イグニハイド
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「……で、結局何が目的?」
薄暗い部屋のなかで、端末の液晶画面だけが青白く二人を照らしている。イデアは椅子の背もたれに深く体重を預けたまま、隣に立つ彼女をあからさまに避けるように視線を逸らした。
「目的、ですか。イデア先輩とお話ししたかっただけですけど」
「嘘だ。そんなの絶対に嘘。用もないのに陰キャの極みみたいな人間に自ら近づくわけがない。さては裏で誰かと賭けでもしているな? 『あのイデアに話しかけたら千マドル』みたいな、そういう悪質なゲームの駒にされてるに決まってる」
「考えすぎですよ。誰もそんなことしていません」
彼女は小さく笑いながらイデアのデスクの端にそっと手を置く。驚くほどに白く、そしてどこか非現実的なほどに整った彼の横顔を、ごく自然に見つめた。
「……怪しい。だいたい拙者のような部屋に引きこもってばかりのゲームオタクと話して何が楽しいわけ? 会話のドッジボールすら成立しないっていうのに」
「ドッジボール、楽しいですよ。先輩が投げてくる豪速球を、わたしがどうやって受け止めるか毎回ワクワクします」
「これだから陽の者は……。そういうポジティブな解釈、本当に脳に悪いからやめてほしい」
イデアはわざとらしく大きなため息をつき、長い指先で髪をかき上げた。その瞬間、彼の纏う空気がわずかに揺れ、室内を微かに満たす。
「でも、先輩はこうしてわたしを追い出さずに、ちゃんとボールを投げ返してくれています」
「それは、君が勝手に居座るからでしょ。拙者の部屋のセキュリティをすり抜けてくるなんて、もはや不法侵入の一歩手前だからね?」
「そんなに怒るなら、次からはノックの回数を増やします」
「そういう問題じゃない。あーもう、本当に調子が狂う」
イデアは液晶画面に視線を戻したが、その指先はキーボードの上で完全に止まっている。画面に反射する彼の瞳は、暗がりのなかで怪しく、けれどどこか寂しげな光を湛えていた。
その光の色彩を言葉にすることはできないが、彼女の視線を惹きつけて離さない引力があることだけは確かだった。
「イデア先輩」
「何、今度は何」
「明日の放課後も、来ていいですか」
「……好きにすれば。拙者に拒否権なんてないようなものでしょ」
ぶっきらぼうに返された言葉のなかに、ほんの少しの甘えのようなものが混ざっている。彼女はその変化を敏感に感じ取り、胸の奥が小さく跳ねるのを自覚した。
「ありがとうございます。じゃあ、また明日」
「はいはい、おやすみ」
部屋の扉が閉まる音を聞きながら、イデアは椅子の向きをゆっくりと変えた。誰もいなくなった空間に残るかすかな余韻。イデアは自分の胸元をそっと掴み、小さく呟く。
「……ななし氏って、僕のどこが好きなわけ?」
それは静まり返った部屋のなかに、誰にも届くことなく溶けていった。
◇
「本当に来た」
イデアはキーボードを叩く手を止めないまま、入ってきた彼女に背を向けた。ディスプレイの放つ青白い光が、彼の不規則に揺れる前髪を透かしている。
「約束しましたから。邪魔でしたか?」
「今更ですな。拙者のプライベートスペースにここまで自然に侵入してくる人間、世界中を探してもななし氏くらいのものですし」
彼女は遠慮なく歩み寄り、イデアの椅子のすぐ隣に丸椅子を引いて腰掛けた。ふわりと揺れた彼女の髪からどこか落ち着く香りが漂い、イデアの肩がわずかに強張る。
「今日は何をしているんですか?」
「……学園のサーバーの定期メンテナンス。というか、セキュリティの脆弱性をパッチで塞ぐ作業。地味で退屈で見てても一ミリも面白くない画面でござるよ」
イデアはキーボードを叩く速度を落とさない。
画面には、素人目には呪文にしか見えない文字列が高速で流れていく。しかし、彼の指先はいつもより心なしかぎこちない。隣に座る彼女の体温が、ほんの少しの隙間を通り抜けて自分の肌に伝わってくるような気がしたからだ。
