課題を進めてください」
「冷たいなー。ねえ昨日の写真、ちゃんと保存してくれた?」
「……はい。一応」
「一応って。でも、ありがと」
ケイトが小さく笑う。
その笑顔を見るたび胸の奥が少しだけざわつく。
ペンを動かすケイトの横顔を盗み見るわけでもなく視界に入れる。彼の長い指先が規則的に机を叩く。
前日、唇のすぐ近くで言葉を遮るように差し出されたあの指。そのときの張り詰めた空気が、図書室の静寂に重なる。
「……ケイト先輩」
「ん? 何?」
ケイトがペンを止め、こちらを向く。
「昨日のことですけど」
「うん、オレが意地悪言っちゃったやつ?」
「そうじゃなくて。……待っててくれてる人がいるかもって、言いましたよね」
「言ってたね。元の世界に大切な人がいるんでしょ」
ケイトの声は昨日よりも少しだけ低く、落ち着いていた。図書室の静寂が、その声をより身近に感じさせる。
「私、時々思うんです」
言葉が、自分の意志とは裏腹に溢れ出そうになる。
誰にも言えなかった胸の奥の澱。
「向こうの世界とこっちの世界じゃ、時間の流れも違うかもしれないし。私が急にいなくなって、もう何ヶ月も経っている。……その人は、私のことなんか、もう忘れてるんじゃないかって」
一度口にしてしまうと感情が止まらなくなる。
最初は必死に探してくれたかもしれない。
けれど手がかりもないまま時間が過ぎれば、諦めて前を向いて新しい生活を始めているのが普通だ。
「私の席には、もう別の誰かがいるかもしれない。私のことなんて最初からいなかったみたいに、みんな笑って過ごしてるかもしれない。そう思ったら……」
胸が締め付けられるように痛む。
寂しさと、悔しさと、諦め。
それらが混ざり合って、身体の奥がじわじわと熱くなっていく。視界が少しだけ潤むのを自覚して慌てて俯いた。
「ななしちゃん」
ケイトの手が、そっと自分の手の上に重ねられた。
その瞬間ビクリと身体が跳ねる。
彼の掌から伝わる体温は思ったよりもずっと高かった。
「……すみません」
「そんな顔、しないでよ」
ケイトの指が自分の指の隙間に滑り込んでくる。拒絶する隙もないまま、指が絡め取られた。
ぎゅっと握られた指先から、ケイトの皮膚や骨の輪郭が生々しく伝わってくる。元の世界でいつも繋いでいた、あの人の手のひらの感覚が脳裏を過り、明確な裏切りの心地が胸を刺した。拒絶するように微かに指を引こうとするものの、頭がその熱に侵食されていくのを止めることができない。
「忘れるわけないじゃん。こんなに可愛い女の子がいなくなって、平気でいられる男なんていないよ。オレなら絶対、狂ったように探すね」
「ケイト先輩、手が……」
「離さない。……だって、今のななしちゃん、不安で押しつぶされそうな顔してる」
ケイトが顔を近づけてくる。
彼の髪から、あるいは肌から漂う気配が、一瞬にして周囲の空気を支配した。それはどこか甘く、けれど男性的で理性を狂わせるような引力を持っている。具体的な名前のないその気配が鼻腔をくすぐり、肺の奥まで満たしていく。
「あっちの彼が君を忘れてるかもしれないって思うなら、もう忘れたっていいんじゃない?」
「え……」
「冷たい言い方かもしれないけどさ。存在しないかもしれない記憶に縛られるより、今、目の前にある温かいものに縋った方が、ずっと楽だよ」
絡められた指に、さらに力がこもる。
痛いほどではない。
けれど絶対に逃がさないという強い意志が、その圧力から伝わってきた。
「オレは、ここにいる。君の手を握ってるし、君のその寂しそうな顔も、全部オレだけのもの」
ケイトの言葉が耳の奥で熱を持って響く。
彼の言う通りかもしれない、という弱い思考が頭をもたげる。元の世界の彼は今この瞬間、私の手を握ってはくれない。私を見てはくれない。