「そんなことないです。先輩がこうやってシステムを動かしているところ、ずっと見ていられます」
「はいはい、そういうお世辞は結構。拙者のような陰キャの作業風景なんて、ただの背景オブジェクトと同義だからね? もっとキラキラした、それこそレオナ氏がサボっているところでも観察していた方が有意義の極み」
「レオナ先輩はすぐ怒るから緊張します。わたしは、ここでこうしてイデア先輩と話している方が落ち着きますよ」
「……っ、君は、本当に」
タイピングの音がぴたりと止まった。
イデアは大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに深く寄りかかる。液晶画面を見つめていたはずの彼の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられた。
その瞳の奥にある言葉では表現できない深い色彩が、暗がりのなかでまっすぐに彼女を捉える。
「君さ……本当に物怖じしないというか、距離感がおかしい」
「そうですか?」
「そう。普通はもっと、僕みたいな人間を気味悪がって避けるものなんだよ。なのに君は、当たり前みたいに僕の隣にいて、当たり前みたいに心臓に悪いことを言う」
「嫌なら、もう来ませんけど」
「……ずるい」
イデアは小さく毒づくと、デスクに置いていた手をそっと動かした。長い指先が丸椅子の背に置かれた彼女の手首に触れる。
驚くほどに冷たい。けれど、触れ合っている微かな皮膚の境界線から、彼の微かな脈動と、じわじわとした熱が確かに伝わってきた。
「僕が、そんなこと言えるわけないって分かってて言ってるでしょ」
「分かってます。わたし、イデア先輩のことが好きですから」
繋がれた手首から逃げ場のない熱が全身へと広がっていく。彼の冷たいはずの指先が今は何よりも熱く感じられた。
「……先輩?」
手首に触れたままの彼の指から確かな体温が彼女の肌へ、そして輪郭の内側へと染み込んでくる。冷たいはずの指先が重ねられた時間の分だけじわじわと熱を帯びていく。
「……動かないで」
イデアの声は低く、かすかに掠れていた。
彼は彼女の手首を掴んだまま、もう片方の手で静かに自らの前髪をかき上げる。露わになった彼の顔は、液晶の青い光を浴びて信じられないほど白く、そして酷く脆そうに見えた。言葉にできないその瞳の色が至近距離で彼女の視界をいっぱいに満たす。
「どうして君は、そんなに平然とした顔で僕の領域に踏み込んできて、僕を狂わせるわけ?」
「狂わせて、ないですよ。わたしは、ただ」
「自覚がないのが一番タチが悪い。君がここに座って、僕の名前を呼ぶだけで、この部屋のノイズが全部消える。サーバーの駆動音も、ファンの回る音も、何も聞こえなくなる。……自分の心臓の音だけが、耳障りなほど大きく響いて本当に嫌になる」
イデアは視線を逸らさなかった。
繋がれた手首から伝わる彼の鼓動は確かに速く、そして強く打っている。
彼が纏う特有の気配が、今や二人の間のわずかな隙間を完全に埋め尽くし、呼吸を交わすたびに彼女の肺の奥を深く濃密に支配していく。
「ななし氏、君はさ……僕のどこがいいの。こんな、画面の向こう側の世界でしか生きられないような、出来損ないのプログラムみたいな男の、どこに惹かれる要素があるっていうわけ」
「出来損ないなんて言わないでください。先輩は、わたしにとって…」
「わたしにとって、何?」
遮るように紡がれた言葉には、いつもの気弱な影はどこにもなかった。ただ一人の男としての、逃げ場のない切実な響きだけが狭い部屋の空気を震わせる。
イデアの顔がさらに一寸だけ近づいた。
彼の髪の先端が彼女の頬に微かに触れ、静電気のような痺れが走る。
「僕の何が、君をここまで狂わせたのか、ちゃんと僕の耳に直接聞かせておくれよ」
試すような、けれどそれ以上に縋るような彼の問いかけが、鼓膜を通じて脳裏へ深く溶けていった。
「……それ、本気で聞いてるんですか」
彼女は逃げることなく、イデアの視線を真っ向から受け止めた。至近距離で見つめ合う。彼の切実な響きを含んだ問いが、部屋のなかの密室感をさらに引き締め、互いの境界線を曖昧にしていく。
「本気に決まってる。冗談でこんな心臓に悪いこと言えない」
イデアの指先が、手首からゆっくりと滑り彼女の手のひらへと移動した。指を絡めるような、それでいて壊れ物を扱うかのような、躊躇いがちな、けれど拒絶を許さない強さで二人の手が重なる。
「最初は、ただの気まぐれだと思ってた。オンボロ寮の監督生なんていうイレギュラーな存在の君だから、僕みたいなのを面白がって見に来てるだけだって。でも、違った」
彼の言葉が吐息とともに彼女の唇のすぐ近くを掠める。言葉にできないその瞳が、暗闇のなかでじっと彼女の内側を見透かすように、激しく深く揺れていた。彼が纏うその固有の空気が、呼吸のたびに彼女の身体の奥深くへと融けて混ざり合っていく。
「君が僕を見る目は、画面の向こうの推しを愛でるような生ぬるいものじゃない。もっと……僕の、このみっともない本質を、全部引きずり出そうとするような目だ。なのに僕は、それに恐怖を感じるどころか、もっと見つめられたいって思ってる。……異常でしょ」
「異常なんかじゃ、ないです」
彼女は重ねられた手に、きゅっと力を込めた。
イデアの冷たかったはずの手は、いつの間にか彼女の体温を吸い上げ、驚くほど熱くなっている。その熱が、彼女の腕を伝い胸の奥を激しく焦がした。
「わたし、先輩のそういう、不器用だけど誰よりも純粋に人を見ているところが、好きなんです。……だから、ここに来るんです」
「……あ」
イデアの口から、かすかな掠れた声が漏れた。
彼は観念したように、額を彼女の肩口へと預けてくる。
青い髪が彼女の首筋に触れ、くすぐったいような、強烈な熱を帯びた感覚が走る。視界が塞がれたその狭い空間で、彼の大きな背中が微かに震えているのが分かった。
「……やっぱり、君には勝てないな」
耳元で囁かれた声は、ひどく愛おしそうに響いた。
部屋のなかに残されたのは、もうシステムの音でも、ファンの回る音でもない。ただ一つに重なり合うように、激しく脈打つ二人の鼓動の音だけだった。
薄暗い部屋のなかで、端末の液晶画面だけが青白く二人を照らしている。イデアは椅子の背もたれに深く体重を預けたまま、隣に立つ彼女をあからさまに避けるように視線を逸らした。
「目的、ですか。イデア先輩とお話ししたかっただけですけど」
「嘘だ。そんなの絶対に嘘。用もないのに陰キャの極みみたいな人間に自ら近づくわけがない。さては裏で誰かと賭けでもしているな? 『あのイデアに話しかけたら千マドル』みたいな、そういう悪質なゲームの駒にされてるに決まってる」
「考えすぎですよ。誰もそんなことしていません」
彼女は小さく笑いながらイデアのデスクの端にそっと手を置く。驚くほどに白く、そしてどこか非現実的なほどに整った彼の横顔を、ごく自然に見つめた。
「……怪しい。だいたい拙者のような部屋に引きこもってばかりのゲームオタクと話して何が楽しいわけ? 会話のドッジボールすら成立しないっていうのに」
「ドッジボール、楽しいですよ。先輩が投げてくる豪速球を、わたしがどうやって受け止めるか毎回ワクワクします」
「これだから陽の者は……。そういうポジティブな解釈、本当に脳に悪いからやめてほしい」
イデアはわざとらしく大きなため息をつき、長い指先で髪をかき上げた。その瞬間、彼の纏う空気がわずかに揺れ、室内を微かに満たす。
「でも、先輩はこうしてわたしを追い出さずに、ちゃんとボールを投げ返してくれています」
「それは、君が勝手に居座るからでしょ。拙者の部屋のセキュリティをすり抜けてくるなんて、もはや不法侵入の一歩手前だからね?」
「そんなに怒るなら、次からはノックの回数を増やします」
「そういう問題じゃない。あーもう、本当に調子が狂う」
イデアは液晶画面に視線を戻したが、その指先はキーボードの上で完全に止まっている。画面に反射する彼の瞳は、暗がりのなかで怪しく、けれどどこか寂しげな光を湛えていた。