「ケイト、先輩……」
「もっと甘えていいんだよ」
ケイトの顔がさらに近づく。
彼の吐息が自分の頬に当たって散る。
その熱さに心臓が激しく脈打ち始めた。
指先から始まった熱が腕を伝い、胸を焦がし、身体全体へと広がっていく。
「オレのこと呼んでくれたら、もっと優しくしてあげる。君の寂しいところ、全部オレで埋めてあげるよ」
彼の囁きは甘い毒のように鼓膜に染み込んできた。
元の世界への未練と、目の前のケイトが放つ圧倒的な熱量。その狭間で、息が上手くできなくなる。
ケイトの瞳が至近距離で自分をじっと見つめていた。その奥にある感情が、暗く深く自分を飲み込もうと揺らめいている。
「ねえ、ななしちゃん。……こっち向いて?」
伸ばされたケイトの指先が、そっと頬に触れる。
その指先から伝わる熱に、二人の間に漂う沈黙がじわじわと熱を帯びていく。
「ケイト、先輩……」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
目の前にいる彼の、すべてを包み込んでしまいそうな甘い誘惑。元の世界への諦め。それらが混ざり合って思考が白く染まりかける。
けれど、その熱に完全に溺れてしまう一歩手前で、冷徹な現実が頭の奥をよぎった。
「……でも、私」
「ん?」
ケイトがわずかに首を傾げる。
その距離は唇が触れ合ってしまいそうなほどに近い。
「私、いつか、この世界からもいなくなるかもしれないんです」
その言葉を口にした瞬間、身体の芯が急激に冷えていくような感覚に襲われた。
「今はここにいる。でも、ある日突然、元の世界に戻れる方法が見つかるかもしれない。学園長が方法を見つけるかもしれないし、何かの拍子に突然、消えてしまうかもしれない。……もしそうなったら、私はまた、すべてを置いていくことになります」
ケイトの指先が、ぴくりと跳ねた。
「元の世界の彼を置いてきたみたいに、今度はケイト先輩を、この世界の人たちを、ここに残して消えてしまうかもしれない。そんなの……」
そんなの、あまりにも無責任だ。
あっちの世界でも、こっちの世界でも、自分はただの不確かな迷い人でしかない。誰かの隣に居場所を求めて、その手を握り返しても、いつか強制的に引き剥がされる運命かもしれない。
もしケイトを好きになってしまったら、その後に待っているのは、今以上の絶望と孤独ではないのか。
「私には、誰かの温もりに縋る資格なんて、ないんです」
ぽつりと溢れた言葉は、図書室の静寂に吸い込まれていった。
絡められた指を引き抜こうと、微かに力を込める。けれど、ケイトの手はびくともしなかった。それどころか、さらに強く骨が軋むほどの力で握り締められる。
「……ななしちゃんさあ」
ケイトの声から先ほどまでの甘さが綺麗に消えていた。
低く低く地を這うような声。
「本当に、ずるいよね」
「え……」
「先のことを理由にして、そうやってオレから逃げようとするんだ。傷つきたくないからって、最初から諦めたような顔してさ」
ケイトの手が頬から離れ、その肩を掴んだ。
ぐい、と引き寄せられ、彼の胸元に顔が埋まりそうになる。
衣服の擦れる音が静かな空間に響く。
頭の芯が痺れるような、抗えない存在感がそこにはあった。
「いつかいなくなるかもしれないから、何? 明日消えるかもしれないから、誰も好きにならないの?」
「それは……」
「そんなの、オレが一番よく分かってるよ」
ケイトが自嘲気味に低く笑った。
その胸の鼓動が重く速く、自分の肩を通じて手のひらに伝わってくる。
「オレだってさ、いつまで君の傍にいられるか分かんない。形のあるものなんて、この世界には最初からないんだよ」
彼の言葉は、彼自身の深い孤独を孕んでいるようだった。