その光の色彩を言葉にすることはできないが、彼女の視線を惹きつけて離さない引力があることだけは確かだった。
「イデア先輩」
「何、今度は何」
「明日の放課後も、来ていいですか」
「……好きにすれば。拙者に拒否権なんてないようなものでしょ」
ぶっきらぼうに返された言葉のなかに、ほんの少しの甘えのようなものが混ざっている。彼女はその変化を敏感に感じ取り、胸の奥が小さく跳ねるのを自覚した。
「ありがとうございます。じゃあ、また明日」
「はいはい、おやすみ」
部屋の扉が閉まる音を聞きながら、イデアは椅子の向きをゆっくりと変えた。誰もいなくなった空間に残るかすかな余韻。イデアは自分の胸元をそっと掴み、小さく呟く。
「……ななし氏って、僕のどこが好きなわけ?」
それは静まり返った部屋のなかに、誰にも届くことなく溶けていった。
◇
「本当に来た」
イデアはキーボードを叩く手を止めないまま、入ってきた彼女に背を向けた。ディスプレイの放つ青白い光が、彼の不規則に揺れる前髪を透かしている。
「約束しましたから。邪魔でしたか?」
「今更ですな。拙者のプライベートスペースにここまで自然に侵入してくる人間、世界中を探してもななし氏くらいのものですし」
彼女は遠慮なく歩み寄り、イデアの椅子のすぐ隣に丸椅子を引いて腰掛けた。ふわりと揺れた彼女の髪からどこか落ち着く香りが漂い、イデアの肩がわずかに強張る。
「今日は何をしているんですか?」
「……学園のサーバーの定期メンテナンス。というか、セキュリティの脆弱性をパッチで塞ぐ作業。地味で退屈で見てても一ミリも面白くない画面でござるよ」
イデアはキーボードを叩く速度を落とさない。
画面には、素人目には呪文にしか見えない文字列が高速で流れていく。しかし、彼の指先はいつもより心なしかぎこちない。隣に座る彼女の体温が、ほんの少しの隙間を通り抜けて自分の肌に伝わってくるような気がしたからだ。
「そんなことないです。先輩がこうやってシステムを動かしているところ、ずっと見ていられます」
「はいはい、そういうお世辞は結構。拙者のような陰キャの作業風景なんて、ただの背景オブジェクトと同義だからね? もっとキラキラした、それこそレオナ氏がサボっているところでも観察していた方が有意義の極み」
「レオナ先輩はすぐ怒るから緊張します。わたしは、ここでこうしてイデア先輩と話している方が落ち着きますよ」
「……っ、君は、本当に」
タイピングの音がぴたりと止まった。
イデアは大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに深く寄りかかる。液晶画面を見つめていたはずの彼の視線が、ゆっくりとこちらへ向けられた。
その瞳の奥にある言葉では表現できない深い色彩が、暗がりのなかでまっすぐに彼女を捉える。
「君さ……本当に物怖じしないというか、距離感がおかしい」
「そうですか?」
「そう。普通はもっと、僕みたいな人間を気味悪がって避けるものなんだよ。なのに君は、当たり前みたいに僕の隣にいて、当たり前みたいに心臓に悪いことを言う」
「嫌なら、もう来ませんけど」
「……ずるい」
イデアは小さく毒づくと、デスクに置いていた手をそっと動かした。長い指先が丸椅子の背に置かれた彼女の手首に触れる。
驚くほどに冷たい。けれど、触れ合っている微かな皮膚の境界線から、彼の微かな脈動と、じわじわとした熱が確かに伝わってきた。
「僕が、そんなこと言えるわけないって分かってて言ってるでしょ」
「分かってます。わたし、イデア先輩のことが好きですから」
繋がれた手首から逃げ場のない熱が全身へと広がっていく。彼の冷たいはずの指先が今は何よりも熱く感じられた。
「……先輩?」
手首に触れたままの彼の指から確かな体温が彼女の肌へ、そして輪郭の内側へと染み込んでくる。冷たいはずの指先が重ねられた時間の分だけじわじわと熱を帯びていく。
「……動かないで」
イデアの声は低く、かすかに掠れていた。