いつも笑っている彼が、誰よりも永遠なんて信じていない。
だからこそ今という瞬間に執着しているのだと、その痛切な響きが教えてくれる。
「でもね」
ケイトが顔をさらに近づけ、耳元で囁く。
彼の吐息が、敏感な肌をなぞって首筋へと逃げていく。
その熱さに、身体がカタカタと震えた。
「今、オレが君を可愛いって思ってるのも、君が元の世界を想って泣きそうになってるのも、全部本物でしょ。いつか消えるからって、今ここにある熱までなかったことにしないでよ」
彼の大きな掌が今度は自分の後頭部をそっと包み込んだ。
逃げられないように。
けれど壊れ物を扱うかのような、切実な優しさで。
「あっちの彼も、いつか君を忘れるかもしれない。君も、この世界のオレたちをいつか忘れるかもしれない。……だったら、なおさら今を見てよ。先のことも、あっちの彼のことも全部忘れて、オレに溺れちゃいなよ」
「ケイト、先輩……っ」
「いいよ、その声。もっとオレを困らせて」
ケイトの指先が髪の隙間に深く滑り込んでくる。
その身体感覚が頭の中の複雑な思考を一つずつ塗りつぶしていく。
元の世界に残してきた彼への罪悪感。
いつかこの世界を去るかもしれないという恐怖。
それらすべてがケイトの圧倒的な熱量によって溶かされていくのが分かった。
「……ずるいですね、ケイト先輩って」
そう呟く声は微かに震え、目元には涙が滲んでいた。
ケイトの甘い熱に包まれるたび、毎日聞いていたはずのあの人の声が、遠く霞んでいくような恐怖が襲う。申し訳なさに胸を締め付けられながらも、もうその身体は拒絶を示さなかった。
「あはは、知ってる。オレ、悪い男だからさ」
ケイトは嬉しそうに、けれどどこか泣き出しそうなほど歪んだ笑みを浮かべた。
彼の瞳の奥に自分の姿がはっきりと映り込んでいるのが分かる。その色が何色であれ、今、彼が世界の誰よりも自分だけを見つめているという事実だけが胸を支配していた。
「ねえ、ななしちゃん」
名前を呼ぶ彼の声が身体の奥深く、一番柔らかい場所にまで届いて響く。
「もう逃がしてあげないからね」
窓の外では夕日が完全に沈み、世界の境界線が曖昧になる薄明の時間が始まろうとしていた。
遠い世界の誰かの声も、いつか訪れる終わりの足音も、すべてを融かすような夜の帳が二人の境界線を静かに塗りつぶしていった。
夕暮れ時の廊下。
スマホ画面から顔を上げたケイトが、ひらひらと軽い調子で手を振る。
「ケイト先輩、何か用事ですか?」
「用事がないと声かけちゃダメ? けーくんちょっと傷ついちゃうなー」
大袈裟に胸を押さえる仕草をするものの、その表情には余裕がある。
「そういうわけじゃありませんけど。新作スイーツの列に並んでほしい、とかですか」
「あはは、それも捨てがたいけどね。今日はこれ」
ケイトが画面をこちらに向ける。映し出されていたのは、画面を二分する形で並んだ色鮮やかなタルトの写真。
「どっちがマジカメ映えすると思う? こっちのベリー盛り盛りのやつか、それともシックなシトラス系か。女の子の意見、聞きたくてさ」
「……そうですね。私なら、こっちのベリーの方を選びます」
「やっぱり? ななしちゃんならそう言うと思った。可愛いもんね、これ」
「可愛いのもありますけど。……あっちで、よく似たのを食べたことがあるので」
呟きは、喧騒に紛れて消えそうなほど小さかった。
だが、ケイトの指がピタリと止まる。
「あっち、ね」
ケイトの声のトーンが、わずかに低くなった。
ほんの一瞬の出来事。
すぐにまた、いつもの明るい声音に戻る。
「そっか。元の世界にも、こういう美味しそうなスイーツ、いっぱいあったんだ」
「はい。小さなお店なんですけど、すごく人気があって」