彼は彼女の手首を掴んだまま、もう片方の手で静かに自らの前髪をかき上げる。露わになった彼の顔は、液晶の青い光を浴びて信じられないほど白く、そして酷く脆そうに見えた。言葉にできないその瞳の色が至近距離で彼女の視界をいっぱいに満たす。
「どうして君は、そんなに平然とした顔で僕の領域に踏み込んできて、僕を狂わせるわけ?」
「狂わせて、ないですよ。わたしは、ただ」
「自覚がないのが一番タチが悪い。君がここに座って、僕の名前を呼ぶだけで、この部屋のノイズが全部消える。サーバーの駆動音も、ファンの回る音も、何も聞こえなくなる。……自分の心臓の音だけが、耳障りなほど大きく響いて本当に嫌になる」
イデアは視線を逸らさなかった。
繋がれた手首から伝わる彼の鼓動は確かに速く、そして強く打っている。
彼が纏う特有の気配が、今や二人の間のわずかな隙間を完全に埋め尽くし、呼吸を交わすたびに彼女の肺の奥を深く濃密に支配していく。
「ななし氏、君はさ……僕のどこがいいの。こんな、画面の向こう側の世界でしか生きられないような、出来損ないのプログラムみたいな男の、どこに惹かれる要素があるっていうわけ」
「出来損ないなんて言わないでください。先輩は、わたしにとって…」
「わたしにとって、何?」
遮るように紡がれた言葉には、いつもの気弱な影はどこにもなかった。ただ一人の男としての、逃げ場のない切実な響きだけが狭い部屋の空気を震わせる。
イデアの顔がさらに一寸だけ近づいた。
彼の髪の先端が彼女の頬に微かに触れ、静電気のような痺れが走る。
「僕の何が、君をここまで狂わせたのか、ちゃんと僕の耳に直接聞かせておくれよ」
試すような、けれどそれ以上に縋るような彼の問いかけが、鼓膜を通じて脳裏へ深く溶けていった。
「……それ、本気で聞いてるんですか」
彼女は逃げることなく、イデアの視線を真っ向から受け止めた。至近距離で見つめ合う。彼の切実な響きを含んだ問いが、部屋のなかの密室感をさらに引き締め、互いの境界線を曖昧にしていく。
「本気に決まってる。冗談でこんな心臓に悪いこと言えない」
イデアの指先が、手首からゆっくりと滑り彼女の手のひらへと移動した。指を絡めるような、それでいて壊れ物を扱うかのような、躊躇いがちな、けれど拒絶を許さない強さで二人の手が重なる。
「最初は、ただの気まぐれだと思ってた。オンボロ寮の監督生なんていうイレギュラーな存在の君だから、僕みたいなのを面白がって見に来てるだけだって。でも、違った」
彼の言葉が吐息とともに彼女の唇のすぐ近くを掠める。言葉にできないその瞳が、暗闇のなかでじっと彼女の内側を見透かすように、激しく深く揺れていた。彼が纏うその固有の空気が、呼吸のたびに彼女の身体の奥深くへと融けて混ざり合っていく。
「君が僕を見る目は、画面の向こうの推しを愛でるような生ぬるいものじゃない。もっと……僕の、このみっともない本質を、全部引きずり出そうとするような目だ。なのに僕は、それに恐怖を感じるどころか、もっと見つめられたいって思ってる。……異常でしょ」
「異常なんかじゃ、ないです」
彼女は重ねられた手に、きゅっと力を込めた。
イデアの冷たかったはずの手は、いつの間にか彼女の体温を吸い上げ、驚くほど熱くなっている。その熱が、彼女の腕を伝い胸の奥を激しく焦がした。
「わたし、先輩のそういう、不器用だけど誰よりも純粋に人を見ているところが、好きなんです。……だから、ここに来るんです」
「……あ」
イデアの口から、かすかな掠れた声が漏れた。
彼は観念したように、額を彼女の肩口へと預けてくる。
青い髪が彼女の首筋に触れ、くすぐったいような、強烈な熱を帯びた感覚が走る。視界が塞がれたその狭い空間で、彼の大きな背中が微かに震えているのが分かった。
「……やっぱり、君には勝てないな」
耳元で囁かれた声は、ひどく愛おしそうに響いた。
部屋のなかに残されたのは、もうシステムの音でも、ファンの回る音でもない。ただ一つに重なり合うように、激しく脈打つ二人の鼓動の音だけだった。