「へえ、行ってみたいな。オレがそっちの世界に行けたら、ななしちゃんが案内して付いてきてくれる?」
「それは……」
言葉を詰まらせた。視線が自然と下を向く。
案内する、その隣に立つのは誰なのか。
脳裏を過る、ここではないどこかにいる彼の姿。
その存在を思い出した瞬間、彼を裏切るような想像に胸の奥がチクリと痛んだ。
ケイトはその視線の動きを逃さず捉えていた。
「あ、そうだ。せっかく会えたんだし、ちょっと付き合ってよ。中庭のベンチでマジカメ用の写真撮りたいなーって思ってたんだよね」
「写真ですか? 私は映らなくてもいいなら」
「何言ってるの。ななしちゃんが一緒に写ってくれないと、お出かけ感が出ないじゃん。ほら、行こ?」
断る隙を与えない滑らかな手際で、ケイトが歩き出す。その背中を追うように、二つの足音が中庭へと続いていく。
中庭には傾きかけた太陽が長い影を落としていた。
オレンジ色の光がケイトの髪を淡く染め上げる。ベンチに腰を下ろすと、ケイトは手慣れた動作でスマートフォンのインカメラを起動した。
「ほらほら、もうちょっと寄って。画面からはみ出しちゃう」
「これくらいですか」
「もっともっと。ほら、これじゃ他人行儀すぎでしょ」
ケイトが肩を寄せてくる。
衣服の擦れる音。
すぐ近くから漂う、彼の気配。
それは洗練された大人のような、それでいてどこか掴みどころのない、彼自身の存在を証明するような独特のもの。具体的な言葉にはできないが、彼がそこにいるという事実だけがダイレクトに伝わってくる。
「ケイト先輩、近いです」
「これくらい普通だって。はい、チーズ」
画面の中でケイトが完璧な笑みを作る。
その隣に並ぶ顔は、どこかぎこちなく口角が上がっていた。
シャッター音が数回、静かな中庭に響いた。
「うん、いい感じ。……あ、でも、ななしちゃんちょっと顔硬いかな。何か考え事してた?」
スマートフォンを操作しながら、ケイトが覗き込んでくる。その距離は、写真を撮り終えた今も、それほど離れていない。
「別に、何も」
「隠してもダメだよ。オレ、女の子の表情の変化には、すっごく敏感だから。元の世界のこと、考えてたでしょ」
図星だった。
小さく息を呑む音が、自分でも分かるほどはっきりと聞こえた。
「分かりますか」
「分かるよ。だってななしちゃん、あっちの話をするとき、いっつも寂しそうな顔するんだもん。……それとも、寂しいのは世界に対してじゃないのかな?」
ケイトの言葉が核心へとじわりと近づいてくる。
ただ郷愁に駆られているだけではない。
そこに残してきた「誰か」を想っている。
その事実を彼はとうに察しているようだった。
「私には、きっと待っててくれる人がいます」
はっきりと口にしたのは、初めてかもしれない。
自分に言い聞かせるための言葉。
これ以上、この心地よい距離感に流されてしまわないための防波堤。
「……うん。知ってるよ」
ケイトは驚いた風でもなく、穏やかに微笑んだ。
その表情はマジカメで見せるどれよりも、ずっと生々しく本物のように見えた。
「知って、いたんですか」
「薄々はね。だってななしちゃん、メンズものの雑貨をなんとなく眺めてたりするじゃん? オレ、そういう細かい仕草を見つけるの得意なんだよね」
軽口の中に、ほんの少しの苦味が混ざる。
「だったら、どうして」
どうして、そんな風に優しくするのか。
距離を詰めてくるのか。
問いかけようとした言葉は、ケイトの長い指先によって遮られた。
「どうして、かな。自分でもよく分かんないかも。でもさ、オレがここにいて、ななしちゃんもここにいる。それが今の現実でしょ」
指先が離れる。
代わりに、ケイトの手がそっとベンチの座面に置かれた。
二人の手の距離は、わずか数センチメートル。
「あっちの彼がどれだけ君を想っていても、今、君の隣にいるのはオレだし。君が寂しいときに、こうやって話を聴けるのもオレなんだよね」
「ケイト先輩」
「あはは、ちょっと意地悪だった? ごめんごめん、忘れて」
ケイトは立ち上がり、伸びをするように両手を上げた。その背中に沈みかけた夕日が最後の強い光を投げかける。
「じゃ、オレは寮に戻るね。写真、後で送っとくから。……ちゃんと、保存してよね?」
悪戯っぽく微笑んで、彼は振り返る。
その背中を見送る間、先ほどまで彼がいた場所から消えかけの気配が揺らめいていた。それは確かにそこにあったはずなのに、決して形として残らない、もどかしい何か。
胸の奥の痛みが先ほどとは少し違う種類のものに変質していくのを、止められなかった。
◇
翌日の放課後、図書室の片隅。
窓際の席で古い魔導書を開いていると、不意に上から影が落ちた。
「お疲れ様。隣、いーい?」
見上げると、ノートを抱えたケイトが立っていた。許可を出す前に、彼は流れるような動作で隣の椅子を引いて腰を下ろす。
「ケイト先輩。課題ですか?」
「そうそう。レポートの資料探し。でも、ななしちゃん見つけたらそっちの方が気になっちゃって」
ケイトはノートを開きつつも、視線はこちらに向けている。昨日の中庭での会話が頭の片隅でかすかに燻っていた。
「私のことは気にせず、課題を進めてください」
「冷たいなー。ねえ昨日の写真、ちゃんと保存してくれた?」
「……はい。一応」
「一応って。でも、ありがと」
ケイトが小さく笑う。
その笑顔を見るたび胸の奥が少しだけざわつく。
ペンを動かすケイトの横顔を盗み見るわけでもなく視界に入れる。彼の長い指先が規則的に机を叩く。
前日、唇のすぐ近くで言葉を遮るように差し出されたあの指。そのときの張り詰めた空気が、図書室の静寂に重なる。
「……ケイト先輩」
「ん? 何?」
ケイトがペンを止め、こちらを向く。
「昨日のことですけど」
「うん、オレが意地悪言っちゃったやつ?」
「そうじゃなくて。……待っててくれてる人がいるかもって、言いましたよね」
「言ってたね。元の世界に大切な人がいるんでしょ」
ケイトの声は昨日よりも少しだけ低く、落ち着いていた。図書室の静寂が、その声をより身近に感じさせる。
「私、時々思うんです」
言葉が、自分の意志とは裏腹に溢れ出そうになる。
誰にも言えなかった胸の奥の澱。
「向こうの世界とこっちの世界じゃ、時間の流れも違うかもしれないし。私が急にいなくなって、もう何ヶ月も経っている。……その人は、私のことなんか、もう忘れてるんじゃないかって」
一度口にしてしまうと感情が止まらなくなる。
最初は必死に探してくれたかもしれない。
けれど手がかりもないまま時間が過ぎれば、諦めて前を向いて新しい生活を始めているのが普通だ。
「私の席には、もう別の誰かがいるかもしれない。私のことなんて最初からいなかったみたいに、みんな笑って過ごしてるかもしれない。そう思ったら……」
胸が締め付けられるように痛む。
寂しさと、悔しさと、諦め。
それらが混ざり合って、身体の奥がじわじわと熱くなっていく。視界が少しだけ潤むのを自覚して慌てて俯いた。
「ななしちゃん」
ケイトの手が、そっと自分の手の上に重ねられた。
その瞬間ビクリと身体が跳ねる。
彼の掌から伝わる体温は思ったよりもずっと高かった。
「……すみません」
「そんな顔、しないでよ」
ケイトの指が自分の指の隙間に滑り込んでくる。拒絶する隙もないまま、指が絡め取られた。
ぎゅっと握られた指先から、ケイトの皮膚や骨の輪郭が生々しく伝わってくる。元の世界でいつも繋いでいた、あの人の手のひらの感覚が脳裏を過り、明確な裏切りの心地が胸を刺した。拒絶するように微かに指を引こうとするものの、頭がその熱に侵食されていくのを止めることができない。
「忘れるわけないじゃん。こんなに可愛い女の子がいなくなって、平気でいられる男なんていないよ。オレなら絶対、狂ったように探すね」
「ケイト先輩、手が……」
「離さない。……だって、今のななしちゃん、不安で押しつぶされそうな顔してる」
ケイトが顔を近づけてくる。
彼の髪から、あるいは肌から漂う気配が、一瞬にして周囲の空気を支配した。それはどこか甘く、けれど男性的で理性を狂わせるような引力を持っている。具体的な名前のないその気配が鼻腔をくすぐり、肺の奥まで満たしていく。
「あっちの彼が君を忘れてるかもしれないって思うなら、もう忘れたっていいんじゃない?」
「え……」
「冷たい言い方かもしれないけどさ。存在しないかもしれない記憶に縛られるより、今、目の前にある温かいものに縋った方が、ずっと楽だよ」
絡められた指に、さらに力がこもる。
痛いほどではない。
けれど絶対に逃がさないという強い意志が、その圧力から伝わってきた。
「オレは、ここにいる。君の手を握ってるし、君のその寂しそうな顔も、全部オレだけのもの」
ケイトの言葉が耳の奥で熱を持って響く。
彼の言う通りかもしれない、という弱い思考が頭をもたげる。元の世界の彼は今この瞬間、私の手を握ってはくれない。私を見てはくれない。
「ケイト、先輩……」
「もっと甘えていいんだよ」
ケイトの顔がさらに近づく。
彼の吐息が自分の頬に当たって散る。
その熱さに心臓が激しく脈打ち始めた。
指先から始まった熱が腕を伝い、胸を焦がし、身体全体へと広がっていく。
「オレのこと呼んでくれたら、もっと優しくしてあげる。君の寂しいところ、全部オレで埋めてあげるよ」
彼の囁きは甘い毒のように鼓膜に染み込んできた。
元の世界への未練と、目の前のケイトが放つ圧倒的な熱量。その狭間で、息が上手くできなくなる。
ケイトの瞳が至近距離で自分をじっと見つめていた。その奥にある感情が、暗く深く自分を飲み込もうと揺らめいている。
「ねえ、ななしちゃん。……こっち向いて?」
伸ばされたケイトの指先が、そっと頬に触れる。
その指先から伝わる熱に、二人の間に漂う沈黙がじわじわと熱を帯びていく。
「ケイト、先輩……」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
目の前にいる彼の、すべてを包み込んでしまいそうな甘い誘惑。元の世界への諦め。それらが混ざり合って思考が白く染まりかける。
けれど、その熱に完全に溺れてしまう一歩手前で、冷徹な現実が頭の奥をよぎった。
「……でも、私」
「ん?」
ケイトがわずかに首を傾げる。
その距離は唇が触れ合ってしまいそうなほどに近い。
「私、いつか、この世界からもいなくなるかもしれないんです」
その言葉を口にした瞬間、身体の芯が急激に冷えていくような感覚に襲われた。
「今はここにいる。でも、ある日突然、元の世界に戻れる方法が見つかるかもしれない。学園長が方法を見つけるかもしれないし、何かの拍子に突然、消えてしまうかもしれない。……もしそうなったら、私はまた、すべてを置いていくことになります」
ケイトの指先が、ぴくりと跳ねた。
「元の世界の彼を置いてきたみたいに、今度はケイト先輩を、この世界の人たちを、ここに残して消えてしまうかもしれない。そんなの……」
そんなの、あまりにも無責任だ。
あっちの世界でも、こっちの世界でも、自分はただの不確かな迷い人でしかない。誰かの隣に居場所を求めて、その手を握り返しても、いつか強制的に引き剥がされる運命かもしれない。
もしケイトを好きになってしまったら、その後に待っているのは、今以上の絶望と孤独ではないのか。
「私には、誰かの温もりに縋る資格なんて、ないんです」
ぽつりと溢れた言葉は、図書室の静寂に吸い込まれていった。
絡められた指を引き抜こうと、微かに力を込める。けれど、ケイトの手はびくともしなかった。それどころか、さらに強く骨が軋むほどの力で握り締められる。
「……ななしちゃんさあ」
ケイトの声から先ほどまでの甘さが綺麗に消えていた。
低く低く地を這うような声。
「本当に、ずるいよね」
「え……」
「先のことを理由にして、そうやってオレから逃げようとするんだ。傷つきたくないからって、最初から諦めたような顔してさ」
ケイトの手が頬から離れ、その肩を掴んだ。
ぐい、と引き寄せられ、彼の胸元に顔が埋まりそうになる。
衣服の擦れる音が静かな空間に響く。
頭の芯が痺れるような、抗えない存在感がそこにはあった。
「いつかいなくなるかもしれないから、何? 明日消えるかもしれないから、誰も好きにならないの?」
「それは……」
「そんなの、オレが一番よく分かってるよ」
ケイトが自嘲気味に低く笑った。
その胸の鼓動が重く速く、自分の肩を通じて手のひらに伝わってくる。
「オレだってさ、いつまで君の傍にいられるか分かんない。形のあるものなんて、この世界には最初からないんだよ」
彼の言葉は、彼自身の深い孤独を孕んでいるようだった。
いつも笑っている彼が、誰よりも永遠なんて信じていない。
だからこそ今という瞬間に執着しているのだと、その痛切な響きが教えてくれる。
「でもね」
ケイトが顔をさらに近づけ、耳元で囁く。
彼の吐息が、敏感な肌をなぞって首筋へと逃げていく。
その熱さに、身体がカタカタと震えた。
「今、オレが君を可愛いって思ってるのも、君が元の世界を想って泣きそうになってるのも、全部本物でしょ。いつか消えるからって、今ここにある熱までなかったことにしないでよ」
彼の大きな掌が今度は自分の後頭部をそっと包み込んだ。
逃げられないように。
けれど壊れ物を扱うかのような、切実な優しさで。
「あっちの彼も、いつか君を忘れるかもしれない。君も、この世界のオレたちをいつか忘れるかもしれない。……だったら、なおさら今を見てよ。先のことも、あっちの彼のことも全部忘れて、オレに溺れちゃいなよ」
「ケイト、先輩……っ」
「いいよ、その声。もっとオレを困らせて」
ケイトの指先が髪の隙間に深く滑り込んでくる。
その身体感覚が頭の中の複雑な思考を一つずつ塗りつぶしていく。
元の世界に残してきた彼への罪悪感。
いつかこの世界を去るかもしれないという恐怖。
それらすべてがケイトの圧倒的な熱量によって溶かされていくのが分かった。
「……ずるいですね、ケイト先輩って」
そう呟く声は微かに震え、目元には涙が滲んでいた。
ケイトの甘い熱に包まれるたび、毎日聞いていたはずのあの人の声が、遠く霞んでいくような恐怖が襲う。申し訳なさに胸を締め付けられながらも、もうその身体は拒絶を示さなかった。
「あはは、知ってる。オレ、悪い男だからさ」
ケイトは嬉しそうに、けれどどこか泣き出しそうなほど歪んだ笑みを浮かべた。
彼の瞳の奥に自分の姿がはっきりと映り込んでいるのが分かる。その色が何色であれ、今、彼が世界の誰よりも自分だけを見つめているという事実だけが胸を支配していた。
「ねえ、ななしちゃん」
名前を呼ぶ彼の声が身体の奥深く、一番柔らかい場所にまで届いて響く。
「もう逃がしてあげないからね」
窓の外では夕日が完全に沈み、世界の境界線が曖昧になる薄明の時間が始まろうとしていた。
遠い世界の誰かの声も、いつか訪れる終わりの足音も、すべてを融かすような夜の帳が二人の境界線を静かに塗りつぶしていった。
